今を生きる僕ら

「おじーさん!大助ー!お昼にしようかねー!」

ばーちゃんの声が台所から聞こえた。声のする方へ小走りで向かう。

「そうめんだ!」

器に盛られた白いそうめんを見るだけで涼しく感じた。めんつゆの中で氷がカランッと音を立てた。

少し遅れてやってきたじーちゃんがばーちゃんの前の席に座った。僕はばーちゃんの隣に座って、三人でテーブルを囲む。

「いただきます」

じーちゃんに続いて、僕とばーちゃんも手を合わせた。

「「いただきます」」

じーちゃん達より少し短い箸を持って、僕はそうめんを食べ始めた。

しばらくの間沈黙が続き、そうめんを啜るズズッという音だけが部屋に響いていた。そんな沈黙を破ったのはじーちゃんだった。

「大助、今日は何するんじゃ?」

僕は口の中のそうめんを必死に噛んで飲み込んだ。

「裏山にいく!昨日のお兄さんにお礼言うんだ!」

僕は昨日夕食の時に、ばーちゃんにも裏山で会った少年の話をした。

「そうかそうか。また迷子にならんようにね」

「ならないよ!」

僕は子ども扱いされた気がして、少し悔しくなった。

二人はハハハッと楽しそうに笑った。



「暗くなる前に帰ってくるんやで!」

ばーちゃんは僕の頭に昨日の麦わら帽子をかぶせた。

カラカラ…、と玄関の扉が音を立てた。

「いってきます!」

ジリジリと太陽が照りつける中、僕は虫取り網片手に走り出した。今日も元気にセミが鳴いている。



足のつま先に小石が当たった。コロコロ、と転がって塀に当たって動きを止めたそれを、今度は僕の意思で蹴り上げた。形が歪なそれは真っ直ぐ進まず、他の石にぶつかって飛び跳ねた。それを横目に僕はまた走り出した。裏山はもう目の前まで迫っている。

緑の葉をたくさん身に纏った木々はザワザワと音を立てていた。その度に地面に映った影はゆらゆらと動いていた。僕は裏山へと足を踏み入れる。

木によって影ができた山中は外よりも涼しくて快適だった。ザワザワと聞こえていた木々の揺れる音はサワサワと、涼しげな音色へと姿を変えていた。僕はじーちゃんの教えの通り、しっかりと道の上を歩いていた。

「おーい!お兄さーん!いないのー?」

僕は十分ほど歩いたあたりで声を張り上げた。昨日の少年が今日もここに来ているとは限らない。しかし僕はなんとなく、彼は今日もここに来ていると思ったのだ。

僕の期待とは裏腹に、返ってくるのはセミの鳴き声と草木が擦れる音だけだった。

ミーンミンミンミーン……

セミの声がやけに近くに感じた。

歩き始めてどれくらい経っただろうか。細かった道は開け、目の前には生い茂る木々ではなく見慣れぬ町が姿を現した。落ちないように木の柵が設けられたそこは、町が一望できるようになっていた。山の中間辺りまで来たのだろうか。僕は体を休めるため、近くのベンチに腰かける。

太陽が容赦なく僕を見つめて、森へと抜ける生暖かい風が僕の麦わら帽子をさらった。

「あっ!」

慌てて振り返れば、昨日と同じ光景が広がった。すっかり日に焼けてしまった黒い手が麦わら帽子を拾い上げる。ポンポンと土埃を払い、それを僕へと差し出した。

「やあ、坊や。また来たのか?」

僕は差し出されたそれを受け取って、少年の目を見た。

「うん!昨日のお礼を言いに来たんだ!」

少年は少し驚いた顔をして、やがて笑った。

「そうかそうか。迷子にならなくてよかった。」

「な、ならないよ!」

ばーちゃんと同じことを言う少年に思わずムキになった。

そんな僕に少年はカッカッカッと白い歯を見せて笑った。少年の目尻が少し下がる。

「昨日は山の麓まで案内してくれてありがとう!」

「どういたしまして」

ポンっと大きな手が僕の頭を撫でた。麦わら帽子が目にかかる。僕は麦わら帽子のつばを持ち上げた。

「僕は瀬川大助!お兄さんは?」

僕らの間を風が吹き抜け、サワサワと葉っぱが音を立てる。やがて風が通り過ぎ、静けさが訪れたとき少年は口を開いた。

「和義(かずよし)。原田和義だ。」

今度はさっきよりも強い風が吹き抜けた。僕は麦わら帽子が飛んでいかないよう、手で抑えた。

「じゃあ、かずくんだ!」

「かずくん?」

「あだ名だよ!カズヨシくんよりかずくんのほうが言いやすいでしよ?」

そんな僕の提案に少年改め、かずくんは可笑しそうに笑った。

「かずくん何歳なの?」

僕の何気ない質問にかずくんは困った顔をした。

「あー…、一応十九歳なんだ。」

その曖昧な答えに僕の頭にははてなマークがたくさん浮かんだ。そんな僕の顔をみてかずくんは言葉を続けた。


「俺は長い間十九歳のままなんだ。」


木々が、森が、山が、ザワザワと音を立てた。セミの声はいつの間にか止んでいた。

頭がついていかない僕にかずくんは小さく笑った。

「いつかわかるよ。俺の話より、大助の話を聞かせてくれ」

ザワザワと騒がしかった森が静けさを取り戻し始める。遠くで鳥が鳴いている。

「うん!何から話そうかな!」

僕は先ほどかずくんの言葉に疑問を覚えたことをすっかり忘れ、何から話そうか考えを巡らせていた。

「僕ね、隣の県から来たんだ!夏休みだからじーちゃんとばーちゃんの家に!」

うんうんと、かずくんが頷いた。

「いつもはね学校の友達と遊んだり、テレビゲームしたりするんだ!みんなでお菓子を食べたりもするよ!でもじーちゃん家に来た時は虫取りするんだ!」

「テレビゲーム…?」

かずくんが不思議そうに口にした。

「ゲームやったことないの?ぼくもね最近やっと買ってもらえたんだ!すっごく面白いよ!」

「そうか。時代は進んでるんだな。」

かずくんは寂しそうに目を細め、町のほうを見た。そして一つの建物を指差した。

「あの大きな建物、見えるか?あれがこの町の学校らしい。」

らしい、その言葉にかずくんはあの建物へ行ったことがないのだと僕は考えた。

「今学校では何を学ぶんだ?」

かずくんは町の方から僕へと顔を向けた。僕は先ほどかずくんが指差した学校を見た。

「えっとねぇ、国語と算数!絵書いたりもするよ!でも僕は体育が一番好きだなあ!」

「体育か。」

「うん!競走したり、マット運動したり!僕はサッカーが好きなんだ!」

「そうか、俺の知ってる体育とは少し違うようだ。」

そう言ってかずくんはまた学校のある方を見た。寂しげに見つめるその横顔が印象的だった。沈みかけた夕日がかずくんの顔に影を作った。

「かずくんはどんな体育の授業をしたの?」

かずくんは一度目を伏せた。そして僕の方へと向き直った。

「その話はまた明日しようか。もうすぐ日が暮れるぞ。」

僕とかずくんの影が長く、濃く地面に映し出されていた。

「明日もここで会える?」

「ああ、会えるさ。」

かずくんは小さく笑って僕の横を通り過ぎた。今日も服は黒く汚れ、頭から汗を流すかずくんからは不思議なくらいなんの匂いもしなかった。度々吹く風は、夏の乾いた匂いを運んでくるだけだった。




「パパー!どこ行くのー?」

昔から変わらずそこにある祖父の畑の横を通り過ぎた時、娘の声が聞こえた。後ろを振り向けば奈々美が畑からこちらに手を振っていた。それに応えるように俺も手を振った。近くにいた春樹も俺に気づいて両手で手を振ってきた。

「裏山だよ!」

俺の背後に大きく構えるその山を指差した。

「奈々美も行く!」

「僕も!」

二人は作物を踏まないよう足を動かした。

じーちゃんが首にかけた手ぬぐいで汗を拭いながら、曲げていた腰を伸ばした。こちらを向いたじーちゃんに俺は手を上げた。じーちゃんは返事をするように片手をヒラヒラと揺らす。

「まってー!」

奈々美が一生懸命春樹の後を追っている。春樹は後ろを振り返り、奈々美の手を取った。そして二人並んでゆっくり歩いてくる。

「スイカの種は植えれたか?」

「うん!あのねあのね!ななちゃんが穴掘ったんだよ!」

元気に答えた奈々美の前髪は汗でびったりと額に張り付いていた。よく見れば春樹の短い髪も汗で濡れていた。

「そうかー!すごいなぁ!」

「俺だって!穴掘ったよ!水やりもしたんだ!」

春樹が俺の右手を握りしめた。子供の体温は高い。今度は奈々美が俺の左手を握った。でこぼこした細い道に映しだされたのは手を繋いだ三人の姿だった。

「パパの影が一番長いね!」

「当たり前だろ!パパが一番大きいんだから!」

二人の小さな影が両端で忙しそうに動いていた。

俺はあの日の影を思い出していた。

あの時は俺の影も子供達くらい小さかった。そんな俺の影に並ぶのは、あの夏出会った少年の影だった。もちろん少年の影のほうが大きくて、俺はその影を追いかけるように歩いた。

当時十九歳と答えた彼の歳を、俺はとっくに追い越してしまった。そんな俺が彼のことを少年というのは少しおかしいだろうか。

手を繋いだ影が山へと入って行く。サワサワと緑が揺れた。葉と葉の隙間を縫って差し込んだ光が道を照らした。

「すずしいねー!」

奈々美の声が山に響いた。

「パパはこの山入ったことあるの?」

「あるよ。パパが小学生の頃にね」


ミーンミンミン……


セミの声があの日を思い出させる。


「ここである人に出会ったんだ」

この山はいったいどれくらい前からここにいるのだろうか。この森は俺のことを覚えているだろうか。あの日ここで道に迷い、走り回った俺のことを。

彼は…、かずくんは変わらずこの山にいるのだろうか。

ああ、道が開ける。あの日座ったベンチが変わらず同じ場所にあった。柵は新しく取り替えられたようで、真新しさが残っていた。

そして目の前には昔の面影をしっかりと残して、あの日と同じ町が広がっていた。

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