エピローグ
アラームを止め、寝汗にじっとり湿ったベッドからどうにか体を起こす。朝だった。午睡に夢を見たとかじゃなく、土曜日ですらなく、ぜんぜん平日の朝だった。体が「今日は土曜だ」と主張するのを無視して顔を洗う。黙れ、今日は木曜だ。私はプラスチックごみを出さなくてはならないし会社に行かなくてはならない。エアコンをつけっぱなしにして眠っているせいで全身がむくんだようにだるい。それでも熱中症で死にたくはないので仕方ない。私の人生はやっと始まったのだ、まだ死ねない。
シャワーを浴びて顔を洗い、化粧水を染み込ませたパックを顔に貼り付けて歯を磨く。冬場はよくコーヒーを飲んだけど、最近は暑いのでお湯を沸かす気にもなれない。代わりに冷蔵庫からガラスポットを取り出してジャスミンティーを飲む。ジャスミンティーは、眠り誘う薬、と口ずさんで「逆だ……起きなきゃ……」と思う。でもつい思い出してしまう。
ジャスミンティーは花の香り。花の香りは好き。
トーストを焼き、冷蔵庫からキャベツとかレタスとか水菜とかを適当に取り出してちぎったりハサミで切ったり切らなかったりしてお皿に盛って食べる。ナイトブラを外して日中用のブラジャーを付ける。キャミソール、シャツ、ストッキング、スカートを順番に身につける。顔のパックを剥がして下地を作ってあれこれ塗りつけると少しは女性らしい顔になる。ホルモン注射を続けていたらひげがあまり生えてこなくなったので、気分としてはかなり救われている。髪を梳かしてドライヤーで乾かす。ヘアスプレーは柚子の香り。
今さら骨格が変わるわけではない。顔の形も、首や肩、腕や脚、私の体は今もほとんど男性の形だ。髪型を変えたら輪郭は隠れたし、服装に気をつければ体の形もけっこう隠せる。でもレディースの通勤靴を探すのは随分苦労した。二十五センチを超えると売られているだけで御の字、デザインの選択肢なんてほとんど無いに等しい。それでも私はムキになって自分の気にいる靴を探し回った。頑張った甲斐あって、私の靴はとてもかわいい。同僚の靴と比べれば大きいのだろうけど、隣に並べなければ大丈夫。身長もそこそこあるけど、こちらはむしろ重宝されたりしている。
好きなシャツ、好きなスカート、好きなカバン、好きな靴、好きな髪型。もちろんそんなにたくさん買えるわけではないけれど、少ないながら厳選した大好きなものに囲まれて暮らすのは幸せだ。
女性の同僚とも仲良くなって、今度一緒に人生初のネイルサロンに連れていってもらう予定。人生初の、男性とのデートに向けて。
失ったものは多い。これから先、問題が起きないわけでもないだろう。それでも負けてなんかやらない。頑張って幸せにならなくちゃ、捨ててきたいろんなものに言い訳が立たない。それこそ切り落としてしまったちんちんにだって。
携帯、財布、ハンカチ、ティッシュ、その他必要なものをカバンに詰めて確認し、ゴミ袋を持って靴を履く。
「……あれ、どっちかっていうとよだれだったなあ……」
私は今朝の夢をぼんやり思い出しながらひとりごちる。夢の中だから何の疑問も持たず「涙」と認識したけど、あれは目ではなく口だし、よだれだ。なんで感動映画仕立てだったのかはわからないけれど、まあ、全体的に悪夢ではなかった。気がする。いや悪夢だろうか。結果オーライ?
考えながら私は玄関のドアを押し開ける。エナメルパンプスのヒールがこつんと軽い音を立てた。
猛ダッシュおちんちん 豆崎豆太 @qwerty_misp
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