第3話
「――あ、すみません」
あんぐりと口を開けて『春の ③』を眺めていた私の肩と、どうやら最後まで見終わってUターンしてきたらしいカップルの女性の肩がぶつかった。何せ狭い通路なのである。ボケッとしていた私にも、横に並んで歩いていた女性にもきっと等しく非がある。
彼女さんもまた、すまなそうに「すみません」と頭を下げた。そして、頭を上げ、私の顔を見て「あ」と言った。
知り合いかな? と思った。
まさか、
「え?」
首を傾げていると、彼氏さんが「おい」と言いながら彼女さんの手を引いた。彼女さんはまたも「すみません」と言って足早にその場を去った。
何だ? と思いつつ去り行く2人を眺めていると、彼らはほぼ同時に私をちらりと見、私と目が合うと、やべ、とでもいうような顔をして、今度は本格的に走って逃げた。
何だ何だ。
何なんだ一体。
私の顔に何か付いているのかな?
そう思って手鏡を出す。
うーん、うん。まぁ、うん。
ちょっと泣いてはいたみたいだけれども。
これ? これかなぁ?
首を傾げながらユキの絵を眺め、私は、どうやら最後らしい角を曲がった。
「へ……?」
これだ、と思った。
あの彼女さんはこれを見たんだ。
ユキのスペースの奥の奥、ゴール地点であるその行き止まりに掛かっている、一番大きな絵。遠目で見ると、それは見事なモザイクアートである。
それは、大きな大きなモザイクで描かれた私だった。
大きな口を開けてのん気に笑う私の顔。これは保育園の時の私だ。
近付いてみると、その大きな私を構成しているのは、すべて私だった。
半分に割った焼き芋を笑顔で差し出す私、
ラムネの瓶を片手にお煎餅にかじりつく私、
出来立てのタコ焼きを頬張って涙目になっている私、
頬を真っ赤にして湯気の上がるココアを飲む私、
私、
私、
私。
そのどれもの記憶があるわけではないものの、中~高校生くらいの時によく着ていた服はさすがに覚えている。いまでこそ落ち着いた色ばかりになってしまったけれども、そういえば昔の私は結構明るい色の服を着ていたのだ。そんなことまで思い出す。
――じゃなくて!
私!
私だよ!
みーんな私!
ユキってば! あンの野郎!
「ちょっと、ユキ!」
鼻息荒く物販コーナーに乗り込むと、店番をしているのはユキの他にももう一人いた。隣にいた男性――こちらもユキに負けず劣らずの色白ガリヒョロ眼鏡だった――の方が先に私に気付いた。
「あれ、タカユキ先輩。『ひろ花ちゃん』さんじゃないですか?」
「うん」
「うん、じゃないよ、ユキ! ちょっと、あれ全部私じゃない!」
「うん」
「うん、じゃなくて!」
「あれ~? 『ひろ花ちゃん』さん、知らなかったんですか? タカユキ先輩、無許可はまずいっすよ」
「忘れてた」
「んもう、タカユキ先輩らしいなぁ」
ユキはどうやらタカユキ先輩と呼ばれているらしい。高橋雪都だからだろう。
「っていうか、
「大丈夫。ひろ花ちゃんはいないやつ」
「……本当でしょうね」
『高橋雪都』と書かれたプレートの後ろに並べられている商品をざっと確認する。確かにそこにあるのはどれもが①の絵達を元に作られていた。そのことにとりあえず胸を撫で下ろす。いや、子どもの頃のだったらまだ……可愛いけどさ。
「ていうかね、いままで何度お願いしたって描いてくれなかったじゃない」
「うん」
「何でいまになって描くのよ! ていうか、何? 写真でもあるの? あんなにどうやって描いたのよ?」
「……えっと」
畳みかけるようにそう言うとユキは目を丸くして言葉を詰まらせた。おっといけない。ユキは一度にたくさんの質問をするとフリーズしてしまうのだ。
「どうしていまになって私のこと描く気になったの?」
「ひろ花ちゃんが近くにいないから」
「……? いないから? 離れて初めて気付く、みたいな感じかな? それじゃあさ、あれは何を見て描いたの? 写真?」
「写真なんてないよ」
「じゃあ何を見て描いたの?」
「何も」
「何も見ないで描けるわけないじゃん! 適当なこと言うな!」
「まぁまぁ『ひろ花ちゃん』さん、落ち着いて」
「後輩君、その『ひろ花ちゃん』さんって止めて。ひろ花さん、もしくは橘さんって呼んでちょうだい」
「そんじゃタチバナさん、はいはい、ちょっと落ち着いて下さいって。コーヒー飲みません?」
後輩君から紙コップのコーヒーを手渡され、ふわりと立ち上るその香りに目を細める。ユキは何事もなかったような顔をして、ポストカードを買いに来たお客さんの相手をしている。
コーヒーを啜りながら、ふぅん、接客とか出来るんだ、なんて思ってみる。
後輩君はどこからか椅子を運んで来て、私に勧めてくれた。私がそれに腰掛けると、彼は馴れ馴れしくもその向かいにしゃがんで同じくコーヒーを飲んでいる。
「タチバナさん、タカユキ先輩は、ぜーんぶ覚えてるんですよ」
「……はい?」
「あの人、天才っすわ。何ていうか」
「天才?」
天才なんてユキからは最もほど遠い言葉だと思う。
彼は私が知ってる限りでも3歳からずっと毎日毎日絵を描き続けて来たのだ。その努力がいま実を結んだ結果なのだ。努力家の方がしっくり来る。いや、彼はただ楽しんで描いていただけだろうけど。
「見たことを見たまんま覚えてるんですって。すげぇっすよ」
「見たことを見たまんま……全部?」
「いや、さすがに全部じゃないみたいですけど。特定のもの? 人? タカユキ先輩、怪獣図鑑とか、ヒーロー図鑑とか、丸々覚えてるんですよ。なのに、いまだに学内の人間とか覚えてなかったりして。いる情報といらない情報をきっちり分けてるんでしょうね、頭ん中で」
「ほ……、ほぉーお。おぉん?」
でも、怪獣図鑑とヒーロー図鑑に関してはなぁ。
それってたぶんあの毎日模写してたヤツでしょ?
そう、ユキが毎日毎日描いていたのは、その図鑑達なのだ。彼は、絵だけではなく解説文まで、まだ字の読み書きなんか出来ないのに一字一句違えることなくきちんと模写していたのである。文字も絵と認識していたのだろう。彼はそうやって字を覚えた。だから、就学前にも関わらず、結構難しい漢字まで書いて、大人達を驚かせた。
そりゃああれだけ毎日描いてりゃ丸々覚えちゃうでしょうよ。
でも。
「じゃあ、私は『いる情報』だったってこと?」
そんなことを呟きながら、案外しっかり接客出来ているユキを見つめる。とはいえ、「いらっしゃいませ」「○○円です」「ありがとうございました」を言えているというだけで、営業スマイルなんかは皆無だったけど。
「そりゃそうっすよ。タカユキ先輩、タチバナさんの話しかしないっすから」
「――は? 何それ?」
「この個展もほんとは8月だったんすけど、『暑いとひろ花ちゃん来ないから駄目』って譲らなくて」
「えぇ? まぁ確かにそうだけど」
「何か良いですよねぇ、初恋が婚約者とか」
「ちょ、何言ってんの?」
いや、確かにね、無理やり婚約はしたけどね? ユキってば律儀に守ってくれちゃってんの?
「いや、それはむかーし昔に私が無理やり決めつけたやつで」
「え? タカユキ先輩、そんなこと一言も……」
後輩君がちらりとユキに視線を送る。するとユキは「何?」とでも言いたげな顔でこちらを見つめ返すだけだった。
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