路上の錆

鹽夜亮

第1話 路上の錆

 黒く、舗装の荒いコンクリートの地面に、音をたてながら雨が激しく降っている。歩道のそこかしこにある水たまりはどんよりとした雲だけを映していた。欄干の上では、ずぶ濡れの鴉が一声鳴いて、どこかへ向けて飛び去っていった。

 街の中心から少しはずれに位置する、この古めかしい橋の上に、一人の男が立っている。男は傘もささず、かといって雨具を身につけている様子もない。男の全身は降りしきる雨に打たれ、その黒髪はポマードを塗りたくったかのようにしっとりと首筋や肌荒れの目立つ頬に張り付いている。

 男は、ひどくやつれている。肌は青白く、病的に細長い白い指の先にある爪は、ことごとく歪に齧りとられ、紅色に滲んでいる。

 男は、唐突に何かを思い出したかのようにジーンズのポケットからスマートフォンを取り出すと、電源をつけようと試みた。しかし、雨に濡れたそれが、何ものかを画面に映し出す事はなかった。

「ははっ。こんなことならば防水用を買っておくべきだったな。」

 男は笑う。病的な身なりと、異様な状況とは裏腹に、実にあっけらかんとした様子で。顔の下半分を覆う濃い無精髭が、男の表情と輪郭をぼんやりと曖昧なものにしている。それは男なりのアイデンティティーの中核であるのかもしれないし、ただの怠け癖から生じたものなのかもしれない。

「いや、待てよ。これはいいことなのではないか?俺は今まで、至極便利でとてつもなく下品で、どうしようもなく合理的なこの機械を、何度も投げ捨てようとした。拘束具のようにまとわりつくこの悪魔から、何度も逃れようとした。厄介なことに、この悪魔は天使などよりよほど甘ったるい林檎をくれるからな。一度味わえば、何度逃げ出そうとも、もう一度手を伸ばしてしまうという寸法だ。エデンから追放された馬鹿ども二人の気持ちもよくわかる。実に愚かで人間らしい。…ああ、そんな馬鹿どものことはどうでもいいのだった。そうだ、話はこの手の中で微動だにしない悪魔のことだ。この悪魔は今、俺の手の中で雨に濡れて、あっけなく死んだ。ただそれだけが重要なのだ。」

 早口で捲し立てるように話すと、男はもう一度笑った。引きつるように高く、短い発作的な痙攣のような声でひとしきり笑い終えると、男は右手にもった「悪魔」を勢いよく眼下のどぶ川へと投げ捨てた。

「いい気味だ。この悪魔め、売女め、知ったかぶりで下品な学者どもめ。いくら罵詈雑言を並べ立てても、貴様の悪徳に報いるには足りないぞ。俺をよくぞここまで堕落させてくれたな。いい気味だ。落ちろ。落ちてゆけ。そして二度と浮かび上がるな。貴様はこのどぶ川の藻屑だ。この雨の中、濁流に呑まれて死んでいくただの藻屑だ。それ以外の何者でもないのだ。」

 男は、悪魔の落ちた場所を、しばし軽蔑と愉悦を込めた眼差しで眺めた。男は、同時に、故郷の美しい小川を思い返した。だが、それとは対照的に眼下のどぶ川は、どこまでも黒く濁っていた。

「さて、これからどうするか。食事か?それとも、他の何かか?何、したいことをすればいいのだ。俺はもう何にも束縛されてはいないのだからな。誰も監視などしてやいない。誰にも、何にも気など遣わなくてもよいのだ。…いや、だがそう考えても、俺のしたいこととは一体全体なんだ?思い浮かばないぞ。俺は何がしたいのだ?」

 歪んだ爪と指先の肉を噛みながら、男は呟いている。雨は相変わらず酷く降りしきっている。右手の親指の先からは、滲んだ古い血液の上に、鮮血が浮かび上がっていた。

「ああ、忘れてしまうところだった。そうだ。俺は死のうとしていたのだ。失念だ、失念だ。実に阿呆な失念だ。雨に降られて脳味噌もいかれてしまったのか?いやいや、雨など関係ない、元より正常ではなかったのだ。正常になど、なりたくなかったのだ。」

 ずぶ濡れのジャケットを翻して、男は駅の方へと歩き始めた。ジャケットは、もう梅雨に差し掛かるこの街の外気温には、不釣り合いに厚手のものだった。

 雨は一段とその激しさを増している。駅舎の近くでは、耄碌した鴉が一羽、走り去る電車に激突して肉塊になった。

 古びた橋を渡り終えると、男は、ふと自分の歩いた橋を振り返った。橋の先には、廃れた城趾公園が見える。公園の入り口にある案内板は、ところどころ文字が掠れ、下の方は泥で汚れていた。

 遠くで車のエンジン音が響いた。埃のような雨の匂いの中に、男は微かに排気ガスの臭気が混じるのを感じた。男は、その臭気から、駅前に新しい歩道橋が出来た事を思い出した。

 男は自らの目的地に向けて歩き始めた。寂れたスナックの看板を横目に、一車線分の広さしかない道を男は歩いて行く。処理が甘いのか、下水の匂いがあたり一面にぼんやりと立ちこめていた。

「ひどい臭いだ。まったく。雨は埃の匂いがするが、ここは違うな。下水の臭いだろうか。とにかく酷い。」

 男は顔を顰める。道路の反対側を歩いている透明な安物の傘をさした若い男性が、男を見て怪訝な顔をした。男は、その視線はおろか、その男性の存在にさえ気づいていなかった。

 男は、とうの昔に自分以外の他者に対する関心を喪失していた。それはある時、他者という存在が、彼にとって気疲れの原因でしかないと気づいてしまったからだった。男にとって人というものは、景物を邪魔する障害物程度のものでしかなかった。

 下水臭い小道を抜けると、駅前へと通じる商店街が姿を現した。準備中と看板を立てた古びた喫茶店の店先に、薄汚れた黒猫が座り込んでいる。その目の前には、小さな黒猫が、微動だにせず横たわっている。子猫の胸もまた、微動だにせず、静かに雨に打たれている。親猫は、じっとそれを見つめていた。そこにある感情は、誰にも読み取る事はできなかった。

 男は、その横を通り過ぎる。黒猫のことは一瞬視界に入った様子だったが、男はそれがネズミでも食べているのだろうと思い込んだ。結局男が、死んだ子猫に気づくことはなかった。

「猫はネズミにありつけているようだ。あれは幸福だろう。食事が摂れるという幸福は、生物至上の喜びだ。」

 歩きながら男は呟く。胃が、空腹を知らせるために声をあげた。男はその音を聞くと途端に、自分という人間とその性別とを思い出した。

「いや、至上の喜びは生殖活動か?うむ、そうに違いない。種の存続が生物の最優先事項ならば、食事は生殖活動のための糧に過ぎないのだからな。もっとも、俺にとっての至上の喜びは、そんなものではない。それは俺が俺自身をくびり殺すか、嬲り殺すか、それか橋から突き落とすか…その中のどれかにあるだろうからな。」

 黒猫が一度男の後方で鳴いた。男の耳にもそれは届いたが、振り返る事はなかった。男がその鳴き声から何かを見いだすことはなかった。黒猫は、また視線を目の前の事切れた子猫に向けて、黙った。

 商店街を抜けると、駅前の大通りへ男は歩いて行った。大通りでは引っ切りなしに騒々しく自動車が往来しており、土砂降りの雨の中といえど人通りも多い。

 男は、目的としていた歩道橋を見つけると、その階段へと足を運んだ。

「新しいものは良いものか。なるほど、たしかにこの歩道橋は良い。この道はひどく渡りづらかったからな。これは便利はものだろう。さて、この歩道橋のおかげで、いよいよ俺は決心がついたぞ。」

 男は気づかなかったが、その新しい歩道橋も、既にところどころ錆び付き始めていた。

 男は歩道橋のちょうど真ん中あたりに来ると、足を止めた。手すりに両腕を乗せ、腕を組みながら、今までになく優しげな声で、時には柔らかい笑みさえ浮かべながら、独白を始めた。

「俺だって、何も望んでこうなったわけではない。なるほど、たしかに俺は狂っているのかもしれないし、歪なのかもしれない。それに、弱いのかもしれない。だが、それを理由に俺が責められて良いものか?多数が、社会が、現代の人間に求められる強さが、それがいつでも正しいものなのか?科学、グローバル、平和や、ボランティアやら仕事やら、金も人間も何もかもクソを喰らえというやつだ。静寂は才能を、世の荒波は性格をと古語に言うが、社会で活用できない才能など必要とされない世界だ。世の中、世間など消えてしまえ。ああ、俺は知っている。この数十年で、嫌というほどに叩き込まれたからな。俺には居場所がない。もうどこにも、社会と隔絶されている俺には、もうどこにもない。だからこれでお話はおしまいだ。狂った男が、歩道橋の上から身を投げた。たっったそれだけの文章で、今日、今ここで雨に打たれている男の生涯は語り尽くされるのだ。俺の苦しみや、悩みや思い、そんなものは欠片も残らずに、この貧相な肉体と共に灰になるのだ。独白を聞くものさえ、この平和な世の中に誰1人もいやしない。」

 男は誰にともなく語り終えると、静かに手すりから身を乗り出し、道路へと真っ逆さまに落ちていった。その挙動には一切の躊躇は見られなかった。べこん、と大きな衝突音が響き渡り、ほんの数秒前まで男だったものが、たまたま大通りを走っていた不運な赤い自動車によって数十メートルも弾き飛ばされた。あたり一面には、トマトを煮潰したような、まだ真新しい歩道橋に染み付いた若い錆びのような色合いの、血液が飛び散った。一部始終を目撃した人々の悲鳴と男を跳ね飛ばした車のクラクションが駅前通りを混乱の渦に巻き込む中、屍体となった男はただ1人、その喧騒の真っ只中で静かに横たわっていた。

 赤い自動車から降りた不運な若い女性は、ただ呆然と、男だった肉塊を前に立ち尽くしていた。その様子を見て中年のサラリーマンらしき男性が、気を確かに、と声をかけている。女性は反応を示さない。視線はただ肉塊に注がれている。

「男が歩道橋から飛び降りた。もう息をしていないようだ。血が、血がすごい。」

 どこかで誰かが、携帯に向けて半狂乱に叫んでいる。そこにいる全ての人間にとってこの惨状は、つまるところただそれだけの惨たらしさでしかなかった。

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路上の錆 鹽夜亮 @yuu1201

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