一日目 夜 弟

無駄に豪華な扉を開け、静まり返った玄関で大きめの声を出す。


「ただいまー」


誰も返事なんてしない事は分かりきっているが、これはもはや習慣のようなものだ。

幼い頃から返事なんてされなかったのに習慣というのもおかしい気はするが、帰宅時の常識というものだ。

二階に続く階段は毎日飽きもせずに家政婦がワックスを塗ったくり、手すりすらも信用できない滑り具合だ。ひよっとして自分を落とすためなんじゃないか、なんて妄想もしたっけ。

まぁ、僕が落ちるならともかく兄が落ちる危険だってあるんだからそんなわけはないのだが。


二階の自室……といっても兄と相部屋、無駄に広い家なのだから分けてくれたっていいのに。

扉を開けて、二段ベッドの上に鞄を放り投げた。幼い頃にワガママを言って上のベッドを勝ち取ったが、最近はハシゴの昇り降りが面倒で下にすれば良かったなんて思い始めている。

兄は部屋の隅で僕には理解出来ない小難しい本を読んでいる、弟が帰ってきたことにはなんの興味もないらしい。


「何食べてんの?」


僕も兄など無視して夕食までひと眠りしようかなと思っていたのだが、兄さんの齧っている何かが気になった。赤っぽくて硬そうな、歪で薄っぺらい何か。


「……燻製肉、ジャーキーっていうのかな」


「ふぅん? 美味しいの?」


「……あげない」


持っていた本でジャーキーを隠す、別に盗る気なんてありゃしないのに。兄との会話はこれで終わり、隣の家の双子の上の方が居なくなってからずっと閉じ篭ってて、前まで以上に話し辛い。

すると、会話は終わりだと思ったのだが今日は珍しく兄から話しかけてきた。


「……遅かったね、何かあったの?」


「あの子とお茶してた、羨ましい?」


と、これは少し無神経だったかもしれない。兄は姉の方を昔から好いている、僕から言わせればそれはそれは気味が悪い程に。

別に写真を壁中に張っているだとか、待ち伏せしてるだとか、そんな訳でもないのだが。肉親だからこそ分かる異常さ、双子ゆえの勘。とでも言っておこうか。


「……別に」


「兄さんは妹の方には興味無いもんね」


「……ああ、無いよ」


好かれていることは知っているくせに随分と酷い言い草だ、本人がいれば泣いていたかもしれない、いやきっと泣いてる。

あの子は兄のことが好きなのだ、妬ましいことに。そりゃ誰だって兄を選ぶ。顔も頭も良くて運動も出来る、性格も良い、悪いところなんて見当たらない。ざっと見た限りなら。


「酷いよね、兄さんってさ。」


「……かもね」


よくよく見れば悪いところなんていくらでも見つかる。クールだなんて言われているのは暗くて無口なだけだし、顔は僕も似たようなもの、僕の方が愛想はいいくらいだ。

そして、生まれた時からずっと隣にいた僕だけが知っている本性。普段は猫を被ってるだとか、大人の前では良い顔をするなんてものではない。

別人を疑う程の二面性を持っているのだ、今は好きな子が行方不明になったショックでその特徴は薄れているけれど。


「ね、兄さん。隣のさぁ、姉の方ってどこ行ったんだろうね? 優等生そうに見えて、実はヤバい事に手ぇ出してたりして」


「……違うよ」


「違うって……ああ、兄さんは好きだもんね。そりゃそんなこと考えたくないか。あの人僕はちょっと苦手なんだけど。あ、よくあるけど駆け落ちだったりしてね」


「……それも、違う」


「違う、ね。まぁこのド田舎で兄さん以外に良い男なんて見当たらないし。それっぽい人も知らないしねぇ。でもさ兄さん、断言しちゃうの?」


「……別に」


「兄さん口下手だからなー、先生とか親の前ならスラスラ話すくせにさ」


「……何言えば喜ぶか、分かってるから」


「ははっ、兄さんらしいね」


「……君は、何言えば喜ぶか、分からないから」


「そうなんだ? 弟なのに。じゃあ教えてあげる。兄さんに言われて喜ぶことなんてありえないよ。褒められたって兄さんの方が上なのは分かりきってるし、嫌味にしか聞こえないから。僕ひねくれてるからね、上が優秀過ぎてねぇ」


「……そう」


兄はジャーキーを一枚食べ終えると、そのままベットに寝転がった。小難しい本はベット脇に投げ出されている、栞らしきものは見当たらない。


「兄さん、夕飯は?」


「……いらないって言って」


「分かった。けど、ちゃんと食べないと母さんうるさいよ」


「……お腹いっぱい」


「ジャーキーだけは体に悪いけどね、軽めのもの持ってきてあげようか?」


「……いい」


「あ、そう? 弟の好意を無下にしちゃう? まぁいいけど」


兄がこの調子では、兄を自慢にしている母が機嫌を悪くしてしまう。そのしわ寄せは全て僕に来るというのに、そのことを知らない兄は──いや、知っていても気にしないであろう兄は、それきり反応を返さなかった。

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