不変

八木代

第1話

「赤ちゃんが出来たの」

 妻から伝えられた言葉。

 湧き上がる感情を抑える事が出来ず、俺は妻の肩を抱き締めた。


 妻の告白から10ヶ月経ち、俺は今分娩室の前の椅子に腰掛けていた。


「悠」


 名前を呼ばれて顔を上げると、そこにはボサボサの黒髪を伸ばし、黄ばんだ服を着た男が立っていた。

 見たくない顔。

 一気に気分が下がるのが自分でもよく分かる。

「…兄貴。何しにきたんだよ」

「悠の様子を見に来たんだ」

 兄はいつもそうだった。

 周りをキョロキョロしながら歩く挙動不審な行動。

 俺が家を出た後も、ずっと実家に引きこもり、友達も恋人もいない。一体何が楽しくて生きているのだろう、と俺はいつも思っていた。

 身だしなみも気にせず、俺からいくら馬鹿にされようと兄はいつもあっけらかんとしていた。

 嫌いだった。

「今時間があるなら、少し屋上で話をしない?あ、飲み物買ってあげるからさ」

 閃いたように言うが、飲み物くらい自分で買える。

 だが、このままここで不審な行動をされても迷惑な為、俺は兄の提案を呑む事にした。


 屋上の扉を開けると、夕陽が眩しく、反射的に手で目を覆う。

 兄は自販機で珈琲を買うと俺に手渡し、自分は何も買わずに屋上の柵にもたれかかった。

 ひんやりとした風が吹き、兄の髪を揺らす。髪をかきあげる姿だけを見ていると、何処にでもいる普通の好青年だと思う。

「話って何?」

 嫌そうに話しかけると、兄は顔を俯かせながら口を開けた。

「昔、よく自然災害で人が死んだ時あったでしょ。あれは地球に対して人が多すぎるから何だって。だから、国は世界の均衡を保つ為に、地球にいる人間の数を統一したんだって」

「迷信だろ」

「違う。事実だよ。そのおかげでここ数十年は自然災害が起こっていない」

 兄はゆっくりと顔を上げて薄っすらと微笑んだ。

「悠が死んだら、新しい命が生まれるんだよ。僕が死んでもそう。誰かが生きる為に死ぬって思ったら、何だか素敵だなって思えるんだ。…だけどね。忘れないで欲しい。誰かが死ぬから新しい命を生まれるんだって」

 兄は表情を変えることなく、柵を乗り越える。

「おい。兄貴!何やってんだよ!?」

 風が吹くたびに兄の体が微かに揺れる。俺は急いで駆け寄り、柵を掴む。

「お前が嫌いだった僕とはもうさよならだ。だけどね。僕は好きだったよ。いつも思っていた。女の子に産まれてたら僕は悠とずっと一緒にいれたのかなあって」

「馬鹿だよね」そう笑って、兄は足を踏み出した。


 声は出なかった。


 本当は何処かで気づいていた。兄が今みたいになってしまったのは俺のせいだった。

 初めて家に彼女を連れてきた時、喜んでくれると思っていたのに、兄は何も言わずに俺の目の前を通り過ぎた。

 その時きっと兄は気づいてしまったんだ。女の子にはどんなに努力しても敵わない事に。それから身なりも気にしなくなり、俺と距離を置くようになった。


「…っんで。最後にそういう事言うんだよ」

 視界がぼやける中、一つの産声が聞こえた。

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不変 八木代 @yukisiro24

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