あの日の少年
小学三年生の夏、僕は祖父の家に一週間ほど遊びにきていた。
縁側でスイカを食べ、ぶっと種を飛ばした。なかなかうまく飛ばせない僕の横で、じーちゃんはぷぷぷっと種を飛ばす。
「じーちゃん、なんでそんなに上手なの?」
するとじーちゃんはニカッと笑って答えた。
「まだまだ若いもんには負けんよ」
はっはっはっ、と大きな声が庭に響く。
答えになってないよー、と不貞腐れた僕の頭の上に、ぽんっと大きな手が乗せられた。はっはっはっと未だ声を出して笑うじーちゃんの手は、ゴツゴツしていて大きかった。その手は僕の頭をわしゃわしゃと撫で回し、やがて離れていった。僕の頭はなんだかぽかぽかしていて、じーちゃんの手のひらの熱がまだ残っている。
「ほれ、空いた皿片付けるよ」
そう言ってにょきっと新たな手が伸びてきた。じーちゃんの手より白く、少しシワシワの手はばーちゃんのものだった。その手は丁寧に皿を重ねていった。
「おや、こんなにボサボサになってぇ」
ばーちゃんは僕のボサボサ頭を見て、やさしい笑みを浮かべた。そうっと髪を押さえるように撫でる手のひらは、じーちゃんの手のひらよりは小さかったけれど、じーちゃんに負けないくらい温かかった。
よっこらせ、と言って立ち上がったばーちゃんはそのまま台所へと消えていった。
ミーンミンミンミーン……
セミの鳴き声が聞こえる。だんだんと近くなってくる。
僕はハッとして目を開けた。頭に敷かれた座布団と、体に掛けられた薄手のタオルケット。どうやらスイカを食べた後、そのまま寝てしまったようだ。腕と足には畳の痕がくっきりと残り、少し痒かった。
ミーンミーン……
相変わらずセミの声しか聞こえない。
「ばーちゃん!」
僕はなぜだか急に怖くなって、家全体に響くようにお腹から声を出した。
「はいはい、こっちですよ」
その声は庭の方から聞こえた。縁側から庭を除けば、花に水をやるばーちゃんの姿があった。僕は急いで靴を履いて庭へ飛び出した。
「僕がやる!」
そんな僕の声を聞いてばーちゃんはジョウロを僕に渡した。ジョウロは思ったより重くて、僕はゆっくりと足を動かした。昨日ばーちゃんに、お花みんなにまんべんなくお水をあげるといいと教わった。
「上手だねぇ」
シワシワの手が、また僕の頭を撫でた。優しく、優しく。僕は嬉しくて口角が上がるのを感じた。太陽の光を反射してジョウロから出る水がきらきらと光っている。そんな水を纏った花たちはより一層きらきらと輝いているように見えた。葉にたまった雫がゆっくり、ゆっくりと葉脈を伝い、飛び跳ねて、やがて静かに土へと吸い込まれていった。軽くなった葉は一度ぴょんっと上下に揺れた。
「じーちゃんは?」
僕はふと、じーちゃんの姿が見えないことに気がついた。
「じーちゃんは畑に行ったよ」
畑は家から十分ほど歩いたところにある。トマトにキュウリ、ナスにピーマンとたくさんの野菜を育てている。さっき食べたスイカも家の畑で採れたものだ。
「僕も行く!」
すっかり空になったジョウロを渡して、僕は虫取り網と虫かごを取りに走った。虫かごを首からかけて走り出そうとしたしたとき、ばーちゃんが僕の名前を呼んだ。
「大助や!これかぶっていき!」
そう言って僕に差し出してきたのは大きな大きな麦わら帽子だった。
「誰の?これ」
不思議そうに受け取った僕にばーちゃんは言った。
「じーちゃんの子供の時のだよ。この前掃除してたら見つけてねぇ。まだ使えるから大助に使ってもらおうと思って」
シワシワの手を頰に当てて、ばーちゃんは嬉しそうに言った。
僕にはとても大きく見えるその麦わら帽子は年季が入っていて、端がところどころ解けていた。そんな麦わら帽子をギュッとかぶれば、先ほどまで僕の頭を照りつけていた日差しが少し優しくなった気がした。
「よお似合っとるよ。いってらっしゃい」
セミが忙しなく鳴いている。
青い空が僕を見つめている。
緑の木々が僕を導いていく。
「いってきます!」
僕は勢いよく庭の外へと駆け出した。
ジリジリと太陽が照りつける中、大きな麦わら帽子が僕の顔に影を作り出していた。似たような瓦の家が両脇に並んでいる道を抜ければ緑が広がった。
「こんにちは」
麦わら帽子のせいで声をかけてきたであろう人の足元しか見えなかった。僕は慌てて顔を上げた。首に手ぬぐいをかけ、汗を拭きながら近所のおじさんがこちらを見ていた。
「こんにちは!」
僕の声を聞いて満足気なおじさんは軽く手を上げ、僕の来た道を歩いていった。僕は前を向き直しまっすぐ歩いていく。そして次の角を曲がれば、目の前に大きな大きな山が顔を見せた。と、言っても山までは距離がある。僕は山の方へ足を進めた。そして山よりも先に、じーちゃんの畑へとたどり着いた。
「じーちゃーん!」
僕の声が草木を揺らす。
「おぉ、大助か!」
ひょっこりと、じーちゃんが顔を出した。こっちへ来いと手招きするじーちゃんの元へ、僕は足元に気をつけながらゆっくりと歩いた。じーちゃんとばーちゃんが育てた野菜を踏んでしまわないように。
「ほれ!」
そんな声と一緒に広げたじーちゃんの大きな手には、きらりと光るカブトムシが乗っていた。わぁ!と声を漏らす僕に、じーちゃんは続けた。
「スイカにかけておいた網に引っかかっとった」
じーちゃんが指差す先にはスイカ泥棒対策としてかけてあった緑色の網があった。僕はじーちゃんからカブトムシを受け取って、そっと虫かごに入れた。茶色い背中がかっこよかった。
「裏山に行きゃあ、カブトムシもよーけんおるやろうけどなぁ」
裏山というのは先ほどより近く、さらに大きく見えるこの山のことだろう。木々が生い茂り、あふれるほどの緑に包まれたこの山はたしかにカブトムシがたくさんいそうだ。
「僕、いってくる!」
僕は言い切る前に山へ向かって駆け出した。それでも足元への注意は怠らない。
「ちゃんと道に沿ってあるかなかんでぇ!」
そんなじーちゃんの声が後ろから追いかけてくる。「わかってるよー!」と、僕はじーちゃんの方を向いて手を振った。
「大丈夫かね…。」
少し心配そうなじーちゃんの顔は僕には見えていなかった。なぜなら僕の目はすでに、目の前の山へと釘付けになっていたからだ。
人が歩いて草が剥げたのだと思われる土がむき出しの道を、僕は虫取り網を揺らしながら進んでいった。やがて太く、大きな木々に囲まれ、差し込む日の光が少なくなってきた。眩しすぎず、暗すぎないそのちょうどいい明るさと、木々の間を抜ける乾いた風が涼しさを感じさせた。この辺りにいるかなと、僕はカブトムシを見つけるため、草の生い茂るところへと足を踏み入れた。ガサガサと草と草が擦れる音が辺りに響いた。ミーンミンミンミーン……、とセミの声が後ろの方で聞こえる。
「あ!いた!」
僕が見つけたのはメスのカブトムシ。太く立派な幹にひっついてるそれに手を伸ばした。しかしもう少しというところでわずかに届かない。そこで僕は虫取り網を伸ばした。そっと、そっとカブトムシが逃げてしまわないように。
「とれた!!」
虫取り網に入ったカブトムシの姿を確認して、手を突っ込んだ。そっと、でもしっかりとカブトムシの胴体を掴んだ。カブトムシの背は茶色く光り、つるつるとしていた。せっかくつかまえたカブトムシが逃げてしまわないように、僕はさっそく虫かごを開けた。さっきつかまえたカブトムシはオス。これでオスとメスが一匹ずつ揃った。しっかりと中に入ったのを確認し、僕は蓋を閉じる。
そして辺りを見回してから、はっとした。いつの間にか随分と奥へと入ってきてしまったらしい。
それに気づいた瞬間背筋に汗が伝った。僕は慌てて今しがた来たであろう道へ戻った。でも、戻っても戻っても草ばかり。いつまでたっても道へと出られる気配がない。
森がザワザワと音を立てた。まるで迷子になった僕を見てみんなで話をしているような、そんな気がした。
『あれ?迷子?』
『こっちだよ!こっち!』
『おじーちゃんの言うことを聞かないからだよー』
『こっちじゃない?』
『あっちだって!』
僕は走った。走って、走って、走った。
草がガサガサと擦れる音も、セミの鳴き声も聞こえない。なにも聞こえない。
「じーちゃんっ!!」
そう叫んだ瞬間、麦わら帽子のつばが木の枝に引っかかった。僕の頭から麦わら帽子が離れていく。
僕は慌てて振り返った。僕が走ったことで草が倒れ、いつの間にか道のようになっていた。その道の上に僕の大きな麦わら帽子が転がっている。そしてそれを拾い上げようとする黒い手があった。僕はその手から腕、肩、首と、順に目を滑らせた。そして相手の顔へとたどりついた。薄汚れたシャツに、首から掛けた手ぬぐい。黒く日焼けした肌に、汚れた頰。そしてその手は額に滲む汗を拭うように手ぬぐいをあてた。そしてゆっくりと口を開いた。
「坊や、迷子か?」
その口から出た声はじーちゃんよりも、父ちゃんよりも若く、ニカッと笑った歯は眩しいくらいに白かった。少年は僕の麦わら帽子を手に持って、こちらへ歩いて来た。ザッザッ、と土を踏む音がどこか力なく感じた。あっという間に僕の目の前まで歩を進めた彼は、そっと僕に麦わら帽子をかぶせた。
草が擦れる音が聞こえてきた。
木々の隙間を抜ける涼しい風を感じる。
ミーンミンミンミーン……、とセミの声が聞こえる。
まるで今耳栓を外したかのように、周りの音が一斉に聞こえてきた。
そうか、迷子になったと慌てていたから何も聞こえていなかったのか。僕は麦わら帽子をかぶり直しながら一人、納得した。そして目の前の少年に顔を向けた。優しい目元が僕を捉えた。
「こっちだよ。」
そう言って少年は僕の頭を二度、ぽんぽんと撫でて草木の生い茂る方へと歩き始めた。僕は慌ててその後を追う。丸刈りにした少年の頭はキラキラと汗が光っていた。少年は手ぬぐいを掴み、首元を拭った。
「地元の子か?」
少年がチラリと俺の方を向いて言った。
僕は少年に向かって初めて口を開いた。
「ううん!じーちゃん家に遊びに来たんだ!」
そうかそうか、と少年は満足気に前を向き直した。その背中はお父さんよりも小さかったけれど、とても逞しく見えた。シャツから伸びる手も、ズボンから覗く足もすっかり日に焼け、靴はボロボロだった。そんな靴が一歩、一歩と道を進んで行く。
どれくらい歩いただろうか。いつの間にか着ている服が汗でビショビショになっていた。
「ほら。」
少年がこちらを振り返り、僕の手をそっと引いた。その先には僕が歩いて来たであろう道が広がっていた。もう山の麓まで来ていたようだ。
「おじいさんの言うこと、ちゃんと聞かなきゃ駄目だよ。」
おじいさんの言うこととは、山に入る前に言われた『道に沿って歩け』ということだろうか。
「どうして知ってるの?」
そう僕が尋ねると、少年は目を細めて笑った。
「聞こえたんだよ。」
あの時この少年も近くにいたということだろうか。
「もうすぐ日が暮れる。まっすぐお家に帰るんだよ。」
僕ははっとしてじーちゃんの家がある方を振り返った。きっとじーちゃんとばーちゃんが心配してる。僕は慌てて、少年の方を振り返った。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。もう帰ってしまったのだろうか。道の先にも森の方にも少年の姿はなかった。
僕は大きく息を吸った。
「ありがとう!また来るからねー!!」
僕の声は森の中へと響いて、やがて消えた。勢いよく振り返り、僕はじーちゃんの家に向かって走り出した。
「大助!どこまでいっとったんや!」
家に帰る途中、じーちゃんが近所のおじさんと話し込んでいるところへ出くわした。じーちゃんの大きな声に僕はびくっと肩を震わせた。
「こんな遅くなるまで帰ってけーへんで心配したやろ!」
ゴツンっ、と頭に拳骨を食らった。きっと大人の本気ではないその力は、僕には十分なものだった。痛くて、重くて、じんじんした。でもきっと、それだけ心配させてしまったのだろう。
「ごめんなさい……」
僕の口から自然に出た謝罪の声は、すっかり暗くなった夜道に溶けていく。
「まあまあ栄吉さん!無事に帰って来たならよかったじゃねーか!」
じーちゃんの肩を叩きながら、畑へ行く途中すれ違った近所のおじさんがそう言った。きっとみんなで僕を探しに行こうとしていたんだろうな、と僕は状況を理解した。
「ほんとすみません。ご迷惑かけました」
じーちゃんはそう口にして、頭を下げた。僕もじーちゃんの真似をするように頭を下げる。
気にせんでええ、と近所の人たちは言ってくれた。そしてさっきのおじさんが僕の頭に手を乗せた。
「ほら、もう腹減っとるやろ?帰ってたーんとご飯食べやーよ!」
グリグリと僕の頭を撫でるその手は、僕の頭と一緒に麦わら帽子も揺らした。
どこからか虫の音が聞こえる。
ジー、ジー……
その音の正体がわからないくらい、辺りはすっかり日が暮れていた。
近所のおじさん達にさよならのあいさつをして、じーちゃんと帰路についた。僕の右手はじーちゃんの左手にしっかりと繋がれていた。
「どこまでいっとったんや?」
じーちゃんは僕の手を握りなおした。
「裏山!カブトムシ見つけたんだ!でもね……」
そこで僕の声は小さくなった。ん?とじーちゃんが優しく聞き返す。
「迷子になっちゃったんだ」
じーちゃんの顔を伺いながらそう言えば、じーちゃんはびっくりしたように目を見開いてこちらを見た。
「ほーか。無事帰ってこれてよかったなあ」
どこか安心したように笑って前を向き直した。二人ぶんの足音が夜道に響く。
「男の…、お兄さんに!助けてもらったんだ!」
僕は裏山で会った少年の話をした。少年は高校生くらいで、服も靴もボロボロだった。でも汗を拭う腕は太くて男らしかった。
じーちゃんは僕の話をうんうん、と頷きながら聞いていた。チカチカと点滅する街灯が僕とじーちゃんを照らしている。その次の角を曲がれば、優しい光が道へと漏れていた。ばーちゃんが玄関の灯りをつけてくれたらしい。
「ただいまー!」
カラカラ……、と音を立てた玄関の扉をじーちゃんがゆっくりと閉めた。
バタバタと足音が聞こえてきて、ばーちゃんが台所から出てきた。
「遅かったねぇ、心配したんだよ!」
ばーちゃんが両膝をつき、僕の両頬を掴んだ。シワシワの手が僕の頰を撫でる。
「近所の人と探しに行こうとした矢先に帰ってきた」
じーちゃんは靴を脱ぎながらばーちゃんに言った。
そうですか、と答えたばーちゃんはよっこらしょっと立ち上がり僕の頭を撫でた。そして優しい笑みを浮かべて言ったのだ。
「ほんなら夕ご飯にしましょうか」
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