沈まない太陽はない③
それから三人で織川家を探索して回ったけれど、目ぼしい手掛かりは何もなかった。探索すればするほど、彼女の寂しそうな生活風景を思うだけだった。
「……まぁ、それが目的だったしね。彼女を知ることが」
改めて、三人でリビングを見回す。この家に来て最初に感じた、灰色の感覚をまざまざと思い出す。それは、この家を回っている間、ずっと僕に付きまとった。
まるで、死人の家を探索していたような気分だ。
これで、彼女を知ることができたのだろうか
「……僕は、そんな感じはしないな。……織川加奈が、何を感じて何を生きがいにしてたのか、全く、欠片も分からなかった」
「やっぱり、本人に直接会いに行った方がいいんじゃないかしら」
「……そうだね。今からでも、あの公園に行こう。遥、まだ歩けるかい?」
杉越が僕の右足を見る。
「大丈夫よ」
隣の関ヶ原が答えた。
「何でお前が答えるんだよ」
「私があなたを担ぐから大丈夫。という意味よ」
「なるほど。じゃあ大丈夫だね」
杉越がわざとらしく手のひらを拳でポンと叩いた。
「納得するな。……まぁ、まだ歩けるが」
右足をプラプラさせて調子を見る。平らな床を歩いていたからか、歩道を歩いていた時ほど疲労感は強くない。
「うん。なら、行こうか」
杉越が玄関へ歩き始める。
その瞬間、関ヶ原の右側の空間が、歪んだ。
「危ない!」
関ヶ原の腕ごと、逆方向に跳ねる。加減が効かず、壁と背中の火傷が擦れた。
数瞬遅れて、関ヶ原の居た場所へ、空中からナイフが突き出される。『ワープゲート』。間近で見るのは初めてだった。
しかし、杉越を刺した時とは違い、遅く、狙いが雑だった。関ヶ原に掠りもしなかった。
空中に浮く輪っかから生えている腕は、襲撃が失敗したことを悟り、手を輪っかの内へ戻そうとした。
それを逃がさないとばかりに、関ヶ原が僕の隣から『ワープゲート』へ強く踏み込む。そして懐のナイフを居合抜きのように上へ振りぬいた。
関ヶ原のナイフに掠りながら、『ワープゲート』は空中から姿を消した。
一秒を越えたかどうかくらいの、短い時間の攻防だった。
「……一応、血は取れたわ」
関ヶ原が手元のナイフを一瞥する。切先に、ほんの少し、薄っすらと血が滲んでいる。
「お見事。怪我はない?」
杉越が関ヶ原に近寄る。
「別に、怪我はないわ」
「何か別の道具の攻撃をされたって感じもしないわぁ」
ララが関ヶ原の体に顔を近付ける。
「ふーん……随分やけっぱちな襲撃だな……あいつらも、焦って来てるのかな」
杉越が『ワープゲート』の現れた宙を見つめた。
「……もしかして、邪魔したか」
先程の関ヶ原の無駄のない動きを思い返す。『ワープゲート』の突きが甘かったし、こいつは僕が引っ張らなくても無事だっただろう。それどころか、カウンターだってもっと上手く決まっていたのではないか。
「まぁ、そう何度も命を救ってもらう訳にはいかないから。それに何度か見た動きだったし」
「……悪かったな」
「血を取るのが目的だったから。別に気にしなくてもいいわよ。でも、できればあなたの方に『ワープゲート』が向けば良かった。そうなればあなたを助けるチャンスだったのに」
「……謝って損した」
命の恩人の危機を願うとは何て奴だ。
「助けるつもりなのだからいいじゃない」
関ヶ原は一切悪びれる事なく言い切った。
そういう問題じゃないだろう……いや、そういう問題か?そういう問題じゃなかったとして、どういう問題だ?
僕が何も言えない内に、杉越が口を開く。。
「『ワープゲート』は一日に一回まで、日付が変わらないと使えない。僕の『時計』とはインターバルの仕組みが微妙に違うけど、今日はもうこれ以上襲撃される心配はない」
三人で目を合わせ、頷く。
「それじゃあ気を取り直して、行こうか。織川加奈の下へ」
・・・・・・
夕焼けが、閑散とした公園の空気を照らしている。心なしか、太陽が空にしがみついているように見えた。
けれど、地平線へ落ちるスピードは別段変わらないのだろう。太陽が落ち、月が昇る。これは、誰も変えることはできないのだ。たとえ人類全員が願っても。太陽自身でも。
何も止まらない。全ては進む。
僕が初めてこの倉庫で織川加奈と出会ってから、もう半月が経った。事態は少しづつ進み、ここまでやって来た。
もう、ここに来るのはこれが最後かも知れない。そんな予感があった。
「おーい」
杉越が手の甲で倉庫の扉を軽くノックする。返事はなかった。
「……いつもならここで唸り声が聞こえるんだけど、寝てるのかな?」
何だか嫌な予感がする。
「開けるぞ」
杉越の前に出て、『鍵』を手のひらから取り出す。
扉を開けると、ぴちょり、という微かな水音と、むせかえるような血の匂いがした。
「うっ……!?」
匂いに、思わず口に手をやる。倉庫の中が、血の池になっていた。
血の池の中心には、織川加奈の頭部と、首から下の分断面があった。丁度、首輪が断面を隠すようで、まるで元々繋がっていなかった物が転げ落ちているように見えた。
織川加奈が、首を切断されて死んでいた。
後ろから覗き込んだ杉越が、倉庫の中に足を踏み入れた。靴底が血だまりを踏む音がした。
「『左過時計』」
杉越が腕の『時計』を織川加奈にかざす。血の池は逆流する滝のように二つの分断面へ巻き戻って行った。
「これは……?」
後ろで関ヶ原が口を開く。あまりに唐突な事に、頭が追いついていないようだ。かくいう僕も、混乱している。
「戻せば、全部分かるはずだよ」
杉越は、じっと、逆流する血と、首の断面を見ていた。
そしてついにその断面が繋がった瞬間。一滴の血が僕の脇を抜けた。そして、織川加奈の指先へ滲んでいった。
「関ヶ原!」
血が来た方向、後ろの関ヶ原に振り返ると、関ヶ原はさっきのナイフを取り出していた。
「……血が、なくなってる」
織川家で『ワープゲート』に襲撃された時、関ヶ原のナイフは確かに、腕を捉え、その切先に血を付着させたはずだ。
その血が織川加奈の指へ滲んでいった……『戻って行った』。これは。
「契約者の気配がします」
「契約者の気配がするわぁ」
織川加奈が人間の形に戻り切ると、ララとガガが口を揃えて、僕ら以外の契約者の存在を告げた。
「こいつが、『ワープゲート』使い……!?」
「……だから、私達が扉を開ける度に襲って来たのね……」
関ヶ原がララを睨む。
「な、何よぉ。ちゃんとこの娘に会う度に言ったわよぉ、私ぃ」
その度に『ワープゲート』を発動させる事で、織川加奈は悪魔のセンサーを誤認させたのだ。
僕らは悪魔達が『ワープゲート』越しに遠くに居る契約者に反応していると思い込み、目の前の彼女の事を言っているなんて一度も考えなかった。
織川加奈が契約者。そうなれば、何故ここに囚われていたかも見当が付く。利用されていたのだ。この能力を。
……いや。いや、待て。利用されていた?誰に?『三人目』が主犯なのか?
というか、誰がこいつの首を切ったんだ?この倉庫は僕の『鍵』によって密室になっていたはずだ。『三人目』は僕の『鍵』を破れる能力じゃない。
遠隔で攻撃できるのは『ワープゲート』しかない。でもそれじゃあ自殺だ。織川加奈がそんな事をする理由があるか?じゃあ、何だこれは?
そこで、僕の頭を『ある物』がよぎった。あれなら密室外からの攻撃が可能だ。でも、違う。あれは、あいつはもう死んだはずだ。
それに、『あれ』ではあんなに綺麗に首を切る事はできない。
「あ」
杉越は、短く、平坦に呟くと、急いで乱暴に織川加奈の首輪を取り外した。
織川加奈の首元が晒される。さっきまで真っ二つに別れていた所に、黒い線がぐるりと引かれていた。
その黒い線が露わになると共に、僕の中にある仮説が生まれた。おそらく、杉越も先に辿り着いている。
……もしも、ハリネズミのあの『ペン』が、点だけではなく、線を引く事も出来たなら?『針を生み出す能力』ではなく、『刃を生み出す能力』だったら?
首に線を書く事で、その線をギロチンに変えることが出来たのではないか。そうやって脅すことが出来たのではないか。密室外から、織川加奈を殺せたのではないか。
僕の部屋に閉じ込められた時、床に円を描くだけで、ガスが充満するより早く脱出口を開ける事が出来たのではないか。
ハリネズミは、まだ生きているのではないか。
「ん……あれ……?」
次第に、織川加奈が目を開けた。
「あっ……」
僕らを見つけて、体をよじる。殺された記憶があるからか、唸り声は聞こえてこない。
「織川、織川加奈」
彼女の名を呼ぶ。彼女はハッとして、僕を見上げた。そして何かを叫ぼうとして、やめた。ただただ観念したように僕の次の言葉を待った。
「全部、話してくれないか」
彼女は、生気のない眼で口を開いた。
・・・・・・
「ヤタサガは、いつからそこに居るの?」
「いつだったかな。お前が生まれてすぐだったか、お前が生まれる前だったかも知れない。ただ、お前は私との契約に頷いた。だから私はここにいる。それだけは確かだ」
これが、私が覚えている、ヤタサガと名乗る悪魔との会話の中で一番古い物だ。確か、四歳くらいの頃の会話だったと思う。
それから五歳の頃には、目の前の強面の中年は他の人間には見えない存在であると明確に理解し、人前でヤタサガと話すことはしなくなった。
小学生の頃に、ヤタサガについて、悪魔について調べてみた事がある。
検索結果の中で一番近かったのは、イマジナリーフレンド、という物だったけれど、私は実際に『
私が『降輪』という道具を持っている事を知っているのは、世界で四人。
兄、父、母、それから、母が妹に……私から見ると叔母に、話をしたようだ。
けれど、私が『輪』を使うことはほとんどなかった。ヤタサガとも、何年も話さないようになった。どこかで、私に話掛けるなという命令でもしたのかも知れない。
ただ、どうしても『輪』の側に居なければならないし、私から『輪』を取り上げることも出来ないらしいので、小さなタトゥーに変化させて、背中に張り付けた。
そしてそのまま、もう存在も忘れかけていた。
その日は、兄の誕生日だった。
家族と叔母で、サプライズパーティーを開くことになった。
母と父が叔母の家で、兄の相手をしている間に、私と叔母がケーキを買ってくる。そういう段取りだった。
そして私と叔母が家に帰ると、父と母が血を流して倒れていた。兄がそれを、眺めていた。
私は、あまりに現実味のない光景に、ただ呆然としていた。
「……何があったの?」
叔母が、こちらに背を向けている兄に語りかけた。
「姉さんたちに、何をしたの?」
兄は、一瞬遅れて、こっちに振り向いた。
「違う!俺は何もしてない!」
そう叫んで、叔母と私の脇を走り去った。
「っ、お兄ちゃん!」
「加奈ちゃん!」
叔母の制止を無視して、私は兄の後ろを追いかけた。
「待って!お兄ちゃん!」
ひとしきり走って、とある公園まで辿り着くと、兄は急に立ち止まり、今度は勢い良く私の肩を掴んだ。
そして、息が整わない内に、私に訴えかけた。
「違うんだ。本当に俺じゃあないんだ。加奈、お前は信じてくれるよな?」
私はその訴えに、ゆっくりと、力強く頷いた。
「……うん。信じる。お兄ちゃんだもん」
兄は、少しだけ安堵した表情を浮かべた後、すぐに逃げ出した時と同じ、不安で満ちた表情に戻って俯いた。
「そうか……良かった。けど、叔母さんは多分、俺が母さんと父さんを殺したと思ってるよな……」
「そんなこと……」
「あるよ。叔母さんは、俺の事が嫌いだから」
兄は俯いたまま、冷静な声で私の言葉を遮った。
私は、本当にそうだろうか、疑問だった。一緒にお兄ちゃんのケーキを買いに行った時、叔母は純粋に兄を祝おうとしていたはずだ。私にはそう見えた。
けれど、私がそれを口に出す事はなかった。兄の冷静な、冷たく静かな声が何だか不気味で、唇が思うように動かなかった。
それから、兄は私と目を合わせないまま公園をきょろきょろして、設置された倉庫に目を付けた。
「そうだ」
兄は、そう短く呟くと、私の腕を引っ張って倉庫の前まで引っ張った。
そして倉庫の南京錠を外して、扉を開けた。倉庫はもう使われていないのか、何もなかった。
「な、何してるの?ダメ、だよ。勝手に開けちゃあ」
「加奈。俺をここに匿ってくれ」
兄は、私の腕を握り直してそう言った。
「……へ?」
「俺は、今日からこの倉庫の中で暮らす」
暗い倉庫の中を見つめる兄の眼には、何も写っていなかった。覚悟も、焦燥も、躊躇も。
まるでそうするのが、当たり前のようだ。不気味な表現になるけれど、その決断には、人間味がなかった。
「いつまでになるか分かんないけど……とにかく、しばらくの間」
「暮らす、って、狭いよ。ここ」
「でも、ここにずっと居れば、誰にも見つからない。叔母さんにも、警察にも」
警察、という言葉が兄の口から発せられた時、私は頭の隅に針が落ちたような気分がした。警察は悪い人を捕まえる人なのに、私もお兄ちゃんも、悪い事なんかしていないのに。
その警察が私達の日常を壊しに来ると思うと、冷や汗が止まらなかった。
「ずっと……?ご飯は、どうするの?」
「そう、そのご飯をお前に頼みたいんだ」
兄が私の腕を握ったまま、一緒に倉庫の中に入り込む。
「これで、お前の『輪』をこの倉庫に繋げられるだろ?」
兄の言葉に、忘れかけていた悪魔と道具の事をはっきりと思い出した。背中に付けた、ほくろぐらい小さなタトゥーが疼く。
「『輪』……。うん、『輪』、ここに使えると思う」
「その『輪』を使えば、誰にもバレずに俺に食料を届けられる。俺はここにずっと暮らせる。な、いいだろ?」
「で、でも……」
私はどうすればいいのか分からなかった。叔母さんや警察の大人は、お兄ちゃんを信じないかも知れない。でも、だからってお兄ちゃんをここに閉じ込めるなんて。何も悪くないのに。
悩みができたら、いっつも話を聞いてくれたお父さんとお母さんは、居ない。悪い夢でも見ているようだけど、腕を握られる感覚はやっぱり本物で、心と体がちぐはぐだった。
私は、もう色んな事や感情が重なって、頭が破けそうで、泣いてしまいそうになっていた。
「でも、わ、私は……っ」
「……頼むよ」
お兄ちゃんが、悲痛に顔を歪ませ、声を絞り出した。
私の腕にすがり、顔は完全に下を向いた。
そんな可哀想で、辛そうなお兄ちゃんを見るのは初めてで、短い言葉が、やけに頭の大部分を占めた。
涙や、色んな感情は引っ込んで、とにかく、大好きなお兄ちゃんを助けないと。と思った。
「……うん、分かった。お兄ちゃんは、私が守る」
私がそう言うと、お兄ちゃんはすがる体勢をそのままに、素早く私を見上げた。
「本当か!?ありがとう、ありがとう!」
「うん……私、一旦、お家に戻るね」
「……ああ」
お兄ちゃんと倉庫を背に、公園を後にした。
こんな大きな決断をしたのは人生で初めてで、お兄ちゃんから離れると心臓がばくばくして、頭がくらくらした。
体が強張って走るなんて事はできなかったし、そういう演技をしようとすら思いつかなかったけれど、酷い緊張で錆びた鉄を撫でるような荒い息をしていたから、叔母にはそれらしく見えたと思う。
「ああ、加奈ちゃん。大丈夫だった?お兄ちゃんは?」
家の扉を開くと、叔母が私に駆け寄って、肩に手をかけた。意図はしていなかったけれど、私の混乱がよく伝わったと思う。
「途中で、見失っちゃった」
上擦った声で噓を吐いた後、緊張が緩んだのか、より固くなったのか。我が家が、血の匂いに溢れている事に気付いた。母と父が横たわっている、リビングから流れている物だった。
家の外からは、叔母が読んだであろう救急車のけたたましいサイレンが、鋭敏に私の耳に突き刺さった。
次第に、ここが悪夢ではなく現実であると理解し始めて、いきなり、目の前がぐしょぐしょになった。
それが涙だったのか、
それからは、冷たい現実が、私の中に押し込まれていく日々だった。
お母さんとお父さんは、助からなかった。私と叔母が来たころには既に死んでいたそうだ。
母を慕っていた叔母も、次第に、目を冷たくさせていった。叔母の夫は私に優しく接してくれたけれど、秘密を抱えているせいで、素直に受け取れなかった。
どこへ行っても、喪失感が体を蝕んだ。
何だか、世界から大きな何かが損なわれたような気がして、私が背負えるような物じゃない気がして、お兄ちゃんを匿った事が本当に正しかったのか、頭が割れそうな程悩んだ。
悩めば悩むほど、私の中で何かが大きくなっていって、その何かが罪悪感であると薄々気付き始めた頃には、私はそれを誰にも言えなくなっていた。
警察の大人達が、何か私に聞きに来たけれど、ろくに答える事ができなかった。それがかえって、大人達の同情を引いたようだったけれど。
押し潰されそうだった。お兄ちゃんを匿っていると、誰かに言えたらどれだけ楽になっただろう。
それでも私はそれを言えなかった。事件からもう何日も経っていて、今更言えばどうなるか、怖くて仕方がなかった。
さらにもう一つ、言う訳にはいかない理由があった。
私は、お兄ちゃんを守らねばならないのだ。
毎晩、『輪』を倉庫に繋いで、無実の罪に怯える兄を見る度に、その決意は強くなっていった。
恐怖と決意で震える手が、『輪』をくぐる夜は途切れなかった。
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