沈まない太陽はない⑤

 カフェに帰るために、夜の森の道を歩く。関ヶ原に肩を持ってもらっているとはいえ、右足を怪我していては歩きづらくて仕方がなかった。

 織川加奈は、倉庫に置いてきた。彼女自身が、一人になりたいと言ったのだ。

「……本当に、一人にしてきて良かったのか」

 あの倉庫は、彼女にとって最も辛い場所のはずだ。それに、彼女の話を聞いていると、どうも彼女は自分自身を低く見ているようなふしがある。

 自殺……あの泣き声を思い出すと、それも十分あり得るだろうと思う。

「何回でも戻せるとはいえ、好ましい事ではないね」

 杉越が腕の『時計』に目をやった後、静かに夜空を見上げた。

 彼女を、織川加奈を想う。今、何を考えて、何をしているのだろう。

 彼女の心、その全ては分からない。僕には友達は居なかったけど、辛いいじめを受けた事も、殺人鬼の手伝いをした事も、あんなに酷い裏切りを受けた事もない。

 けれど、僕も両親を亡くした事がある。彼女にとっては、不幸の中のほんの一部、欠片のような出来事なのだろうけど、その一欠片だけ、僕は彼女の痛みを理解することができる。

 炎に包まれた車の中で、僕だけが脱出したあの瞬間を思い出す。あれは、心臓を内側から炙られるような痛みだった。

 彼女は今、あれの何倍もの痛みを抱えているのだ。僕よりも、一回り小さな体で。

「なぁ……関ヶ原」

 ずっと僕の肩を持ってくれている関ヶ原に語りかける。

「何かしら」

「さっき僕に、『この娘をどうしたいの』って、聞いたよな」

 関ヶ原が黙って僕の言葉の続きを待つ。

 静かな夜の森の中だからだろうか。自分の声が、やけにはっきりと頭に響いた。

「僕はあいつを救いたい」



・・・・・・



「あー……疲れたぁー」

 時は夕方、場所はカフェの前。僕の怪我を違法に治療した半闇医者の美女平先生が、疲弊しきった声を出す。その声はカフェの向こうの崖へ落ちたように、どこへ反響する事なく、崖下から聞こえる小さな波の音にかき消された。

 先生の隣では、カフェ『GIFT』のオーナーである栗原さんも、軽くため息交じりに首と肩を回していた。

「それじゃ、私達行くから」

 栗原さんが背筋を伸ばしなおして、僕の方へ向き直った。

「はい。ありがとうございました」

 深々と二人に頭を下げる。

 この二人には、場所提供やら治療やらでとてもお世話になった。今日だって、栗原さん達に手伝ってもらわなければ、こんなに早く作業を終わらせる事が出来なかっただろう。

「おーう、その、頑張れ!少年!」

「うん。気張れ」

 手を振って僕に言葉を投げかけながら、二人は街へ降りる森の道へ去って行った。僕はそれを見送りながら、もう一度頭を下げた。

「……さて、僕らも行こうか」

 杉越が関ヶ原に呼びかけ、栗原さんの後を行こうとする。

 しかし、関ヶ原は僕の側から離れようとしなかった。

「……関ヶ原さん」

 二度目の呼びかけにも、無視を貫いた。

「関ヶ原、説明しただろ。この作戦は僕一人きりじゃないと成功しないんだって。それに、僕以外は必要ない」

「嫌よ。どうしてもと言うなら、私があなたの代わりに『鍵』を使う」

 きっぱりとした声だった。

「どうして、あなたが命をかける事を見過ごさないといけないの。何度言わせるのよ。私はあなたに恩を返さねばならないの」

「……恩とかそんな大層な物、感じなくていい。僕はただお前をおぶっただけだよ。だから、今まで肩を持ってもらっただけで、恩返しは十分だ」

 右足を関ヶ原に見せる。肩を持ってもらって助かったのは、本当だ。しかし関ヶ原は反対の姿勢を解かなかった。

「十分かどうか決めるのは私だわ。これも前に言ったはずよ。私の命の使い方は私が……」

「だったら、僕の命の使い方も、僕が決める」

 関ヶ原の言葉を遮る。すると、関ヶ原は上手く言葉を続けられないでいた。昨日とは立場が逆だ。

 僕は、関ヶ原の恨むような目を見て、諭すように言った。

「それにどうせ、お前が神になれば皆天国で再開できるんだろ?」

 少し真顔が解けて、ハッとした顔をしたかと思うと、関ヶ原は僕から顔をそむけた。

「……いつもは馬鹿馬鹿しいとか言うくせに、こんな時だけは、都合の良い事を言うのね」

 そう言って、指先で目尻を撫でた。涙を拭いたのか、ただ手を顔にやっただけなのか、顔をそむかれてはよく分からなかった。

「覚えておきなさい。あなたが私を助けた事、きっと天国で、命をかけた甲斐が有ったと思わせてあげるわ」

 関ヶ原は、そう言い放って去って行った。

「……斬新な捨て台詞だな」

 栗原さん達同様、森の道へ行く関ヶ原の背中を見送る。小さく手を振ろうとしたけど、照れくさくてやめた。

 そして、僕と杉越の二人が、カフェの前の空間に残った。

「……ほら、お前も早く行けよ」

「……君は最後までツンツンしてるなぁ」

 杉越が気まずそうに、頭を掻く。

「その……何か、責任を感じてしまうな。僕が君を誘わなければ、こんなことには……」

「いいよ。謝るな。むしろ……」

 ありがとう。と付け足した。少しぶっきらぼうな言い方になってしまったかもしれない。こういうのは、まだ慣れない。

 すると杉越は、初めて会った時のように、僕をこの事件に巻き込んだ時のように、いつものように、笑った。

「まぁ、中々楽しませてもらったよ」

 それじゃあ。そう付け足して、杉越も僕に背を向けた。少し寂しげな態度だった。

 じゃあな。と僕が言うと、杉越が背中越しに手を振った。

 そして、カフェの前は僕一人になった。



・・・・・・



 僕は、落ちる夕日を眺めて『その時』を待った。

 夕日が沈むのが好きだ。月が見えるのが好きだ。この好みは、完璧な安全を目指す事をやめても変わらない。

 その理由はきっと、根本的というか、単純な物で。綺麗だから好き。それだけなのだろう。

 多分、これから僕は死ぬ。この前のようなまぐれはなく、今度こそあのハリネズミに殺される。

 カフェの前の地面に座り込み、今までの人生を振り返る。どうだっただろう。

 あの日、両親に助けられ、僕だけが生き残って、歪んだ物差しで平穏に生きてきた今まで。

 そして、悪魔であるガガと『鍵』を契約してから、安全バーの無いジェットコースターみたいな、とても平穏とは言えないここ数日。

 どちらが好ましかったかと問われれば、僕はどちらも嫌だ。

 もう安全に固執していないとはいえ、危険を好んでいる訳ではない。ここ数日の出来事を思い出すだけで、何度も背筋が震える。

 かと言って、自分の物差しが歪んでいると気付いた今は、今までの自分を哀れに思わずには居られない。

 この数日があったからこそ、僕は僕の歪みに気付いたのだ。関ヶ原を助けたり、何かを残すこともなかっただろう。

 そして、僕なりの、新しい答えを導き出す事もなかった。

 そう考えれば、杉越や関ヶ原と過ごしたこの数日も、好ましいとは言えなくとも、僕にとって必要な時間だったと言えるだろう。

 杉越と関ヶ原の顔を思い出す。出会ったばかりの頃は、絶対に抱くことはなかった感情が、胸に小さく宿る。

 あいつらと一緒に居るのも、悪くなかった。

 けれど、これからあいつらと過ごす事はない。

 僕はお人好しで、そのくせ神様の力を持たない普通の人間だから、織川加奈を見過ごせないし、命をかけなきゃ人を救えない。

 立ち上がって空を見ると、そこにもう夕日は無く、白い月が浮かんでいた。

 人がいくら過去に想いを馳せても、時は変わらず未来へ進む。

 そして、『その時』が来た。

「悪魔の気配がします」

 ガガが人型に戻り、僕に呟く。するとすぐに森の道から足音が聞こえた。

 右手を隠しながら振り返ると、そこにはハリネズミが立っていた。

「……来たな。ハリネズミ」

「よぉ、鍵野郎」

 ハリネズミが、余裕たっぷりの笑みを浮かべて僕と対峙する。それもそうだ。ここには僕一人しか居ないのだから。

 織川加奈は昨日、家の中の僕らを襲った。僕らがあの家に居る事を知っていたから、ハリネズミにそう聞いたから。

 つまり、おそらくハリネズミは僕らの動向を探っていた。例えば、森の道と街の境目を見張ったりしていたんだろう。僕らが前にそうしたように。

 しかし、僕らの居場所がこのカフェだと分かってもハリネズミは襲って来なかった。返り討ちにされるからだ。

 杉越の『時計』と、ある程度の人手。これらがあれば僕らを一方的に殺戮する事は不可能だったからだ。また引き分けか相討ちになるだけだったからだ。

 そのパワーバランスを、わざと崩す。僕以外の全員をこの崖の頂上から遠くへ行かせる。

 僕ただ一人になれば、ハリネズミにとって厄介で便利な『鍵』を奪う、もしくは封じる絶好のチャンスになり、ハリネズミをおびき寄せる事ができる。

 そしてそれはたった今成功した。ここまでは作戦通り。

「パーベ。ここにはあいつしか契約者は居ないな?」

 ハリネズミがそう言うと、後ろから一人の少年が顔を出した。

「うん、道具の気配も一つだけだよ。前に見た悪魔が居るし、多分『鍵』だね」

 パーベと呼ばれた少年が、僕の隣に立つガガを指差した。

「ま、『時計』を持つ奴が独りぼっちっていうのはないだろうな」

 ハリネズミが僕の手元を見る。右手は、半身の腰の後ろに隠している。

「……その右手は?」

「……さぁな」

 ハリネズミが体を傾けて、僕の腰の後ろを覗き込もうとした。しかし、この距離からでは見えないだろう。

「まぁいい。『時計』さえ無ければ、対等に交渉できるだろ」

「……交渉?」

「ああ、今までお互いに見逃し合って来ただろう?だから、許してくれないか、俺を」

 許す?何を言ってるんだ。こいつは。

「いやぁ、俺にも悪い所はあったよ。殺人は法律で禁止されてるんだもんな。それを自分の気持ちや都合だけで破っちゃったりして悪かった。そりゃルールを破ってる奴を見逃したらしょっ引かないといけないもんな。すまん!」

 ハリネズミが手を合わせて、僕に頭を下げる。僕はその動作が酷く不釣り合いな物に見えて、動揺した。

「でもさぁ、お前らだって酷いぜ。ゲームやスポーツだって人殺しと同じ『趣味』なのに、俺の人殺しだけはダメだって言うんだからな」

「同じ、趣味……?同じなわけないだろっ!」

 叫ぶ。しかしそれは、森の中へ分散し、どこにも響かなかった。

「怒鳴るなよ、俺の話を聞けって。今回の件は俺だけが悪いんじゃない、不平等な社会が悪い。だから、今回の事だけは許してくれ。次からはちゃんとお前らの手をわずらわせる事なく誰にもバレずに、細々とやるから。お前達も真実さえ知らなければ、幸せに生きていけるだろう?」

 そう言って、ハリネズミはにこやかに笑いかけた。

 真実さえ知らなければ、幸せに生きていける……昔の僕なら、どう答えただろう。しかしそれはもう、関係のない事だ。

 僕は、今の僕としての答えを、ハリネズミに叫んでみせる。

「いや……真実を知らない事は、それだけで不幸だ。お前の言ってることは無茶苦茶だよ!」

 地面を蹴り、ハリネズミの下へ距離を詰める。



・・・・・・



 腰のホルダーからビー玉を三個掴み、鍵野郎の腹部を狙って投げつける。そして着弾するタイミングで、ビー玉に俺の意識を集中させて『ペン』の能力を発動させる。

 ビー玉から針が全方位にびゅんびゅん飛び出す。鍵野郎はそれを防御する素振りも見せずに、針の雨を浴びた。

「がっ……」

 短い悲鳴を残し、走る勢いそのままに、鍵野郎は前のめりに地面に伏した。這いずり、体にいくつもの細い穴を開けながら、俺を見上げた。真っ直ぐ投げたつもりだが、暗さと距離のせいでまたもや心臓や肺は無事で、即死には至らなかったようだ。

 しかしこれも計算通りだ。すぐに死んで、『鍵』を悪魔に回収されては困る。あの『時計』で救ってやれる猶予を作ってやらなきゃいけない。

「あーあ、三度目にしてついに交渉不成立だ。こりゃもうどっちか死ぬしかないな」

 本当に残念だ。俺みたいな少数派を切り捨てる社会も、それを支持する愚かな大衆も最悪だ。せめてこいつらだけでも、俺と同じだけ頭が良ければよかったのに。

 倒れた鍵野郎にゆっくり歩み寄りながら、ホルダーをじゃらじゃら鳴らして恐怖心を煽る。

 これであいつが、生かしてくれ。と、命乞いでもしてくれたら、俺としてはとても楽しい展開になるのだが、鍵野郎は黙って、這いつくばりながら俺を睨むだけだった。

 目の色にも絶望は見えない。おそらく、ここからまだ何か策があるんだろう。こいつ一人でここに残ったんだから、これでおしまいな訳がない。

 まぁ、その策にも大体の見当は付いているが、とりあえず針爆弾を周りにばらまいてみる事にした。

 さっき鍵野郎の体に起こったことが、辺り一帯にも起こる。

「何を……してるんだ……?」

 鍵野郎が俺に問いかける。

「一応、罠がないかクリアリングしておこうと思ってな」

 カフェの前の空間全体に投げてみたが、何かが破れたり折れたり千切れたりする反応はない。どうやら特に罠は仕掛けられていないようだ。そもそも、昨日の今日で大した仕掛けなんて打てないだろうが。だから来たのだ。

「罠はなし……じゃあ、その意味深な右手かなっ」

 俺がここに来た時から、鍵野郎が隠していた右手に針爆弾を投げる。地面にだらんと投げ出された両腕は、実に狙いやすかった。

 そして針爆弾は完璧に命中し、鍵野郎の両腕をズタボロにし、千切れさせた。何を持っていたとしても、もうそれを使う事はできないだろう。

「ふん……随分、怯えてるんだな……」

 しかし、痛覚がさっきの攻撃で壊死しているのか、鍵野郎の様子は変わらない。息絶え絶えになりながらも、俺を煽る。誘う。右腕はブラフだったようだ。

 その勝気な様子を見る限り、まだ鍵野郎の策は失われていない。だが事前に仕掛けられた罠はなく、右腕にも何もないとなれば、あいつらの取り得る策は、限られてくる。

 十分、対処が可能だ。

「怯えちゃなんかいない。それじゃあ今からお前の『鍵』を奪わせてもらうとしよう」

 鍵野郎に向かって、一歩踏み出す。すると、鍵野郎の表情に、微かに笑みが宿る。釣れたと思っているのだろう。さらに一歩進むにつれて、鍵野郎の笑みが濃くなる。

 さながら、俺が罠にかかる寸前の狸にでも見えているようだ。暗い中でも鍵野郎の顔からあいつの感情が手に取るように分かる。演技するつもりがないのか?まぁ、こんな状況でポーカーフェイスをしろというのも難しい話なんだろう。

 実際俺も、さっきからニヤつくのが止まらない。ふと気を抜けば大声で笑い出してしまいそうだ。

 さらに歩を進める。すると、とある場所を境に、鍵野郎の表情に不安の色が映るようになった。

 さっきまで歩数と共に濃くなって行った笑みと対照的に、今度は歩数と共に、表情に不安が募っていく。グラフにすれば、綺麗な逆Vの字が出来上がっているだろう。俺のグラフはずっと右肩上がりだ。

 そして、鍵野郎の数歩前で足を止める。血の匂いが感じられる距離まで近付くと、表情の機微がより鮮明に見える。積み重なった不安という感情は完全に、恐怖になり替わっていた。実に俺好みの顔だ。

「……っ、な」

 鍵野郎が、一文字だけ呟く。俺はその一文字だけで、こいつが何を言いたいのか分かった。

「何で、俺があらかじめ決めておいた範囲まで来たのに、織川加奈は俺に『輪』を使わないのか。か?」

「……!」

 鍵野郎が目の色を変える。その震えが、体の下に出来ている血の水たまりに小さな波紋を作った。

「お前達が考えることなんてお見通しなんだよ。時計野郎が加奈を助けるのもお見通しだし、お前が囮役になって、『輪』で奇襲っていう作戦もお見通しだ。俺もやった奴だもん」

 数日前、加奈に時計野郎を襲撃させた作戦を思い出す。あれはあいつらが『輪』の存在を知らなかったから成功した。その存在も、対策も知っている俺には通用しない。

「ようは、加奈をもう一回殺せばいい。あの『時計』が戻すのは二十四時間前、俺が加奈の首に『ペン』を使ったのは一ヶ月前、つまり、加奈の首には変わらず黒い線が引いてある。それをもう一度発動させればいい」

 今頃、倉庫の中は血の池になっているだろう。

「もう一度戻しても、俺は能力を発動させ続けているから、そのまますぐ死ぬ。だから『輪』は使えない。……すると、時計野郎は『時計』をお前に使う。お前は助かる。俺はお前の『鍵』が使える。という訳だ」

 まぁ、予定通りに『輪』を使えていたとしても、あの出の遅さじゃ、俺に致命傷を負わせられたかどうかは五分五分だろうが。

 最後の数歩を詰め寄る。罠はない。腕も動かせない。『輪』も頼れない。もうこいつに策はない。

 鍵野郎を真下に見下ろす。

「さぁ、『鍵』を出せ」

 鍵野郎の顔を覗き込む。しかし、その表情は俺の期待から大きく外れていた。

 その顔は、笑っていた。

「……だったら、お望み通り出してやるよ……!」

 鍵野郎が、口元に『鍵』を咥え、地面に突き立てた。

 すると、俺の足元が、大きく『開いた』。二メートル半はありそうな穴に、俺の体が落ちる。板や、それを押さえていた鎖、錠、カモフラージュの土が、一緒にガラガラと落ちてきた。

「落とし穴……!?」

 こいつ、俺が腕を狙うのを読んで、いや、わざと右腕に意識を割かせたのか。それであらかじめ『鍵』を口に含んでいたのか。

 上から、鍵野郎が覗き込んでくる。さっきとは顔の位置が真逆だ。

「頭は狙わないと思ったよ……。僕が即死したら『鍵』が使えなくなるし、何より、お前は死にそうな人間を見るのが、好きだから」 

 鍵野郎が、見透かしたような視線を俺に投げかける。

 いや、待て、それよりも。さっき周辺を針爆弾でクリアリングしたばっかりだぞ。もちろんこの位置にも針爆弾を使った。普通なら壊れるか、落とし穴の一部が露呈するはず。何でだ……?

 そして、鍵野郎の勝ち誇った顔を見て、思い出す。

 あの『鍵』で閉じられた物は、閉じている間、頑丈になる。

「っ、これがどうした!別に、登れない高さじゃねぇ!それに、お前が動けない事にも変わりはない!」

 語気が勝手に荒くなる。尋常じゃなくイライラする。この感覚には覚えがあった。

 それは、さっき思い出したばかりの、あいつの策にはまってしまった時の感覚だった。

「……お前は一つ、勘違いしてるよ」

 鍵野郎が、勝ち誇った笑みを浮かべたまま、口を開く。

「ああ!?」

「織川加奈の『輪』は、契約者しか使えないんじゃない。契約者の側じゃなきゃ使えないだけなんだ。……つまり、例え契約者自身が死んでも、その側に居るなら誰でも『輪』を使用することができる」

「悪魔の道具の気配がするよ」

 パーベが、鍵野郎の台詞の終わりに被せるように、俺に道具の存在を告げた。そして同時に、空間の歪みを、背後で感じた。

「……っ!」

 いくら『輪』の出が遅くても、こんな狭い穴の中じゃ避けられない。

 いや、まだだ!攻撃の出所が分かれば、回避は不可能でも、防御ならできる。

 思いっきり体を後ろに捩じる。空間の歪み、『輪』の発動の前触れを視界の端に捉える。『輪』は、いつか時計野郎を刺した時と同じ、俺の背中を狙っていた。

 腕を折るような勢いで、背中へ回す。それは見事に、『輪』からの攻撃を受け止めた。

「ふっ、どうだ!俺はまだ……っ」

 その時、突然、体の自由が奪われた。口を動かすこともできなくなった。

 この現象にも、覚えがあった。俺が楽しむために呼び寄せた人間達と、同じ状態。

 ……『憑き札』。まだ、あの時の余りを持っていたのか。

 体が勝手に動く、何も意識していないのに、体がいつの間にか落とし穴を半分程登っていた。その時、穴近くに横たわる鍵野郎が、目に映る。こいつ、もしかして俺に『札』を素手で受け止めさせるために、わざと『輪』の事を喋ったのか……?

 いや、いや、まだだ。俺がここから生き残る方法はまだ残っている。あいつらは体を自由に動かせない俺を殺すつもりだろう。だが、俺の服には、あらかじめ『ペン』で針を無数に仕込んである。

 俺の『ペン』の発動条件は俺の意志。そして、俺の意識はこの通り『札』を貼られても無事だ。仕込み針の鎧を上手く使えれば、あいつらの攻撃を防御できる。

 目的地、『マーカー』の位置に到着できれば、この『札』は消える。解除される。そこまでどうにかできれば、俺の勝ちだ。

 そうこう考えている内に、俺の体は落とし穴から完全に抜け出て、崖の方を向いた。

 ……ちょっと待て。この『札』は、今どこに向かっている?

 落ち着け、情報を整理しろ。『マーカー』はA、B、Cの三つ。Aは『憑き札』の契約者の手のひら。Bはあいつらの内のチビ女の首元。Cは鍵野郎の右手の指……。

 そして俺は、鍵野郎がこの夜、俺に右手を一度も見せなかった事を思い出した。

「沈め、殺人鬼……お前が殺した人達と、同じ場所へ……!」

 そんな言葉を背後に、俺の体は柵から身を乗り出し、遥か下の水面に落下した。

 俺が最後に見たのは、水面に映る、俺自身の死にそうな顔だった。 



・・・・・・



 ぼちゃん。という音が、夜の海に響いた。

 作戦は、問題なく成功したようだ。今頃ハリネズミの体は、『輪』で遠い海に捨てた、僕の指先へ漂っているはずだ。

 いずれ杉越が、ハリネズミの死を確認して、織川加奈の死体をもう一度『戻す』だろう。僕ではなく、彼女を。そう頼んで、杉越は了承した。

 淡い希望を持って、体を動かそうとしてみる。けれど、やはり駄目みたいだ。千切れた腕だけではなく、足も首も一切動かない。

 寝返りを打つことも出来ず、体の下に広がる血の絨毯の感触が、ずっと体にへばりついていた。

 さっきの台詞は、ちゃんと口にできていただろうか。口を動かせたと錯覚しているだけかもしれない。まぁ、どちらでも良い事だが。

 いつの間にか、心臓の音が聞こえない。さっきまでどくどくとうるさいぐらいだったのに。

 いつの間にか、目の前が真っ暗になっていた。さっきまで痛みで視界がちかちかしていたのに。ついでにその痛みも感じなくなっていた。

 このまま、僕は死ぬだろう。いや、もう既に体は死んでしまっているのかもしれない。人間の脳は死んだ後も一時間ほど意識が残ると聞いたことがある。今の僕は、そのロスタイム中なのかもしれない。

 それとも、もしかするとここが関ヶ原の言う、死後の世界なのかもしれない。そんな考えを自嘲したくなったが、鼻を鳴らすことはできなかった。

 けれど、そうやって笑おうと思えるくらいには、僕は清々しい気分だった。

 両親の、最期の顔を思い出せたからだ。何故今まで忘れていたか不思議なくらい、鮮明に思い出せる。

 父さんと母さんは、最期に笑っていた。安心していた。

 僕を、救えたからだ。

 僕という二人の生きた証を、確かに残せたからだ。自分達の人生が無駄ではなかったと、胸を張って死んで行けたからだ。その証明を、僕に託すことが出来たからだ

 あの頃の僕は、きっとそれを重圧のように感じたんだと思う。父さんと母さんの分まで、立派に価値ある人間として生きていかねばならない事を。

 それに怯えて、僕は無意識の内に歪んだ物差しを作ったのだ。

 だけど、僕は最後に気付いた。向き合った。その重圧に。そして、見事それを果たせたと思う。

 関ヶ原奏と、織川加奈を救えたからだ。

 ああ、父さん、母さん。父さん達の死は、父さん達が命がけで守った僕という命は、無駄じゃなかった。父さんと母さんを死なせてしまった分、別の二人の命を救った。これで、僕の収支はプラスマイナスゼロだ。

 今度は、あの二人がきっと、僕らの人生が価値のある物だったと証明してくれる。

 だからもう、僕も安心していいんだよな?

 ……勝手だろうか。自分の答えを、そのまま誰かに押し付けるだなんて。

 けれど、人から受けた恩を、その人に返して終わらせるんじゃなくて、また他の誰かに返すようにしたら。それを世界の全員ができたら。

 今すぐにでも世界が平和になるような。そんな素晴らしい幸福論であるようにも思う。

 それが、僕の答えだ。

 だから、関ヶ原。申し訳ないけれど、その恩は僕以外の誰かに返してくれ。そうしたら、僕がうれう事はもう何もない。

 何故だか、不意にまぶたがもう一度開いた。夜空に浮かぶ白い月を、僕は静かに、安心して眺めた。

「でも、それで遥さんまで死んでしまっては、プラスマイナスゼロとは言えないのでは?」

 薄れゆく意識の中、ガガの声が頭の中に響く。

 うるさい。今、いい気分なんだ。静かにしてろ。

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