二日目 昼 妹

ぼうっとしたまま朝食のパンを食べ、何も考えないようにして外に出た。

父も母も姉の心配ばかりしている、行方不明なのだから仕方がない事なのだけど、それでもやはり腹が立つ。私のことなど眼中にない、むしろ行方不明になったのが私だったらと思っているだろう。


「おっはよー、待ってたよーん」


腹が立つ出来事がもう一つ、飛び出してくるこの男。塀の影に隠れていたらしい、また随分と子供っぽい真似をしてくれるものだ。


「おはよ、朝からウザイね」


「朝から冴え渡る暴言っぷりだね! そんな君にハイ、プレゼント!」


「ありがと、美味しい」


手渡されたのは缶コーヒー、この男の趣味で買い置きしている物らしい。甘さ控えめのこの味は毎朝の楽しみと言ってもいい。


学校帰りにまた寄り道に誘われる、毎日パンケーキなんて食べたら太るから、と断ろうとしたが今日の目的地はカフェではないらしい。私の家を囲う塀の割れ目から家の裏手へ。こんな割れ目があるなんて私は知らない……なのに何故この男は知っているんだろう。腰ほどの高さの雑草を掻き分け進んで行く。


「何があるって言うのよ……やだ、虫! 最悪!」


「いいからいいから、騙されたと思って、ね?」


手を引かれるままに男のあとをついて行く。

と、白い壁が見えた。壁があるのは片側だけで、天井はなく、瓦礫は散乱し、扉は外れている。簡単に言うと廃墟。


「何よ、ここ」


「教会の跡、子供の頃よく来てたじゃん」


よく来ていた、と言われても……何も覚えていない。

ボロボロの椅子に割れたステンドグラスが散らばり、カラフルな光を反射する。どこか幻想的な風景。

と、調子の外れたピアノの音。調律なんて何十年もされていないであろうホコリをかぶったピアノが奇怪な音楽を奏でる。


「何弾いてるの?」


「んー? ベートーベン?」


「ベートーヴェン? 全然そうは聴こえないんだけど」


「だろうね、僕にも聴こえない。調律なんてされてるわけないし。あ、でも学校のとかなら僕だって結構上手いんだよ? 小さい頃はやってたから」


僕だって、というのはやはり兄と比べているのだろう。音楽会で兄のピアノを聴いたことがある、素人の私にも分かるほどに美しく洗練され、人を魅了するものだった。


「……このわけわかんない音、好きかも」


「そう? お気に召していただけたようでなにより」


兄の完璧な演奏よりも、このメチャクチャな演奏の方が好きだ。それは、私も出来ない方だからなのかもしれない。

ふと、つま先が何かに引っかかる。取っ手のようなものだ、銀色の。そこにはホコリは溜まっていない、つい最近使われたみたいだ。


「どーしたの?」


ピアノの音が止まる、下を見つめる私を不審に思ったらしい。


「これ何かな」


「地下室かな? 開けてみようか!」


やめたほうがいい。きっといつもの私なら面白がって開けていただろう、だけど今日は、何故だか今日は、嫌な予感がした。だから彼の手を掴んで止めたのだ。


「やめようよ、何か……ここ、嫌だ」


「何かって何?」


「わかんないけど、嫌な感じがする」


「しょーがないなー、なら帰ろうか。まぁその前にここ開けてから。ねっ、いいでしょ?」


私の手を振りほどいて銀色の取っ手に手をかける。

ギィ、と体を中から冷やしていくような薄気味悪さのある音と共に、地下室への扉は簡単に開いた。当然のことながら中は真っ暗闇、流石の彼も入ることを躊躇しているらしい。だが、好奇心には勝てなかったようで扉の裏に引っ付いていた縄梯子を解き、下ろしていく。

と、その時だ。


「……そこで何してるの」


聞き覚えのある声、低くて優しい、この男と同じはずなのに全く違って聞こえる私の大好きな声。


「兄さん?」


まだ明るいのに懐中電灯を持っている、何をしに来たのだろう。


「……何してるの」


「兄さんこそ、優等生様が来ていい場所じゃないよ?」


「……何してるの」


全く同じに繰り返す。どこか無機質な雰囲気があり、わけも分からず恐怖を感じた。いつもなら見蕩れて、聞き惚れて、という具合なのに。


「ああ、そう。僕が答えるまで何も言わない気? 別に何もしてないよ、子供の頃を懐かしんでって感じ? ちょっとピアノ弾いたかな」


持っていた縄梯子を投げ捨て兄に詰め寄る。目を隠すくらいに伸びた前髪が僅かに触れ合う程に近づき、睨み合う。


「……ピアノ壊れてるだろ、地下室には」


「今から入ろうと思ってた、一緒にどう?」


「……ダメだ、入るな」


「は? 何で? 何で兄さんにそんな事言われなきゃなんないわけ?」


さらに機嫌を悪くする、いつもヘラヘラ笑っている彼の不機嫌な姿は珍しく、また見慣れないが故に不安と恐怖を煽る。


「……危ないから」


「ハハッ、兄さんは嘘がヘタだなー、尊敬するよ」


顔を離し、わざとらしい笑い声を上げて大袈裟に両手を広げた。そして唐突に笑い声が消える、鋭い目が兄を射る。


「僕が屋根の上に登ったって止めなかった、階段を二段飛ばしで降りても何も言わなかった。それで怪我したって兄さんは僕の事心配するどころか見下した。そんな兄さんが! 今更! 危ないから入るな!? ……ジョークの才能もあるんだね? 知らなかった! 流石は完璧超人様!」


まるで演劇のワンシーンのように早口でまくし立てる、兄の方はといえばそれを黙って聞いている、眉一つ動かさずに。


「……君は、物分りのいい子だ」


「何いきなり、気持ち悪いんだけど」


「……やってもいい事と悪い事は分かるだろ」


「地下室に入るのは悪い事?」


「……分かっている筈だ、どうすればいいのか」


それを聞いてか、それとも睨み合いに負けたのか、鞄を乱暴に引っ掴んで帰り支度を始めた。兄の方はといえばはゆっくりと地下室の扉を閉め、それから私の方を見た。所作の一つ一つが優雅で、私なんかと同じ生き物とは思えない。彼が私を見てくれるなんて、という喜びが溢れて飛び上がると思っていた。でも現実はただただ立ち竦むだけ、声も出せずに、目も合わせられずに。緊張が限界まで達した時、腕を掴む骨ばった大きな手。


「帰ろ」


一言だけそう吐き捨てて、兄の方を見もせずに歩き出す。掴まれた腕が痛い、いつもなら怒鳴って振りほどくのに何故か今日はそれが出来なかった。どんどん急ぎ足になって、腰ほどの高さの草が手や足の露出した部分を擦り、痛みを覚えさせる。止まっても待っても言えないまま、私の家に戻ってきた。ブロック塀の割れ目を庭に置いてあった汚れた植木鉢で隠す、兄がどうするかなど気にはしていないらしい。


「今日あった事は誰にも話さないで」


いつになく真剣な顔でそんな事を言うものだから、理由も聞けずに頷いてしまう。


「兄さんにも出来るだけ関わらないほうがいいよ、君にとっちゃ嫌な事かもしれないけどさ。ああ、それと一人で教会には行かないでね、危ないからさ」


元々兄の方とは殆ど関わりがない、姉は彼と仲良くしていたけれど。それにあんな場所に一人で行くわけもない。


「言われなくても大丈夫よ」


このくらいの口はきけるようになっていた。

少し安心したような顔で、でもまだ不安が残っているというふうに、男は自分の家に帰っていった。

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双子と双子の恋と愛 ムーン @verun

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