アンタレス

蜂蜜 最中

本文







 ……かたたん……、




 ……かたたん……、




 レールの繋ぎ目が酷く緩慢としたリズムを刻む。


 それに対するように窓から望む、夕日に染まる街並みは忙しなく右から左へと流れていく。


 残暑の暑さがようやく落ち着いてきた夕涼み、揺れる車内で、古臭いライターをぎゅっと握りしめる。


 目の前で静かに寝息を立てる自分とよく似た顔をした少女と、僕の父親が遺したもの……。


 父はヘビースモーカーだった。


 他人のお願いをホイホイ聞いてしまうような温和な人柄のくせしてタバコだけは母に反発して吸い続けていた。


 母の様に洒落たロケットでも遺せば良いのに。もっと良いが思い出つまったものがあったろうに。


 だけど、そんな文句も煙のように空に溶ける。


 矛先を失った言葉は地に落ちるのが道理。突き刺さる地は、言うまでもなく自身の心。



 父と母が死んだあの日、ランドセルを背負ったばかりの僕は――“人はもろい”――と、思い知らされた。



 気づけば血の海の真ん中で二人の体が横たわっていた。



 水底に沈んだものを眺めるように、それは曖昧で、不確かで、


 ただ、二人の人間が死んだという事実のみがこの世界に記録されている様に思えた。



 僕の中に萌芽した感情は、歳を重ねるに連れ、その事実が明確な形を崩していくと同時に色濃くなっていき、そして滲んでいく。



『御園~、御園~』



 新たな駅に着く、乗客が数人入れ替わる。


 駅で降りた客の中に四人家族が見えた。


 父親と母親、そして帽子被った男の子と可愛らしい赤いリボンをした女の子。小さな双子の兄妹。



 どこかに遊びに行ってきたのか、みな顔に幸せそうな笑みを浮かべている。……本当に幸せそうな笑みを。



 僕達の、あったのかもしれないという空想。あの家族の在りようはその空想の体現。



 理想の押し付けに他ならぬ。それでも、僕にとっては理想の形。




 扉が閉まる。


 ゆっくりと、また列車が動き出す。



 流れる人、人、人。



 最初はあの四人家族。


 次に若い男女のカップル。


 同年代くらいの数人のグループ。



 認識できたのはそこまで。それ以降は点。あるいは線。






 ……かたたん……、




 ……かたたん……、





 鋼の車列が優しく、左右に揺れる。





 ……かたたん……、




 ……かたたん……、





 川の中流に差し掛かったところ。レールと川が仲良く並ぶ。

 窓からはその川辺に竜胆の花が見える。


 僅かに香ってくる竜胆の甘い香り。


 母がよく、好んで付けていた香水の香り。



 その香りは萌芽した感情を加速させ、ほの暗い色にしていく。


 ミシリと手の中でライターが軋む。



 矛先を失った言葉が自身の心に落ちるのなら、矛先を失った感情はどこに向かうのだというのだ。


 行き場を失った感情はどうなるというのだ。



 陽は沈み、朱色の円光が失せ、西の空に赤い残光が焼き付けられている。

 空を帳が覆い隠し、石炭袋が世界を包む。肉眼で星が見える様になった。


 その中に一際赤く光る点がある。



 さそり座の光。



 神に世界の幸せを願った、さそりの焼死体。あの光はさそりの命。


「――本当、嫌な光」



 いつの間にか目を覚ました妹が空の彼方に燃える赤い光を睨んだ。



 あの光が両親の在りように似ているからなのか、それとも余りに理不尽な運命を呪ってか、はたまたその両方か。その双眸には悲哀と憤怒と、絶望とが入り混じり、酷く混濁した感情が渦巻いている。



『皐月原~、皐月原~』



 深い紺色の空に浮かぶ、赤光に塗れた星を睨むうちに、降車駅の一つ前の駅に着いていた。


 つい数瞬前まで、隣りで流れていた水の蛇はうねり、今ではあんなにも遠くに離れている。


 命と引き換えに得た光は、その名の通りで、客観的には美談として語られるも、僕達にとっては忌むべき過去。


 ――影の中にある僕達に、その光は届かない。



『世界は、一体何でできていると思う?』



 昔、父に問われたこと。そんな哲学的な質問に頭を悩ませたことがあった。


 どんなに生物図鑑を見ても、どんなに天体図鑑を見ても、どんなに辞書を引いても、答えは見つからなかった。

 後で答えを聞いてみれば、



『――世界は言葉でできているんだ』



 そう、屈託のない笑みで。


 真理だと思った。


 ありとあらゆる言葉がこの世界を構成している。言葉が無ければこの世界はたちまち世界として成り立たなくなる。

 言うならば、世界は言葉の群体なのだろう。


 まるで、本の中の物語みたいだ。


 そうであるのなら、神様というのは言わば物語に置ける筆者だ。言葉によってこの世界を描き、無数の物語を書いている。


 ならば、彼は――あるいは彼女は余程意地悪なのだろう。

 こんな理不尽な世界を作っている時点で奴は相当な悪党だ。


「――もうすぐ駅に着くよ。しゃきっとね、しゃきっと」



 妹が感傷的になっている僕の尻を蹴り上げる。今の自分の顔は、とても誰かに見せられるような顔じゃない。

 顔見知りには特に。



 萌芽した感情を再び押し殺し、日常へと戻る。


 未だ香ってくる竜胆の花の香りを窓を閉めて遮断し、空を見上げていた目を閉じ、一つ吐息を零す。

 断続的に響く、レールの繋ぎ目と車輪が奏でる音に溶けてしまうほどに、小さな吐息。



 ……かたたん……、




 ……かたたん……、



 車両と前後の車両とが擦れる音。


 踏み切りの、点滅する燐光。



 それらを越えたところで、







『薄明座~、薄明座~』






 駅に着いた。


 特に大きくもない、だからといって小さくもない駅。


 使い慣れた駅。



 ゆっくりと立ち上がる。これといった荷物もなく、あるのは手の中のライターと、ポケットに入った財布と、花屋の店主にもらった、あめ玉が一個。



 列車を降り、


 改札を出て、


 円形のロータリーを抜けて、


 国道沿いを、二人、肩を並べて歩く。土手に生える、すすきの音(ね)を聞きながら。



 ――日常に戻ってきた。


 西の空に浮かんでいた赤い残光は消え、帳が全てを被う。


 萌芽した感情も、隠してくれる。


 後は、衣服に染み付いた線香の匂いを落とせば、今日が終わる。


 それでいい。悲哀などという感情を他人に押し付けてはいけないから。


 それでいい。今までもそうしてきたから。


 それでいい。これからもそうするつもりだから。

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