apoptosis

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 同じ衣服、同じ作業、同じ髪色。……それから、同じ顔立ち、同じ、指紋。

 違うのは、出生時に与えられた個体識別番号と、出生からの経過時間。


 「彼」はいま、秩序だって配置されたコンピューターの液晶画面を一心不乱に見つめては、キーを叩いている。この地下居住区の物流システムを統御するためのコンピューター・プログラムに発生した不具合を取り除き続けているのだ。四十九人の「彼」の同胞たちは、姿も声も「彼」にそっくりだが、「彼」より老いていたり、年若かったりする。

 一人だけ、「彼」と違う姿の者が、この部屋にいる。シブリングだ。シブリングは、「彼」と同胞の作業を監視している。定められた時間が来ると、「彼」はシブリングの指示で、同胞たちと共に、与えられる飲食物―飲物と食物の二種類あり、それぞれ液体(リクィド)と立方体(キューブ)と呼ばれている―を摂取し、また定められた時間が来ると、カプセル状の寝室で眠りにつく。


 「彼」が幼い時、「彼」の集団には「彼」と同じ年頃の子供たち、つまり殆ど同じ姿の子供たちしかいなかった。子供たちは番号で呼び合った。「彼」は六番だった。二十五番は利かん気だった。四十番は泣き虫だった。十一番は頑固だった。五番と「彼」は仲がよかった。

 「彼」に教育を施したのもシブリングだ。コンピューターを通して提供される教育プログラムを用い、シブリングは「彼」に読み書きを教えた。計算を教えた。シブリングはまた時折ゲームをおこない、子供たち同士の会話や交流を促した。このとき覚えたゲームは今でも余暇に同胞たちとおこなうことがある。ゲームというのは、コンピューター・ゲームのほか、駒を使ったボード・ゲームや、カード・ゲーム、ボールを用いたスポーツだ。「彼」はゲームの中でスポーツが一番好きだ。それから、シブリングは「彼」に、歴史を教えた。かつてヒトは地上に居住していたのだと。しかし、驕り、秩序を失った人は神の怒りに触れ、地上は不毛の禁足地になってしまった。そして人は地下に追放されたのだ、と。

 誰も地上を見たことはなかったが、シブリングは地上を恐ろしい死の場所だと言った。「彼」は歴史の授業で、人々が地上に遊び、耕し、祭り、戦い、そして凄惨に滅びていく映像を何度も見せられた。ふざけている子供や、怠けている子供、喧嘩をする子供たちに対し、往々にしてシブリングは、そんな子は地上にやってしまおうと言った。地上という語は子供たちを震え上がらせるのに十分だったから、その文句は喧嘩をする際に子供同士の間で使われることもあった。

 だが、「彼」は違っていた。「彼」には、地上は美しく見えた。天井のない空。壁のない大地。「彼」は、地上に憧れを抱いた。


 日常生活の中に一つだけ、地上を思わせるものがあった。


 それは「守護者(ガーディアン)」と呼ばれている、箱状の物体だった。守護者(ガーディアン)とは、寝室にも、共有室にも、ひっそりと設置されていた。シブリングが説明するところによると、それは中央管理局から住人の保護のために支給されたもので、地上の呪いを浄化するためのものだった。ガーディアンが損なわれると、その部屋の人間はあっという間に呪いに侵され、死に至るのだという。

 「彼」は守護者(ガーディアン)を見ては、地上に思いを馳せた。まだ見たことのないその場所にこそ、広大で無慈悲なその場所にこそ、自分が本当に在るべき様に、「彼」には感じられた。「彼」にとっては、与えられたこの環境も、与えられたこの仕事も、かりそめのものとしか思えなかった。「彼」は自らの二本の足で、地上に立ち、天を仰いでみたかった。

 地上に行きたい、そう思って「彼」は何度かわざといたずらをしたが、決して地上に送られることはなかった。焦れた「彼」は一度だけ、地上に行ってみたいとシブリングに言ったことがあった。シブリングは血相を変えた。乱暴な子供に対してするように平手打ちをすることもなく、怒鳴りつけることもなく、真っ青な顔で唇を戦慄かせながら、そんな恐ろしいことは二度と言っていけないと言った。「彼」は地上よりも、そのシブリングの様子に恐れをなした。それっきり「彼」はこの話題を持ち出すことはなかった。けれど、その時以来、何としても地上にいつの日か立ってみるのだと、堅く思い決めた。このままシブリングに従い続けるだけでは地上を知りえないように思われ、それは「彼」にとって、言いようのない恐怖だったのだ。


 長じた「彼」は、四人の同胞とともに、様々な年齢の同胞がいる作業部屋に移された。そして、新たな番号を与えられた。五十七番だ。新たな同胞は「彼」よりも年かさのようだったが、「彼」と同じ顔立ちだった。ここで、「彼」はシブリング以外の大人を初めて見た。新しい部屋にもシブリングがいた。以前のシブリングと同じ顔立ちで、同じ服を着ていたが、少し若かった。「彼」は年かさの同胞に教わりながら、新たな作業を覚えた。新たな規律を覚えた。五番と別れてしまったことは寂しかったが、覚えることがあまりに多く、幼いころの生活習慣は薄らいでいった。

 ここでは誰も地上の話などしなかった。地上の脅しが必要となるような喧嘩も起きなかった。話すのは仕事についての話か、余暇に行うゲームについての話だ。

 

 

 環境は変わったが、地上への憧れは変わらなかった。新しい部屋にもひとつだけ、依然として地上を思わせるものがあった。

「守護者(ガーディアン)」だ。

 新しい部屋の同胞は、誰もそれを顧みることはなく、シブリングだけが時々それを点検していた。「彼」は「守護者(ガーディアン)」を盗み見ながら、地上への思いを燻らせた。

 今の「彼」が持つすべての知識は、教育プログラムか、シブリングか、年かさの同胞に提供されたものだった。「彼」は地上を訪れることで、未だどこにも記載されていない、未だ誰も知らない新たな経験を、自ら手に入れてみたかった。またそうした自意識をもっている点で「彼」は、自分だけは同胞と違う、優れた存在なのだと心密かに思っていた。「彼」は同胞と同じ姿を持ち、同じ仕事をして過ごすことに飽き足らなさを感じていた。自分にしかないものが欲しかったのだ。そんな「彼」の思念は言動にも滲み出ることがあり、そのせいで「彼」は、温厚な同胞から消極的に敬遠されてもいた。けれど、「彼」は意に介さなかった。


 「彼」個人に割り当てられている空間は唯一、寝室だけだ。「彼」が、人工物のように勤勉な同胞から離れ、融通のきかないシブリングからも離れ、一切の他者から遮断された空間で過ごすことが出来るのは就寝時間だけだ。「彼」はしばしばそこで、瞑想とも言えるような、長い、長い物思いに耽る。その時「彼」は、他のいついかなる時よりも心安らいでいるだろう。

 狭い楕円形の個室。カプセル状の寝室の中で、眠りにつこうとするその直前。「彼」は仰臥したまま、疲労と倦怠に身を任せ、かつて存在したという地上の文明―畑や、祭りや、婚礼や戦争―や、すべてが死滅したという現在の地上へと思いを馳せる。それはなんびとにも妨げられない、「彼」一人きりの自由を楽しむことに他ならないのだから。



 ところが、いつの頃からだろう。「彼」が夢想する折に、語り掛けてくるものがあった。

「驚かないで聞いて。あなたはここを出て地上に行くことにできる、選ばれた特別な人間なの」

 と。知らない声だった。

 地上に行くことが出来る!? 本当だろうか。でも、どうやって? あれは一体誰なのだろう。どんな姿をしているのだろう。その人も地上に行ったことがあるのだろうか。

 「彼」はその都度身を起こすのだが、誰もいない。しだいに「彼」の胸はその声でいっぱいになる。「彼」は仕事時間を、落ち着かずに過ごすようになった。就寝時になると、再び声は呼びかけてきた。矢張りその声は「彼」に呼び掛けている。そう確信したとき、「彼」は微笑んでいた。


 それは「彼」が待ち侘びていた、同胞が経験したことのない「彼」だけの体験であり、シブリングに教えられることなしに得た体験であった。ゆえにそれはすぐに、仕事と睡眠の反復で流れ過ぎる日常へ、目覚ましい輝きをもたらす糧となった。「彼」は仕事の折にも、食事の折にも、ただ就寝の時間を待つようになった。訪れる声は、回数を追うごとに明瞭になり、やがては「彼」の瞼に、声の主の姿が浮かぶようにさえなった。

 それは子供だった。(ダス・ヴァー・アイン・キント)子供といっても幼児ではない。思春期の半ば、「彼」と同じくらいだ。まばゆい光の中、細い長い髪をまっすぐに垂らしていた。顔かたちは幼いのに、なんだか大人のような落ち着きを持っていた。それは「彼」が、シブリングの他に初めて見た、自らと異なる姿の人間だった。「彼」は現れたその子を、驚きと畏怖、そして強い関心を持って、来る日も来る日も見つめつづけた。その子は包み込むようにこちらを見つめ返しているように、「彼」には見えた。「彼」はいつの間にか、その美しい子供に焦がれていた。融通のきかないシブリングでもなく、「彼」と同じ姿の同胞でもない、その美しい子供に。


「地上に行きたい?」

 ある日その子は「彼」に問うた。「彼」は肯いた。力強く。その子は「彼」の手を取った。

 いつの間にかその子と「彼」は、見知らぬ場所に立っていた。

 青い空と、草原が広がっている。ほど近いところに、湖も見える。電子教科書でしか見たことのない光景だ。もう地上に辿り着いたのだろうか? 軽やかな足取りで、その子は走り出した。「彼」もそれに続いて走る。「彼」は無性にうれしかった。笑い出したかった。

 だが、突然その子は立ち止まる。そして足元の見慣れた物体から「彼」を庇うように、物体と「彼」の間に入る。悲しげに俯いて。その物体を「彼」は知っている。それは「守護者(ガーディアン)」だ。地上の呪いから住民を守るために支給されたという……。

 「彼」は訝しんでその子を見たが、その子はこんなことを言った。

「あれに気を付けて。お願い……」


 ここで「彼」の夢想は途切れた。


 「彼」は自分の寝室の中で身を起こした。紛れもない、自分の寝室だった。

「どこにいるの」

 「彼」はその子に問う。「彼」の足元には、「守護者(ガーディアン)」が変わらず据えられている。地上の呪いから人を守るという、小さな置物。これがいったい、何だというのだろう。

「大丈夫、ここだよ」

 やさしい声は傍にあった。その姿は空中に浮いているようだった。

「守護者(ガーディアン)……。この装置の本当の役割は、吸う者の思考を衰えさせ、その性質を従順にするための気体(ガス)を空気に混ぜること。……あなたたちにも、シブリングたちにも、それを吸わせるために。……中央管理局のシステムに疑問を抱かせないための、管理局の策略。だから、それを、……この装置を止めた人間だけが、この地下居住区から出て地上に行けるの」


 「彼」は動けない。

 それは今まで「彼」の周りに築かれていた世界が剥がれ落ちていくような衝撃である。「彼」の額と膝の裏には汗がわき出ている。極度に緊張していたせいか、聞きなれたはずのその声は、今までにないほど強烈に、まるでコンピューターがビジー状態に入った時に発する警告音のように、「彼」の頭蓋に響いている。

「どうして、そんなことを、知って……」

 言葉を絞り出しながら、「彼」はその子の瞳を、穿つほどまっすぐに見つめる。畏敬と感謝、信頼の気持ちからだ。その子はしかし、急かすように言った。

「これから守護者(ガーディアン)を、いいえ、毒ガス噴霧器を停止させるための暗号を告げる。決して忘れないでいて。そして、それを復唱して」

 そう告げるその子の声はまるで、声自体が実体をもっているかのように、「彼」を強く突き動かした。その暗号が聞こえるや否や、「彼」は興奮のあまり、ばねのように跳ねた。

 「彼」は薄闇の中、足元に顔を寄せ、「守護者(ガーディアン)」を手に取った。これは人を守るガーディアンなどではなく、毒ガスを噴霧する装置だったとは。「彼」は息をひそめる。これ以上この空気を吸いたくなかったのだ。

……自分はどうしてシブリングの言葉などを信じていたのだろう。そして、愚昧で哀れな同胞たちは、いつまで信じ続けるのだろう!

 さあ、あの言葉を口にすれば、自分は、自分だけはここを出て、地上へ……!

 「彼」は軽く息を吸い込む。

「細胞死(アポトーシス)」

 「彼」が迷いなく呟くと、「守護者(ガーディアン)」は小さな振動音を発し……。




* * *




 任務の後はいつも、そっと指を組む。神など信じていないのに。

 つい今しがた、私はこの地下居住区の集団に一定割合で生じる、地上への妄執に取り憑かれ、秩序を撹乱しうるエラー個体を自死に追いやった。当該個体の大脳皮質( Cerebral cortex)第一次視覚野(エリア・ヴィー・ワン)に映像と音声を送り込み、電気信号を介して語りかけることによって。「守護者(ガーディアン)」とよばれる装置は、エラー個体の活動停止に用いられ、ある暗号を伝えると致死量の毒ガスを噴出する。ガスは対象個体の呼吸器から体内へ侵食して、あっという間に死に至らしめるのだ。その後、当該個体の全身は、速やかに実験施設に移送される。そして、エラーの原因を組織、細胞、分子レベルで解析するために、研究者たちによって「有効に利用」されることになっている。 


 とうに慣れたはずの仕事だった。何しろ、子供のころから訓練を重ねてきたのだから。

 それにしても。私は画面に目を戻す。エラー個体が絶命するときはいつも、幸福な幻覚を見ていることを示す電気信号を発する。それは、地上の幻だろうか。いったい、不毛の場所、死の場所である地上のなにが、こうまでエラー個体たちを駆り立てるのだろうか。


……まずい。情報監視システムの不穏な揺らめきを感じて私は思考を断ち切った。地上に関心を持ったなどと管理局に報告されたら、私もエラー個体と判断され、遅かれ早かれ処分されることになるだろう。私は液晶画面にタッチして次の標的ファイルを開き、詳細情報を読み始めた。



(了)





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