金沢歩書
企画展などは当時行われていたものであり、現在は違う場合があることを念頭に置いてほしい
金沢と言えば、と問われて知っていたこととすれば、小京都と呼ばれること、いや、全国京都会議を脱退していることを考慮すれば呼ばれていたというべきで、武家文化の地と言うべきか。それから日本三名園である兼六園、加賀百万石、前田家。北陸の中心都市であるせいか何処か
つい先だっての十一月末、会社の都合で金沢に、またその午前中に富山で人事による催し物があるのだとのことで、一人北陸出張と相成った。その前日も次日も休日だったから、二泊三日の小旅行の気分だ。北陸と言えば、地元から真っ直ぐ北へのぼった地域(厳密に真っ直ぐ北へ上ると新潟なのだがその辺は言葉の綾)だ、十一月も下旬となれば雪が降っていても可笑しくはないだろう。地元も進学先もいう程雪が降る地域でもなかったから雪の時期も今一分からないし、一体どんな格好をするべきかもなかなか不明だ。出来るだけ温かい装備で行けば間違いないだろうか。如何せん、出身は風花ならまだしも、雪などと言うものはとんと降らず、降っても積もらず、五センチも積もれば大雪というような地域である。なおミリやセンチは降った内に入らないと青森出身に言われて割とガチ目に凹んだのは生温かい記憶だ。冬タイヤなんて免許取るときになって初めて知ったような世界の人間になんてことを。所で雪用のブーツは在ったほうがいいと言われたが、一体どう言ったものだろうか。
その日は予定していたよりも遅い列車に乗り込む。何てことはない、ただ寝過ごした。周りには、初めての出張ということもあり、前もって切符をとっておけと散々言われていたが、遠足前の小学生の理論でただでさえ悪い寝付きが更に悪くなるのは目に見えていたから行き当たりばったりと列車に飛び乗った。何時だったか、北陸新幹線が開通し、俺のようなずぼらな人間でも何とかなるようになって本当に有難い。飛行機で行くしかなかったら酷く困ったことになっただろう。それでも困ったことと言えば、全席指定席だとは知らず、自由席の券だけ買って、ホームに着いてから慌てたものだ。幸いにも列車内で指定変更ができたのだが。何はともあれ車掌には悪いことをした、今後気を付けたい。車内で朝食のような昼食のような、取り敢えず軽食をとる。出発が地下だった所為か、道中に長野を挟む所為か、耳が奥へ籠る。
斯くて昼過ぎに富山に降り立った。金沢で宿が取れればよかったのだが、丁度他に学会と被って一月前から金沢の宿は全滅だったのだ。学会怖い。兎に角荷物を宿へ預けて再び富山駅へ。所で駅内にきときと市場、とあって、きときとが方言なのはわかるが、一体どう言う意味なのだろう。
富山から金沢へは、急ぐ旅でもあるまいとあいの風とやま鉄道を利用した。小中学生の頃利用していた伊豆箱根鉄道三島駅が自動化されて以来実に十年以上ぶりに見る有人改札であった。当時の最寄り駅はいつからか無人駅だったし未だに屹度車掌回収だろうよ。閑話休題。富山駅は私鉄駅を新幹線駅が飲み込むような形をしていた。元からあった路線に合わせて建てられたのだろうが、それがどうにも不思議でならなかった。今から思うに、豪雪地帯だというのも一因だったのかもしれない、いや実際どうだか知らないが。
見慣れた田圃がそれよりも広く広がって、あんなにも眩しかった空が所々曇った。窓側にいたからかまだ耳は奥へツンと籠って、何度も唾を無理に飲み込んだ。聞き慣れないアクセント、見慣れない作り込みの街にふと目を奪われていく。この辺りは地元と同じくトンネルが多い。家々の背が低い。見慣れない、でも何処か懐かしい光景。段々田圃が広くなる。ふるさとは遠きにありて思ふもの、何時ぞやノートへ書き写した詩をふと思い出す。と、突然ばたばたと音がして背中側の窓が通り雨に濡れた。目の前の窓は曇りがちとは言え未だ晴れているというのに。
「……此処は山か」
地図を詳細に調べていないから分からないが、トンネルの多さからしても此処は山かもしれない。ところで十五時ごろに金沢に着けるらしい。となると二十一世紀美術館と兼六園、金沢城と見て回ったら他は殆ど見れないだろう。美術館や博物館で丸一日潰せるタイプの人間だ。地図から測る限り、迷わなければ室生犀星記念館に若しくは行けるか。一時間余裕があればまた話は別だったかもしれない。そう思うと寝坊が本当に悔やまれる。
……などと思っていたこともあった。ありました。何とか二十一世紀美術館へ辿り着いてみれば、一体企画展に何があったのか酷い人で、チケットを求めて並んでいる内に何処も見れなくなってしまいそうだった。せめて記念館の一つは見たい。よし、やめよう。外から見れるところをさっと見て回った後に、目の前の真弓坂から兼六へ……と思ったところで一枚のポスターが目に留まる。ライトアップと夜間拝観。兼六園と金沢城、両方見れるらしい。ならば此処は通り過ぎるに留めて、浅野川へ。一体、犀川を越えて室生犀星記念館に行く目論見はどうしたんだ、と問いたくなるような掌の返しっぷりだった。だって泉鏡花記念館と徳田秋声記念館が川を挟んでいるとはいえあまりにも近いから、うまくいけば二つとも見れると思って欲が出たんだ……
さて、俺をよく知る人には周知の事ではあるが、寺社仏閣と言った歴史的建造物、特に城郭を見て回るのが好きな人間である。遠征に行けばその土地土地でカメラ片手に歩き回る人間である。今回の事でいえば、富山城は車窓から覗くばかりで留まれなかったのが残念でならない。時間の都合と移動手段が赦せばちゃんと見たかったと思う。思い返せば、身近の城郭と言えば三島の中山城址、静岡の駿府城址と天守閣が現存しないか、端から存在しない城郭ばかりだった。幼少に見たのは西へ越していった友人を訪ねた際に見に行った姫路城くらいである。だからこそ形のある城郭へ、憧憬があるのだろう。夏に名古屋へ行った際も、地元の友人には、あれは鉄筋コンクリート造りで天守閣の形をした博物館のがっかり城だから見に行かなくてよろしい、と言われ、それを言われたら駿府城なんか(現在発掘調査で掘り返してるとは言え)ヘリポートだぞ、天守閣があるだけいいじゃないかと拗ねてみせたものだ。それはそれとして何処かの城を見る直前に、天守閣を背景に動物も見た記憶があるのだが一体あれは何処の記憶だ……。
兎にも角にも遠征の数だけ城を寺社仏閣を見てくる俺である。昼間の金沢城は通過に留めようと言いつつ忙しくシャッターを切っていた。然し兼六園沿いに堀の中を歩いているような気がするのだが、金沢城は涸れ堀だったのか……?(後から調べたことだが、嘗ては水濠で、明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになったらしい)あと、何か今まで見た来た城郭と違う、何が違うのかよく分からないが、綺麗なのだけども、激しく今まで見てきたのと何かが違う。綺麗と言うか、可愛いというか。何分感想が可笑しいというのは自覚しているのだが、どうにも相応しい言葉が出てこない。ただ、美しくて目を惹くのは確かだ。気になるから帰ったら夏の名古屋の写真や何年か前の大阪の写真を引き摺り出して来ようと思う。
話は変わるが、流行り物がどうにも苦手である。気になっていた書籍が映画化されたりメディアに取り上げられたりで一躍ブームになると、それきり読む気をなくしてしまう程度には流行り物が苦手だ。確か小林多喜二の蟹工船も同じ理由で手に取る事さえやめてしまった。だから本当に読みたい本については帯すら読まず、メディア関係の情報は浚わないように気を付けている。どうしてこうなったのか発端は随分と曖昧で思い出せないが、決定打は何年か前の大阪、あれは夏の名古屋と同じく単身関西へ特攻した時のことだ。当時スタイリッシュ戦国アクションゲームが火付け役となった戦国ブームの真っ只中で、今でいう刀剣女子のように、歴史に興味関心のある女性は歴女とメディアに名付けられて持て囃されていた。然し、然し。然しである。刀剣女子もそうだが歴女と言うのは「女の癖に歴史などに興味を持ったオタク」だとか「ゲーム発端の俄」と言った侮蔑を孕む言葉である。初心者殺しの言葉である。興味の発端はゲームだろうが小説だろうがドラマだろうがいいではないか。それが史実に沿っていようといなかろうと。生憎俺はそのどれにも当て嵌まらない例ではあるが。兎にも角にも歴女やそれに準ずるものは侮蔑の言葉である。自ら言うのなら兎も角、他人へ問うてはならぬ言葉である。目の前の少女を容易く呪い蔑む言葉である。何とも思わなかった流行り物を一気に嫌悪させる呪いに成り得る。実際成った。何で初めてあった人に嘲られなければならないのかと、観光を取りやめて帰ってしまおうかと思ったほどだ。恐らく、言った当人にはそんな気はなかったのだろうけども。
願わくば、俺のような人間がこれ以上増えないことを望む。何の道であれ、興味の入り口は何だって好いのだ。それこそゲームだろうが、漫画だろうが、小説だろうが、何であろうが。其処に貴賤はない。ない筈なのだ。
話が逸れた。石川門から五十間長屋を横目に三の丸広場を横切り、河北門から新丸広場を大手門へ抜けて、尾張町の交差点まで真っ直ぐと進む。ちらちらと真紅に染まった紅葉が美しい。金沢駅から尾張町の方へバスが出ているのは知っていたが、金沢城から尾張町の方へバスが出ているかは調べていなかったし、抑々時間的に行けないだろうと思っていたのだし、だからと言って駅まで戻るのもとてももどかしかった。気になるのは下ろしたばかりのブーツの強度のみである。駅で手に入れた観光マップを折り返し折り返し、浅野川手前の泉鏡花記念館を目指す。蓄音器館と言うのもとても心惹かれるものがあったが、全ては寝過ごした自分が悪いのだと、誘惑に後ろ髪を引かれつつ、左折。目の前のお宮の手前、その区画の奥にあたる家に、白い泉鏡花記念館と書かれた看板。辿り着いた、そう思った時だった。ぐずつきそうに、それでも降らずにもっていた空が遂に泣き出した。咄嗟に肩へ手をやる。普段ならフードの付いたコートだったからだ。然し朝慌てて下ろしたせいで、裏地は兎も角、フードをつけ損ねていた。
「畜生!」
思わず舌打ちする。傘を差さずともこの程度ならフードでどうにかなりそうだった。何より目的地は目の前だ。もたもたと鞄から折り畳みを引き摺り出すほうが煩わしい。兎に角眼鏡が濡れなければそれでいいと額へ腕をやり、入り口を探す。右折。あれ、入口らしきものが見当たらない。壁沿いに小走りになる。通用門だろう戸の傍に「入り口はあちらです」との札が掛けられている。月にうさぎの角提灯が可愛い。そうだけどそうじゃない。母屋と思わしき角の建物から姥目樫だろうか、生け垣が伸びる。お勝手だろう小扉を過ぎて隣接する建物の表情が変わる。本当に此処かと不安になる。いやでも電柱に泉鏡花記念館と書いてある。此処だ。ともすれば見落としそうな、小さな門へ駆け込む。
狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者多し。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少なし。あまりに門が小さくて見つけにくかった所為か、耳朶の裏側で囁く様に言葉が甦った。石畳を踏み切り、玉砂利が洗い出された道を急げば確かに奥まった建物に木製の看板が掲げられていた。いよいよ本降りと言わんばかりに雨脚を強める空から逃げるように屋根下へ駆けた。日照時間が短い地域だとは、曇りがちだとは、降水量が多いとは聞いていたが、まるで山のような天候の不安定具合だ。何度でも言おう、此処は山か。山なのか。金沢城は平山城だというのに!
15時半と少し回った頃の事だった。昔から喘息体質で、普段あまり走り回らないできたのが災いしてか、ぜいぜいと呼吸が耳に煩い。咳込まないだけましとは言え口の中が異様に乾く。受付へ行く前に少し咥内を湿らせた。
今回金沢に来るにあたり、あわよくば誰ぞの記念館をも見て回りたいなどと思って、改めて金沢三文豪の経歴やら作品(名)やらへざらざらと目を通してきてはいた。幸い、小学生の頃からの愛読書が古今東西の日本語を集めたようなものであったこと、開国期から戦後混乱期ほどまでの文豪をモチーフにした漫画やゲームが巷でよくよく流行っていることなどがあり、調べ物に困らなかった。とは言え、専らの関心は個人よりその背景だったせいか詳細はうろ覚えだ。
白を基調に、銀煤竹色が格子を作る明るい半和風の内装。丁度金沢市でスタンプラリーが催されているらしく、竜胆色の雪うさぎのスタンプが捺された二つ折りの台紙を渡された。明日以降多分自由に金沢を日中廻ってる暇はないだろうから、無駄になってしまうだろうな、と思う。この柄の缶バッジなどあればいいのに、可愛い。アンコウ博士なるもののパネルを横目に展示室へ向かう。住処から出れなくなったのは山椒魚だったか。受付の明るさと、展示室の仄暗さ、照明の差を楽しく思いながら浮世絵のような表紙の作品を眺める。時間と共に褪せるものもあるだろうに目に鮮やかだ。目の前に通路と半円の弧を描く壁、さてどう見て回ったものか等とふらふら歩いているとパッと視線の高さに明るくなる。ぎゃっと肩を竦めて慌てて半円の中へと逃げ込んだ。半円を抜けた辺りには、写真パネルやら楽屋着やらが並んでいた。紙製の煙管の吸い口カバーってそれはそれで雑菌繁殖しそうなのだけれども、当時の衛生観ってどうなっていたのだろう……布製ならまだ洗えるけども紙製だというし、燻すのだろうか。囲炉裏の上にある火棚で食品の乾燥・燻煙してたとも読んだことはあるが、そういう……?
企画展は丁度1世紀前の1917年が舞台で、大正6年の鏡花と銘打たれていた。演劇の話、次世代作家との交流の事、直前に読んでいた本の解説と被る部分もあり、あの話かな、などと思っていた。然し、はて困った。行き着けるか辿り着けるかと焦ったせいか、呼吸は整っても脳が焦った儘で、展示を読んでも目が滑り、資料を見ても題字以外は文字がぐるぐると網膜の上で廻ってうまく結像しない。今落ち着いて振り返れば、単純に血糖値が足りなくなってきてたのではないかと思う。然しそれに気付かぬ儘、俺はこの後数時間に及びお茶と1杯の甘酒以外口にしないまま歩き倒すのである。全く以って阿保の所業。
泉先生には申し訳ないが、資料だけ貰って、どれがどれなどと言う詳細は読めそうにないから諦めよう。心の内に合掌をした。月は晴れても心ァ闇だ。うさぎ可愛い。早稲田と分かれて久しぶりに揃ったとか言ううさぎがとても可愛い。卯が向かいだから酉の生まれか。俺の向かいははて何だったか。丑か。……丑かァ……。父親の干支にあたり、つい遠い目をした
泉鏡花記念館を出ると、雨はすっかり、とは言えないが上がっていた。やっぱり山かな此処、等と思いつつ浅野川大橋から東山茶屋街を臨む。西日になりかけたのが仄紅く空を染め始める。決して少なくない水量が斑に波立って端を白くしていた。
其処に至るまで、すっかり金沢が小京都と呼ばれていたことを忘れていた。新幹線が開通したためか、それより古くからなのか皆目見当はつかないが、殊に駅前から広坂へとバスで通った国道157号線の辺りはみなとみらいかと思わんばかりに近代的で、大手門から尾張町へ至る道は何処にでもある住宅街だった。道選びが悪いともいう。そうして臨んだ東山茶屋街は、京都的と言うよりは倉敷のような面構えで、然し嵐山の辺りだと言われれば納得できそうな感じだった。左から日が差す。川は背中から流れる、つまり南から北へと流れていることになるのだが、それが妙に懐かしいものに思えた。そうだ、川は南から北へと流れるものだった。生まれも育ちも太平洋側だったが、俺にとっては確かにそうだったのだ。
記憶から逃れるようにつと目を逸らす。丁度青の信号を小走りに渡り、浅野川を横目に逆流する。突き当りの辺りに徳田秋声記念館があるというが、突き当りの概念に微妙な不安感を覚える。在り大抵に言うなら、分かりにくい。明らかにここから先は余所者が気軽に入り込んでいい道じゃない、私道だ。そんな細さだ。手前の駐車場の立て札には「徳田秋聲旧居跡」。記念館のような標は近くに見えない。この細い道を進めと言うのか。正気か。折り畳んだ地図に曰く、この先の橋、梅ノ橋を過ぎた辺りだという。確かに離れた辺りに橋が見える。きっとあれだろうが勘弁してくれ。だけれども此処まで来た以上、引き返すのも阿保らしい。ええい、男も女も度胸が何ぼだ
斯くて、明らかに私道な狭さの小道を抜けた先に。果たして、あった。先の泉鏡花記念館と比べると、あちらが木造建築というか蔵造りの体を成していたせいか、昭和の頃の様式に思える。入り口から見える壁の大半が硝子の、開放的な個宅と言った感じで入りにくさは感じない。縁の濡れた石畳を叩く。そう言えば金沢は日本海側だ。所謂雪国だろう。保温性や強度的な問題で硝子面積がこんなに広くていいんだろうか……? 技術力の勝利……?
受付を済ませて、展示室へと振り返る。スタンプ台は兎も角、クイズラリーがある。珍しい。しかも丸バツの2択とは言え難易度別に3つもある。何てことだ。畜生、雑学魔クイズラリー大好き。思わず小さく叫び、鞄底に転がっているシャープペンを引き摺り出して、取り敢えず初級を手に取り、少し悩んで中級も手にした。上級は今の状態でろくろくできる気がしない。あとから思い返せば、提出する訳でもあるまいし、上級も貰うだけ貰って来ればよかった。脇に避けながらざらざらと目を通し、先に分かる設問を回答する。
ふと、誘われるように視線を傍へ逸らす。学習机のような、それにしては幅の狭いのが並んで二つ。机の上部には整然と並べられた書籍の詰まる棚があって、頭の方が重たい、地震が来た時に傍に居たくない感じになっていた。関連書籍が閲覧できる、その案内に視線を棚へ。花袋全集。他の自然主義派のもある。思わず二度見した。あまり個人記念館で当人以外の書籍を見ないのに、そう思ったところで、日本の自然主義の大家と呼ばれた文豪たちは殆ど同じ年の頃に生まれているのだったなと思いだした。
机から視線を引き剥がし、光を追うてと銘打たれたコーナーで生い立ちを追う。泉鏡花記念館でも徳田秋声記念館でも、互いの事にちょくちょく言及していて、川向うなどと呼んでいて、同郷の兄弟弟子かぁ、とつい視線を遠くへ投げてしまった。故郷のない人間には少し眩しすぎた。ついでに下から明るく照らされたパネルが目に痛かった。
再現された書斎をそこそこ、パイプやら煙草入れにそわそわしながら階段を上る。何でパイプや煙管はああも心躍るのだろう。移築や再現された部屋に心が逸るのだろう。丁度企画展「踊る文豪」の真っ只中の為か、ダンス草履などと言う物が踊り場辺りで目線になる辺りに展示してあった。底にフェルトが巻かれているというより何か全体的にフェルト製に見えるのは、これが復刻品だからだろうか。フェルトを巻く文化が当時からあったのだろうか。フェルトっていつ出てきたんだっけ。所で踊る文豪などと言われると、脳内で真っ先に会議が踊ってしまうのは欧州史選択の運命なのだろうか……。
階段を上がった正面、奥まっているように感じられる部屋は常設展示室らしい。クイズラリーに曰く、此処の入り口に梅の枝があるのだという。すっかり見落としている。入室した右側以外の壁に沿った展示スペース。壁に棚に、所狭しと書籍だ原稿だ仮面だ模型だが並べられていて、展示スペースはそれきり、部屋の中央はただ空間があるだけだった。通路を確保したら、この空間に台を置くスペースはないのだろうかと謎のもどかしさを覚えた。その隣にある映像コーナーも、西日が刺さるから置けるものは限られるだろうが、スペースの確保はできそうなのに。いや然し現状の資料の詰め込み方を見るに、展示スペースが増えたら増えた分何かしらを詰め込むに違いない。きっと現状が最適解なのだ。
クイズを埋めて、思い浮かんだもどかしさから思い切り目を逸らしつつ、常設展示室を出て左へ。床に貼られた運足図。縦に十字に四角に、白抜きと斜線の引かれた靴跡スタンプが、それを繋ぐような鉛筆の書き込みがなされた数枚のそれと、その先、二方向に窓のある角に立てられた踊る徳田秋声等身大パネル。相手を務める女性の顔が刳り抜かれているということは、よくある記念撮影用なのだろう。お一人様ご一行な上、誰かに頼むような度胸もない。そっと目を逸らした。書きたい事は山程あるが、考察だ何だを始めて収拾がつかなくなりそうなので此処も資料がとてもよく詰め込まれていたことだけに留めたい。壁以外、部屋中央などに台を設けることを是非検討してほしい。団体の来ることを考えると現状が最適解か
2問ほど答え忘れていたが、クイズラリーを済ませ、答え合わせをし、徳田秋声記念館を後にする。空はまだ、雲に乱反射して仄明るく、それでも暫く晴れそうな表情だった。きっと明日は行けないだろうなと事務の方に「お昼にどうぞ」と教わった近江町市場へ寄り道する。外を歩き通した所為か心なし冷えてきた気がする。どうして近江町と言うのかは分からないが、江とは
地図を片手にしても初見の地だ、冒険はしないほうがいい。大通りに沿って、兼六園を目指す。赤煉瓦作りの建物が左手に見えてくる。その頃にはもうすっかり辺りは暗くなって、赤煉瓦の旧制第四高等学校もライトアップされていなければ屹度見えなかっただろう程だった。さっきまで明るかったのに、と思ったが此処は日本海側、夕日は山に落ちるのだから暮れ始めればあっという間だ。真弓坂の梺に着いた頃、開場にはやや早かったが辺りはすっかり宵で、地元大学生だろう年の頃の若い衆やご夫婦だろう方々が連れ立って騒めく。関東とも東海とも異なる、やや聞き慣れないアクセントが溢れる。異邦人は確かに己のみなのだと影と闇を飲み込むような坂の上を見つめた。
17時半、開門。道の端には点々と灯篭が置かれてぼんやりと道が見える。ポイントポイントに白熱灯だろうか、一際明るい電燈が置かれて、少し離れたところからもよく見えた。惜しむらくは紅葉の付近に橙の電燈が置かれて葉が紅いのは紅葉なのか、電燈の色なのか判別着かないことだろう。満々と水を湛えた池はゆらと明かりを倒にした。浅い池底を仄暗く視認しながら、強烈な光源に照らされた倒の対岸が鮮やかに零れる。ふと、陰翳礼讃だったか、日本の美は暗闇にあって発揮される旨を読んだのを思い出した。鮮烈に、倒に、対岸の距離を以って揺らめく。昼間とは違う角度と温度の光を受けて鮮やかに咲くそれを、彼の人はどう評価して、どう表現したのだろう。群衆の影が裾を不揃いに黒塗りに潰していく。淡い、眩暈のような、網膜の上で景色が渦になるような感覚を覚えた。思わず日中を振り返る。お握りに菓子パンを一つずつの遅い朝飯を食べたきり、お茶と甘酒を口にした程度だ。思う所が無い訳じゃないが此処でどうにかできるものでもないし、時間も惜しいし、取り敢えず先を進もう。
一番の見どころと謳われる徽軫灯籠の辺りから霞ヶ池を迫り出して唐崎松を臨む一帯は、橋が極狭いというのもあって象徴的に混んでいて、唐崎松の辺りから橋の麓までずっと黒い影垣が蠢いていた。それでも一際明るく照らされた4つの吊り下げる覆い。丁度後ろを歩いていたツアーガイドが兼六園は11月1日から雪吊りや雪囲いをしているのだと言ってた。どちらがあれなのかなと思いつつ唐崎松を背中にする。雁行橋を傍目に七福神山を眺める。その先は急に冥がって果てのように思えた。屹度あの先は行けない、そう思って霞ヶ池を沿うように、栄螺山を左に、桂坂口を目指した。
石川門の手前、連絡橋から臨む金沢城を見て、黒いと思った。昼間に感じた違和感の一端が漸く分かった。石垣から伸びる櫓と城壁は、城壁の4分の3ほどの高さまで正方形を互い違いに積み上げた海鼠壁なのだ。海鼠壁と言えば、防火や防水の目的でなされる。今まで遠出してきたのも太平洋側ばかりで、所謂豪雪地帯の城は見たことがなかった。黒の面積を広くすることは、雪を解けやすくする効果も狙っているのだろう。四隅が黒く覆われているのもそのせいなのだろうか。面白い。中から外から煌々と照らされる五十間長屋を右手に鶴の丸休憩所を通り過ぎる。この先に玉泉院丸庭園とやらがあるらしい、が。道が二手に分かれているうえに案内がない(あるのだろうが、わかりにくい)。その上暗くて地図を見ようにも夜目がよくなく、はっきりしない。ええい、儘よ。こういう時は前の人に従おう。坂を登る。冷え切った意識の底がくらりと揺れる。随分荒れた風が出てきた。
果たして行き着いた先は三十間長屋であった。此処まで来てしまうと降りられそうにない、というか玉泉院丸庭園方向は通行止めになっている。振り返った道なり本丸紅葉のライトアップがその先でなされているらしいが、多分体力が持たない。やや逆走して通行止めになっていない階段を下る。丁度五十間長屋の裏側、二の丸広場の辺りに出る。と、妙に荒さを含んでいた風が遂に雨を含んで吹き出した。割と強い。慌てて折り畳み傘を出しながら、今度こそ庭園へ向かう。手摺の高さや道際に、何色にも色を変えながら燈される光がすっかり暗に慣れた目に眩しく突き刺さった。目の下で明るく色を変える明かりで、背中の三十間長屋とそれから伸びる急な坂と、目の前坂の行き着く先にぼんやりと浮かび上がる池泉回遊式庭園。音楽と音声が流れていた。冷たい風に吹き晒されて無防備な指先が凍えた。手袋などと言うものはどうにも苦手で、自転車に乗るときなど已むに已まれぬ事情がなければ滅多に着けない。どうしてか乾燥が酷い指先は容易にささくれて、手袋を着ければ引っかかって血が出るのだ。ハンドクリームはべたべたして余計に冷えて好きじゃない。
開放された休憩所は暖房が焚かれて暖かく、じりじりと染み入るように静かだった。紅く青く照らされる段になった石垣を背景に仄暗く浮かび上がる池面。ほぼ中央に配置された橋がその欄干だけが色を変えずに佇んでいる。筝曲と移り変わる主題。休憩所内の明かりをもう少し落としてほしい。湖面があるだろう辺りの硝子に映る自分が酷く邪魔に思えた。休憩所内から庭園に向かって左、ふと見れば庭側へ出られるらしい出入り口がある。10分弱だったか、半ば呆然と庭園を見つめていた。雨は大分気にならなくなり、ただただ吹き晒される指先ばかりが痛かった。思い出すような空腹に、見るべきものは見たと杮葺きの平屋を後にする。19時半になろうとしていた。
今乗り物に乗ったら絶対に寝る。確信めいたそれに道なり歩く。仄か遠くに見える赤煉瓦作りの建物を左に、片側2.5車線の道に突き当たり、右へ。見慣れぬ場所に出てしまう。そう言えば行きのバスも左手ばかり見て駅側の道を見ていなかったことを思い出し、ならばと右折する。暫くすると石垣に戻ってきてしまう。此処は何処だ。周りに人はいない。地図は簡易過ぎて訳が分からないし、昏すぎて手元の地図はよく見えない。目印になりそうなものは背後の合同庁舎。若しかして曲がる場所を1本間違えたのではないか。来た道を戻り、逆の道に出る。見覚えのあるローソンだ。右折。道なりに25分ほど、道中土産を求めながら歩く。どうせ明日も来るのだから今でなくてもいい気もするが、明日は何時まで拘束されるか今一分からない。早めに土産を見てアタリをつけておいて問題はないだろう。花うさぎは落雁が苦手でない限り外れようがないから自分用にもお土産にも買っていくこととする。そうこうする内に、見覚えのある鼓門が見えてきた。
夕飯をどうするか全く決めていなかったが、ふと出張が決まった際に母親が「そう言えば治部煮があるよ」と言っていたのを思い出す。すっかり忘れていたから店は調べていないが、郷土料理だというのなら駅でそれらしいものは食べれるだろう。兎にも角にも普段デスクワークの所為か足が痛い。お茶は飲んでいるから咽喉は乾かないが視界が段々乖離して薄く回り、夢現な心地になる。駅内の土産物屋を抜けて、奥まった場所にある飲食店街の和食屋へ滑り込む。土産物屋の辺りは20時に閉まるというから、この辺も似たり寄ったりだろう。
品書きを見ても何だか頭に入ってこない。味覚も何だかうまく働いてない気がする。しかし温かい事だけは確かで、それだけで何だかほっとした。
夕飯を済ませ、IRの切符を買う。JRではなくIRであることに物凄い違和感を覚えつつホームへ。ホームの先にホームがあるって何なのだろうなと思いつつ、富山行きに乗り込む。流石ターミナル駅、とでも言うべきなのだろうか。暫くもしない内にすっかり寝入り、気付いたらもうすぐ富山と言うところだった。
音なく降る雨は冷え切り、光に歪んで疲れた爪先に跳ねた
全国歩回 巡里恩琉 @kanataazuma
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