風鈴ちりり、朝顔ぱちん

円堂 豆子

風鈴ちりり、朝顔ぱちん



 その人は、夏の間だけ下宿していた学生で、金谷の大地主の屋敷に仮住まいをしていた。


 このあたりの人ではない顔立ちで、ひと目見ただけで、ふじは、金谷の町に出かけるたびにその青年を探すようになった。


 その人は、茶色の洋靴や襟のついたシャツを身に着けていて、学校の先生のような格好をしていたから、きっといい家の生まれで、賢い人なんだろうなあと思っては、薄汚れた下駄を見下ろしてため息をついたり。


 色味の少ない毛羽だった袖が目に入っては、お客様用のきれいな着物をわたしも着られたらいいのになあと、寂しくなったり。


 話したことも、目が合ったこともない青年を相手に、そばに寄ることもできそうにない自分の姿を思って、何度となく肩を落とした。


 それでも、今日金谷にいったら、道であの人とすれ違えるかな――そう思うだけで胸は高鳴ったし、その時を想像するだけで、唇の端があがる。


 青年は、ふじにとって特別な人だった。






 いつものように金谷にいって、母親が洗って縫い直したお客用の着物を届けるのに青年の姿を探しつつ、家々を回っていると、最後に寄った家で呼び止められた。


「ねえ、あなた。これから上原に帰るんでしょう? 金谷の大屋敷に寄ってこれを届けてくれないかしら。あそこに仮住まいしている学生さんの落とし物だと思うんだけど――あなた、知ってる? あのお屋敷には夏の間だけ泊っている若者がいてね――」



 はい、知っています。とてもよく知っています。

 金谷に来るたびに、その人の姿を探していますから――。



 言葉は喉元まで出ていたけれど、言ってはいけない気がして、知らないふりをした。


「これなんだけど――。たぶん、その子のだと思うのよねぇ。こんな上等なものは、たぶん都会の人の持ち物だと思うのよ。届けてみてくれないかしら」


 手渡されたのは鉛筆のような形をした文房具で、外国の物らしく、知らない文字が印字されていた。






 お客様への届け物はすべて配り終わって身軽になっているはずなのに、預かった文房具がやたらと重くて、ふじは、恍惚としながら道を歩いた。



 どうしよう、あの人に物を届けるなんて。

 金谷の大屋敷に――あの人が暮らしている屋敷の庭に足を踏み入れるなんて。

 あの人が庭にいたらどうしよう。もしも目が合ったらどうしよう。賢い学生さんに、なんて声をかければいいんだろう。



 はっと気づくと、文房具を包んだ指が汗をかいていて、青ざめた。



 どうしよう。あの人の物を汚してしまう。

 嫌がられたらどうしよう。おまえみたいな汚い娘に触られたくないって、突っぱねられたらどうしよう――。



 慌てて、風呂敷の中に残っていた千鳥柄の端切れで文房具を包んで、持ち直した。



 これなら大丈夫。汗はつかない。

 でも、早く渡してしまわなくちゃ。

 わたしが持っているだけで、あの人の物を汚してしまう気がする。

 だって、わたしは立派なあの人と違って、貧しい農家の娘だもの。

 身なりは粗末だし、学もないし。



 土で汚れた素足や下駄、母のお下がりの着物の袖が目に入るたびに、ふじは、大屋敷に近づいていくのが怖くなった。




 


 金谷の大屋敷はここら一帯の大地主の家で、大きな敷地はまるごと生垣で囲まれて、生垣の上には土蔵の白い漆喰の壁や、母屋の屋根がのぞいている。


 母屋より少し背が低い古い門があって、植木屋も酒屋も農家も大勢出入りをするから、昼間の間、門は開けっぱなしになっていた。


 でも今は、門の周りにも、その奥に広がる庭にも人がいなくて、しんとしていた。


 ただ、夏風がそよそよと吹いて、母屋の軒先にぶら下がった風鈴が、ちりん、ちりり……と風に揺れて鳴っている。


 母屋の玄関に朝顔の大鉢が置かれていて、大輪の花で門をつくるように二十も三十も花を咲かせていた。


 建物の立派さもさることながら、きれいに刈り込まれた生垣といい、色鮮やかに咲き誇る朝顔の鉢といい、どれも品がよくて、たどりついたものの、自分の姿を思うと、ふじは、門の中に足を踏み入れることができなかった。


 決心がつかないまま、門のそばにずっと立っているのもおかしいと思って、一度素通りして、少し離れた道の角まで歩いてみたり、戻ってみたり。


 もういっそのこと、文房具を端切れに包んだまま、門の前に置いてこようかとも考えた。


 そうすれば、会ったり話をしたりせずとも、落とし物を届けられる。


 でも――いま手の中にある文房具は途方もない宝物だ……堂々とあの人に会いにいける特別な切符のようなものだ――そう思うと、ふじの手は、かえってきゅっと握り締めるのだった。


 うろうろとしているうちに、遠くから寺の鐘が鳴るのが聞こえて、驚いた。



 もうこんな時間だ。

 帰らなくちゃ。どこで油を売ってきたんだと叱られる。


 もういい。仕方がない。

 門の前に置いて立ち去ろう。

 


 意を決して、もう一度門の前へと道を戻った時、ちょうど同じ道を向こうからやってくる青年を見つけた。


 どこかへ出かけていた帰りなのか、その青年は四角い洋鞄を手に提げていて、考えごとをするようにうつむいて歩いていた。


 周りが見えていないようで、ふじは顔を真っ赤にしていたけれど、青年はふじに会釈をすることもなく通り過ぎようとした。


 目が合うこともなくすれ違いかけた時、思わずふじは、声をかけていた。


「あの――」


 青年はすぐに足を止めて、振り向いた。


 青年は驚いたような顔をして、ふじの顔をじっと見つめている。


 呼び止めたものの、ふじは、次にかける言葉を咄嗟に思いつかなかった。


「これ……落とし物です。預かりました――」


 小さな声でぼそぼそと言って、千鳥柄の端切れごと差し出すのが、精一杯だった。


「落とし物――僕の?」


 青年の視線がふじの顔から逸れて、手元に下がる。


 たちまちふじは、逃げるなら今のうちだ、もう二度と目が合ってはいけないと、怖くなった。


 青年は怪訝そうに差し出された端切れに手を伸ばしたが、手渡したのかそうでないのかわからないうちに、ふじはもう端切れから手を放して、背を向けていた。






 駆けるような早歩きで山里への道をたどりながら、ふじは泣いた。


 家に帰ってからも後悔してたまらなくて、思い返すたびに悲鳴をあげたくなった。



 どうしてあんなふうに、突きつけるような渡し方しかできなかったんだろう。

 あなたの大切な物を汚してしまったかもしれません、ごめんなさい――と、謝ることもできなかった。

 きっと、嫌われた。無礼な、へんな娘だって思われた。どうしよう――。



 自分に嫌気がさして、夜中の布団の中でも、幼い弟を寝かしつけている時でも、何度も同じ光景を思い出しては涙をこぼした。






 十日ほど経って、また金谷の町に着物を届けにいくことになった。


 前までは浮足立つほど楽しみだったのに、行き道を歩く足は重かったし、金谷の町が近づくたびに、口からはため息ばかりがもれる。


 なるべく人の目につかないように逃げるように家々を回って、でも、やっぱり気になるので、帰り際にとぼとぼと大屋敷の前を通ってみた。


 その日も、よく手入れがされた生垣の前の道は人の気配がなくて、静かだった。


 夏風に吹かれた風鈴の音色だけが、ちりり、ちり……と響いている。



 よかった、誰もいない――。



 いくらかほっとしつつ、古い門の前を素通りしようとした時、ふと目に入ったものがあった。


 覚えがある千鳥柄の布がきれいに畳まれて置いてあって、風に飛ばされないようにするためか、丸い石が乗っていた。




 たしか、文房具をくるんでいた端切れだ。

 どうしてこんなところに――。




 吸い寄せられるようにして近づいてみると、重しの石の下に、端切れと重なって封筒が置いてあるのがわかった。


 ふるえる手で石をよけて封筒を手にとってみると、かくばった品のいい文字で、こう書かれている。




『ペンを届けて下さった方へ』




 封筒を手にしたまま、しばらく見つめた。



 きっと、青年からの手紙だ。たぶん、自分宛の――。



 ふるえる指を落ち着かせながら、茫然とした時。後ろから、人が近づいてくる気配がした。


「そうです。あなた宛の手紙です。持って帰ってやってください」


 振り向くと、十日前に会った青年が立っていた。目が合うと、青年は照れ臭そうにうつむいて、はにかんだ。


「どうか、持って帰って下さい。たいしたことは書けませんでしたが、四回書き直したんです。――それで、あの……あなたの名前を聞いてもいいですか。また会えますか」


 いったいなにが起きているのか、わからなかった。


 目の前に憧れた青年が立っていて、自分を見ている。その青年が書いたという手紙を手にしていて、そのうえ、名を聞かれている。


 ふじは真っ赤になって、首を横に振るしかできなかった。


 

 名前など、伝えられません。

 あなたのような賢くて立派な方に名乗る名も、そばに近づけるような姿も、わたしにはありません。


 どうか、そばに寄ってしまった無礼を許してください。

 もう近くにはいきませんから、どうか、これ以上わたしを嫌わないでください――。



 ふじは手紙を握り締めて、逃げ出してしまった。





   ◇◇





「先日は、私が落としたペンを届けて下さって有難う御座いました。

 このペンは父にもらった大切な物で、大変助かりました。

 是非お礼をしたいので、次に見かけた折りには声を掛けて下さい。池田恭一郎」




 古くなって黄ばんだ便箋をそうっとひらいて手紙を読んだけれど、ふじは、その手紙がいつのものだったか、思い出せなかった。




 池田恭一郎? 池田さん、池田……。


 誰だったかしらね。おじいさんの友達だったかしら。

 ううん、この封筒がしまってあったのは、おじいさんに嫁ぐ時に持ってきた飾り木箱だから、きっとこの手紙は、お嫁に来る前にもらったものね。

 さあて、誰だったかしら。池田さんねえ……。




 何十年かぶりに蓋を開けた飾り木箱の前で首をかしげていると、軒先に吊るした風鈴がちりん……と音を立てた。


 ちりり、ちりん……と夏風が吹くたびに揺れる澄んだ音を聞いた途端に、ずっと昔、ふじがまだ十五か十六か、少女だった頃に聞いた風鈴の音色も思い出した。


 風鈴の音色だけでなくて、夏の風に吹かれたことや、まあるく刈り込まれた生け垣越しに見つめた立派なお屋敷の堂々としたたたずまいや、夜中に悲鳴をあげかけたのをこらえたことや、憧れ続けた青年と目が合った後で逃げ出したことや――。


 朝焼け空の色をした朝顔の花がぱちんぱちんと咲き誇っていくように、ふじの頭の中に色鮮やかに咲き乱れた。


「思い出した。池田恭一郎さん。そうだ、あの学生さんだわ」


 ふふふ、と笑い声が込み上げた。



 いったいどうしてまた、こんな物を後生大事にとっておいたんだろうね。

 しかも、おじいさんと結婚した時の嫁入り道具に持ってくるなんて、わたしはなんて浅ましい娘だったんでしょうねえ。

 お見合い結婚で、お嫁入りの時はおじいさんのことをよく知らなかったから不安で、お守りのつもりだったのかしらね。


 懐かしいけれど、これはもう要らないものだから、捨ててしまいましょうね。

 ああ、懐かしい――。




 笑いながら、くず入れに手を伸ばした時だった。


 くず入れは文机のそばにあったので、机の上に置いてあった手鏡がちょうど目に入った。


 覗きこんでみると、鏡に映るのは、七十五を過ぎておばあちゃんになったしわくちゃの顔だった。


 いやだわ、すっかりおばあちゃんになったわねえと、鏡を見るたびに笑う自分の顔。


 でも、ちょっと唇に紅をさせば、あら、ちょっと可愛らしくなったわねえと胸が弾む、長い付き合いのある顔だ。




 せっかくだし、今日はちょっと口紅でも引いてみようかしら。おばあちゃんだけど。

 口紅、口紅――。




 口紅を手に取るのにまず手鏡を置いて、くず入れに捨てるはずだった手紙の封筒も置いてしまおうと、化粧道具箱の隙間に差し込んだ。


 めったに使わないコンパクトや口紅の隙間にちょこんと立てられた古い手紙は、まるで、ずっと前からそこにあったように気取って見える。


 だから、ふじはふふっと笑った。



 あらいやだ、いい居場所が決まったわね。

 そうね。少女時代の思い出は、お化粧道具のようなものだものね。



 赤い口紅を愛用の道具で丁寧に塗って廊下に出ると、ちょうど孫娘とすれ違った。


「おばあちゃん、おしゃれして、どこかに出掛けるの?」


 目ざとく見つけて声をかけてきた孫娘に、ふじは「あらいやだ、おばあちゃんなのにね」と笑った。


「庭に出掛けるの」


「庭に? 庭に出るのにおしゃれしたの?」


「ええ、そう。朝顔に水をあげようかと思って。さっききれいに咲いたからね。きれいに咲いてくれてありがとうって、おしゃれをしたの」


 ちりん……と涼しい音色を響かせる風鈴の下には、朝顔の鉢を置いていた。


 ふじが庭で世話をしている朝顔は、思い出にあるような大輪の花を咲かせる種類ではなかったけれど、それよりずっと色鮮やかで、大きな花をつける朝顔が、ついさっきたくさん咲いたからね――と、ふじは胸で思って、笑った。



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