見えない春

三津凛

第1話

薔薇は生きることに執着する。

桜は生きることに執着しない。


「だから、散り際が…死に際が一番美しいって思わない?」

死に際なんて、縁起でもない。

冗談みたいに笑って肩を突けばよかっただろうか。それとも、先生みたいにちょっとだけ怒って、ちょっとだけ諭せばよかっただろうか。

「…確かに、わぁって満開になった時よりも散っていく時が一番綺麗かも」

「ふふ、でしょう?」

冬美は得意そうに笑った。

私は少しだけ悩んだ挙句、同調することにした。なんとなく、視線を窓の下に下げる。

「ヨーロッパではね、薔薇が好まれるの」

「へぇ、どうして?」

「薔薇は生きることに執着するからなんだって。桜は逆に、生きることに執着しないの。私も散り際が一番好き」

嫌味のように眼下には桜の名所がある。

「ねぇ、この病院とあの桜はどっちが古株なのかな」

「そりゃあ、桜の方でしょう?病院の方が後から割り込んで来たに違いないもの」

冬美だって詳しくは知らないはずだろうに、嫌に断言する。

随分と変わったように見える横顔が、本当は別の言葉を抱え込んでいるように見えて辛かった。

「今年は開花がとっても早いみたいだけど、間に合うかなぁ」

「えぇ?なにが」

とても辛くて、聞こえなかったふりをした。

だって、私はまだ散りそうにはない。

冬美は今まさに散ろうとしている。それを病院の消毒液が必死に留めているだけだった。後から割り込んで来た病院が、命のつっかえ棒だった。

散っていく花は自分と引き換えに人間の命までは永らえさせてはくれない。

冬美はそれ以上なにも言わなかった。ただいたずらっぽく笑って、私を気遣うように呟く。

「名前にだって、冬がつくでしょ、私って。だから人一倍春が恋しい」

冬美は遠目からだと枯木の集まりにも見える桜を少し苦しそうに見下ろしていた。私は半分は自分に言って聞かせるように言う。

「今年の春は駆け足で来るみたいだから、ここから綺麗な桜が見られるよ。高いところから見る桜ってどんな感じなのかな」

「そういえば、下から見上げるばっかりで上から見下ろしたことってなかったかも」

冬美は静かに笑った。凪いだ湖面のような、穏やかな笑みだった。全てを諦めたような、悟ったような風情があった。

「桜っていうと、西行法師を思い出すんだけどそんなことない?」

「ないない、どうして西行なの?」

「ねがはくは 花のもとにて春死なむその如月の望月のころって歌があるの」

「…どういう意味なの?」

冬美にはどこか老成した読書の趣味があった。

「できることなら、桜の盛りにそれも出家した身なら釈迦の入滅した頃に死にたいって内容なの。如月の満月の日って2月15日なんだけど、西行は2月16日に亡くなってるのよ、凄いと思わない?太陽暦だと、3月の末頃に亡くなったことになるの」

「へぇ…」

死にたい、というと現代だと悲壮な香りが漂うのに西行の歌にはそれが微塵もない。

冬の陽は落ちるのが早い。次第に黄昏て来る病室の中で、私と冬美はしばらく黙ったまま蕾すらつけていない桜を見下ろしていた。

「今日は来てくれてありがとう。久しぶりに楽しかった、生きててよかったって思えたわ」

それは多分、冬美の混じりけなしの本心だった。こんな風に斬り込まれるように素直に気持ちを吐露されると、どんな顔をしていいのか分からなくなる。

「次はここで桜を見ようよ。上から見下ろす桜ってどんななのかな」

とても下に降りて行って花見をしようとは軽々しく言えなかった。

薄皮を剥くようにして、冬美の命は削れていく。私だって、同じように命を散らしているに違いないのにどこか遠くに感じた。同い年なのに、未来は平等に、明日だって平等に来るはずなのにその重みと濃ゆさはどこか不平等なものに感じた。

「うん、春はまだ見えないけど待ってるわ」

冬美はそう言って顔を逸らした。泣いているのか、笑っているのかもう分からなかった。冬美は私が病室を出ていくまで、薄闇に染まっていく東の空の方に顔を向けていた。

最期に少しだけ、冬美は微笑んでいるように呟いた。

「春は東の風が運んで来るんだってね。…でもまだ春は見えないわね」

私はただ黙って頷くことしかできなかった。

春はまだ見えない、だから早く、早く来い。



春が俄雨に毛羽立つみたいだった。

冬美は、冬とともに逝った。せめて春の芽吹きくらいは見たかっただろうに、桜の蕾くらいは見たかっただろうに。

それとも、実際に命の溢れる春を目の当たりにすると全く別のことを思っただろうか。


どうして、こんなところに病院をわざわざ建てたんだろうね、冬美。

こんなところだから、建てたんじゃないかしら。


耳元でもう居ない若い友人の声が聞こえてくるような気がする。

願いが叶うのならば、花の盛り桜の盛りに死んでゆきたい。

細い命の糸は呆気なく全てを断ち切っていく。そして、今日も明日も明後日も続いていく。

今年は開花が早いって言っていたのに、あまりにも早い開花だから花見の予定を前倒しにしないと追いつかない、なんて言ってる人たちもいるのに。

それよりも早く早くに、冬美の命は疾走していった。

俄雨が降って来たにも関わらず、みんな呑気だった。病院が見下ろす桜の只中にいても誰も気付く素振りもない。今なら泣いたって、俄雨に全てが紛れてしまうだろうと思った。

この雨からも、一つ一つが香り始める。桜の息吹き、春の息吹き、命の息吹きだ。

春は私には早くて、冬美には遠かった。

私は顔を上げて、半月ほど前にここを見下ろしていた場所を見上げる。誰かが生まれて、生き続ける横でまた誰かが死んでいくのは、まるで裁きのようだと思った。病院の厳しさは、裁判所の太い柱に似ていると思った。

風が吹く。桜はなんの未練もなく花びらを散らしていく。その途端に歓声が上がって、アルコールに膨れた沢山の顔がほころんでいく。


願いが叶うのならば、花の盛り桜の盛りに死んでゆきたい。

願いが叶うのならば、もう一度ここであなたに会ってから私も死んでゆきたい。


桜は生きることに執着をしない。

だから、散り際が死に際が一番美しい。


雨はまだやまない。どこか冬の冷たさが蘇ってくるようだった。

「ねぇ、冬美見てるの?とても綺麗ね。西行の気持ちが分かるような気がする。私も死ぬんだったら、こんな景色の中で死にたいもの」

もしも未来があるのなら、あったのならどんな風に毎年やって来る春を過ごしただろうか。

あんな風に、お酒を飲みながらたまには飲みすぎながら騒いだだろうか。まだ私たちはお酒の味を知らない。知らないまま、冬美は逝ってしまった。

春は遠かった。

遠い春を透かして、俄雨が降り続く。

桜はなんの未練もなく散っていく。

瞼を閉じると、死んだ人が表に立っているように感じる。


こうやって、会えなくなってしまった人のことを想い続けることも、まだ見えない春を待ち望む心地とよく似ている。ただ桜だけが今が花の盛りと咲いて、散っていった。


春はまだ遠い。

春はまだ見えない。

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見えない春 三津凛 @mitsurin12

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