未来を願う
その次の日俺は裏山へは行かなかった。なんとなく行ってももう会えないような気がしたんだ。
「パパー!町が見えるよ!」
奈々美が俺の方へ振り返り手招きする。
生い茂る緑で遮られていた日の光が一斉に俺を照らした。道が開けたそこにはあの日と同じように一つのベンチがあった。雨風にさらされ黒ずんだそれは、あの時から随分と時間が経ったことを表しているようだった。
しかし春樹と奈々美が並んで見下ろす町は、あの日の町の面影をしっかりと残していた。
「ひいおじいちゃんの家見える?」
「んー、ここからじゃ見えないなあ」
「パパ!あれ!学校?」
春樹が小さな手で西の方角を指差した。その姿はあの日のかずくんと重なって、おれは慌てて息子が指差す方を見た。壁を塗り替えたのだろうか。雰囲気は少し変わっていたが、それは間違いなくかずくんが指差した小学校だった。でもあの小学校は最初からあったわけではない。戦後に建てられたものだ。なぜなら俺はあの日爆弾が直撃し、燃え上がった校舎を見たからだ。この町の過去の記憶を、何もかも奪われたあの日を俺はあの暑い夏の日に見たんだ。
目を瞑れば木々の揺れる音がサワサワと聞こえてきた。遠くでセミが鳴いている。
『伝えてやってくれ』
かずくんの声が聞こえた気がした。
「春樹、奈々美。ひいおじいちゃんに戦争の話を聞かせてもらおうか」
風が吹き上げる。落ちていた緑の葉が舞い上がる。ザワザワと音を鳴らし、騒がしい夏の風は娘の麦わら帽子をさらった。
俺はあの頃より大きくなった手を伸ばし赤いリボンのついたそれを捕まえた。
あの日風にさらわれた俺の大きな麦わら帽子は、いったいどこへ行ったのだろうか。
「大助や。今日は裏山へは行かんのか?」
ばーちゃんは桃を剥きながら僕に声をかけた。
「うん。今日は行かない。」
「そうかい。」
桃の甘い香りが部屋を流れる。
今日は昨日と打って変わって朝から灰色の雲が空を覆っていた。昼過ぎだというのに部屋の中が薄暗い。
「そのかわり今日は戦争のことについて教えて欲しいんだ!」
ばーちゃんの桃を向く手がピタリと止まった。そして僕の方へ顔を向けた。
「大助はそんな難しい言葉を知っとるんか?」
「うん!だから教えて欲しいんだ!」
ばーちゃんはそうかそうかと頷きながら手を動かし始めた。
ジメジメと暑い部屋の中で一台の扇風機が一生懸命首を振っていた。僕の首筋に汗が流れる。
「ほら、剥けたよ。縁側で食べよかね」
水々しい桃がお皿の上に盛られていた。
「じーさんや、大助が戦争について知りたいんやと」
じーちゃんが読んでいた新聞から顔を上げた。
「随分難しいことを知りたがるんやな」
じーちゃんはばーちゃんと似たようなことを言った。
読んでいた新聞を畳み、かけていた眼鏡を外した。じーちゃんは腕を伸ばして桃を一切れ口に入れる。
僕も一つ、口へ運んだ。よく冷えたそれは口を潤し、喉を滑るようにしてお腹の中へと消えていった。
「戦争というのはとてもとても、恐ろしいものだったよ。」
じーちゃんが見つめる空には灰色の雲が分厚くかかっていて、やっぱり青空はどこにも見当たらなかった。
「家族を奪い、家を奪い、簡単に命を奪っていった。昨日言葉を交わした友人も、昨日すれ違った近所の人も一人、また一人消えていった。悔しくて悔しくて、ワシは無力な自分を恥じた。」
じーちゃんは自分の手のひらを広げ、じーっと見つめた。
「いつか自分も戦争に行って戦うしか無いと思ったんだ。」
いつもはうるさいセミの声も、その日はやけに静かだった。
「でもな、国から知らされたのは敗戦の一報だった。」
「はいせん?」
「戦争に負けたってことだよ。一九四五年八月十五日に日本は戦争に負けたんだ。」
じーちゃんはふう、と息を吐き、桃を一切れ口に含んだ。
「じーちゃんの父さんと、兄さんは戦争に行ったんだ。でもな結局帰ってくることはなかった。」
深く深く、重たい息が吐き出された。
「父さんと兄さんは国のために戦争へ行ったのに、国のために戦ったのに…、どうして負けたんだと悔しくて仕方なかった。父さんと兄さんは何のために死んだんだって叫んでやりたかった。」
じーちゃんは広げた手のひらをぎゅっと握った。
「でもそんなこと言えなくてなあ、ワシはただ『あああーーーーー!』って裏山から叫んだんだ。」
僕はじーちゃんの声に驚いてひっくり返りそうになった。
そんな僕を見てじーちゃんはハッハッハッと笑った。
「あの山は昔からずっとあそこにある。だからずっとワシらを見ているんだ。」
僕がかずくんと出会ったあの山へ、じーちゃんも行ったことがあったんだ。
「戦争前の平和な日々も荒れ果てた戦時中も、その後復興の日々も全部全部あの山は見てるんだ。」
ザワザワと木々が揺れる音が聞こえてきそうだ。
「どう思ったやろうなあ。戦争に全てを捧げたワシらを愚かだと思ったやろうか。無惨に負けたワシらを情けないと思ったやろうか。」
じーちゃんは自分の手と手を重ね合わせた。きゅっとそれを握り、僕の方を見た。
「大助。ワシがお前に教えられることは一つだ。戦争が正しかったのか間違ってたのか、ワシは今でもそれはわからん。だが、命を粗末にしてはいかん。」
その時のじーちゃんの目が印象的だった。キリッとした目は真剣さを表し、僕をまっすぐと見つめた。
「大助が死んだら悲しむ人がいる。大助の父ちゃんや母ちゃん、じーちゃんもばーちゃんだって悲しい。家族を悲しませたらいかん。」
ばーちゃんがせっかく切ってくれた桃はすっかり冷気が抜け、変色し始めていた。
「命に代えてまでやらなければいけないことなんてない。命より大事なものなんてないんだ…。」
灰色がかった雲が流れる。雲の切れ間から光が差し込み、乾いた地面を照らした。少しずつ夏の青い空が顔を覗かせた。
じーちゃんはその空をじっと見つめていた。
「ひいおじいちゃん!戦争について教えて!」
春樹の声が縁側に響いた。
あの日のようにじーちゃんは読んでいた新聞から顔を上げた。
「大助と同じことを言うんやな」
小さく笑って、かけていた眼鏡を外した。
あの頃よりシワの増えた目元。硬くなった手のひら。細くなった体。曲がった背中。その姿がやけに目についた。
春樹と奈々美がじーちゃんの両脇に三角座りをした。
俺は三人の少し後ろで腰を下ろした。
「昔はなあ、貧しかった。戦争中はな『贅沢は敵だ』と言われ、ご飯もお腹いっぱいに食べられなかったんだよ。こんな風に縁側でくつろぐこともなかったなあ」
じーちゃんは庭で花に水をやる自分の娘、つまり俺の母親に目をやった。その姿をかつてここでよく花に水をあげていた亡き妻と重ねているのだろうか。
祖母は一年前病でこの世を去った。楽しそうに花に水をやる姿も、台所で家事をこなす姿も、もう二度と見ることはない。
「戦争は残酷で、一瞬のうちにたくさんのものを奪っていく。家も家族も友人も。」
沈みかけた夕日が縁側をオレンジ色に染めている。庭に植えられた松の木が、長い影を作っていた。
「でもなあ戦争を始めたのも人間で、大事なものをたくさん奪ったのも人間なんだ。人は簡単に過ちを犯す。簡単に人は間違える」
子供たちはじーちゃんの話を今までに見たことないくらい真剣な顔で聞いていた。 自分の子供が戦争の話を聞いている。
「ワシは若かった頃、戦争が正しかったのか間違ってたのかわからなかった。その答えをこの歳になっても見つけられないでいる」
あの夏の日、じーちゃんは『わからない』と言った。その代わり俺に『命を粗末にするな』と教えてくれた。俺からじーちゃんの顔は見えないが、きっとあの日のようにキリッとした目をしているのだろう。
じーちゃんが背筋を伸ばした。
「でも二度と戦争をしてはいかん。それははっきりと言える」
あの頃より痩せて小さくなったはずの背中が、あの頃となんら変わりない大きな大きな背中に見えた。
「ワシはあれから妻と結婚し、家庭をもった。子供が生まれて、やがてその子供も結婚した。そして今度は孫までできた。それが今ではひ孫までいる。こんなに幸せなことはない」
日に焼けたたくましい腕で春樹と奈々美を抱き寄せた。
「この幸せは誰にでも味わう権利がある。それを誰かが奪っていいはずがない。そしてなにより自分の大切な人にあんなに苦しい思いをさせたくない。ワシと同じ思いをお前さん達にしてほしくないんだ」
『奪い、奪われた』
かずくんの言葉を思い出した。
「じーちゃんは何を取られちゃったの?」
奈々美が小さな声で聞いた。
じーちゃんが奈々美の頭を優しく撫でた。
「家と、お父さんとお兄ちゃんだな」
とうの昔にお兄さんの歳を追い越し、きっと父親の歳さえも追い抜いてしまったのだろう。命を奪うということは、その人の未来を奪うということなのだ。
「奈々美、お兄ちゃんのこと好きか?」
「好き!いじわるだけど好きだよ!」
奈々美はすぐさま答えた。好きだと言われた春樹は照れ臭そうに頭をかいた。
「だったら、絶対手放したら駄目だよ。二人で一緒に大人になるんだ」
じーちゃんは自分の兄と一緒に大人になることはできなかった。もし戦争がなかったらじーちゃんの兄は今ここにいたのだろうか。でもそうしたら俺は、俺たちはここに生まれていなかったかもしれない。じーちゃんはばーちゃんと出会わなかったかもしれない。それだけ戦争は人の人生を左右してきたんだ。
俺は戦争が正しかったとは思わない。しかし戦争を経験した人がいるから、今こうして心から平和を願う人がいる。戦争の恐ろしさと、平和の難しさを知っている人がいる。俺がかずくんから教わったように、子供達もまた戦争を知っていく。こうやって人は次の世代、また次の世代へと過去の過ちを伝えていく。
今年日本は戦後七十二年を迎えた。七十二年もの月日は日本を復興させると同時に、その戦争の爪痕を少しずつ、少しずつ消し去っていく。俺は怖いのだ。戦争などなかったかのような町並みが。減っていく戦争に関する報道も、戦争経験者がいなくなる近い未来も、怖いのだ。もしかしたら自分の子供が大きくなった時、戦争が起きてしまうのではないかと恐怖する。子供の未来が平和である保障はどこにもないのだ。それだけ俺たちは不安定な世界を生きている。
『決して忘れてはいけない』
あの日かずくんが言ったように、俺たちは忘れてはいけない。戦争で人を傷つけ、戦争で人に傷つけられた日々があったことを。俺たちは決して被害者ではない。奪われた分だけ奪ってしまった事実をなかったことにしてはいけない。日本は被害者であり、加害者である。当時自分たちが生まれてなかったとしても、それは過去の事実である。戦争は始めたほうも、参加したほうも悪なのだ。それを心において、俺たちは生きていかなければならない。平和を願うなら、子供たちの平和な未来を願うなら。
「大助」
庭で水やりをしていた母はいつの間にか俺の隣までやってきていた。
俺はびっくりして声が裏返ってしまった。
「これあんたのやろ」
すっと差し出されたそれは少し埃を被っているようだった。
「え、これ…」
それはところどころほつれていて、少し形が崩れてしまっている。
「ああ、それなあ。懐かしいなあ。」
じーちゃんがこちらを振り返ってそう言った。春樹も奈々美も母が差し出すそれを見た。
「あ!麦わら帽子だ!」
それはあの夏ばーちゃんにもらった大きな大きな麦わら帽子だった。しかしあの頃よりひと回り以上大きくなった俺には小さくなったように見える。
でもこれはあの暑い日に、かずくんとあった最後の日に風に飛ばされてしまったはずだ。
「大助が地元に帰った次の日になあ、家のポストの上に置いてあったんや」
思い出した思い出したと言いながら、じーちゃんは立ち上がった。
「これはなあ元々兄が使ってたのをワシがもらったんじゃ」
じーちゃんは麦わら帽子を手に取り、ほつれたところを指でなぞった。
「たしかこなへんに…、ほれあった。ここに名前が書いたるやろ。もうすっかり消えかかってしまっているがなあ」
爪が短く切られた指が、麦わら帽子の内側を指差した。
長年の月日で汚れ、滲んでしまったその字はほとんど読めなかった。かろうじて読めたのは『和』という字だけ。
俺は自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。震える手で麦わら帽子を受け取った。
「じーちゃん…、お兄さんの名前って……」
なぜだか鼻の奥がつーんとした。埃を被った麦わら帽子のせいか、それとも……
「和義じゃよ。原田和義」
聞こえるはずがないのに、あの裏山の木々がザワザワと揺れる音が聞こえた気がした。セミの声が聞こえる。緑の匂いが広がる。木々の間をすり抜けて、風が俺を包み込む。
『和義。原田和義だ』
ああ、そうか。だからかずくんはあの日俺の麦わら帽子を見て『懐かしい』と言ったんだね。かつて自分が被り、弟にあげた麦わら帽子を懐かしいと思ったんだね。
「大助?」
母が不思議そうに俺の名前を呼ぶ。
「いや、なんでもない」
俺は小さく笑って答えた。
「パパー!お外行こうよー!」
子供達が麦わら帽子を被って俺の服を引っ張った。
「ああ、行こうか」
俺は手に持っていた麦わら帽子を被った。あの頃はまだ大きかったそれは、すっかり俺の頭に丁度良くなっていた。
玄関を出れば生温い風が家の中に入ってくる。カラカラと音を立てて閉まった戸の横には一枚の木の札がかけられていた。少し薄汚れたそれにはしっかりと『原田』と彫られていた。
あの夏の出来事をじーちゃんに話すつもりはない。じーちゃんの中でお兄さんのことはしっかりと整理がついているだろう。俺がかずくんの話をする必要はない。
いつかあの暑い日の不思議な体験を誰かに話す日が来るのだろうか。来たとしてもそれはきっと、もっとずっと先のことだろう。まだしばらくは俺とかずくんの二人だけの思い出にしておきたい。
俺はかずくんと過ごしたあの日々を決して忘れないだろう。そして同時に願うのだ。
誰かに話すその時まで、そしてその先も。あの恐ろしい戦火がまた燃えることがないように。平和の二文字が似合う世界になる事を。
麦わら帽子を落としたら 白福あずき @15daifuku
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