エピローグ:幸福論

 憂鬱な気分で、教室の扉の前に立つ。しばらく、杉越の家やカフェで寝起きしていたせいで、遅刻してしまった。

 扉の向こうでは、僕抜きで授業を進める先生の声がする。とても入りづらかった。

 さらに、ずっと学校をサボっていた事も思い出す。一応、ここ数日は風邪を引いていたという事になっているし、美女平先生にカルテを捏造してもらったりしたので体裁上は何も問題はない。

 だが、何日も休んだ後に出席すると、何だか変な注目を集めるんじゃないかと思って、どんどん扉を開ける気力が無くなっていく。

 おそらくは、誰も僕みたいな奴の事は気にしないと思うが、それでも妙な気まずさはぬぐい切れなかった。

 自分の右足を見る。今や包帯は一切れも残っていないが、足の調子が悪いということでもう一日サボる事にした。扉を背にして廊下を戻る。

 しかし、このまま家に帰る気にもなれなかった。何だか別の事がしたくなって、僕は別校舎に向かった。

 そのまま、最上階へ向かう。初めてこの階段を使った数日前を思い出しながら、登っていく。さっき思いついたばかりの言い訳が使えなくなったが、どうでもいいかと足を進めた。

 その時の僕は、憂鬱を通り越して少し自棄やけになっていた。

 最上階に辿り着き、解放されている屋上の扉を無造作に開ける。先生に見つかったらまずいと思い、『鍵』で扉を閉めた。『鍵』による後遺症も知った事ではなかった。

 扉を閉めた後、そのまま扉に背をもたれて、空を見上げる。あの日と変わらない、屋上の開放感ある風景に少しだけ心が癒される。

 ふと、僕は何をしているんだろう。という気持ちになった。

 こんな風に、屋上をサボり場に使ったとバレたら、この屋上は使用禁止になってしまうだろうか。そうしたら、杉越や演劇部は僕をどう思うだろう。

 でも、もうこの扉に『鍵』を使ったからには、この『鍵』でしか開けられないし、今更悔やんでもしょうがない。

 そう考えていると、背中を預けていた扉から、圧力がかかる。振り返ると、扉がわずかに開いていた。

「ん?そこに居るのか。ちょっと退いてくれ」

 言われるがままに、扉から体を離す。現れたのは、杉越だった。

「やぁやぁ、何か人影が見えたから来てみると、やっぱり遥だったか」

 杉越が手を振りながら僕の名前を呼ぶ。

「お前、どうやってその扉を……」

「ああ、『左過時計』を使って、開いている状態に『戻した』」

「いや、お前……」

 その『時計』を自分以外の何かに使うと、その分自分の寿命を消費するという事を忘れてしまったかのような口振りだ。

 もう、この『鍵』をむやみに使うことはやめようと思った。

「まぁ、一人ぼっちの悩める少年少女が居れば、何としてでも隣に居てやるのが、大人というものさ」

 大人……こいつの実年齢を聞いたあの日から、杉越は僕の同級生である態度をあまりしなくなった。その代わり、保護者というか、人生の先輩みたいな態度を多く取った。

 その上から目線に苛立つ事もあれば、何故だかそれが、ありがたい時もあった。

 ため息をついて、もう一度空を見上げる。もし死後の世界があったとして、織川加奈は天国に行けただろうか。

「……なぁ、杉越。何で織川加奈じゃなくて、僕を生き返らせたんだ……?」

 空を見上げて、杉越に視線を向けないまま問いかける。

「何度も説明しただろう?彼女が死ぬ前に、自分ではなく君を助けてやってくれと、僕に願ったからさ。僕は何かとレディファースト主義者なんでね。彼女のお願いの方を優先させてもらった。それだけさ」

 杉越が何でもないように言った。

 僕は空から視線を降ろし、杉越へ振り返った。

「だから、何で……!」

「その事について謝る気もないと、既に言ったはずだ」

 杉越が僕の台詞を遮る。

「……織川加奈は、僕を救ったと思うか」

「いいや、彼女が居なければそもそも君が死にかける事も無かったんだから。そんな事はないよ。強いて言うなら、君は僕に救われたのさ」

「……お前は不老不死だから、ノーカウントだ」

 やれやれと、杉越がわざとらしく手を平に振る。

「どうやら君は、救った救われたに固執しているようだけれど、君にとって『救い』って何だ?」

 僕にとっての、救い。

「命をかけて救うのも、お手軽に救うのも同じ『救い』か?大人数でやればその価値は分散するのか?というかそもそも、命さえ救えばいいのか?例えば、君の思い通りに織川加奈が生き残ったとしても、彼女がこの先幸せな人生を送ったとは思えないな」

 杉越に問われて、何だかよく分からなくなってくる。関ヶ原も織川加奈も、僕が一人で救ったのではない。杉越や他の誰かの助けがあったからこそだ。

 それで、どう計算したらいい?僕の収支はプラスマイナスゼロにならないのか?

 いや、そもそも、織川加奈に至っては救ってすらいない。命も、心も。

「……いや、心に関しては、彼女は君に救われていたと思うよ」

 今度は、杉越が空を見上げた。

「嬉し涙を流していたから。今度こそ本当に、私に優しくしてくれる人が出来た。って」

「……そんなんじゃないっ……。僕はただ、彼女を、収支合わせに使おうとしただけで……」

「なんでもいいさ。それでも、君に価値を感じる人間は居るよ」

 杉越はまた大人びた目で、僕を真っ直ぐに見つめた。

「僕は、君を優しい奴だと言っただろう?そして、そんな君にくだらないややこしい悩みを持って欲しくないとも言った……」

 君が、君の両親の最期から感じ取ったものは、もっと単純なものだったんじゃないかな。

 杉越は、そんな風に呟いた。

 そこで、両親の顔を思い出そうとしてみたけれど、出来なかった。あの時は、あんなに鮮明に思い出せたのに。

「あ、ここに居た」

 杉越の後ろから、新たな人間が屋上に訪れる。関ヶ原だった。

「……何で来た」

「まだあなたに恩を返してないわ。それまであなたの側を離れる訳にはいかないもの」

「一年と二年じゃ同じクラスになれないだろうが」

「その事を相談しに来たのよ」

 関ヶ原が扉を閉め、僕の前に近付いた。

「お、じゃあ遥。今年は二人で留年しようか」

 杉越が面白半分で提案する。……面白半分だろう。

「ナイスアイデアね。それ」

 関ヶ原が真顔で乗っかる。真顔だから分かりづらいが冗談だろう。……冗談だろう。

「なぁ、関ヶ原。その恩は僕じゃなくて、別の奴に返してくれ。全人類がそうすれば……」

「却下よ。意味が分からないわ。何故あなたからの恩をあなた以外に返すの。それに全人類にそれを従わせるなんて理想論よ。世の中には人の害悪にしかならない人間も居るわ。あなたが一番知っているでしょうに」

 即座に切り捨てられてしまった。こうまで否定されると自信を無くす。あの時はあんなに清々しい気分で、これこそが僕の答えだと思えたのに。

 でも、何だか関ヶ原の考えも分かる気がした。僕も両親が生きてさえいれば、他の人に返そうとせず、生きた両親に恩を返そうとしただろう。

「……やっぱり、似てるかもな。僕達」

「そうね」

「そうだね」

 色々な事があって、色々な事を言われて、頭の中がぐちゃぐちゃだった。何も論理的に考えられない。何が正しいか分からない。

 けれど、今日までずっと感じていた息苦しさのような物はもうなくなっていた。

 とりあえず、もう一度父さんと母さんの顔が思い出せるようになるまで生きてみようと思った。

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悪魔の鍵と幸福論 牛屋鈴子 @0423

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