2杯目 : 愛における代償とは、芋における塩である
特に約束したわけではなかったが、その翌日から、俺たちは二人して同じテーブルでふがふがやるようになった。
佐藤もまた、その熊の店のいもを、死ぬ前の最後の一品にしたいくらいに好きなのだと主張する。
そしてそれがどんなにうまいのか、言葉に変換しようとする。しかし、果たされたことはない。
「この厚みのあるほくほくが⋯」
そこで途切れる。
「この表面のかりっとした⋯」
それも途切れる。
「この塩⋯」
途切れる。
最終的に佐藤は諦めた。そして結論付けた。
「愛だ」
甘く、熱いものを飲み干した後の溜め息のように、佐藤がその鈴の音の声で言う。
「これは、愛だよ」
整ったパーツが正しく配置され、顔の作りだけなら十分可愛いと呼ばれる部類に属するだろうが、佐藤が自分におけるそのことを積極的に受け入れている様子はない。まだ気付いていない、という言い方のが近いかもしれない。
無自覚な笑顔で、自分と、いもと、俺を、その言葉を用いることによって定義付けた。
愛。
確かにそうとしか言いようがないと思った。意味は知っているが、日常生活で正しく使ったことなどないであろう単語。今のこれが、それだと思った。
愛だ。
俺も負けてはいられなかった。
「俺のが愛してる」
「私だって愛してるよ」
言いながら、全然足りてない、と思った。あまりにもどかしく、焦燥感さえ覚える。
語り合おうにも、適する言葉が存在しない。それならば、黙るしかない。
俺たちは何も言わず、ただただふがふがといもを食い、幸福に浸るのだった。
俺の、佐藤に対する食欲というのは、その頃になっていよいよ完成形を迎えるのだった。
一向に鎮まらない飢餓感はしかし、徐々にその角を落とし、暴力的でさえあった態度を軟化させていった。実際に佐藤と向き合うことによってあるべき姿へと矯正され、それに比例して強度を得たのだった。
だから俺は、その食欲をもうすっかり自分のものにしていた。ふがふがやっている佐藤を見ながら、自分の中に湧き上がる欲望を満たし、更なる幸福感を得るため、もっともっとふがふがを必要とした。だから食った。食って食って食った。
そのサイクルは完璧な輪を描いた。得られる幸福の度合いは増し、愛が深まるのを感じた。
「浮かれる気持ちもわかるが、そのままじゃお前、体壊すぞ。間違いなく寿命縮む。いくら好きだからって、限度ってものがある」
真山に言われる。
表向きは、俺が目に見えて太っていくことを心配しての発言らしかった。しかしその底にある羨望と僻みを、俺は感じ取る。俺が手にした愛が、羨ましいのだろう。堂々と妬めばいいものを。
常に自分の方が優位でいたいのだ。その立場が揺らぐことを自ら口にするような奴ではない。
今では奴のそうした性質さえまるで気に障らないのだから不思議だ。これが余裕というやつか。
俺が佐藤とトイレ前の席でふがふがするようになってからも、真山はなぜか時々熊の店に姿を現して飲み物をひとつ注文するのだった。おそらくコーラと思われるそれを一人静かに飲み、やがて帰宅する。なんとも寂しげな背中が面白い。
親切な忠告に対し、俺は言う。
「愛に限度なんてねーよ」
向かい合う佐藤は、俺がもともと抱いていたイメージから大きく逸れることはなく、やはりどこか危険物感を孕んだ、存在すること自体がぎりぎり、といった感じの女子だった。
それは、本当に臓器すべてがそこに収まっているのか疑いたくなるほど痩せた体から感じることであったし、表情にしても、喋る声にしても、今にも消えそうな心細さがあった。
佐藤がいもを必要とする本当の理由を俺は知らないが、あいつのそういう存在の仕方と何か関係があることは確かだった。
そうした佐藤の内部について知るよしもない俺は、いもを食う佐藤のその指と、膨らむ両頬と、幸福に浸ってふやけた表情を眺めながら、確かに佐藤がここにいていもを食っているのだということを俺に刻みつける。そこにある愛を、もっと強く感じるために。
「愛だなぁ」
と佐藤が呟く。
「愛だ」
と俺は頷く。
そうして、愛を貪る日々は続いた。
俺は満たされていた。
が。
満たされ過ぎていた。
超過した分は代償となって返ってきた。
風のない午後だった。
「大丈夫じゃなさそうだな」
真山に言われる。
「ついこの夏までボール追いかけ回して走ってた人間だとは到底思えないツラしてるぞ。引退後の悪い見本みたいな体しやがって。これ以上後輩に無様な姿見せるのは部の今後の士気にかかわる。帰れ」
俺はサッカーグラウンドに膝をつき、砂を掴んでいた。なぜだ。自分に問うが、答えなど考えるまでもなくわかっている。
俺は太ったのだ。急激に、猛烈に太った。カロリーというやつが、俺の脂肪を増幅させた。
愛の代償だ、と思った。甘んじて受け入れる他ない。俺は立ち上がる。
俺を見るいくつかの目。かつて同じフィールドに立ち、共に戦った仲間達。俺達が成し遂げられなかった目標を、同じ熱量を維持したまま引き継いでくれた後輩達。悔し涙で終わったあの夏が、遥か遠く、もう思い出せなくなった思い出のように霞んで見える。
俺達の引退により、二年主体となって動き出した新体制。冷やかしのためか、はたまた真面目に問題点の指摘のためか、部の顧問から三年に招集命令が下り、三年対一、二年の試合が始まったのはつい15分前だ。
地獄の15分だった。自分が重い。足が役目を果たさない。ボールの速度にまるで追い付けない。息切れが痛い。
それでも。
走れなくなった今の自分を、なんら恥ずかしいとは思えないのだった。あの時の自分にはサッカーがあった。そして、今の俺には愛がある。
「お前ら」
まだ整わない呼吸の合間を縫い、後輩達に向かって告げる。
「自分の信じる愛を貫けよ」
かつての自分の汗が染み込んだグラウンドに背を向け、歩き出す。
「おい」
真山の声が後ろから追いかけてきた。
「いつ頃目ぇ覚ますんだよ」
「は? 起きてるだろが」
「もう体がやばいってことは今ので十分わかっただろ。ここまでだ。これ以上はまじで死ぬぞ。いもはもうやめにしろ」
またいつもの正論だ。しかしそれは、世の中における正解でしかない。
こいつはいつも冷めた目で俯瞰の面をぶら下げ、結局はその域を出ようとしない。つまりは、未だ自分の正解を獲得できていないのだ。
お前は愛を知ってるか?
俺は笑っていた。圧倒的勝利の確信は、人を笑わせるらしい。
「高校の部活ごときに命賭けるなんて愚行を本気でかます奴がいてびびった。それがお前の第一印象だ」
は?
冷ややかでありながら、どこか挑発的にも見える顔で、真山は喋り出す。
「なぜ玉蹴りごときに命を賭けられるのか。謎だった。が、すぐに解けた。馬鹿だからだ。馬鹿過ぎて、愚直にやる以外のやり方を知らないというわけだ」
一体なんなんだ。なぜ俺は挑発されている。ますます笑えた。
「その馬鹿さに、俺は感服するしかなかった。ストレッチで靭帯痛めたり、走り込みで意識を失ったり、ミニゲームで負けて嗚咽したり、もはや負けを認めるしかなかった。圧倒的に憐れだった。蔑んでやる余地もなかった」
今の俺にそれが通じると思っている時点でお前の負けだ。俺はそう口に出そうとするが、やめる。戯言を静かに聞いてやるくらいの余裕なら十分にある。
「だからあの最後の試合、最後のシュートをお前がはずした時、これでお前は死ぬんだと思った。玉に命賭けてきた結果がこれなら、もう死ぬしかないんじゃないかと思った。しかし死ななかった。が、生きてもいなかった。辛うじて呼吸はしていた。でも酷い有り様だった。こんな状態なら死んでくれた方がましだと思ったくらいだ。しかしお前は突然目覚めた。あのいもで、息を吹き返したんだよ」
長ぇよ。まだか。
「死体と沈黙するくらいならいも貪る奴と喋った方がマシだと思ったが、それもはじめの三日間くらいのことだ。お前はサッカーで失ったものを、いもに見出だしやがった。状況は悪くなっていたというわけだ。そこへ来ての、佐藤だ。いもに拍車が掛かりやがった。その結果が今のこのデブだ」
おい。指をさすんじゃねぇ。
「お前のために言ってるんじゃない。俺の自尊心のためだ。俺はお前の馬鹿さに負けたんだ。しかしこんなクズのデブに負かされた覚えはない。俺の人生に、クズのデブに負けたという傷を残してくれるな」
「そろそろ黙れよ。自分の自尊心くらい自分で世話できねーのか。そんなに手に余るんだったら捨ててけよ。俺が糞まみれにしといてやる」
真山は黙った。それから、ここが核心だと言わんばかりにたっぷりの間を取って、言う。
「佐藤は、危険だ」
「黙れ。愛が何かも知らない奴が口挟むんじゃねえ。一人でコーラでもすすってろ」
あぁ。
ふがふがしてぇ。
俺はもう走れなかった。それでも、いもと佐藤が待つ熊の店まで、俺の最速で向かった。
佐藤はいつもの席で、いつものようにふがふがしていた。俺が来たことに気付くとふがふがの手を止め、ほっとしたように笑顔を見せた。自分が存在することをこの世に申し訳なく思っているかのような、どうしようもない心細さを湛えた、いつものあの笑顔だ。
「遅いよ。もうおいもさん、冷めちゃった」
真山はそれを馬鹿と呼んだ。奴からしたらそうかも知れない。
だがそれがなんだ。これは、俺の、俺達の愛だ。
俺はいもを食う。
この先が死だとしても。
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