3杯目 : 愛について語るためには、口に詰め込んだ芋を正しく飲み下さなければならない



 日々は続いた。


 時間は縦にも横にも伸びなかった。いもと佐藤と俺だけを含め、ひたすら現在に向かって流れた。その中で、俺達はふがふがを続けた。


 日々は続いた。

 続き続けるかに見えた。


 ある放課後。


「私、今日でここに来るのは終わりにするね」


 テーブルの上のいもは終盤に差し掛かっていた。どこまで食っても果てることなくうまいそれを、つまむ、口へ入れる、咀嚼する、飲み込む。時間をかけてその作業を終えた後、俺はようやく佐藤の顔を見た。

 佐藤は、悲しむでもなく、怯えるでもなく、細い光を真っ直ぐ見つめるような顔をしていた。


「なんで」

 俺はできる限り静かな声で言った。


「私ね、自分のこと、女の子だと思ってないんだ。その、まったく、足りてないの」


 なにが、と俺は問う。


「おっぱいが」


 お。


 突如放たれたその単語に、俺の思考は止まる。いもとそれとが同じ空間に持ち出されたことに対する違和感と不快感が、停止した脳内で急激に水位を上げる。

 俺の視線は佐藤の胸部へと落ちる。確かにそこには、膨らみと言えるのか言えないのかわからない非常になだらかな、それ。


「足りてないと言うか、欠けてると言うか、とにかく、その、ないの。そんないちいち言わなくても知ってたと思うけど。その、だから、私は自分を女の子じゃないと思ってる。でも、なりたいの、女の子に、ちゃんと。だから、どうしても欲しくて。ちょっとでもおっきくしたいと思って。それで、とにかく脂肪を、と思ったの。おっぱいってだいたい脂肪でできてるから、だから、とにかく太ろうと思って。炭水化物を、だから、おいもさんを。私、すごい偏食なんだけど、おいもさんはすごく好きだから、おいもさんだったらたくさん食べれるし、太れるかなって、思って。思ったん、だけど、でも、全然成果が出なくて。私、体質なのか、ほんとに、食べても全然体につかなくって。食べても、全然太れないの。それで、どうしたらおっきくなるんだろうって調べてたら、太ればいいってものでもなさそうで、おっぱいって、女性ホルモンが」


「いも食ってる時におっぱいの話すんなよ!」


 衝撃音と、跳ねる数本のいも。

 手の側面、小指の付け根あたりから熱が伝わってきたのを感知して、どうやら自分が、握り締めた拳をテーブルに叩き付けていたらしいことに気付く。佐藤は体を強ばらせ、視線を泳がせている。


 落ち着け。

 俺は正しい。


「⋯そんな、ないとか、今に始まったことじゃないだろ。足りてないとか、そういう考え方がそもそもおかしい」

「おかしく、ない。だって、足りてないんだもん」

「そうだとしても、それといもとは関係無いだろ。お前、いもが好きなんだろ? だったら食えばいいじゃねーか。なにも、やめることないだろ」

 

 いや、そんな話がしたいんじゃない。

 愛は。

 愛はどうしたんだ。


「お前、愛してるって言ったじゃねーか。あれは、嘘だったのか」

「嘘じゃないよ。ほんとに、愛してる。それはほんとだけど、でも、それだけじゃ、だめだったの」

「だめってなんだよ。なんで愛に見返りを求めるんだよ」

「そうじゃなくて⋯」

 行き場をなくした佐藤の両手が、そこに助けを求めるかのように、心もとない膨らみへと辿り着く。細い指が、その一帯を包む。

「私は、私の足りないところを満たしたかったの。でもだめだった。空しくなるばっかりで」


 満たす?

 俺はその動詞を口に出していた。それを受け取った佐藤が、ほんの少し、頷いたのが見えた。

 佐藤の顔を整ったものに見せているのは、二つの目の目頭のあの角度と、その二点を繋いだ中心から始まる鼻の付け根のあの角度である、と、そんな細部が、突然見て取れるようになる。そして、なぜその均衡に佐藤自身が無自覚であるのか、そのことも同時に理解する。

 あの膨らみがない。それを理由に、佐藤は自分をまだ足りていない、不十分な存在であると認識しているのだ。自分を価値のあるものへと押し上げるために、その不足を、欠落を、埋め合わせる必要があった。そのためのいもだったのだ。

 そんなことのためのいもだったのだ。


 喉の奥から、熱の塊が突き上げる。とにかく正しく舌を動かすことだけに集中する。そうしないことには、まともな言葉を吐けそうになかった。


「愛は、足りないものを埋めるためにあるんじゃねぇ⋯!」


 佐藤が逃げるように目を逸らしたのを見て、自分がひどく鋭利な視線をそこに向けていることに気付く。が、和らげることなどできない。


 怒りの先端に晒されてなお、それが自分を救う唯一の手段とでもいうように、佐藤は震える声で言葉を繋ぐ。

「おっぱいをおっきくするために、女性ホルモンを、分泌させなきゃいけないの。どうやったって脂肪が付かないんだったら、もう頼れるのは女性ホルモンだけなの。だから、そのために、私⋯⋯」

 もたつく舌。そこに絡まる憂慮なのか躊躇なのか、それを飲み込んでまた、口を開く。


「納豆を、食べようと思って」


 な。


 俺は耳を疑う。

 いもを目の前にして、今。

 今、なんて言った?


「納豆ってね、女性ホルモンのエストロゲンが、大豆イソフラボンで、促進的な、その、あの、とにかく、きっと、おっぱいをおっきくしてくれるはずなの。だから、私、納豆を」

「あんなもんただの腐った豆だろうが!」


 身を乗り出した俺の下腹部にテーブルがめり込む。このままの速度で太り続けたらどうなるのか、そんなこと分かり切ったことだった。それでも俺は食った。愛していたからだ。愛とはひたすら貪り食うものだ。それ自体が幸福であれば他の一切を必要としないほど完璧なものだ。違うのか? そう思ってたのは、俺だけだったのか? 俺だけだったのか?

「腐った豆ごときで、愛をけがすな⋯!」


 佐藤はうつむき、振り払うように大きく首を振る。

「違うよ、腐ってるんじゃない。発酵してるの」

「一緒だろうが!」

「違うよ!」


 佐藤は俺を睨み付ける。そんな声出るのかよ。そんな顔できるのかよ。俺がいもの向こう側に見ていた佐藤は、あいつはどこに行った?


「納豆のことなんにも知らないくせに、悪口言うのはやめて」

「あんなもんがいもの代わりになるわけないだろ。あんな、臭ぇもん」

「やめて! そんな、納豆のこと悪く言う必要ないじゃん、なんにも知らないくせに」

「臭ぇことくらい知ってる。あんなもん、糸引く臭ぇ腐った豆以外の何物でもないだろ」

「やめてよ! 私が、私がどんな気持ちで納豆におっぱい託してるのかも、なんにも、知らないで。⋯もう、もう私の中で、おいもさんは、終わったの」


 終わったの、と繰り返しながら、佐藤が両手の指に力を込める。制服の襟元に皺が寄る。まだ満たされていないその部分に、切実な祈りを捧げるかのように。

 それはさっきまでいもを食っていた手だ。

 お前、その手で何を掴んでるんだ。


 いもを食った手で。

 いもを食った手で!


「揉んでんじゃねぇよ!」

「揉む程ないよ!」


 叫ぶと、佐藤は泣き出した。魂がまるごと天に召すかのような、何もかもを絞り出すような泣き方だった。長いこと続く、嫌な夢のようだった。


 いつの間にか、佐藤は去った。

 テーブルの上に残された、いも。それはまるで死骸だった。かつて愛だったものの、死骸。


「お疲れさーん」


 今、一番聞きたくない声が聞こえてきた。

 またコーラでも飲んでいるのか、奴の手の中でそれが揺れて、カップの中の氷が鳴る。

「コーラじゃない。ウーロン茶だ」


 は?


「俺は三回に一回、コーラではなくウーロン茶を注文し、飲んでいる。なぜかわかるか」


 知るかよ。


「お前の言葉を借りれば、俺はコーラを愛している、ということになる。だからこそ、正しいやり方を選択する。なににつけても過剰摂取は良くないとわかっているからだ」


 そいつが俺の向かい側に立つ。さっきまで佐藤がいた位置だ。抑揚のない、異常に耳障りな声が降ってくる。

「愛し続けていくためには、愛だけじゃだめだということだ」


 俺は顔を上げる。そこに立つ正論野郎を睨む。液体を吸う真山が、見どころのない試合を観戦した帰り道のような顔で俺を見下ろしていた。ストロー内をのぼる黒いそれの正体など、心底どうでもいいと思った。

 真山はそれをごくんと飲み込んで、部員に敗因を解説する監督の口調で告げる。

「愛は、計画的に」


 うるせぇな。


「なにが愛だ。くだらないことばっか言ってんじゃねぇ」


 俺のそれを受けて、真山はつまらなそうに、しかしどこか満足げに笑った。圧勝して当然の試合に、圧勝し終えた後のように。





 そうして、いもは終わった。





 長いのか短いのかわからない時間を経た。

 




 そして。




 ここが現在。




「で? 今日は?」

 俺のスマホを覗き込み、真山が聞いてくる。俺が作成したトレーニングメニューが表示された画面である。見るな。


「どんだけスクワットすんだよ。蛙かなんかになりたいのかお前。これほんとに減量メニューなのか?」

「うるせぇな。お前はなんだ、俺のトレーナーか。いちいち口出してくんな」


 生きていくのに、今のままでは重過ぎると気付いたのは数日前のことだ。

 余分な重さを纏っている限りのしかかってくる過剰な重力を、とてつもなく鬱陶しいと感じたのだ。


 この脂肪を燃やし尽くす。

 焦点はそこに結ばれた。


「別に口は出してない。ただの感想だ」

「感想なんか求めてねぇよ。これは俺の課題だ。口挟むな」

「わかったよ。しかしだな、確認は必要だ」

「なんの確認だよ」

「今度はいつ頃死ぬかという確認だよ」

「は?」

「馬鹿に屈服した人間としてはだな、死にゆく馬鹿を放置するわけにはいかないんだよ。まともな人間としての常識と、従うべき一般論が引き起こす面倒臭ぇ慈善活動だ。そこには良心というやつは絡んでない。ボランティア精神だけで動くほど、俺は心の清らかな人間じゃないというわけだ」

「はぁ? だったら黙ってろよ」

「まぁいい。単に身近な所に死体が転がってたら不快だから片付けようという至極まともな思考の結果だ」


 正論クソ野郎はわけのわからないことを楽しそうに言う。なにが死体だ。お前が死ね。コーラの海で溺れて死ね。


 俺はスマホをしまう。無駄話などしている暇はない。真山にじゃあなとも告げず、自転車をこぎ出す。


 途中、友達と共に歩いている佐藤の背中を歩道の先に見る。あの、最後のいもの日以来、俺は佐藤を、佐藤は俺を、景色の一部と見なすだけの日々を過ごしている。


 佐藤への食欲は、あの日以来、完全に消え失せた。あの時の俺を支配していた食欲について、今の冷めた頭で解釈するとこうなる。


 いもにさかっていた俺が、同じ時期に別の理由でいもを必要としていた佐藤の中の、におい立つようないも的要素を感受したのではないか。嗅覚がにおいを感知してその電気信号を脳に送るように、いもに対して異常に鋭敏になっていた俺の感覚器が、わずかないも的要素にも過剰に反応し、正常値を遥かに越えた強い刺激を脳に送り込んだ。その結果発生した欲求があれだったのではないか。きっと、そんなような原理だったのだろう。


 今、佐藤に対して唯一譲歩できそうなのは、あいつはあいつの正しいと思うことを選択したのだという、その点のみだ。

 選び取ったことの結末など、結果が出るその地点に立つまでわからない。できるのは、今の自分が正しいと思うことを選択すること、それだけだ。あの時佐藤がしたのはきっとそれだし、俺も今、それをしている。


 自転車をこぎながら、頭の中でメニュー表を開く。


 ノーマルスクワットから始めて、ワイドスタンススクワット、シングルレッグスクワット、スプリットスクワット、シシースクワット、ジャンピングスクワット、ピストルスクワット、前回はこの時点でふらふらだった。まだまだクズだな。しかし今日はもう少し楽に越えられるはずだ。最後がダンベルスクワット。可変式ダンベルを早急に入手しよう。もう少し負荷をかけたい。その後のランニング20kmの距離を伸ばしてもいい。25にするか? いや、この前みたいに道端で倒れて救急車を呼ばれるのだけは避けたい。思い出すだけでクズ過ぎる。ひとまず23か。やはり有酸素運動はでかいと実感する。それを効果的なものとするために筋トレが必須なのだ。なにも毎日スクワットだけをしているわけじゃない。日によって、鍛える場所を絞っているのだ。あほの真山はそのへんの重要性をまるで理解していない。あいつはなににつけても全てをわかったような口で言うが、大概がつまらない一般論でしかない。いつかそのあほらしさをあいつにわからせてやりたいのだがなかなかその機会が来ない。まぁ、楽しみは取っておいても悪くないだろう。あぁそうだ。今日はプロテイン摂取を確実に行わなければならない。昨日の夜は腕立て伏せの最中に力尽きてそのまま床の上で寝てしまった。250回まで数えたのは覚えているが、気付いたら朝だった。クズ過ぎる! 今日は昨日の分も併せて飲まなければならない。二倍も飲んで大丈夫かどうか知らないが、そうして埋め合わせないことには昨日のクズ行為を拭えない。どうせなら三倍くらい飲みたいところだ。一度試してみよう。しかし今朝の体重は昨日より0.02kg減っていたのだ。確実に脂肪は死滅していっている。

 大丈夫だ。俺は正しい。


 スピードを緩めず、佐藤を通過する。横目で見やると、一瞬だけ目が合った。景色が通り過ぎていくのと同じ速度で、それは俺の後ろへと消える。


 いつか、あいつの足りない部分が満たされる日は来るのだろうか。

 その結末について俺が関与する可能性はまったくないのだが、俺が自分のこの先を希望で照らそうとするように、あいつのその先も同じように照らされて欲しいと願うことくらい、別に俺の勝手だろうと思う。


〈了〉


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ポテラバ 古川 @Mckinney

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ