私?

 蜩が鳴いている。もう皆移動してしまった教室で、瑠花は一人ぼんやりとしていた。

(次、移動しなきゃ……)

 何だかいつもより白く靄のかかった頭で、ぼんやりと考える。

(あぁ……あの子、職員室からまだ帰ってきてないな。荷物、一緒に持って行ってあげよう)

 自分のものではない学生鞄からごそごそと教科書やら何やら必要なものを取り出し、自分のものと重ねて持ち、のっそりと教室を出た。


 別棟へと向かう道すがら、廊下の端の階段をに差し掛かったところで、下から声を掛けられた。


「あれ、瑠花?」


 名前を呼ばれて、瑠花は自分の二段下にいる女生徒をゆっくりと見遣った。


「先に行っといてって行ったのに、待っててくれたの?」

「……うん。授業、行こっか」


(……あれ、この子の名前、何だったっけ)

 返事をしながら、瑠花は考える。いつも一

緒にいるはずなのに、どうしても、名前が思い出せない。何度も何度も、呼んできた名前なのに。考え、考えても出ない答えに愕然とする恐怖を打ち消すように女生徒の声が耳に飛び込み、現実に引き戻された。

「あ、でも、あたし教科書とか机に鞄の中だし取ってくるから、やっぱ先行ってていいよ」

「……これ」

「え、持ってきてくれたの? ありがとう」

「うん、じゃあ、行こう」


 二人、足早に階段を下る。別棟での授業のため、遅れてはならないと気持ちが急いていた。二人は、黙って歩いていた。その間も、瑠花が隣を歩く女生徒の名前を思い出すことはなかった。


「ふー。よかった、間に合ったね」

 教室の前で女生徒が安心したように笑う。そして、教室のドアを開け、空いている席はないかと見回して、瑠花の思考は止まった。

(……私?)


 そこにはすでに、瑠花がいたのだ。

「あ、ミャコ、遅かったね。間に合ってよかった」


 そう。瑠花は、先に教室で待っていたのだ。


「あれ、瑠花…?」

「どうかした?」

 少しつっかえながらミャコと呼ばれた女生徒は言う。すでに教室にいた瑠花は、不思議そうに首を傾げた。

「え、あたしと一緒に来たよね?」


 あぁ、違う。駄目。その子に話しかけないで。その子と言葉を交わさないで。その子は瑠花なんかじゃない。そうでなきゃ、私は一体誰なの? 私は、何なの?


「ううん、私、だいぶ先に着いてたよ」


 違う。違う。先に着いてなんかない。だって、私はミャコと一緒にここまで来たんだもの。それは、そこにいる瑠花は、ニセモノ。私が、ホンモノなのに。ホンモノ? 私は、ホンモノなの? だけど、ミャコの名前を思い出せなかった。そういえば、昨日から前の記憶がない。あぁ、ぐるぐるぐるぐるする。頭の中も、視界も、世界すべてがぐるぐると回る。

 意識が朦朧としてくる。

 視界が霞む。

 目に見える世界が、次第に黒く染まっていって、


「でも、さっきまで一緒に……」


 美弥子が振り返ったときには、瑠花は、水滴を一滴ひとしずく残して、影もなく消えていた。


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桜々中雪生 @small_drum

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