手料理

@nishiuri

第1話

 殺す気か! といった勢いで続く毎日の残業でクタクタになった身体に鞭を打ちながら、男は静まり返ったアパートの廊下を歩いていた。

深夜、電灯に照らされた廊下は明るいものの、周囲に人影は一切ない。自分以外にこの街に住んでいる人間は居ないんじゃないか? そんな錯覚に男は疲れ切った笑顔を浮かべた。バカバカしい想像だ。

「やあ、こんばんは。足音がするからもしやと思ったら」

 そんな言葉と共に、隣人宅のドアが開いた。

「ああ。こんばんは」

 隣人が浮かべた笑顔に、彼も疲れ切った笑顔を返す。ここに越してきてから何かと世話になっているアパートの住人だ。

両親を早くに亡くし、ブラック企業に勤めた影響――残業残業、また残業! 結果友達と遊ぶ時間が作れず、今では誰も遊びに誘ってくれなくなった――で、多くの友人を失くした彼にとって、唯一の親しい人間と呼べる相手だ。

「いつも大変だね。こんな時間まで仕事かい?」

「はい。もうクタクタですよ」

 乾いた笑い声を上げながら、仕事カバンを振って見せる。その仕草に苦笑を浮かべると、隣人は自室のドアを開け放った。

「今日は猟で良い肉が手に入ったんだ。食べていかないかい?」

「なんか、いつもすみません」

「気にしなくていいよ。若者はしっかり食べて肉を付けないと。それに、一人だと食べきれないしね。さあ、どうぞ」

 失礼します、と言って部屋に入った途端、彼の腹が盛大に鳴き声を上げた。テーブルの上に生姜焼きや、大根と肉の煮物など幾つもの料理がところせましと並べられていた。どれもザ・庶民! といった料理ではあったが、出来栄えはすこぶる良い。

「おお。今日も豪華ですね!」

「はは、大した物はではないよ。さあ、食べよう」



 夕飯を食べ終え、彼は満足そうに息を吐いた。

「いやあ、本当に美味しかったです」

「それはよかった」

「ところで聞いて下さいよ。今日会社でまた上司が無茶苦茶言ってきたんですよ! 振られた仕事がやっと片付いたと思ったら、やり直しって言うんですよ? アイツが指示した通りにやったのに、誰がそんなことやれていった! ですよ? お蔭でまたこんな時間まで仕事ですよ」

「それはヒドイな」

「そうでしょ? しかも自分は定時になったらとっと帰るし。もう何なんですかアイツは。それだけじゃないんですよ――」

 延々と続く彼のグチに、しかし隣人は嫌な顔一つせず、適切なタイミングで相槌を打ち、丁寧に頷いて聞いてくれた。

「それで、あっ! すいません。いつの間にかこんな時間に」

「はは、いいよいいよ。ただ、そろそろ帰って寝ないと明日がキツいんじゃないかい? 早いんだろう?」

「はああああ。そうなんですよね。じゃあ、今日はこれで。すいません遅くまで」

 盛大に、これでもかと大きな溜息を吐いて、男は軽く頭を下げて隣人の家を後にした。



 肉じゃがにカツレツ、ハンバーグ等々。いろいろな肉料理に、彼は昨日と同じように盛大に腹の虫を鳴らした。

「すまないね。肉は昨日の残りだから、鮮度が少し悪いと思うけど」

「そんな。全然大丈夫ですよ! 今日もスッゴイ美味いです!」

「ならいいんだけど」

「ところで、ジビエ猟って今みたいな熱い季節が盛んなんですか?」

「ん? ジビエ猟?」

「いや、やっぱり動物の動きが盛んになるのは夏なのかなって」

「どうだろうね。動物も夏は熱いから動かないんじゃないかな?」

「ふうん。そういうものなんですか?」

 なんとなく途切れる会話。突然の沈黙を前に、彼は再び料理へと箸を伸ばし始める。さっきまで気にならなかったニュースキャスターの声が妙に耳に響いた。

 ――熱中症により今月に入ってから三人の死者が。

 ――白熊の赤ちゃんにスタッフから氷のプレゼントです! 見てください。とっても涼しそうです。

 ――また殺人事件です。今月に入ってから六人の犠牲者が出ており警察では同一犯の犯行として。

 ――見てください! 会場の様子を! 今年も○○市で開催されたアイス祭りに非常に沢山の人が集まっています! あ! なんでしょうあのアイスは! スゴイです! 宙に浮いて! あ!

「アイス祭りかあ。一回ぐらい行ってみたいですよねえ」

「良いと思うよ。休みを取って行ってくればいい。そんなに働いているんだ。一日二日、休みを取ったからって文句は言われないだろ」

「…………無理ですよ」

 発せられた言葉に、男は顔を俯かせると掠れた声でそう漏らす。左腕を擦る手が僅かに震えていた。

「…………どうしたんだい。今日は?」

「え?」

「普段も疲れ果ててグッタリしてるけど、今日はなんだかそれだけじゃない感じがするよ。何かあったんじゃないのかい?」

 気遣わしげ眉根を寄せる隣人に、彼は思わず目に涙を滲ませていた。

「…………」

「言えば楽になることもあるよ。無理にとは言わないけど。良かったら話してみなさい」

「…………実は――」

 促されるまま、彼は会社で起きた出来事を話し始めた。普段通りの上司の無茶振り、罵詈雑言。そこまではいつも通りだった。いつも通りのはずだった。それが一変したのは午後になってから。

いつも通り苛々と周りに当り散らす上司。彼は少なくはない恐怖を感じながら、それでも終了した仕事を報告するために、上司の元へと向かった。だが、彼は気付くべきだったのだ。その苛々が普段よりも強かったことに。

「暴力かい?」

「……はい」

 静かに頷くと彼はゆっくりと左裾を捲り上げ、痣が無数に刻まれた腕を隣人に見せた。

「酷いな」

「このままじゃ俺、殺されるかも、しれない」

「…………」

 底なし沼に落とされたような、粘っこい重苦しい沈黙。ニュースキャスターの声だけが、部屋に虚しく響き続ける。

「キミはその会社を辞めるべきだ」

「え?」

「そのままでは本当にキミは殺されてしまう。いや、身体は死ななくても、心が死んでしまうだろう。そんな場所に居続ける理由はどこにもない」

「でも、そんな簡単に辞めさせてくれるとは」

「その腕の傷を写真に撮るんだ。そして病院に行って診断書を貰ってくるんだ。後は――」

 会社を辞めるための方法を、隣人は分かりやすく教え始める。一通り説明が終わると、隣人は安心させるように優しげに微笑んだ。

「大丈夫。言われた通りにやれば、すぐに辞められるさ」

「……はい!」

 微笑みに背中を押され、彼は力強く頷いた。



 時間は午後五時。いつもだと考えられない帰宅時間。まだ明るいアパートの廊下にはなんと人が居る! 俺は無人の街の住人じゃない!

 気分はどこまでも晴れやかで、まるで全身に乗せられていた重りが取っ払われたように、身体も、心も軽い。俺の身体は羽になった! そんなことを彼は半分本気で考えていた。

 手にぶら下げられたビニール袋には、今まで手も出したこともないような高い肉が詰め込まれていた。退職祝いと隣人へのお礼の兼ねた品だ。

「こんなものがお礼になるかは分からないけど」

 それでも、なにかの形でお礼がしたかった。プレゼントを贈ることも考えたが、なんだかそれは気恥ずかしいというか、自分たちの関係には似つかわしくないような気がして止めた。食事ぐらいなら、お互い気を使わずにいられるだろう。

「あ、でも野菜も買った方が良かったかな。肉しか買わなかったもんなあ」

 チョイスをミスったか? そんなことを考えながら動かしていた足が、隣人宅のドアの前で止まる。電気がついていなかった。

「まだ仕事、なのかな?」

 時間から考えれば不思議なことはない。なんといってもまだ午後五時なんだから! なんだから嬉しくなり、彼は思わず笑い声を洩らしていた。

「まあ、まだ明るいし、電気を付けてないだけかもな」

 そう思ってチャイムを鳴らすが、反応は無かった。やっぱり留守か? そう思いドアノブに手を掛けると、

「あれ?」

 ドアノブは何の抵抗もなく動いた。

「留守、なんだよな?」

 いきなり湧き上がった妙な胸騒ぎ。唐突に昨日聞いたニュースが脳裏を過ぎる。

 ――また殺人事件です。今月に入ってから六人の犠牲者が出ており警察では同一犯の犯行として。

 まさか、な。物事が上手く行き過ぎて悪い想像が働いてしまったのだ。つい昨日まで話していた人間が、いきなり殺人鬼に殺される? そんなことある訳がない。そんな悪夢のような考えを振り払うべく、彼は強く頭を振った。

 きっと鍵を掛け忘れたのだ。そうに違いない。だが、一応部屋の中を確認した方がいいだろう。万が一、何かの病気で倒れていては大変だ。そう考えドアを開けようとした彼の肩が、大きく跳ねた。

「っ!」

 慌てて振り返った先に立っていのは、制服を着た二人の警官だった。

「なんだお巡りさんですか。びっくりした」

「いやあ、驚かせてすいません」

 二人の内、年配の警官が人懐っこい笑顔を浮かべて軽く頭を下げる。

「何かあったんですか?」

 別に警官自体は珍しくもないが、わざわざアパートの廊下に居るということは何かあったのだろう。彼の問い掛けに、年配の警官が頷く。

「最近発生している連続殺人事件、ご存知ですよね? 今、あれの聞き込みをやっていましてね。怪しい人間とか、出来事とかありました?」

「怪しい、ですか? ……いえ、特には。すいません」

「いえいえ。いいんですよ。気にしないで下さい」

 それから二三の簡単な質問が出されたが、少なくとも警官たちが気になる情報は無かったらしい。

「気になることがあったら連絡をください」

 そう言って二人は去っていった。



 ジュウジュウと、ホットプレートの上で存在を主張する肉を眺めながら、彼は生唾を飲み込んだ。隣人のお蔭で肉は沢山食えていたが、こういうストレートな食べ方は最近していなかった。単純な明快な、肉の焼ける匂いが食欲を跳ね上げる。

 警官たちと別れてから約五時間。時計の針は午後十時を回っていたが、隣人が帰宅したは気配――警官が去った後、部屋の中を確認したが隣人は居なかった――はなかった。流石に空腹が限界を迎えたため、食事を始めてしまった訳だが。

「あの人と食べる分の肉は十分残してあるしな」

 冷蔵庫の中には、購入した肉の八割方が収まっている。流石に今日は迷惑になるだろうから、明日改めて食事に誘うとしよう。

「美味い!」

 焼けた牛肉にタレをつけ、舌の上に放り投げるなり彼は歓声を上げた。

「牛肉ってこんなに美味かったんだなあ」

 モキュモキュと牛肉を噛みしめながら、彼は感動に身体を震わせた。

「……そういえば、あの人が獲ってきた肉って何の肉だったんだろ。ジビエって言ったら、鹿とか猪とかかな?」

 辛い記憶が多くを占める生活の中で、唯一と言っていい幸せな時間。そんな時の中で何度となく食した料理の味を思い出そうとする彼の耳に、ニュースキャスターの陰気な声が届いた。

 ――最近○○市で頻発している殺人事件ですが、犯人は殺害した被害者の肉の一部を削ぎ落しているとの情報があり、専門家は特殊な――。 

「食欲が失せるわ!」

 げんなりとしながら、彼はテレビのチャンネルを変える。せっかく楽しい気分で食事をしていたのに台無しだ。

「そう言えば、昼間も警官が来てたなあ」

 彼らは殺人鬼の捜査を行っていると言っていた。ということは、この近くに容疑者がいる可能性が高いということだ。

 こんな風に食事をしている最中に、突然玄関のドアが開け放たれ、凶器を持った殺人鬼が家の中に飛び込んでくるかもしれない。

「は、はは、まさか、な」

 自身の想像を鼻で笑いながら、それでも意識は玄関へと向かってしまう。心に生まれた不安を無視しようと、新しい肉をホットプレートに投入するが、

「い、一応、な。一応」

 肉とは異なり、心の中の不安は一向に焼けてはくれなかった。小走り気味に玄関へと向かい施錠を確認する。鍵は確かに掛けれれていたし、チェーンも掛かっている。少なくともこれならいきなり家に入られるようなことは無いはずだ。

「はあ。これであんし」

 彼の言葉は最後まで続くことは無く、突然鳴り響いたチャイムの音に遮られた。心臓が早鐘のように鳴り響く。一体、誰がこんな時間に? 時計を確認すれば既に午後十一時近い。流石に郵便ということはないだろう。

 まさか、

「殺人犯? い、いや、そんなわけひっ!」

 ドアが叩かれた音に思わず変な声が口から飛び出す。まさか本当に? と思った矢先、ドア越しに聞き覚えのある声が響いた。

「居るかい? 遅くにごめんよ」

「あ、ああ。はい、居ます。大丈夫です」

 なんだあの人か。今度こそ安堵し、彼はドアを開け放った。

「おや? 食事中だったのかい?」

「ああ。そうなんですよ」

「お? 良い匂いだね。結構奮発したのかな?」

「はい。今日はお祝いと、あなたへのお礼をと思って奮発しました」

「お祝い?」

「はい。あなたのお蔭で無事退職できたんですよ!」

「お! 良かったじゃないか。それでお祝いか。でも、お礼って言うのは?」

 不思議そうに首を傾げる隣人に、彼は思わず笑い声を上げていた。本当に無欲というか、何というか。もっと恩を売ってもいいのに。

「あなたへのお礼ですよ。いつもお世話になってるし、今回の件は本当に助かりましたから。あ、食事はまだですか? まだなら上がってください。あなたと食べようと思って、沢山買ってあるんです。あ、でも、明日の方がいいですか? もう結構遅いし」

「いや、時間は大丈夫だよ。じゃあ、夕飯もまだだし、今回はご馳走になろうかな。しかし、そうなると無駄になっちゃったかな?」

 そう言って手に持ったビニール袋へと目を落とす隣人。つられて見てみれば、ビニール袋の中にはラップに包まれた肉が入っていた。

「ああ。今日も猟に行ってたんですか」

「そうなんだよ。ただ、ちょっと今回は早めに食べてしまいたくてね。持参した訳なんだけど。いらなそうだね」

「いえ、そんな。折角持ってきてくれたんですから、それも一緒に食べましょう」

「そうかい? まあ、迷惑じゃないなら、私もその方が助かるし」

 そう言って隣人が嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ、早速ホットプレートで焼きましょう」

「いや、直接焼くと臭いから。折角来たんだし私が調理するよ」

「そんな悪いですよ」

「いいからいいから。台所借りるよ。間取りは私の部屋と同じだろう?」

 そう言って肉を持って台所へと向かう隣人。その後ろ姿に彼は思わず苦笑を浮かべようとし、その顔がおかしな具合に固まった。……何だ、アレは?

 ラップに包まれた血の滴る真っ赤な、真っ赤な、肉。不透明なラップ越しで分かり辛いが、その肉の表面に張り付いたそれは、確かに見覚えるあるものだった。

両目を揺らしながら自身の痣だらけの腕へと視線を落とす。そして、凝視する。その、皮膚を。

 アレは? あの肉についてるモノは。人間の、皮膚じゃないのか?

「ん? どうしたんだい? 何か変な顔をしているけど」

「え? あ、いや別に」

「そうかい。あ、包丁はここだね。借りるよ」

「あ」

「すぐに調理が済むから、待っててくれ」

 包丁を片手に、隣人は優しげに微笑んだ。

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