過去を生きた少年

夏休みに祖父の家を訪れてから五日ほどだっただろうか。二日前、山で迷子になったところを後に原田和義と名乗る少年に助けられた。そして昨日、『また明日』といって山の麓で別れた。

八月に入ったばかりの今日も太陽は高く登り、ジリジリと家を、屋根を、畑を、地面を照りつけていた。そんな太陽を水に濡れた花がきらきらと反射していた。僕とばーちゃんが水をやった花達はどこか涼しげだった。

「いってきまーす!」

僕は靴を履いて、玄関から叫ぶように言った。

「気をつけてな」

ばーちゃんが台所から顔を覗かせた。昼食の後片付けをしているようだ。

玄関の戸を開ければカラカラ…と音を立て、暖かい風が入り込んできた。外へと足を踏み出せば、太陽は容赦なく僕を照りつけた。大きな麦わら帽子が僕の顔に影を作り出す。後ろ手で戸を閉め、僕は走り出した。

暑い暑い、暑い……。

今日、僕の首にはばーちゃんが用意してくれた水筒が下げられていた。まだ溶けきらない氷がカランカランッ、と転がる音がする。

じーちゃんの畑を通り過ぎ、僕は昨日と同じように裏山へ来ていた。やはり山の中は幾分か日の光が遮られ、少し涼しかった。サワサワと緑が揺れる音がする。セミが鳴く声がする。鳥が鳴く声が聞こえる。それらは混ざりあって森のどこかへ吸い込まれていく。

でこぼことした道を踏ん張って歩けばやがて日の光が強くなってきた。ああ、道が開ける。

そこには昨日座ったベンチが変わらずそこに存在していた。ここは山の中間地点なのだろうか。休憩用のベンチの前には昨日となんら変わりない町が、今日も視界いっぱいに広がっていた。木の柵に手をついて身を乗り出した。

「あっついなあ…!」

その言葉を口にすれば、また一段と暑く感じた。

「たしかに今日は特に暑いなあ。」

僕は勢いよく振り返った。昨日僕が座っていたベンチに腰掛ける姿があった。

「昨日ぶりだな、大助!」

かずくんはいつものように白い歯を見せて、ニカッと笑った。

「かずくん!こんにちは!」

「こんにちは。」

かずくんはベンチから腰を上げ、僕の隣まで歩いてきた。

太陽が僕らを見つめる。ジリジリ、ジリジリと。こんな日は冷たいプールにでも入りたい気分だ。昨日かずくんが指差した学校の近くにプールが見えた。水泳帽子をかぶった少年少女がバシャバシャと水しぶきを立てているように見える。きゃっきゃっ、という楽しそうな声が聞こえてきそうだ。

「僕ね!十五メートル泳げるんだ!」

「そうかそうか!すごいな!」

「かずくんは何メートル泳げるの?」

かずくんはしばらくうーんと顎に手を当てて考えていた。

「いや、わからないな。」

僕が頭を傾げるとかずくんは続けた。

「そもそも測ったことがない。俺たちの学生時代は戦争一色だったからな。」

『戦争』

かずくんは確かにそう口にした。

「戦争?」

「ああ。簡単に言えば武器を持って戦うんだ。」

その言葉はあまり僕の耳に慣れない言葉だった。

「それじゃあ約束通り今日は俺の話をしようか。」

夏にふさわしくないひんやりとした風が僕らを包み込んだ。

「俺が大助と同じくらいの頃は、きっと大助と同じような生活だったよ。文明の進化は違うが、家族が一つの家で同じ食卓を囲む。そんな生活だった。しかしそれは少しずつ変化していった。」

かずくんは空を見上げた。雲ひとつない青空がずっとずっと向こうまで続いている。

「最初日本は戦争に勝っていたんだ。それが正しいことのように俺たちは盛り上がった。勝った!また日本が勝ったぞ!って…。でも勝ち続けられるわけがなかったんだ。」

「え?」

「大東亜戦争、後に第二次世界大戦と呼ばれることになるが、その戦争で日本は負けたんだ。」

かずくんはスッと目を閉じた。昔の記憶を辿るように、そっと口を開いた。

「第一次世界大戦で日本は勝利を収めた。しかしその時点で多くの死者をだした。それにもかかわらず戦争が正しい事のように、勝つ事が全てであるかのように時代は進んでいった。」


一九三九年第二次世界大戦開戦


「何人もの戦闘員が命を落とし、やがて戦闘員の数が足りなくなったんだ。大助、明日お父さんが戦争に行くことになったらどうする?」

かずくんは真っ直ぐと僕の目を見た。

「い、嫌だ!お父さんと離れ離れになりたくない!!」

「そうだよな…」

そう言って僕の頭を優しく撫でた。その手はひんやりと冷たかった。

「でもそれを言うことさえ許されなかったんだ。いや、召集されることの本当の意味を俺は分かっていなかったんだ。」

日中戦争後、一九四一年に国民学校令によって国民学校が設立された。国民の基礎的錬成を為すことが目的とされ、国家主義の色が濃厚となった。当時『お国のため』、『天皇のため』に身を捧げることが求められた。そして戦争は正しいことだと教えられ、『戦争に行きたくない』『戦争は間違っている』という類のことは言ってはいけなかった。

「それはもう洗脳と言っても過言ではない。国は子供達に戦争は正しいと教え込んだんだ。当時の俺も早くお国のために戦争に行きたかった。行くべきだと思っていたんだ。」

かずくんは自分の手をぐっと握った。その手は力を込めすぎて震えていた。

「俺の親父に赤紙がきたんだ。」

「赤紙?」

「召集令状ともいって、簡単に言えば『戦争に行け』というものだ。その紙が赤色だったから赤紙と呼ばれたんだ。それがきた時、家族で『おめでとう』と言って、親父は『ありがとう』と言って受け取ったよ。そして笑顔で見送りをしたんだ。」

僕は自分の喉が震えるような感覚を覚えた。たった紙切れ一枚で家族を奪われるのかという恐怖。それが昔は当然のことで、笑って見送るという事実。それは僕には、今の時代からは考えられなくて、それが余計に恐怖を増幅させた。

「それから親父は帰ってこなかった。」

僕の手が小さく震えた。

かずくんは眉間に皺をよせ、泣きそうな顔をした。

「それでも俺は戦争に行くことが立派な事だと思っていた。だから戦争に行って命を落とした親父を俺は誇りにさえ思ったんだ。」

その口ぶりは、まるで後悔しているようだった。かずくんは顔を上げ、目の前に広がる小さな町をまっすぐと見つめた。

「俺はこの町で育ったんだ。そして戦争に行くためにこの町を出た。親父の時と同じように『バンザーイ!』って見送られてな。弟は俺を尊敬するような眼差しで見つめてきたんだ。でもな、お袋がどこか悲しげな顔をしていたのが今でも忘れられないんだ。お袋は最後に俺の手を強く、強く握って俺を送り出した。」

自分の手を撫でるように重ね合わせた。

「でも俺が家に帰ることはなかったよ。」

風が僕たちを攫うように吹き上げた。地面に落ちていた葉が勢いよく舞い上がる。僕の大きな麦わら帽子もその風に攫われていった。

「俺は出向いた戦地で銃で撃たれて死んだんだ。」

かずくんは僕の腕を取り、僕の手を自分の胸にそっと当てた。その胸はピクリとも動かなかった。僕はかずくんに掴まれていない方の手で自分の胸に手を当てた。ドクッドクッ…といつもより少し早く、でもしっかりと動いていた。

「俺はここを撃たれて死んだんだ。」

そう言って、僕の手をゆっくりと離した。

僕は何も言えなかった。そんな僕を見てかずくんは困ったように小さく笑った。

「ごめんな大助。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。ただ、過去の『過ち』を誰かに伝えておきたかったんだ。」

「あやまち?」

「ああ。戦争は過ちだ。間違っていた。あんな残酷なこと人が人にしてはいけない。」

「ざんこくな…こと?」

僕は聞きなれない言葉を恐る恐る口にした。

「戦争に行った人が死ぬだけじゃない。残された家族だって死んでしまうんだ。」

その途端、さっきまで雲ひとつなかった空に雲がかかり始めた。

ウゥゥーーー!ウゥゥーーー!

聞いたこともない大きなサイレンの音が鳴り響いた。そして遠くからゴォオ…と低い音まで聞こえてきた。僕は思わず耳を塞いだ。塞いでもエンジン音のようなそれはだんだんと近づいてくる。そしてその音の正体がついに姿を現した。大きな大きなそれは僕の数十メートル上を飛び、大きな影を作っていた。

「ひ、飛行機…?」

一つ、二つ、三つ…。次々と大きな鉄の塊が雲の中から姿を現した。

「あれはB-29だ。あの機体にたくさんの爆弾を積んでいる。」

「ば、爆弾!?」

やがて大きな影は僕の上を通り過ぎ、町の上を飛んで行く。その機体の大きさに僕は圧倒され、いつの間にか耳を塞いでいた手を離していた。

その次の瞬間、あの大きな飛行機から何かが落とされた。それはひゅるひゅるひゅると町めがけて落ちていく。


ドッカーン!ドッカーン!


鼓膜が破れそうになるほど大きな音が町を包んでいく。さっきまでそこにあった小学校に爆弾が直撃した。


ドッカーン!


その光景に思わず目を瞑った。そっと目を開けた瞬間、もうそこには何も残っていなかった。赤黒い炎が燃え上がり、ゴォオオッ、と音を立てていた。さっきまでそこにあった小学校も民家も、次々と破壊されていく。次々と炎に包まれていく。まさに火の海だった。人々の悲鳴はかき消され、防空頭巾を被った人たちが逃げ回っている。


『はやくっ!』

『おかあさーん!!』

『助けて!誰か!!』

『はやく逃げなさい!』

『まってぇ!!』


こんなに切羽詰まった人の声を、僕は聞いたことがない。

は、はやく逃げなきゃ…っ!

でも足が動かない。膝が震えて、立てていることがが不思議なくらい足に力が入らない。手が小刻みに震えている。

動けない。動かない。動けない。

僕はただただ、目の前で壊れていく町を見ているしかできなかった。

空が赤く染まっていく。雲が黒く濁っていく。その下に広がる町はすっかりと形を変えていた。

途端、視界が真っ暗になった。ひんやりとした何かに僕の視界は遮られた。その正体はかずくんの手のひらだった。その手がゆっくり、離される。目が光を取り入れる。その眩しさに一度目を細め、そして驚いて目を見開いた。

「…え?」

そこに広がっていたのは雲ひとつない青空。その下に広がるいつもの町。大きな飛行機も、町を呑み込む炎も、真っ赤な空もそこには何一つなかった。

「今のはこの町の過去の記憶だ。町が大助に戦争の時の記憶を見せたんだ。」

「過去の…、記憶…」

「この町は一度燃えてるんだ。」

今僕の目の前に広がる町からは想像もできない。人々が悲鳴を上げ、逃げ回る光景など考えられない。

「みんな死んじゃったの?」

「みんなじゃないさ。でも助かったとしても怪我をしたり、家族を失った人もいる。生き残ったとしても、やりきれない気持ちになった人もいるんじゃないかな。」

さっきの光景が頭から離れない。助けを求める声が耳の奥で響いてる。

「この町もすっかり姿を変えたな。建物はもちろん、住む人も変わっていった。」

「戦争は…、たくさん人を殺したの?」

僕の口から出た声は思ったより小さく、震えていた。

「そうだよ。たくさんの人が命を落とし、涙を流した。」

「誰が…、悪いの?」

「そうだな…」

かずくんは顎に手を当てて考え込んだ。やがて口を開いた。

「みんなだな。」

「みんな!?どうして?かずくんも悪いの?」

「ああ、俺も悪いさ。」

「なんで?かずくん戦争のせいで死んじゃったのに!!」

かずくんのひんやりとした手が、僕の手を握った。

「それは俺も戦争に参加したからだよ。」

かずくんを捲し立てて上がった息を整えさせるように、優しく僕の手を撫でる。

「戦争は国と国の戦い。つまり日本は他の国と戦ったんだ。」

「だったらその国の人が悪いじゃん!」

「それは違うよ大助。俺たち日本人が殺された分、俺たちは相手国の人達を殺したんだ。」

ああ、かずくんが難しいことを言っている。

「たとえ俺が直接命を奪ったわけではなくても、日本軍は相手国の人を殺してる。だからそれは日本人である俺の罪でもあるんだ。」

「つみ?」

「そうだな、ここでは『決して忘れてはいけないこと』としようか。」

決して忘れてはいけないこと。僕はその言葉を追いかけるように呟いた。

「忘れてはいけないこと?」

「俺たちはたくさんの人を殺し、たくさんの人を殺された。戦争なんて始めた方も、それに参加したほうも悪なんだ。奪い、奪われた日々はとても苦しいものだった。それは相手も同じさ。」


『奪い、奪われた』


誰かを殺せば、その人を失う家族がいる。家族を失えば悲しみ、憎む人がいる。そしてまた家族を奪い、奪われる。

悲しみは憎しみに変わり、憎しみは憎しみを生む。負の連鎖がそこにはある。

「だから同じ過ちを繰り返さないためにも、俺たちはその罪を決して忘れてはいけないんだ。」

そう言ったかずくんの横顔は凛々しく、たくましかった。

「大助は家族が大事か?」

「当たり前だよ!お父さんもお母さんも、じーちゃんもばーちゃんも大事だ!」

「そうかそうか。」

かずくんは嬉しそうに僕の頭を撫でた。

「自分が奪われたくないものを人から奪ってはいけないよ。それはいずれ取り返しのつかないことになる。」

冷たい手が優しく、優しく僕の頭の形をなぞった。

「かずくんの家族は…死んじゃったの?」

僕は恐る恐るかずくんに尋ねた。

「いや、俺の家族は無事だったみたいだ。ただ心の傷が深かった。」

「心の傷…?」

「戦争で俺も親父も命を落とした。他にも親戚や友人も命を落とした。生き残った人はその事実にきっと心を痛めたんだ。」

もし僕が家族を失ったら、どう思うのだろうか。悲しくて悲しくて、泣きわめくだろう。その気持ちをどこへぶつけるのだろう。家族を奪った奴を、僕は憎むだろうか。恨むだろうか。きっと、今の僕では実際に家族を失った時のことなんか想像できやしない。

もし家族が僕を失ったら、どう思うのだろうか。きっとお父さんもお母さんも涙を流してくれるだろう。その次は?お母さんは僕を奪った奴を許せるだろうか?お父さんは僕を奪った奴を殺してしまうだろうか?…僕は、お父さん達に人を傷つけるようなことはして欲しくない。笑ってほしい。僕はみんなの笑顔が好きだから、ずっと笑っていてほしい。

「一時の感情で動いてはいけないよ。生きていれば悲しいことも苦しいこともあるだろう。でも誰かを傷つければ悲しむ人がいる。誰かを傷つければ恨む人がいる。人の感情は変わりやすく、暴走しやすい。だからよく考えて行動しなければいけないんだ。」

そうか。戦争は人々を悲しみの渦へと飲み込んだのか。もがき苦しみ、悲しみはやがて憎悪へと姿を変え、人を傷つけた。感情の赴くままに人々が行動した結果とも言えるのだろうか。

「俺は目が覚めた時、この山にいた。昔、ここでよく弟と遊んだんだ。最初俺は生きて帰ってこれたのだと思ったよ。」

風が山を揺らす。木がザワザワと音を立てる。

「でも俺の姿は誰にも見えず、俺の声は誰にも届かなかった。あの日撃たれたはずの胸には傷跡一つなかった。だから俺は死んだんだと理解したよ。」

「どうして僕には見えたの?」

「どうしてだろうな。あの麦わら帽子を見た時、なぜだか懐かしくなったんだ。」

かずくんはニカっと白い歯を見せて笑った。その笑顔を見るのは久しぶりなことのように感じた。

「だから試しに声をかけてみたら、本当に俺の姿が見えたみたいでびっくりしたよ。」

ガシガシとかずくんは自分の頭をかいた。

「大助。俺はな、怖いんだ。」

「怖い?」

「ああ。あの恐ろしい日々を、いつか人は忘れてしまうんじゃないかって…。」

あの恐ろしい日々とはかずくんが生きた日々のことだろう。

「あの日の罪を、過ちを、俺たちは忘れてはいけない。日本という国も、他の国も、みんなみんな忘れてはいけないんだ。」

空高く登っていた太陽は、いつの間にか沈む準備を始めていた。眩しい西日が、かずくんの日に焼けた肌を照らした。

「いずれ戦争を経験した者はいなくなる。人は必ず死んでしまうからな。だから伝えていかなければならない。その時代を経験した人が次の時代を生きる若者に。そうでないときっと人は、同じ過ちを犯すよ。」

「だからかずくんは僕に戦争の話をしたの?」

「きっと大助は家族を大事にする子だと思ったからな。」

僕の髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜた。その頭にあの麦わら帽子はもういない。

「だからな大助。大助も自分の子供に伝えてやってくれ。」

かずくんは目尻を下げ悲しげに笑った。

「戦争は決してやってはいけないと。命より大切なものはないと。」

眩しい夕日が僕たちの影を長く、長く映し出した。

僕は大きく息を吸った。

「もちろん!僕、今日のこと絶対忘れない!将来僕にも子供ができたら伝えるよ!今日のことも、戦争のことも!」

かずくんは満足そうにうなづいた。その細めた目にはキラリと光るものがあった。僕はそれを綺麗だと思ったんだ。

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