第2話
「僕、東京に行くんだ」
合格発表後、ユキからそう言われた時、おばさんはちょっと寂しそうな顔をしていた。それよりも、
「本当に自活出来るのかしら?」
と、そっちの方が心配そうだったけど。
何せユキは普段から絵を描くことが第一で、その次が寝ること、食べることはその次だったのだ。
私がついてます!
と言いたかったが、残念なことに私は北海道の大学に進学が決まっていた。
ユキは相変わらず背ばかり高くてひょろりとしていて、ほとんど家から出ないから肌も真っ白だし、絵ばっかり描いていたからか、かなり視力が落ちて眼鏡君になっていた。それもまた良いと私なんかは思うわけだが、クラスの女子からは完全に『ガリヒョロもやし宇宙人眼鏡ver』だった。
ユキは高校3年になってやっと携帯を持った。本人的にはいらないらしかったが、もしもの時のためにとおばさんが無理やり持たせた形である。
もしもの時も何も、ユキは真っ直ぐ家に帰るため、家電でほとんど用は足りたらしいが。
私は『婚約者』として、強制的にメアドをゲットし、そしてもちろんユキの方にも登録させた。ユキのアドレス帳には両親、それから本州にいる祖父母、それから美術部の顧問の先生と後輩(男)、クラスの男子が数人、そして私の連絡先しか入っていなかった。
いよいよ別れの時が来た。
少なくともここから4年間はユキのいない春夏秋冬を過ごすことになる。
道路沿いの桜の木を一緒にぼーっと眺めながら歩くこともなければ、
肌を焼く日差しの下で道路に染みを作りながらラムネを飲むこともない。
石焼き芋屋さんの屋台に、奢るからと無理やり引っ張って行って、1つの芋をかじりながら歩くことも、
名前に雪がつくからか、昔から冬が大好きなユキが楽しそうに足跡をつける様を見ることもない。
たった4年かもしれない。でももっと長いかもしれない。自分の知らないユキが出来てしまうことが悲しくて、悔しかった。
あのね、私はね、ユキのことが大好きでね。
ユキは私のこと、何とも思ってないかもしれないけどね。
誰にどれだけ陰口言われてもね。
私だけはいつまでもずっとずっと味方だからね。
私はユキのことが大好きだよ。
うわんうわんと泣きながら、私はユキにそう言った。その場にはおじさんもおばさんもいたけど、そんなことは関係なかった。視界の隅のおばさんは「あらあら」なんて言いながら、笑っていた。おじさんはおろおろしてた。
「僕も、好き」
ユキは確かにそう言った。
保育園のあの時、「わたし、ゆきと君が好き。ゆきと君は?」と迫った時と同じ答えだった。
顔を赤らめるだとか、そんなことも一切なく、「そのお煎餅、僕も好き」くらいのテンションだった。それがユキなのだ。知ってる。だから、あの時みたいにはしゃいで皆に報告することもない。私達はもう大人だ。未成年だけど。
たぶん、ありがとうくらいは言って、私は家に帰った。そして、自分の部屋で泣いた。
物理的に離れると、あんなにはっきりと色濃くなっていた恋心も再び淡くぼやけていった。メールのやり取りはしていたけれども、メールでもユキはユキだった。彼は、口語体で文章を打つのが苦手らしく、堅苦しい文語体で返してくるのだ。その上、3、4回に1回は返信することを忘れてしまうため、その次の日の私からのメールでそのことに気付くという始末だった。
これじゃきっと彼女なんか出来るわけない。
私はそんなことを思っていた。
――私? 私はどうなのかって?
いや、別に、ユキに操立ててるわけじゃないんだけどね、恥ずかしながら私もぜんぜんでした。
気になる人がいないわけじゃない。ちょっと良いなーって思う人もいた。でもやっぱりユキのことがよぎる。
ユキは私が遊びに来たってお構いなしに絵を描いていたし、「そんなに絵が好きなら、私のこと描いてよ」って言っても絶対に描いてくれなかったけど、それでも私はユキが好きだったのだ。
友達の紹介で何人かとデートくらいはしたけれども、そこから交際に発展することもなく、私は清い身体のまま大学を卒業し、ハウスメーカーの総合職として働き始めた。
何だかんだいっても時間に余裕のあった学生時代と異なり、なかなか自分の時間もとれず、とうとうユキにメールを送るそのわずかな時間さえも捻出出来なくなった。
そんな私に精神的余裕が生まれたのは、社会人になって2年が経った頃だった。
『件名:高橋雪都です。
本文:12月12日に、個展を開きます。』
突然のお知らせだった。
久し振り、とか、いま何してる、とか、そんな余計なフレーズも一切ない、ともすればただのチラシのような、ただただ告知のみのメールだった。それが何ともユキらしくて、自然と笑みがこぼれた。
添付されているURLをクリックすると、場所はやはり東京だった。
12月12日かぁ。有給も溜まっているし、まぁ行けなくはないけど。
個展だなんて、まーぁ、ど偉い絵描きさんになっちゃって。
ちょっとからかってやろうと思った。ただ二つ返事で「行くね」と返すのは何だか癪だったのだ。
「もしもし、ユキ?」
「ひろ花ちゃん、何?」
久し振りに聞いたその声は、昔より少し低くなっていて、どきりとした。昔より抑揚が感じられる。ユキも成長したということか。いや、誰かに指摘されて直したのかも。そんなことを考えると何だか胸がざわつく。
ていうか、そこは「何?」じゃなくて「久し振り」とかじゃないわけ?
「メール、見たよ」
「そっか」
「すごいじゃん、個展なんてさ」
「ありがとう」
「何かすごーい絵描きさんみたいだね」
「ありがとう」
ユキは昔から謙遜という言葉を知らなかった。嫌味や皮肉も通用しなかった。誉められれば、それが上っ面でも何でも必ず「ありがとう」と返すのである。その抑揚の乏しい「ありがとう」を「ロボットみたい」と馬鹿にする女子もいた。男子は「裏表がなくて良いじゃん」と笑っていたが。
素直に「ありがとう」なんて言われちゃったら、それ以上はもう茶化せなかった。
「行くよ、個展」
「ありがとう」
「でも、冬で助かったよ。夏だったら行かなかったかも」
「うん」
「
「うん」
「私、そっちには住めそうにないなぁ。暑いの嫌だ」
「そっか」
メールも電話も出来なかった空白の期間を埋めるように色んなことを話しても、ユキから返ってくるのは「うん」か「そっか」のみ。
ちゃんとご飯食べてる? と聞いても「うん」だけ。
ユキは会話を膨らませるのがすごく苦手で、それに、自分から話題を振ることがない。それでも良かった。ユキはそういう人だって知ってるから。とても聞き上手なのだ。
でも、何の感情も乗せられていないような相づちの中、一度だけ、ほんの少し、彼の呼吸が乱れた瞬間があった。
「いまちょっと気になる子がいてさぁ」
「……そっ」
「ん?」
「そっか」
「後輩なんだけどね。何ていうのかなぁ、敬語とか全然使えないわけ。気になるのよねぇ、古い人間としてはさ」
「……うん」
もしかして、と気付いたのは電話を切った後だった。
もしかして、ユキ、ちょっと焦った?
何だよー、可愛いところあるじゃんか。
昔から、割とポーカーフェイスというか、何も考えていないようなユキだったが、ごくたまに声を詰まらせたり、顔を赤らめることはあった。けれど、一体何が彼の琴線に触れてそうなるのかはわからずじまいだったけど。
個展の日を指折り数え、私は上司に有給届を叩きつけ、東京へとやって来た。まぁ叩きつける必要はなかったが。
「東京のことなんかわかんないんだから、ちゃんと案内してよね」
と半ば脅すようにして詰め寄ると、
「良いよ」
何ともあっさりオーケーが出た。
昔から、ユキは私の似顔絵だけは断固として描いてはくれなかったが、それ以外のことは何でもやってくれたのだ。
「へぇ、ここかぁ」
案内されたのは割と寂れたデパートの5階にある催事場だった。そこは垂れ幕で6つに仕切られていて、ユキの他に5人がそれぞれの作品(絵だけじゃなくて、何かワイヤーをぐねぐねさせたものとか、彫刻もあった)を展示していた。
これも個展というのかな、という疑問もあったが、その仕切りの中はユキだけの世界なのだ。じゃあ個展ということで良いじゃないか。それに、ユキのスペースが一番広かったし。
『記憶』
というのがユキのテーマらしかった。
一緒に見て回りたかったが、ユキはユキで忙しいらしい。彼はそのつもりはなかったらしいが、他のメンバーに勧められてポストカードやらストラップやらのグッズを作ったらしく、交代でその店番をしなくてはならないのだとか。
夜ご飯は絶対に一緒に食べようと固く約束をして、私は一人でユキの世界に足を踏み入れた。垂れ幕で作られた狭い道は、何だか学祭のお化け屋敷みたいだった。そしてその壁――とはいってもただの幕なんだけど――に等間隔でユキの絵が掛けられていた。
「お、おぉ……」
まず私を出迎えてくれたのは、満開の桜だった。タイトルは『春の ①』。
の? の、何? しかも①なんだ? てことは②、あるな?
っかー、これが『アート』ってヤツなのよね。やっぱりユキもアートな感じになっちゃうのねぇ。
そんな風に心の中で茶化しながら。
そしてそんな予想通り、②はあった。①の方は満開の桜を見上げているような構図だったが、②の方は同じ構図の中に、その桜を指差す小さな手が浮かんでいた。
浮かんでいたのだ。肘から上しかない手が。
ちょっともぉ、何? ホラー? まぁ、それもアートってヤツなんだろう。
次は『夏の ①』。
ここまで来るともう突っ込まない。の、何なのかなんてイチイチ突っ込まない。
夏は花火だった。そしてこれもやはり、②の方は、花火を指差す手が浮かんでいる。さっきのと違うのは、その手が浴衣を着ているという点だ。ただもちろん、それは途中で切れてしまっているけれども。白地に真っ赤な金魚が泳いでいる浴衣で、あれは私が小学生の時に着ていたヤツだろう。
ユキめ……。私の浴衣をパクったな。
『秋の ①』はイチョウの葉っぱが敷き詰められた歩道だった。まっ黄色の絨毯みたいなイチョウの隙間から、ちょっとだけマンホールの蓋が見える。あのデザインには見覚えがある。地元のヤツだ。
そして、②の方には、小さな靴の爪先だけがあった。ピアノの発表会のためにと買ってもらった、エナメルの靴だ。普段は履いたら駄目って言われてたけど、どうしてもユキに見せたくて、こっそり履いた深緑色の靴。
ちょっとちょっとー、いい加減私の許可をとりなさいよねぇ?
次は『冬の ①』。
見慣れた夜の風景だった。オレンジ色の街灯がぽつんと1本。その隣にあるこんもりとした三角の雪の塊は物置小屋で、回りの雪を踏みかためて階段にし、その屋根に登ってはよく怒られたものである。
よく見れば、ちゃんと屋根に行けるよう、雪が階段上に踏みかためられていた。
②の方は、手が2つあった。右端と左端にぷかりと浮かんでいる2つの手は、真ん中でしっかりと繋がれている。
可愛らしい手袋をはいた、2つの手。色は、青とピンク。青はユキので、ピンクは私だ。
ユキと、私だ。
鈍い私はそこでやっと気が付いた。
この絵は全部ユキと私だ。
もしかして、という気持ちで、鼓動が早くなる。心臓の音がものすごく大きく感じる。少女漫画を馬鹿にしてたけど、いまならわかる。私の心臓の音、きっと回りにも聞こえてる。それくらいに。
角を曲がる。
絵はまだ続いている。
次はまた春のようだった。③と書かれている。
どれも、どれも、どれも。
見覚えがありすぎる。
ユキと過ごした北海道の景色達だった。
忘れていた思い出も、しっかり覚えてる思い出も、すべてが鮮やかに描かれていた。
そこにユキの姿はないけれど、私はいた。
これらの絵はすべて、ユキの視点で描かれていた。
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