恋愛忘却薬

ペーンネームはまだ無い

第01話:恋愛忘却薬

 恋の病は医者や草津の湯でも治せない。それは私が開発した薬によって過去の話になろうとしている。

 恋愛れんあい忘却ぼうきゃくやく。特定の人物に向けられた恋心を完全に消し去る効果があり、叶わぬ恋や失恋、はては浮気の特効薬として期待された薬。その臨床試験が、ついに始まったのだ。

 妻が薬を服用するのを確認してから、私は口を開く。


「効果が現れるまで5分。じきに私への執着心きもちも消える。最後に言っておきたいことがあれば聞くが」


 それは夫としての最後の務めだ。試験を終えれば離婚する妻に向けた礼儀ともいえる。

 妻が「そうね」と前置きしてから「思い出話がしたいわ」と提案した。


「出会ったのは大学の食堂だったわね」

「そうだな」


 偶然に相席することになった妻と私。本来であれば続くはずのない関係。だというのに、急に妻が「名前と連絡先、教えてくれませんか?」と迫ってきたのだ。それ以来というもの、妻は私を見かける度に熱烈にアプローチをかけてきた。何故こんなに清楚で綺麗な女性が、冴えない私になんかに好意を向けるのだろうと疑問に思ったものだ。


「だって一目で解ったんですもん。この人となら幸せになれるって」

「幸せ、か。たしかにあの頃は幸せだったな」


 出会いから程なくして交際を始めた私たちは、何をするにしてもふたり一緒だった。そうすることがとても自然だったのだ。数を重ねたデートや旅行の思い出を語る度に、妻の声が嬉しそうに跳ねる。

 私は妻の話を遮る。


「だが幸せは長く続かなかっただろ」


 卒業とともに結婚した私たちだったが、程なくして幸せの歯車が狂い始めた。私の携わる恋愛忘却薬開発プロジェクトが頓挫したのだ。プロジェクト失敗の全ての責任を押し付けられた私には、多額の負債が残った。その所為せいで妻には辛い思いをさせてしまっている。


「だから離婚するの?」


 その問いに私は答えない。


「あなたの言うとおり辛いこともあったわ。でも私だけじゃない。あなただって辛い思いをしていたんですもの。楽しさも辛さも分かち合うのが夫婦でしょ」

「……私が嫌なのだ。君に辛い思いをさせるのは」


 なんとか恋愛忘却薬を独力で完成させたものの、恋愛忘却薬が金になり生活が好転するまでには未だ時間がかかるだろう。……もう妻には辛い思いをさせたくない。妻には笑っていてほしいのだ。


「それでも私はあなたと居たかったわ」


 妻の頬を一筋の涙が伝った。次の瞬間、妻から表情が消えた。最後の5分が終わったのだ。どうやら臨床試験は成功したらしい。妻の悲しみは、恋心と共に消え去ったのだ。

 私は席を立つと、呆けた顔をした妻を見つめた。流れそうになる涙を、張り裂けそうになる胸の痛みを、私は必死に堪える。


「……これで良かったのか?」


 自らへの疑問が思わず口をついた。

 答えのないはずの問いに、優しく微笑んだ妻が「ええ、これで良かったのよ」と答えた。


「だって、おかげで私は今、アナタにもう一度ひとめぼれする気持ちを味わえたんですもの」

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