階段の誘惑(オブジェクトホラー)

 部屋と会社をつなぐ通勤路の間に三つの階段が居を構えている。今の会社に勤め始めた時からもう何遍も昇り降りしているが私はこいつらが怖くてならない。通りかかるたび私を転落させようと無言の圧力をかけてくるのだ。


 一つ目の階段はマンションに付属している屋外階段で一階当たり十六段の段数を持つ。八段降りたところの踊り場で百八十度方向を変えてまた八段の階段が続く折り返し階段である。部屋が三階にあるせいで毎朝三十二段の階段を降りなければならない。私の一日は憂鬱な気分で幕を開ける。


 マンションから徒歩十分で最寄りの駅にたどりつく。特別大きな駅ではないが朝の時間帯は通勤客で少し混雑している。その駅の改札を抜けた先で二つ目の階段が私を待ち構えている。改札階と地下のホームをつなぐ五十四段もの直階段。例によって途中に踊り場が設けられている。幅十メートルはあるこの階段の真ん中を両側の手すりに手をかけることなく私はゆっくりと降りてゆく。私が最も恐れているのはこの階段だ。


 階段を無事降り終えたらホームの一番端に移動して電車を待つ。やがて七時四十二分発の急行が到着し再前方の扉から私は電車に乗りこむ。目的の駅までの十七分間を私は何をすることもなくぼんやりと立ったまま過ごしている。何かをしたいという気持ちは全く湧いてこない。時々階段のことが頭をよぎる。


 七時五十九分下車。ホームと地続きの改札口を通って駅を出れば会社までもう五分とかからない。しかしこの道のりの途中には最後の階段が私を待ち受けている。ちょうど会社の建物が見えてきたところでその姿を現すのだ。とはいえ蹴上げ十五センチにも満たない緩やかな階段だ。段数も六段しかなく仮に転んでも軽傷で済むだろう。なのに階段は執拗に私への誘惑を止めようとしない。


 会社の玄関に足を踏み入れると階段に対して感じた恐怖は徐々に薄らいでゆく。代わりに私は安堵と後悔を感じながらデスクの前に腰を下ろす。時間になればいつも通り仕事が始まる。そして階段のことは意識の片隅に追いやられる。ルーチンワークをこなす間は恐怖心を思い出すこともない。もちろん会社から家への帰り道では例の三つの階段が私の退社を今か今かと待ち侘びている。今度は逆にやつらの段差を昇ることになるわけだ。だがこの階段たちは帰り道では不思議なほど静けさを保っており私を誘惑する力も朝に比べて実に弱々しい。私は少しばかりの恐怖を感じつつもどちらかといえば軽やかな気分で暗闇の中を帰っていく。どうやら抵抗力が弱まっている朝の時間帯を狙って私を誘惑するのが階段のやり方らしい。


 階段は巧みに私を誘惑する。もっとも方法自体はいたって単純なものだ。まず踏面に足を乗せた瞬間を狙い私の意識を支配する。意識を乗っ取られた私の頭は階段のこと以外何も考えられなくなる。そうなればあとは人間誰しもが隠し持つ密かな欲求をひらすら刺激するだけでよい。私が言っているのは少なくとも一週間の休養を要する怪我をしたいというあの欲求のことである。階段に誘われるがまま今すぐここから落ちてしまえば欲求を満たせるかもしれないという考えが何度頭に浮かんだことか。体を壊したことのない私にとってこの誘惑はあまりに魅力的だ。だいだい階段というやつは上から眺めると現実からの脱出口のように見えるからタチが悪い。落ちた先で明るい未来が待っていそうな形状ではないか。おそらくそれも計算の内なのだ。


 誘惑に対抗する唯一の術は自制心である。たとえ階段から落ちても体に傷一つ付くことなく単に痛いだけで終わるかもしれない。逆に打ちどころが悪くて命を落とすかもしれない。こうした想像が恐怖心と結びついて私の足を踏み止まらせる。けれど人間の自制心なぞ脆いものでそう長く持つはずもない。逆に階段の誘惑は日に日に強まる一方だ。つい最近もあと少しで駅の階段から本当に落ちるところだった。


 その日は雨が降っていた。改札を抜けた私はエレベーターへ視線を送ったものの結局誘い込まれるように階段の方へと足を向けた。私は階段の頂上に立ち下を見降ろした。眼下には開けた空間が広がりどことなく自由を感じさせる。五十四段ある段差の一段目に足をかけた私は途端に意識を階段に乗っ取られた。階段に支配された頭は落ちろという命令を全身に送る。しかし両足は染み込んだ習性で落ちないよう踏面を踏む。板挟みにあった体は傍から見ればいかにも不自然な動作で階段を降りていたことだろう。私は階段を一段また一段とゆっくり降りていった。五段ほど降りたところでなかなか落ちない私に業を煮やしてか階段が頭に転落のイメージを植えつけ始めた。頭の中が想像力で満たされる。私は八段目あたりの階段で右足を滑らせバランスを崩し体の側面から背中にかけてを段差にぶつけて強打する。そしてそのまま跳ねるように階段を転げ落ちてゆく。落下の間決して頭部を階段にぶつけてはいけない。体が踊り場に達したところで体の側面を踊り場の床に打ちつけて転落が止まり周囲の人間の視線にさらされながら私は床に倒れ込む。打撲による全身の痛みと常日頃感じている眠気に襲われて私は意識を失う。周りにいる誰かおそらく駅員が救急車を呼んで駅すぐ近くの病院から迅速に救急隊が駆けつける。私の体は病院へ搬送され運ばれた病室で目を覚ました私は心の中でこう独白するのだ。気がつくと私は病院のベッドに横たわっていた。ここまで妄想が進んだ時点で私の右足はすでに半分以上階段を踏み外している。踵が踏面に当たったところで意識はようやく現実に引き戻された。我に返った私は両足に全ての意識を集中させて階段を確実に降りていった。そして何事もなかったかのように最後の一段を降り終えた。両足でホームの床を踏みしめ私は落ちなかった自分を誇らしげに感じた。こうした転落の危機に幾度も見舞われつつも私は今まで誘惑に屈することなく階段を無事渡り終えてきたのだ。


 だがもう限界だ。


 私は今日我慢できないだろう。


 時刻は七時二十五分。私は部屋を出た。上下スーツといういつもの出で立ちで。首にはネクタイを巻き右手はブリーフケースを携行している。昨日までと何一つ変わらない。マンションの廊下の端にたどり着いた私は一つ目の階段に差しかかった。最初の八段が視界に入り込むや頭の中にあったイメージが現実味を帯び始める。私は初めの一段に足を乗せた。階段が意識を支配し落ちたいという欲望で頭の中が埋め尽くされてゆく。欲望と自制心の狭間で私は足をいつもより長時間浮かせながら階段を降りていった。マンションの階段のどこかで転落するという予感がその時はあった。もしも私が冷静な判断力を失うほど衰弱していたなら本当にここで落ちていたかもしれない。幸運なことに落ちたいという欲望とは別の考えが私の意識に浮かび上がってきたのだ。落ちるべき場所はここではない。ここで落ちても誰も見ていないし怪我をする確率も低い。だから落ちるべき場所はここではない。私は一つの確信を得た。そうだこれは準備運動なのだ。私は自分がどの階段で落ちるのかよくわかっているし階段もそのことを承知している。つまりこれは本番前のイメージとレーニングのようなものだ。落下の欲望をたぎらせながら絶対に落ちないという確信を持って私は三階から二階へ二階から一階へと階段を降りていった。そして何事もなく地面に到達した。


 道に出た。私はうわの空で駅へと歩を進める。目に映る見慣れた光景は意識されることなく後ろに過ぎ去ってゆくだけ。私は階段とそれにまつわる未来について考えを巡らせる。私は今日七時四十二分発の急行に乗ることはない。三つ目の階段にも決してたどりつかない。私はまぎれもなく恐怖を感じている。今日までもずっと階段に対して感じていた恐怖だ。肉体の破壊に対する本能的な恐怖だけではない。階段によって今の日常が壊れるのを私はひそかに恐れているのだ。


 そしてあっという間に駅に到着した。


 今日も駅は通勤客で少し混雑している。周りの人達が小走り気味に駆けていく中を私はゆっくりと改札へ向かった。ズボンのポケットからパスケースを取り出し改札機にかざす。通り抜けたらパスケースを再びズボンのポケットに戻す。そこから一歩二歩三歩四歩五歩六歩七歩八歩九歩十歩十一歩十二歩十三歩と歩いてついに私は階段の頂上に立った。


 手を伸ばしても手すりに届かない階段の中央付近から私は最初の一歩を踏み出した。一段目の踏面に足の裏が接して望み通り意識は階段に支配された。落下への欲求は今や最高潮に達している。私はいつでも落ちられる。あとはタイミングを待つだけだ。私は周囲の状況を確認した。二メートルほど下前に一人の男がいる。今落ちればあの男と衝突する可能性がある。まだだまだ待つんだ。不自然に見えない程度にゆっくりと階段を降りて時間を稼ぐんだ。私がいるのはまだ五段目だ。落ちるには十分な高さがあるのだから焦る必要はない。前の男の両足が踊り場に達した。もう少しだけ待てもう少しだけ待て。私の右足が六段目を踏む。男が踊り場を通り過ぎた。左足が七段目を踏む。目の前の空間が開けた。遮るものは何もない。今だ。私は八段目を踏むはずだった右足を踏み外し階段から転落した。


 体を横にひねったのが功を制し体の左側面が階段に打ちつけられた。思惑通り体は横向きになった状態で階段を転げ落ちてゆく。腰肩腕足と体のいたるところに打撲による痛みが生じ手の甲には何かで切ったような痛みが走った。私は両手を動かして頭部を守ることだけに意識を集中させた。要は死ななければいいのだ。体は回転しながら落下の勢いを強め階段を転げ落ちてゆく。全身の痛みが増し早くこの痛みから解放されたいと思ったのもつかの間私の体は階段の踊り場に叩きつけられた。


 意識ははっきりしていた。頭を除く全身に痛みが感じられ特に右肩の痛みは耐えられないほどだ。私は成功を確信した。


 だがここで予想外の事態が起きた。


 体の回転が止まらなかったのである。


 私は階段から無事落ちられたことに安堵するあまり気を抜いていた。まさか踊り場の床に激突した体が反動で少し浮き上がり転落の勢いが継続するなどとは思いもよらなかった。さらなる落下をくい止めようと咄嗟に手足に力を入れた時にはすでに体は踊り場を通り越していた。


 再び転落が始まった。コントロールのきかない体は慣性のおもむくままに階段を転げ落ちてゆく。もはや体がどちらを向いているのかさえわからない。視界は回転し全身のあちこちから激しい痛みが生じる。落下速度はさらに増し極めて危険な状態になりつつある。私はがむしゃらに両手を動かした。何か掴めるものはないかという無意味な期待にすがったのだ。体は落ちてゆく。ふと私は両足が階段の上をを向いているのに気づいた。このままだと後頭部をホームの床に強打するはめになる。私に残された唯一の方法は何かにぶつかって体の落下を止めることだ。さっき前にいた男の姿が脳裏を掠める。あの男にぶつかれば体の落下は止まるはずだ。私は助かる。一瞬心に希望が生まれた。けれど何者にもぶつかる気配はない。あの男はさっさと階段を駆け降りたのかもしれないし私が落ちてくるのを見て横に回避したのかもしれない。そんなことはどうでもいいホームの床が眼前に迫っている。とにかく何でもいいから誰でもいいから転落の障害物になりさえすればいい通勤の時間帯でこれだけ人がいるのに誰にもぶつからないはずがないのだ。しかし体は止まることなく階段を落ち続けて落ち続けて落ち続けて今になって死の恐怖が頭がホームの床に




























































          気がつくと私は病院のベッドに横たわっていた。








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短編集という名の保管庫 沖野唯作 @okinotadatuku

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