全国歩回

巡里恩琉

習作・深大寺歩書

※当作は第14回 短編恋愛小説「深大寺恋物語」へ提出した「追歩の夏」の習作である



 土の香りの弾ける、気の早い台風一過の六月、多磨から歩くこと暫し。濃く淡く仄明るい雨雲に覆われた天上は、恐らく何時しか見た仄濁った湿度の高い濃い蒼だろう。雨が未明まで降った所為でか地表で溺れそうな程濃い湿度の中、武蔵野の俤は今わずかに、と言われた入間郡からも遠い国分寺崖線へ野川の方へ足を延ばす。自分でも無茶をしているように思う。しかし明治の昔に国木田が、当時の渋谷村からこの辺りまで毎日のように歩いていたと言うから、やって出来ないことは無かろうと思ったのだ。まぁ、全く出来ないことはないが、かなり天気を選ぶように思う。

 地面が悪い所為か交通量は多く、風を切る車輪や発動機等の稼働音以外は濃い湿気に阻まれて自分の音ばかりだった。「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてある」が、この辺りはもうすっかり住宅地で、道の勾配に確かな崖を見るばかりだ。古く「月の入るべき峰もなし」と謳われた原野も、国木田が「林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか」と残した田園も、もうすっかり失われてしまった。その武蔵野の変遷を、谷戸からただじっと静かに見続けてきただろう、一際緑の濃い、崖に抱かれるような寺社へ着いた。

 石畳から階段を上がって、山門を潜る。萱葺の物珍しさに振り返って具に見遣れば、萱材は芯が詰まったり空洞だったりしている。屋根の上には幾らか草が芽吹いていた。長い時間によってなったようにも見えるが、芝棟と言い、棟の弛みをなくす為に意図的に木や草を生やすのだそうだ。確かに長くても三四十年で葺き替えると言うものな。ふと「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ」と台詞が思い浮かんだが、羅城門は果たして萱葺だっただろうか。瓦葺かもしれない。

 手水舎で手と口を漱ぎ、本堂へ向かう。香炉と手水舎とある場合はどうするのが正解だったかな、等と考えながら線香を求め、香炉の中へ落とした。濃い湿度に湿気ているのか、煙は思うほど出ず掌を嘗めさせるように翳すに留まった。鰐口のない事にやや戸惑いながら手を合わせて、お願い事も特にないので初めましてと挨拶する。

 境内はすっかり葉の季節で、雨が未明まで降った所為でか、地表で溺れそうな程濃い湿度の中、湿り濃くなった緑が鮮やかに憂鬱を描いていた。所々に歌碑句碑が色斑に半渇きの様相で佇み、御坊の辺りに大きく白抜きされたような花が艶やかに匂い立つ。終わりかけだろう花はそれでも馨しく、自分の手よりも大きい花葉は共に男の掌程もあるだろう。

 少しの間花の大きさを楽しんだ後、丁度先だってにひょんな事から購入した御朱印帳を珍しく持ち歩いていたので、忘れない内に頂こうと御朱印受付の案内に従って元三大師堂へ向かう。物心ついた頃から寺社へ詣でてきたが、まさか自分が御朱印をもらうようになるとは思っていなかった。抑々、御朱印帳をどこで求めるのか知らなかったのもあるし、両親が其処まで信心深いわけでもないのもあった。

 先に元三大師堂を詣でてから御朱印授受所へ向かい、三ヶ所分お願いをして、所定の金額を納める。少し、十五分ばかり時間が掛かると待札を渡されたので、寺領を見て回ることとする。参道で入手した地図に曰く、中々広そうだ。元々崖上の植物園も寺領だったと言う。荘園制度の名残だろうか。もしくは神仏混淆による鎮守の杜だとかそういうあれだろうか。

 ぐるりと崖上まで登る。暫く行けば植物園もあるそうだが、見える限りにはお堂の他に多少の墓地と、休憩処があるばかりだった。腹は確かに空いてきた。下の参道にも蕎麦屋は幾つもあったし、どうせなら店々を見て決めようと、道沿いに下る。そういえば、蕎麦掻などは聞いたことはあるが終ぞ食べたことはないなと思った。何はともあれ、まずは蕎麦だ。鉢植えを扱う店が二件ほど並ぶ。時期の手毬紫陽花が一部葉になっていた。

 東西へ長く伸びる参道まで戻れば湧水を起点に水路が走り、凡そ四角く広い池が池面穏やかに景色を倒にしていた。季節柄、合間合間に花をつける七変化の色が個々に程度を変えて、らしい詩趣を添える。決して少なくない水量が、人懐かしい音をたてて笑った。一陣の風が足元からすっと涼しくしていく。依然雲が切れず肌寒いくらいの気候だったが、長く歩き回った体には丁度良かった。

 週末らしい賑わいを見せる参道に並ぶ蕎麦屋へ、呼ばれるように入る。昼時を少し外した店内はそれでも混んではいたが、並んで待つほどでもなく、暫く悩んだのち、季節限定だとかいう冷やしたぬき蕎麦で昼にした。抑々この辺りは台地であるが故に稲作に本来向かず、江戸時代まで入会地として利用される程度、昭和も後半の高度経済成長期までは陸稲の糅飯を常食としていたと言う(それでも麦が七八割だったとか)。またこの辺りの湧水は冷たすぎて水稲には向かないが、蕎麦の打ちや締めには丁度良かったのだとか何とか。美味しいから気にしない。流石に冷えたのでお汁粉を追加で頼む。やや雑味のあるものが白玉代わりに入っていて、何とも言えない風味を醸し出していた。

 お会計を済ませた後、預けていた御朱印帳を引き取りに行き、腹ごなしを兼ねて延命観音の辺りまで見て歩く。木賊の深い木漏れ日に辺りは一層暗く、しかし湧水の影響なのか、天候の問題なのか、辺りは湿度の割に不快さもなく、ひんやりと静まっていた。もう少し後の季節ならきっと蒸して敵わないだろう。お堂の裏へ延びる道の先は暗く陰って、更に先が開けているのか、葉先が煌めく。その光景を傍目に、薩埵山のように生える崖沿いの道を、僅か登る。崖から突き出すように屋根が生えている。赤い幟でそこが観自在菩薩だと気付いた。内側へ照明がついていて、よく見られるようになっていた。

 一つの大きな岩だった。石と言うべきか。表面へ観音菩薩の薄く精密に彫られた大石は、説明板に曰く、遠く北の潟港工事で引き揚げられたものらしい。慈覚大師の刻と伝えられており、その保存状態も好く、海底に見付け、引き揚げたと言う物語も中々に思えた。よく疵付かなかったものだ。崖の中に押し込めるように祀られていて、場所も謂れも何だかひどく不思議に思えた。暫くの間呆けたようにただただ見つめていた。

 山門前の参道へ戻って、今度は東へ見て回る。深大寺廻りの名物らしい蕎麦や鬼灯、達磨に纏わるものが並ぶ中で、妖怪がいたり、焼き物があったりとなかなか興味深かった。

 水生植物園へ入り、一際低い辺りに出れば花菖蒲田が広がる。時期が遅いのか開花期間の問題なのか、濃く華やかな青や濃淡鮮やかな紫は疎らで剣先のような葉が目立つ。道向こうの木立から見える紫陽花や、遠く朝よりも色を濃くした雲と相俟って、物寂しく仄明るい梅雨の美しさを見せた。この時期の花は、心寂しくも優しい寒色であることが多いように思う。いや、この時期に寒色が好まれたから現代まで生き延びたと考えるべきか。

 右手に通路の張り出した池を見ながら道なり暫く行くと、奥に向かって一段高くなった辺りに木々が並び立ち、鎮守のような、境界の色を持っていた。木立を貫く道沿いに土手となり、百合だが姫女菀だかが群生する。振り返り見れば「林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい」と残された風景は、都市化の漸進に徐々に失われ、その規模を其々大分狭くしたとは言え、未だ確かに此処にあるように思えた。国木田に曰く、「林とても数里にわたるものなく否、おそらく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の畑の三方は林、というような具合」だったそうだが、此処に於いては其々一丁もない、せいぜい数間、数歩あるかどうかだろうが。

 そんなことを思いながら歩けば、先の大風でか、子供に踏み荒らされた狗尾草のように、荻だか葦だかが縦横無尽に薙ぎ倒されていた。近すぎるためか、視界いっぱいに唐麦より背の高い草の折り重なりのた打ち回る様を見てふと、網膜へ平安の幻を結像させた。それは一種の興奮を齎した。昔の人も見たのだろうか。「昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまい」とあるから、見なかったのかもしれない。だとしたら、勿体ない。ざわざわと揺れる。多分に湿度を孕んだ風が一際強く吹き上げて、短くない髪が耳元を擽るように巻き上がった。

 谷戸の水辺から上がれば、人の背より高い草は千里限りなく寂寞として、時に野分に吹き荒らされる。柔らかく時に産毛を裂く硬さで皮膚を払い、花々を隠し、人を惑わす。その間に、ざわめいた先に遠い山が、高尾が、富士が覗き、黄金の雲が煌めく。そうして己すら忘れる草原に、その上に太く細く月が昇る。多分に湿度を孕んだ青は色濃く、雲になり損ねた濁色の靄を纏って雲を継ぎ雲を裂き、光線を陰翳を掻き乱すのだろう。そうして一度火がつけばちりちりと軽快な足取りで燃え広がり、きっと後には何も残らない。ああそうだ、太古の昔から日本人は儚く脆いものに美しさを見出していたではないか。

 ぎりぎりの湿度を保つ空はその上の陽光を思わせる明るさで、乾ききらない地面に不確かな影を残した。遠く広がる水面は、柔らかく吹き過ぎる風で僅かに波立っていて、その縁を半夏生が白く斑に染め上げる。

 夏はもうこんなにも来ていた。

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