沈まない太陽はない④
「あなたが、姉さんを殺したの」
両親の葬式が終わった夜。叔母は、喪服から着替えないまま、私にそう言い放った。
「……おい、何を」
「この娘は、悪魔なのよ」
叔母は、叔父の制止も聞かずに、強く冷たく、私を睨んだ。
「死体に、大きな裂け目が有ったと警察が言っていた。そんな事できるの、あなただけじゃない」
「……違う。よ」
二つの恐怖が重なって、上手く口が動かなかった。
「じゃあ、警察の言う通り、あなたのお兄ちゃんがやったのね?」
「っ、やめろよ、加奈ちゃんの前で」
叔父はそう言った後、しまった。という顔で私を見た。
警察の、言う通り?お兄ちゃんが?
「……違う。違うよ。私もお兄ちゃんも、殺したり、してなんか」
「じゃあ、誰が姉さんを殺したのよ……っ!」
叔母が、わなわなと震える手で、ゆっくりと自分の頭を搔いた。
「……加奈ちゃんは、あの日、お前と一緒に居たんだろう?それに、子供にあんな事できる訳ないじゃないか」
叔父が、私の代わりに反論をする。しかし、叔母は一切様子を変えなかった。
「でも、この娘は『ワープゲート』を使えるの。だから、遠くから姉さんを殺したのよ」
「……いくら君の姉さんが死んだからって、そんな八つ当たりするなよ。こんな子供に」
叔父は叔母の言葉を嘘だと思っているようだ。しかし、私が『輪』を持っているのは事実で、私は何も言えなかった。
「あなたが、姉さんを……姉さんを……!」
叔母の表情がどんどんと、険しくなっていく。私は、怖くなって家を飛び出た。
「加奈ちゃん!」
背後から叔父の制止が聞こえた。けれど構わずそのまま、兄が居る公園を目指して走った。
あの日、兄を追いかけて走った事を思い出して、涙が出そうになった。
どうして、こうなってしまったんだろう。
倉庫の扉をドンドンと叩く。お兄ちゃんに直に会いたかったし、今『輪』を使うのは何だか嫌だった。
「……お兄ちゃん」
私がそう呼びかけると、倉庫の中からくぐもった声が聞こえた。
「……加奈か。どうした」
私は、叔母に憎まれている事をお兄ちゃんに話した。
「そうか……。だったら、俺のせいって事にすればいいよ」
お兄ちゃんは、少し悩んだ後、そう言った。
「その『輪』の事も、本当は全部俺の事だったって言えばいい。俺はもう行方不明なんだから、都合いいだろ?」
「でも、そしたらお兄ちゃんは……?」
「俺は……そうだな、
「そんな、物乞いって……ダメだよ。私、叔母さんにちゃんと話してくる」
私は、倉庫から離れた。
「あっ、おい、加奈!」
あの家から出てきた時と同じように、お兄ちゃんの制止も聞かずに、叔母夫婦の家へ戻る。
お兄ちゃんの言う通りにするつもりにはなれなかった。何とか、叔母にも許してもらって、お兄ちゃんと一緒にあの家に住ませてもらおうと思った。
前みたいに、きっと幸せに。
叔母夫婦の家の扉を開くと、叔父が出迎えてくれた。
「ああ、おかえり。さっきはごめんね、加奈ちゃん」
「ううん……」
叔母は、叔父の後ろで俯いていた。
「あ、あの……」
叔母に向けて口を開く。けれど、いざ面と向かうと、何と言えばいいのか分からなくて、ただ唇が震えただけだった。
お兄ちゃんを今まで匿っていた事。それと、私とお兄ちゃんの無実。それをきっぱりと言葉にしようとしても、今日までに肥大しきった恐怖と決意が、私の口を重たくする。
また、具体的な言葉も思いつかなかった。
「……もう十二時を回ってる、今日はもう寝よう」
叔父が、固まる私の頭を優しく撫でた。叔父の言う通りにリビングを出ようとすると、後ろで金属の擦れ合う音がした。
振り返ると、叔母が包丁を振り被っていた。
「ひっ、ぃ」
私は咄嗟に、『輪』を使って、叔母へ包丁を跳ね返してしまった。
私を目掛けた包丁は『輪』の入り口に吸い込まれて行く、咄嗟の事で、ろくに道具を操作できなかった私は、出口を叔母の体の前に出してしまった。
包丁が勢いを保ったまま『輪』から放り出され、叔母の腕を裂いた。
「あ……」
叔母の腕が、だらんと垂れた。
それから、とても大きな悲鳴が聞こえた。
「あ、ああ」
「ううう、うぅう……ぅ、あ、悪魔、悪魔!」
叔母が、眼力だけで肉を裂きそうなほどに私を睨んだ。そして、腕から血を流したまま家から駆け出た。
叔母を、この『輪』で傷つけてしまった。他ならない、私が。
「……違う」
叔父に振り向く。
「ち、違うの、違うんです。あの人が投げてきたから、こうなるなんて、こんな」
涙を流して、叔父にすがる。
しかし、叔父は床に落ちた叔母の血を眺めて、顔を青くしていた。
「……ごめん」
それから数日経って、叔父が家の物を取りに来た後、叔母夫婦は二度とこの家に戻ってこなかった。
次の日、学校に行くと、私の上履きがなかった。
職員室でスリッパを借りた後教室に行くと、私の机に、大きく『悪魔』と書かれていた。
「……何これ」
教室を見回しても、返事は返ってこない。
「ねぇ」
それでも、視線と嘲笑だけは私に注がれていた。とにかく、机をこのままにしちゃ駄目だと思って、クラスの雑巾を取った。
涙をこらえながら雑巾で文字を擦っても、先生も友達も、誰も手を貸してくれなかった。
寂しくって、辛くって、耐えらなくって、終礼のチャイムが鳴り止まない内に、走って学校から飛び出た。
家に帰っても、余計に寂しくなるだけだから、昨日お兄ちゃんが言っていた公園へ向かった。
お兄ちゃんは倉庫から出ようとしていた所だった。
「……お兄ちゃん」
「あ、加奈。昨日は……加奈?」
お兄ちゃんには、その時の私がどう映っただろう。
私は、必死に涙を堪えていた。それがどれだけ上手くいったか分からないけれど、とにかく、お兄ちゃんは私をすぐに抱きしめた。
「お兄、ちゃん」
それから、優しく私の背中を撫でた。
「どうした、何か嫌な事あったか」
「お兄ちゃん、私」
「大丈夫、大丈夫だぞ」
穏やかなお兄ちゃんの声が、腕が、心臓の音が、とても心地よかった。
「お兄ちゃんは何があってもお前の味方だからな」
涙が溢れて、止まらなかった。
「私、私」
あの日、お母さんとお父さんが死んでから、今まで、ずっと誰も私を抱きしめてくれなかった。真に優しくしてくれなかった。
でも、見捨てないでくれた。裏切らないでくれた。お兄ちゃんは。お兄ちゃんだけは。
私は、お兄ちゃんのために生きると改めて決意した。
「お兄ちゃんは、私が守る。叔母さんからも、警察からも、学校の奴らからも。だから、ずっとここに居てね」
「なぁ、今日はここで一緒に寝ないか?」
いつも通り、『輪』を倉庫に繋いで食料を届けようとすると、お兄ちゃんがそんな事を言った。
「何か人肌恋しくなってさ。ダメか?」
「う、ううん!行く行く!」
お兄ちゃんに求められた事が嬉しくて、スキップで倉庫まで走った。
倉庫を軽くノックして、預けられた鍵を使うと、内側から扉が開いた。
「やぁいらっしゃい。狭い部屋だけどごゆっくりどうぞ」
「えへへ、お邪魔します」
倉庫の中に入って、バレないように扉を閉める。少し埃っぽかったけど、お兄ちゃんが隣に居たから大丈夫だった。
「いつも会うのは『輪』越しだから、こうやって直接会うのは結構久しぶりだなぁ」
お兄ちゃんが懐かしむように私の頭を撫でた。嬉しかった。
「最近はどうだ?辛い事はないか?」
あれから何年も過ぎて、私は中学生になっていた。それでも、嫌がらせは無くならなかったけど。
「ううん。毎日お兄ちゃんとお話してるから大丈夫だよ」
「……そうか」
お兄ちゃんが、優しく微笑んだ。
「お兄ちゃんは?最近何かない?」
「そうだなぁ。もうそろそろ、俺は死んだ事になってるよなぁ。顔つきも変わってきたし」
顔をさする。確かに、あの頃とは大分違う顔に成長している。
「ずっとお前の世話になってるのも悪いし、何かしようかな」
少し、遠くを見るような目付きだった。私はそれが何だか怖くって、お兄ちゃんの手を握った。
「そんな、悪いなんて思わなくていいよ。でも、お兄ちゃんが何かしたいって言うなら、私も一緒がいいな」
「……そうだな。きっと、お前も一緒だよ」
お兄ちゃんが、手を握り返してくれた。私は、安心して、目を閉じた。
そして、その日はもう眠った。
次の日、目を覚ますと、両手が倉庫の柱に手錠で繋がれていた。両足も動かせなくなっている。
そして、お兄ちゃんが居なかった。
「……え?」
「起きたか」
半開きになっている扉の向こうから、機械的な声が聞こえた、ボイスチェンジャーだろうか。
誰か居るのだろうけど、倉庫の中からは見えない。
「ね、ねぇ、何これ。お兄ちゃんは?」
「お前の兄貴は俺が誘拐した。お前が命令を聞かなければ、お前と一緒に殺す」
一人称が俺……という事は、扉に隠れているのは男なのだろうか。変声機を用いている事を差し引いても、淡々とした、感情の読めない声だった。
「お、お兄ちゃんはどこ」
この『輪』を使えば、どうにか……。
と、そこまで考えたところで、機械的な声が私の考えを遮った。
「兄を助けようなんて思うなよ」
半開きの扉から、私にも見えるように男の腕が現れた。腕は林檎を持っていて、林檎には黒い線が真横に一周していた。
パチン、と指が鳴らされると、その腕が持つ林檎は、黒い線を境に真っ二つになって、上半分が手のひらからこぼれ落ち、地に落ちた。
「俺の『悪魔の道具』だ。線を引き、そこから内側に刃を具現化する事ができる。この線がお前とお前の兄の首にも一周している。いついかなる状況でも、俺はお前達を殺せる」
斜めになった下半分の切り口から、果汁が一滴、地面に落ちた。
そういえば、首に何か、首輪が巻かれている。そのせいで確かめられないが、もし男が言っている通り、私の首にさっきの線が引かれていて、それが刃に変わるのなら。
兄の首が、地面に落ちる所を想像する。地面に落ちた林檎が、兄の首に錯覚した。
それだけは、避けなくてはいけなかった。
「誘拐した、って、何で」
「お前の『輪』が欲しい。利用したい」
「『輪』……?」
「今日の夜、十一時、お前が最初に住んでいた家の部屋に、『輪』を繋げろ。後、大きな声や物音を出すな。命令を破ったらどうなるか、もう説明したよな」
男はそれだけ言うと、倉庫の扉を完全に締め切った。
「やっ、ねぇ、ちょっと……」
さっきの言葉のせいで、大きな声が出せない。扉越しのくぐもった足音が聞こえ、やがてそれは遠ざかって行った。
私は言い知れぬ恐怖の中、兄の事を思った。
倉庫の扉の隙間から、白い光が中に差す。月明かりなのか、街頭なのか、倉庫からは分からない。
とにかく、体を捩りその白い光で腕時計を照らす。液晶には、10:58と映し出されていた。
自分の部屋を、強く思い浮かべる。両親が死ぬまで、使い続けた部屋。
「……『降輪』」
男の言う通りに、『輪』を使い、部屋と倉庫を繋げる。『輪』越しに部屋の景色を見ても、あの時の机やベッドはなく、ただただ殺風景が広がっていた。
数秒すると、部屋のドアが開く音がした。『輪』の繋げた向きのせいで、開く様子は視界に入らなかった。
「お、命令通りに使ったな。よしよし」
今朝聞いた機械音声が『輪』を通して倉庫の中に響く。
「腕を片方だけ自由にしてやる。こっち向け」
男が命令する。もちろん、これも逆らえば私とお兄ちゃんは殺されてしまうのだろう。素直に体をくねらせ、『輪』から手錠を弄れるようにした。
そして『輪』から、あの時と同じ腕が私の手錠へ伸び、鍵穴をカチャカチャさせて、片手を外した。
その後、『輪』から大きめのゴミ袋が入ってきた。腕が器用に広げていく。
「あー、もう。これ入れづらいな。命令追加、次からは縦に繋げろ」
そんな理由の分からない命令の後、向こうの部屋から、びちゃり、と何かが垂れる音がした。
そして、人間の右足首が、『輪』を通してゴミ袋の中へ落ちた。
次に、左足首、右脛、左脛。『輪』を通るサイズに輪切りされた人体が、ぐちゃぐちゃと音を立てて、ゴミ袋へ溜まっていった。
「きゃああああああああっ!!」
私は金切り声を立てて、背中を倉庫の柱に叩きつけた。
「あ、あああっ!何、何ぃ、いいぃやだやだやだぁっ!!」
手錠で制限された手足を、無理矢理に動かす。そうでもしなければ、頭がどうにかなりそうだった。
頭が痺れる。血管の一本一本に電流が流れているようで、涙と汗が、決壊したダムのように流れた。
「おい、大声と物音は出すなって言っただろ」
男が、手を止めて私を諌める。
「そんなっ、だ、だって、っえぇ」
泣きじゃくりながら、手足の手錠を引っ張り、ゴミ袋から体を逸らそうとする。
いくら泣いても、汗をかいても、血の匂いが薄まる事はなかった。
「加奈っ!」
その時、『輪』の向こうから、お兄ちゃんの声が聞こえた。
「加奈、俺の事は良いから、そこから逃げろ、加奈!」
居るんだ。向こうにお兄ちゃんが、居る。
「黙れ」
機械音声がお兄ちゃんの声を遮ると、次に人が殴られる音がした。
「あーあー、『輪』を奪える事ができたら一番楽だったのになぁ。お前じゃないと使えないんだもんなぁ」
男が面倒くさそうにぼやく。人を殴った後とは思えないほど平坦な声だった。
「お兄ちゃん!」
「騒ぐなって言ってるだろ。お兄ちゃんも、ゴミ袋行きにしたいのか?」
男の一言で、はっと思い出す。私は、お兄ちゃんを守らなければ、いけないのだ。
もう、騒ぐ気力はなかった。手足はぐったりと力が抜け、喉は、折れ曲がった針金のような細い息をするだけだった。
それからはずっと、ぐちゃぐちゃという音が早く止むように、ひたすらに祈った。
「……よし、これで最後だ。日付が変わったら、海に捨てとけ。零さないようにな。そんで明後日からはお前が自由に『輪』を使えないよう、毎日この部屋に『輪』を繋げる事。いいな?」
男は、私にそう命令した後、惣菜パンを、ゴミ袋へ投げ入れた。
「これ食っとけ。そんじゃ、お疲れ様」
そして男は、『輪』の前から立ち去った。『輪』を閉じる。日付が変わって、もう一度『輪』を使えるようになるまでじっと待つ。
その間、否応なしにゴミ袋へ意識が行く。あの男次第で、私もお兄ちゃんもああなってしまうのだ。そのための線が首に引かれているのだ。
「うっ、うぁ、ああああっ……」
喉から、弱々しい嗚咽が漏れる。
居ても立っても居られなくなって、解放された片手で首を掻き毟ろうとしても、首輪が邪魔になって、首に触る事ができなかった。
一刻も早く目の前の物をどこかにやりたくて、腕時計を注視する。日付が変わった瞬間に、記憶の中で一番遠い海へ『輪』を繋いだ。
血の匂いが充満した倉庫の中に、潮の匂いが少しだけ入る。
早く海に捨ててしまおう。そう思い、ゴミ袋へ解放された片手を伸ばし、途中で腕が止まる。この大きなゴミ袋を丸々捨てられるほど、私の『輪』は大きくない。
つまり、男がやって見せたように、私もこの輪切りごとに、一つ一つ『輪』に入れていかねばならない。
この倉庫に、ゴム手袋やそれに代わるような物は置いていない。もっとも、そんな物が有っても大差なかっただろうけれど。
私は、恐る恐る、素手でゴミ袋の中へ手を突っ込んだ。そして、すぐに引っこ抜いた。
「ひぃっ、い」
肉塊、その断面の感触。ぬるぬるした血液と肉と人為的に切断された平らな骨が、私の手のひらに牙を立て、どこまでもずぶずぶ引きずり込んで行きそうだった。
すぐに引き抜いても、手のひらには血がべったりと付いていて、小さな肉片と何かの筋のような物が、二、三本絡みついていた。
そして、何より恐ろしいのが、それら全て、凍り付きそうなほど冷たかった。
海に繋げた『輪』に手を入れて、ざぶざぶと一心不乱に洗う。
しかし、表面の物は流せても、肉塊に触れた感触だけはへばりついたように消えなかった。どれだけ洗っても、洗っても。
それから数十秒、考える。もう、無理だ。これ以上あれを触りたくない。でも、それでどうする?これから一晩あれと一緒に眠る?
それこそ、無理だ。
意を決して、ゴミ袋の中へもう一度手を突っ込む。すぐに足首を掴み、『輪』を通して水面へ放り込む。
意識的に五感を鈍らせる。血を見ないように、海に肉塊が沈む音を聞かないように、さっきの感触を思い出さないように。
無心で作業を続ける。早く終わらせて、この悪夢から覚めたかった。
けれど、わずかに残った触覚が、途中、手のひらから異常を感じ取った。手のひらの中で、ごろりと何かが転がる。
今掴んだ物は、肉でも、骨でも、髪でも、爪でも、歯でもなかった。
ふと、それに目をやると、血走った眼球と視線が合った。
「あっ、ああああっ!!」
声を上げ、思わずその場から飛び退く。ろくに受け身も取らず、柱に背中を強くぶつけた。けれど、そんな痛みは何にもならなかった。
飛び退いた拍子に、半ば投げ捨てるように手のひらから眼球がこぼれ落ちた。
眼球は、倉庫の床にぼとりと落ちた後に少し転がり、こちらを見た。
おそらく偶然だったけれど、私には眼球が、私を責めているように見えた。
「やだ……もう、やだぁ……、何で、私がっ、こんなぁ……」
眼球を捨てる事も、触る事すらできずに、私はしばらくその眼球に苛まれ続けた。
何で私がこんな事をしなくちゃいけないのだろう。
あいつが人を殺す理由は知らない。けれど、私がこのままあいつの死体捨てを手伝い続ければ、あいつはこれからも安心して人を殺すだろう。そうなれば、私が殺したも同然だ。
もう、やめよう。こんな事を続けちゃいけない。こんな思いまでして殺人の片手をするくらいなら、死んだ方がましだ。
濡れた手で、首輪を触る。
お兄ちゃんは、どうなる?お兄ちゃんは、私へ命令するために、人質として誘拐されているのだ。
そして、私が死んだり、抵抗したりすれば、あの男にとってお兄ちゃんを殺さない理由がない。
死んでしまう。殺されてしまう。目の前で、バラバラになって。
お兄ちゃんが、ずっと私の支えになってくれたお兄ちゃんが。優しくって、柔らかくって、暖かくって、大好きな、大切な、お兄ちゃんが。
泣きながら、前へ足を動かした。
床の眼球に私の涙が落ちて、今度は泣いているように見えた。
「……ごめんなさい」
そう呟いて、眼球を拾い、海に捨てた。
ぼちゃん。という音が、夜の海に響いた。
・・・・・・
それから、八人目の死体を捨てた次の日の夜だった。私は無音の倉庫の中で、じっと横たわっていた。
男は用心深く、死体を捨てない日は私の両手を柱に繋ぎ、口にガムテープを貼った。
体は満足に動かせず、独り言も言えないような状態だったけれど、それをストレスと感じない程度には、私の精神は摩耗していた。
もう、あれから何度目の夜かも分からないまま、いつものように眠ろうとした、その時だった。
扉の向こうで、パキン。と乾いた音がしたのだ。
南京錠が、開けられた?男がここに来たのだろうか。一体どんな用で?何だか嫌な予感がして、私は怯え、体を揺らした。
あの男が私に持ってくる物は、不幸しかない。けれど、扉の前に立っていたのがあの男だったらどれだけマシだっただろう。
扉を開いたのは、私の見知らぬ少年だった。
その時私が思ったのは、隠さなくては。という考えだった。あの男の殺人を隠さなくては、私もお兄ちゃんも殺されてしまう。
この少年を二度とここに来させないためにはどうすればいいか。考える時間も短く、頭が回らなかった私は、少年に向かって『あなたが犯人だ』と言い放った。
私をここに閉じ込めた男、少年達が言うには『ハリネズミ』。そのハリネズミの状況は悪化していった。
能力の一部がばれて、協力者の『憑き札』は尽きて、隠れ家もばれて逃亡生活を強いられた。
男も『憑き札』と私を使って少年達を襲い、対峙したが、誰一人殺せずにいた。
今日の朝、男がこの倉庫の前に来て、私に言った。
「あいつらは今日、お前の二つ目の家を調べるみたいだ」
「……そう」
私が小さな声で相槌を返すと、男が続きを話した。
「俺はあいつらの能力を知ってる。あいつらは俺が生きてる事すら知らない。俺があいつらを殺すチャンスは必ず来る。それはもしかしたら今日かも知れないから、お前に言っておく。もしその時が来たらお前の首を少し切るから、それを合図に手を貸せ」
そう言って、私の返事も聞かないまま、倉庫の前から去っていった。
少年達を殺すチャンスがある……果たして本当にそうだろうか?今まであの男は、少年達に対してことごとく失敗してきた。
次も、また失敗に終わるのではないか。今度こそ、あの少年達に完全に敗北するのではないか。
そうなったらあの男は、少しでも多くの人間を道連れにしようと考えるのではないか。
そうなれば兄は、お兄ちゃんは。
どうにかしなくては、少年達を、どうにか。お兄ちゃんが死んでしまう。
気づくと、私は夢中で『輪』に手を通していた。
数日前に使ったナイフを、次は少女に突き出す。けれど少女は素早く、私の腕が全て戻る前に切り返した。
その透き通るような痛みで、私は我に返った。
失敗した。一日一回の『輪』を浪費し、しかもあの男の命令を無視してしまった上で、失敗した。あの男は私をどう思うか。
後悔に駆られた次の瞬間、自分の首に何かが食い込む感触がした。視界がぐらりと回転して、一瞬、首のない自分が見えた。
その後の記憶は、ない。
・・・・・・
織川加奈は全てを語り終えると、僕達に向かって涙を流して懇願した。
「お願い。もうこれ以上あいつを追い詰めないで、じゃないと、お兄ちゃんが」
お兄ちゃん。という言葉を使った時、彼女の眼から一層涙がこぼれた。
そして同時に、彼女の眼に光が宿った。
涙で歪み、仄暗く霞んだ、ともすれば不気味ですらある光だったけれど、その光は、紛れもなく暗い彼女の人生を照らし続けた唯一の光。彼女にとっての太陽なのだろう。
僕は、戦慄していた。
彼女が殺人の片棒を担いでいた事、そのために壮絶でおぞましい思いをしていた事、それもある。けれど僕が本当に戦慄したのは、彼女が語ったもう一つの事実だ。
そして、彼女自身はその事実に気付いていなかった。それもまた、戦慄の対象だった。
僕は、どうすべきか分からなかった。彼女に真実を告げるべきか、否か。
「多分あいつは、あなた達が私を生き返らせる事を読んでる。だから、お兄ちゃんもきっと生きてる。だから、ねぇ」
彼女は必死に懇願を続ける。
僕は真実を伝えようとして、やめた。彼女に真実を告げるという事は、彼女から唯一の光を奪うという事なのだ。
「……言わないの?」
後ろの関ヶ原から声がかかる。彼女もどうやら気付いているようだ。その上で、彼女に真実を伝えるべきと考えているらしい。
「あなたが何を考えているか知らないけれど、言わない。という選択肢はないはずよ」
そう言って、僕を責めるような視線を向けた。
「……けど」
この真実は、彼女にとって絶望その物だ。彼女の人生のほぼ全てを否定しかねない事だ。軽々しく口に出せる物ではない。
彼女の手前、僕が上手く言葉を続けられないでいると、関ヶ原は少し苛立った声を出した。
「あなたは、この娘をどうしたいの」
僕は、関ヶ原のそんな声を初めて聞いた。僕の知る関ヶ原の声は、いつも冷静な物だった。
きっと、真理を知ることを望み、神を目指す人間としては、真実を知らない事とは最も忌むべき事なのだ。
では、織川加奈に真実を告げるべきだろうか。しかし、僕なんかに、誰かの人生を左右させる資格などが有るようには思えなかった。僕は神様ではないのだ。
「……そうね。けれど、真実を知ってしまった以上、黙っていても彼女の人生を左右させなかったという点において、彼女の人生を左右させた事になるわ」
「……?何の、話?」
織川加奈は、まだ何も知らないまま、僕らの会話を不安そうに見上げていた。
関ヶ原が話を続ける。
「もちろん、私もまだ神じゃない。どっちが正しいかなんて分からない、だからどちらを選んでも大差はないのよ。だったら、私は私が正しいと思った事をする。この娘に、真実を伝える」
関ヶ原が、倉庫の中にいる織川加奈に向き直る。
杉越は、何も言わずに黙って僕らを見ていた。僕ももう何も言えず、関ヶ原をただ見ている事しかできなかった。
「殺人鬼は、あなたのお兄さんよ」
「……は?」
織川加奈は、涙を流すのもやめて呆けた顔をした。手錠の鎖が小さく揺れる音がする。
そんな顔の織川加奈に関ヶ原は諭すように、また、彼女の逃げ道を塞ぐように、同じ言葉を繰り返した。
「この街の人間を殺して回っているのも、あなたをここに閉じ込めて死体遺棄を押し付けているのも、私達を殺そうとしてるのも、全部あなたのお兄さんよ」
「……何、急に。ふざけないでよ!」
織川加奈が声を荒げた。
「ふざけてなんかいないわ。理由を説明するわね。まず、あなたの両親を殺したのはお兄さんよ」
「っ、はぁ!?意味わかんない事言わないで!」
少し面喰らいながらも、織川加奈はもう一度、威勢よく叫ぶ。対照的に関ヶ原は、冷淡に言葉を返した。
「けれど、あなたの話を聞く限り、あなたの両親を殺せたのはそのお兄さんしか居ないわ。お兄さんの弁明も、『俺じゃない』って言葉だけだったんでしょう?」
「でも、死体に大きな裂け目が有ったの。その頃のお兄ちゃんはまだ中学生くらいで」
「あの『ペン』が有れば、容易だったでしょう。そういう意味でも、それが可能だったのはハリネズミしか居ないわ」
関ヶ原が、織川加奈の首元を指差す。そこには黒い線が横に一周しており、その意味を彼女は身をもって知ったばかりだ。
「でも……、でも!」
「反論があるなら、聞くわ」
関ヶ原が、織川加奈の顔を覗く。焦燥に歪む織川加奈とは違い、いつも通りの真顔だった。関ヶ原にとって、真実を告げることはただの説明以上でも以下でもないのだ。
織川加奈は、ろくな反論が出来なかった。追い打ちを意図したかのように、関ヶ原がさらに根拠を連ねる。
「次に、少年の頃にこの倉庫を開けられたのも不自然だわ。おそらく、事前に『ペン』で錠を破壊して自分が用意した物に取り替えていたのでしょう。この倉庫に匿ってもらうのも、事前に予定していたんじゃないかしら」
倉庫全体に目をやる。
「後、ハリネズミがあなたの『輪』を知っていたこと、あなたが監禁された時、ここに居る事を知っていたのも証拠の一つになるわね。あなたのお兄さんしか知りえなかった事だもの」
関ヶ原は、ハリネズミのDNAを保持している事を言わなかった。きっとあえて言わないでいるのだろう。
そういう物理的な物じゃなくて、織川加奈が気付くことができたであろう情報だけで、話を進めたいのだ。彼女により良く理解させるために。
「それから最後に……あなたのお兄さんは、あなたがどれだけ苦しんでいても、最後までこの倉庫から出なかった。最低よ。あなたが思うような、善良な人間ではないわ」
関ヶ原がそう言い終えた後、しばらくの間、誰も何も言わなかった。
織川加奈は、時が止まってしまったように動かなかった。うわ言すら呟かなかった。
ただ、それでも表情に異変はなかった。蒼白でもなく、歪む事もなかった。ただ、黙って何かを考えていた。
彼女の脳は総動員され、関ヶ原が言った言葉を、冷たい真実を理解しようとする。あるいは、理解しようとせずに、精一杯逃げようとしていたのかもしれない。それでも時が進む限り、いずれ真実は必ず彼女に追い付く。それがどんな物であっても。
当たり前の事だが、彼女の時は止まってなどいない。太陽が地平線へ落ちるスピードは変わらない。太陽は落ち、月が昇る。何も止まらない。全ては進む。
そして静寂を破ったのは、一筋の雫が落ちる音だった。
それを皮切りに、大きな大きな泣き声が公園に張り裂けるように響いた。
辺りはいつの間にか夜になっていた。
公園の周辺は相変わらず世界から隔離されたように人気がなく、僕と関ヶ原と杉越と、月と。
彼女自身だけがその泣き声を聞いた。
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