嗤う口唇

ながる

嗤う口唇

 あの。すみません。

 あ。ごめんなさいね。急に声を掛けたら、驚かれますよね。ごめんなさい。

 ちょっと、聞こえてしまったのですけれど、これからドリームランドに行くんですよね? え? いえ、別に止めようとか、思ったわけではなくてですね……行くなら、確かめてほしいことがありまして……

 あ。そうですね。そうです。自分で行くべきですよね。そうなんですが。ちょっと、どうしても行けなくなりまして……

 報告してくれとか、そんなことは言いませんので、メリーゴーラウンドが回ったかどうか、回ったのなら今流行のついった? とかいうので流してほしいんです。

 若い方ならそういうの使い慣れてるんでしょう?


 ああ! そうです、それです。噂のひとつです。

 え? 回ったという話を聞いたことが無い?

 ……そうですか。そういえば、他の人を見かけたことはありませんね。

 ああ、いえいえ。こちらの話です。

 兎も角、回るなら今日、今夜が一番確率が高いと思うので。なので――

 え? どうしてそう思うのかって?

 ……うーん。話すと長くなりますし……私が毎年見ているから、というので納得してもらえますでしょうか?

 そうです。毎年、決まった日にあのメリーゴーラウンドは回っているのです。

 他の日にも回っているかは、私は知りません。

 誰か乗ってるのかって? 誰も乗ってませんよ? でも、電球は煌びやかに点滅しますし、とても綺麗ですよ。そんなに長い時間ではありませんが、その時だけは馬も馬車も現役の遊具のように美しく見えます。

 乗ったらどうなるか? ……さあ。私は乗ろうと思ったことはないので……


 お願いできますか?

 ああ、いえ、ついったに載せてもらえなくても、別にどうということもありません。私が行けなくなった時点で、確かめようもない話になってしまいましたので。そうしてもらえたら、嬉しいなぁくらいの気持ちでいます。

 肝試し前の前座的な話だと思っていて――

 え? 理由ですか?

 はっきりしたことは、私にも……なんとなく、これかな、というのは、ありますが。

 聞きたいですか?

 ああ、前座話として。あまり面白くないかもしれないですよ?

 立ったままではお店に迷惑ですね。椅子をいただいて座ってもいいですか? ありがとうございます。では、ちょっとお邪魔して――


 ○  ○  ○


 もうかなり昔のことになりますね。

 近所に私より五つくらい年上のお兄ちゃんが住んでいたんです。

 公園で会うくらいで、何処に住んでいるのかも知りませんでしたが。

 とても優しい人で、友達も多かったように思います。公園で皆で遊んでいても小さい子らに配慮するよう言ってくれるような人でした。

 ある日、お使いを頼まれた私は、子供にしては重い荷物を引き摺る様にして運んでいました。

 たまたま、ばったりとそのお兄ちゃんに会って、友達のうちが同じ方向だからと荷物を持ってくれました。

 顔だけ知っていた私達はその時に初めて色々話をしたのです。お互いに名前を教え合って、私はお兄ちゃんが出来たと上機嫌でした。

 一人っ子だった私は兄妹というものにとても憧れていましたから。


 それからは公園や道端で会うたびにお兄ちゃんと呼びかけ、たわいのないお喋りをしたりしました。

 もしかしたら、あちらは馴れ馴れしく話しかける私にうんざりしていたかもしれません。本心は解りませんが、彼はいつもにこにこと相手をしてくれました。

 夏休み中のある日、彼が友達と遊園地へ行くという話をしているのを公園で耳にしました。

 今でこそ廃墟のようになっているドリームランドですが、当時はオープンしたばかりの人気の遊園地でした。とても羨ましく思ったのをはっきりと憶えています。

 彼が公園にいるうちにこっそりと近寄って、帰ってきたら遊園地の話しを聞かせてくれとせがみました。

 誕生日が近かったので、その話をプレゼント代わりにと。

 彼は笑って請け負ってくれました。


 ところが、一週間経っても、二週間経ってもお兄ちゃんは公園に顔を出しませんでした。

 彼は私の家を知っていますが、私は知りません。知っていたとしても訪ねていくことはなかったでしょうけど。

 誕生日もとうに過ぎて、そろそろ学校も始まろうかという頃、ようやく彼を見掛けました。

 お兄ちゃんは雨の中、公園で傘も差さずにじっと空を見ていて、合羽を着てふらふら遊び歩いていた私は彼に近づくと、その手を軽く引きました。

 ゆっくりと私を見下ろすお兄ちゃんはまるで別人のようでした。

 その目に光はなく、濡れた髪から垂れる滴が涙のように彼の頬を伝っています。


 ――どうしたの? 泣いてるの?


 私の問いにも答えず彼はじっと私を――いえ。私を通り越して、足下の水溜まりを見ていました。

 不思議に思って私も水溜まりに視線を落とすと、お兄ちゃんの隣に女の子が立っています。

 私より大きくてお兄ちゃんより小さい……雨の雫が作る波紋でその子の顔はよく分かりませんでした。

 びっくりしてお兄ちゃんの周りを確認しますが、勿論誰も居ません。でも、水溜まりに視線を落とすと確かに誰かがいるのです。


 ――ミラーハウスへ行ったんだ。


 唐突に、お兄ちゃんは言いました。

 私が遊園地の話しをしてくれと言ったからでしょうか。

 淡々と感情を排して彼は続けます。


 ――万華鏡みたいな空間で、――がはしゃいで駆けていて……僕は一生懸命追いかけたんだけど、気付いたら鏡一枚向こうに居るんだ。どうしても追い付けなくて、――のいる場所に行き着けなくて……気が付いたらどんどん、どんどん遠くに……


 その誰かの名前はどうしても聞き取れませんでした。

 水溜まりの中では彼女がお兄ちゃんの周りをくるくると回っています。

 愉しそうに、嬉しそうに、くるくると……


 ――もう、お帰り。こんな天気では暗くなるのも早い。


 そう言って、寂しそうに笑ったお兄ちゃんが私の見た最後の優しい彼でした。

 その後は彼に会っても冷たい目で見返されるだけで、口もきいてもらえなくなりました。

 落ち込む私に両親は、年の近いお友達と遊ぶ方が楽しいのは普通だよと慰めのような事を言いましたが、あまりにも変わってしまった彼に納得がいきませんでした。

 あの遊園地だ。あそこに行ったから、お兄ちゃんは変わってしまったんだ。

 幼い私がそう何かに責任転嫁するのは、ごく自然なことだったと思います。


 通学路で見掛ける彼の姿が友達に囲まれたものから、ひとり地面を睨みつけるようにして歩くそれになるまでにそう時間はかかりませんでした。

 彼を見かけるたびに目で追ってしまう私には、交差点のミラーや民家のガラス窓に映る彼の隣に、いつも女の子が見えていました。

 彼女はいつも彼に纏わりつき、愉しそうに笑っているのです。彼女の顔や表情はよく解らないのに、その笑う赤い口元だけは嫌にはっきりと目に飛び込んでくるのです。

 それを見えているのかいないのか、お兄ちゃんは時折足を止めてじっとガラスを覗き込んだりしていました。


 ようやく秋の空気が感じられるようになる頃、私は古本屋の店先でばったりお兄ちゃんに会いました。

 そんなところで鉢合うとは思ってなかったのでしょう、彼の驚きの表情に私は優しかったお兄ちゃんを見つけました。


 ――お兄ちゃん!


 何も考えずに、思わず飛びついた私の手が彼の身体に届くかどうかという時、ぴしりと緊張した音が耳に飛び込んできました。

 次の瞬間には何かに顔を押し付けられ、私の全身は覆い隠されてしまっていました。

 チィン、ィン、ィンと小銭を落としたような音が連続したかと思ったら、続いてガシャンとかバリンとか、なんだかもっと凄い音が響き渡りました。

 何が何だか解りません。

 ガラスが降り注ぐ音が聞こえる中、耳元で、小さく小さく、誰にも聞かせないように、お兄ちゃんが囁きます。


 ――誕生日にメリーゴーラウンドに乗せてあげたかった。


 それは紛れも無く優しかったお兄ちゃんでした。

 けれど、彼はすっくと立ち上がると周りを一瞥して、古本屋のおじさんが止めるのも聞かずに走り去ってしまいました。

 私の周りにはおびただしい数のガラスの破片と、少しの血痕、それから彼が落としたのであろう小銭がいくつか散乱していました。

 お店のショーウインドウは窓枠しか残っておらず、入口のドアにもガラスは無くなっていました。ガラスというガラスが割れて、彼の上に降り注いだようでした。

 おじさんに心配されたものの、私には掠り傷ひとつ無く、ちょっと休んでいきなさいとレジ横の丸椅子に座らされました。

 おじさんは母に連絡を入れてくれて、私は母と手を繋いで家まで帰ったのです。


 それっきり、お兄ちゃんを見かけることはなくなりました。

 なんとなくの大人の反応から、引っ越したらしいということしか分かりませんでした。

 後に古本屋のおじさんに聞いたところ、あの日彼は自分のコレクションを売りに来たのだと教えてくれました。お札が何枚かと小銭が少し。それを手に持ったまま外に出て、あの事故・・にあったのだと。

 事故だろうか。あれを事故と呼ぶのだろうか。

 幼い私でも、それを口にするのははばかられました。

 ましてや私は見てしまっていたのですから。辺りに散乱した破片という破片に映る嗤う赤い唇を。

 彼女は誰なのか。聞いても彼に姉妹きょうだいがいたという話はありませんでした。


 妙な噂が立ち始め、事故があったと言われるようになって、いつの間にかあの遊園地は閉鎖されてしまいました。

 結局、開園中に私がそこに行くことは一度もなかったですね。

 大人になって回るメリーゴーラウンドの噂を耳にした時、何故だか心が震えました。

 中に入る勇気はなかったものの、正門からそれが見えると知って怖いとも思わずに何度か足を運びました。けれど、何度足を運んでも、それが回ることはありませんでした。

 やはりただの噂なのだと諦めかけて、ふと彼の最後の言葉を思い出したのです。


 ○  ○  ○


 ええ。そうです。今日は私の誕生日です。

 ああ、ありがとうございます。

 見ず知らずの私にそんな言葉をかけてくれるなんて……なんだか照れてしまいますね。

 どうですか? 前座話として楽しんでもらえましたか?

 何度か近くまで足を運んだこともありますが、少し遠くから見るくらいがいいと思いますよ。

 え? 真ん中の柱に鏡が掛かっているでしょう?

 ふふ。

 ああ、いけない。もう行かないと。

 おばさんの話に付き合ってくれてありがとう。

 皆さんも――お気をつけて。

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