猛ダッシュおちんちん
豆崎豆太
猛ダッシュおちんちん
アスペクト比をそのままにだいたい人間くらいの体長(?)を持つ巨大なちんちんがキンタマの部分を足のごとく使って竿をぶるんぶるん揺らしながらめちゃくちゃ追いかけてくるので何をしようとしているのかは全然予想もつかないけど取り敢えずめちゃくちゃ怖いのでめちゃくちゃ逃げる。逃げても逃げてもフェイントをかけてもちんちんは私の後ろを走り続けていてつまり私がちんちんの行く先をたまたま(ダジャレではない)走っているとかそういうわけではなくあのちんちんは完全に私を追って走っている。なぜ? 知らない。っていうか何アレ? 何っていうかどう見てもペニスなんだけど何? 生命体? エイリアンてきなもの? それにしては霊長類サル目ヒト科黄色人種のちんちんにしか見えないんだけどっていうかなんでフル勃起? 走って痛くない? 大丈夫?
巨大ちんちんは私の数メートル後ろをぴったり同じ速度で走っていて逃げても逃げても全然突き放せなくてだから誰かに助けを求めたい気持ちは無いわけじゃないんだけど何しろ公園は民家から少し離れていて今ここで大声を出してみたところで誰かに聞こえるかっていうとフィフティフィフティな感じでしかも「助けてーーー!! おちんちんが追ってくるーーーー!!!!」とか外で叫びたくないワード歴代トップ過ぎて無理。完全に異常者。背後には文字通りの走る公然猥褻。何もかも嫌すぎ。
夕方を過ぎてようやく走っても死なないかなっていうくらいまで気温が下がった土曜の夜、ランニングウェアとランニングシューズを身に着けてランニング用のリュックサックに飲み物とスマホを入れて近所の森林公園まで来て準備体操もばっちりのところでどこからともなくその巨大なちんちんが現れて謎に追いかけられてだから逃げやすいことには逃げやすいんだけど解決策は全然見えない。走りながらときどき振り返ると巨大なちんちんはやはり竿をぶるんぶるん揺らしながら追ってきていて口がないから(あるけど)(あるけどじゃないが)喋れないのか何の主張をするでもなくただ黙々と追ってきていて表情もないから何を考えているのかもわからないし呼吸している様子もないからどれくらい疲れているのかもわからない。どこまで逃げれば逃げられるのか、あるいはいっそのこと攻撃に転じてみるべきなのか。幸い(?)相手は全身急所のようなものだから思いっきり殴ればダメージは通るかもしれない。あるいはあれが霊長類サル目ヒト科のペニスと同じようなものだと想像するのは早計なのだろうか。何しろ霊長類サル目ヒト科のペニスは走らない。攻撃に転じてみたところでダメージが通らなかったら終わりだ。
森林公園の横を流れる川の土手を全力で駆け抜ける。マラソンは趣味だしフルマラソンでサブ五くらいはコンスタントに出るけれど全速力で走るのはもう十年ぶりってくらい久し振りなのであっという間に肺が痛くなってくる。左手前方二百メートルほど先には橋があり、反対側少し手前には森林公園の中に下る階段がある。誰かに助けを求めるなら左だが、向こうの土手まで軽く一キロほどはある。障害物もない真っ直ぐな道を全速力で逃げるには長すぎる。このまま見通しのいい場所を走り続けても多分すぐに体力が切れてしまう。だとすれば一本道は怖い。私は遮蔽物を求めて右に曲がり、公園の中に入っていく。砂利道は痛くて走りにくいのでは? と思ってわざと砂利道を通ってみたりしたんだけど巨大ちんちんはあまりペースダウンしない。痛くないんだろうか。
砂利道を抜けて雑木林をくぐりその向こうにそびえ立つボルダリングの壁に身を隠す。音とか聞こえてるのかは知らないけどそれでもできる限り音を立てないよう慎重に息を整える。追ってきていたということは私の姿が見えていたということで、目がないのに見えていたなら耳がないのに聞こえていてもおかしくはない。
あれは何なんだろう。どうして私を追ってくるのだろう。
幸い、手元に携帯電話はある。どこかに通報するべきか。警察か保健所か――でもどっちに通報していいかわからないし、通報したとしてやはり「巨大なちんちんに追われている」という旨の説明は回避できない。ムービーでも無ければ確実にいたずら電話としか思われないしムービーがあったところで信じてもらえる気がしない。っていうか私も今この光景をあんまり信じていない。これはもしかして単なる悪夢なんじゃないだろうか。私は自分の部屋で午睡していて、暑さでこんないやな夢を見ているのではないだろうか。だとしたらなんてひどい悪夢だろう。どうしてあんなものに追われていなくてはならないのだろう。今までの人生ずっとあれに追われて苦しめられてきたのに。やっと逃れられたと思ったのに。
もう嫌だ。あれに追われるのもあれから逃げるのも嫌だ。どこかに行ってほしい、消えてほしい、夢なら一刻も早く醒めてほしい。
息を詰めて固く願ってみたところで悪夢は醒めず、それの足音がすぐ近くまで迫ってくる。これ以上距離を詰められる前に、私はまた逃げなくてはならない。震えて萎えそうになる足を叱咤して立ち上がる。向こうから姿が見えにくいように体を壁に隠しながらまた走る。すぐに見つかったのか、背後でまた足音がする。
少しでも隠れる場所があるからといって選んだ公園内にやはり人気はない。いつもなら私と同じようにランニングしている人とか犬の散歩をしている人とかがいるのに。常に賑わっているような場所じゃないとはいえ、まったく誰もいないなんておかしい、と思っていたら急に雨が降り始めた。雨の予報なんて出ていなかったはずだけど、きっと私が見逃したんだ。だから誰もいないんだ。馬鹿。ばか。
あっという間にぬかるみ始めた地面をどうにか蹴って進む。向かい風はどんどん強くなっている。ボルダリングの壁の他はまともな遮蔽物もほとんど無く、あるのはアスレチックと池、噴水くらいだ。相手は腕がないからアスレチックの上に逃げてしまえば登ってこられないかもしれない。でもそこから先は? あるいはクマとか猿とか嘘をついて通報すれば誰かが助けに来てくれる?
考えながらも私の体はアスレチックをぐいぐい登っていく。ジャングルジムみたいな骨組みを越え、ロープを登り、トンネルをくぐって川に出て、それを泳いで渡って岸に上がる。ここまで来たらもう大丈夫じゃないかと思って振り向くと、巨大ちんちんは息も切らさずそこに立っている。
「来ないで! 気持ち悪い!」
足元に落ちているトミカとかレゴブロックとかプラレールとかベイブレードとか、ランドセルから取り出した筆箱や筆記用具、教科書、ノートやキーホルダーを取り出して片っ端から投げつけて叫ぶ。やっと自由になったのに。もうあれに追いかけられずに生きていけると思ったのに。
「……どうして、なんで逃げなきゃいけないの、――わたしは」
何も悪いことなんてしていない。していないはずだ。でもじゃあこの罪悪感は何だ。私の人生を蝕み続けるこの息苦しさは何だ。ほしいものをほしいと言えない、嬉しいことを嬉しいと言えないこの呵責は何だ。
「なんで追われなきゃならないの……」
トミカ。プラレール。ベイブレード。ラジコン。プラモデル。服、靴、鞄、筆箱、筆記用具、黒いランドセル、ジャージ、学ラン、与えてもらった沢山のもの。選べなかった沢山のもの。それらはとめどなく湧き出て私の周りを埋め尽くしていく。
巨大なちんちんは地面に蹲って泣きじゃくる私の傍に立つと、しょぼんと体を折り曲げて鈴口から透明な体液をこぼした。
――まるで、泣いているみたいに。
急に勢いをなくした巨大ちんちんをあっけにとられて眺めていると、竿の右側、真ん中くらいに見覚えのあるほくろを見つけた。
「……これ」
スケールがあまりにも違いすぎて気付かなかった。がむしゃらに逃げ続けていて、ほとんど見てすらいなかった。縦横のバランス、曲がり方、カリ首の形、それからこのほくろ。
「……わたしの、ちんちん……?」
それは私の人生にぶら下がった呪いだった。
物心ついたときから違和感を持ち、思春期には嫌悪し、その後も私につきまとい続けた呪い。同じ私自身でありながら互いに相容れない心と体。他人の体に間借りしているような強烈な居た堪れなさ。
好きな服を着ることも、好きな雑貨を買うことも、好きな人に好きと言うこともできなかった。私は私の体が勝手に服を選び、物を買い、あるいは食べ、友だちと遊ぶのを体の内側から眺めていた。私にはどうしてか、ほとんど物心ついたときから本心を隠す癖があった。
まだ小学生だった頃、大好きだった親友がクラスの一番可愛い子と初めてキスした話をこっそり聞かせてくれて、それからしばらくはそういう夢を見た。つまり、彼とキスをする夢を見た。確かに私だったはずの私はいつの間にかそのクラスの一番可愛い子に変わっていて、私はいつの間にかそれを隠れて眺めているのだ。それがあまりにも惨めで何度も泣いた。「惨め」という言葉を知ったのはそれよりもずっと後のことだった。
友だちになりたいと思った女の子に「好きな人がいる」と言ってそれを断られたこともあった。可愛くて優しくてよく笑う少しおっとりした子で、この子なら友だちになってくれるんじゃないかと期待していた。その子とはその後、疎遠になってしまった。
誰と居ても疎外感ばっかりがあった。こんなものが生えているからと何度思ったかわからない。こんなもののせいで「男」にされてしまう、これさえ無ければ、女の子として男の子の恋人になることも、女の子として女の子と友だちになることもできたのに。
そうだ、これは悪夢だ。私はこれと同じ夢をもう何度も見た。
あるときは追われ、あるときは囲まれ、あるときは詰られる。それはいつも私の声で話しかけてきた。
逃げるのか。否定するのか。投げ出すのか。裏切るのか。捨てるのか。ただのわがままじゃないのか。
その度に跳ね起きては脂汗を拭って嗚咽した。嘘を付き続けている家族にも友人にも自分自身にも罪悪感ばかりが積もった。正直に話すことがまた誰かを傷つけるような気がしてずっと抱え込んでいた。
体にメスをいれるのは怖かった。ホルモン注射ですら怖かった。親のくれた体を否定することが怖かった。これから一生「元・男性」として生きていくのかという迷いもあった。
それでも、もう偽物の人生を歩むのは嫌だった。
お金を貯めて手術をして、法的な手続きもした。地元にはいられないと思ったので遠く離れた都市へ引っ越した。失ったものは多いが、これからやっと自分の人生を作っていける。かつては疎ましかった。恥ずかしかった。憎んだことすらあった。今でも嫌悪感が無くなったわけではない。自分の一部として愛せるわけでもないと思う。それでも「それ」はかつて私の一部で、向こうからすれば理不尽に切り離され捨てられてしまったことに変わりはないのだ。
この夢は私の罪悪感の現れだ。私はもう逃げてはいけない。向き合って、断ち切らなくてはならない。
「ごめん、大事にしてあげられなくてごめん、捨ててしまってごめんね」抱きしめた竿は生暖かく、脈打っていた。「でも私はあなたを愛せない、女性として生きていきたいの、だから」
さよなら。
それは喋らなかった。それは詰らなかった。ただ頷くように少し身じろぎして、私から距離をとった。
「……わかって、くれるの……?」
もちろん返事はない。その代わりに身の丈ほどもあった巨大なちんちんはしゅるしゅると縮んでいき、思わず拾い上げた私の手のひらの上で光の粒になって消えた。雨とも涙ともわからない雫が私の手にぽたぽたと落ちる。
雨が止んだ時、東の空はもう白みがかっていた。もうすぐ、夢が終わる。
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