第5話 平温

「さて、読者諸兄におかれましては、気を取り直してこの小説を読んでほしくて、というのも、第4話は白昼夢という設定だと決めたからです」

「あんたは誰に何を話しているの?」

「独り言は寂しさの証です」

 きゅいんきゅいんするやつを手に持つ淫乱ピンクナースが尋ねたので、わたしは答えた。

「ところで此処はどこですか? 私は誰?」

「ここは正気と狂気の二色で世界を塗り絵したら実は濃淡が違うだけっていう所ですよ。貴女は無意味に人生を余らせている矮小なホモサピエンス。ちょっと自殺すれば?」

「あっ? ぶっ殺すぞ、このビッチ」

 きゅいんきゅいん♪

「ありがとう、素敵なお姉さん!」

 私はお礼を言わなくてはならないのでお礼を言った。

 それにしても淫乱ピンクナースは見るからに淫乱ピンクで、まずナース服がピンクなので、かつボインボインだった。

「それで」と淫乱ピンクナースが言う。「貴女は総合病院で不倫したい勤務医№2だった医師をメタメタに殺した罪で捕まったのよ。けれど頭が狂狂くるくるパー子ちゃんだと裁判で認められたからここに入院しているのよ。おわかり?」

「おかわり」

「それで」と淫乱ピンクナースが言う。「貴女は総合病院で不倫したい勤務医№2だった医師をメタメタに殺した罪で捕まったのよ。けれど頭がパー子ちゃんだと裁判で認められたからここに入院しているのよ。おわかり?」

「おわかり」

「そう、ならよかった。アデュー」

 淫乱ピンクナースはきゅいんきゅいんを持っていない方の手を振り、部屋を出ていった。

 太陽はなかった。蛍光灯の無機質な優しさが部屋に満ちており、私は無意識のうちに大きな溜息をついた。その安堵に些か驚く。

 安堵。そう、私は安堵していた。これ以上まともでなくていいのだ。まともでいられなくたっていいのだ。社会不適合の烙印は社会不適合者への福音でもあった。私はいつだって救われたかった。少しだけ祈りが届いた気がした。

 みんな同じみんな同じみんな同じ。そうであるべきが幅を利かせ、いつの間にかそうであるべきだからという理由だけでそうあってしまう。それはきっとおぞましいことであったが必要なことなのだろう、私が上手くできないだけで。

「だってそうでしょう?」

 クマのぬいぐるみに話しかける。

「人はひとりでは生きていけないんだもの。集団に属するためには集団の一部にならなくてはいけないんだわ」

 クマのぬいぐるみは何も答えない。

 四角い部屋のなか、私はひとりだった。それでよかった。










 これが軟禁チックな病院生活の始まりで、一言にまとめるとイナバウアー退屈だった。いちおう他の患者もいるにはいるのだがどうにもコミュニケーションを取るのが難しい。彼らにどんな欠損欠陥があってここにいるのか知る術はなかったが、仮にあったとしても私は知ろうとは思わなかった。興味がない。彼らも私に興味を持たない。ここではたとえ私が気のふれた殺人犯であろうと集団強姦の被害者であろうと変わらず等価なのだろう。

 そういえばいつも手元にあった金属バットもどこかにいってしまった。ちょっとだけ取り戻せない何かを失ってしまったような気になって、それはきっと錯覚なんかじゃなかった。

 しばらくして私はクマのぬいぐるみに尋ねてみた。

「いつまでここにいるんだろうね」

 クマのぬいぐるみは何も答えない。代わりにいつもパジャマを着ているおばあちゃんが答える。

「死ぬまでだ、あんたは死ぬまでここにいるんだ!」

 パジャマおばあちゃんは三日後くらいに病院からいなくなった。生きているのか死んでいるのか知らないがとにかく退院したのだろう。

 しばらくして今度は淫乱ピンクナースに尋ねてみた。

「私はとても暇なので暇です、どうすればいいですか?」

「死ねば?」

「嫌です」

「ご昇天あそばせ」

「嫌です」

 淫乱ピンクナースは舌打ちする病人に優しくない淫乱ピンクナースです。

「ならさあ、小説でも書けばいいじゃん」

「何故に小説」

「文字が書けるなら猿にでもできるじゃん。あたし、思うんだよね。まっとうに生きるってのはどんな傑作を書くより尊いことなんだ。けれどあんたはまっとうに生きられない。それならそれで仕方ない。別にいいよ。代わりに小説を書けばいい。つまらない価値のない人生だって大声で叫んでやればいい。暗闇があることで救われることもあるよ。誰かにとっての暗闇であること。それがあんたの価値になる」

「いやいや、猿は文字が書けないので小説を書けませんってば」

「でもあんたならできる」

「まあ、ハイクオリティーな女子高生ですしね」

 最初はこいつとうとう仕事のしすぎで頭イカレたかな、あーあ、やっぱり労働は体に悪いんだなあ、仕事はしないに限るんだ、と思っていたけれど段々とまあ悪くないアイディアのように思えた。

 そういえば私は小説家としてたっぷりベストセラって有名な芸術家みたいに適当な生活をしようと断固たる決意をしたのではなかったか、そうであるなら小説を書くということは、マグロが回遊するくらい自然なことではなかろうか。

 きっと個人規模で考えるなら小説を書くなんて実にくだらない行為だ。私は私を救ってあげたいと無意識的に希っているが、小説なんぞ書いたところで私は救われない。小説として掬いあげられた要素は元々全て私のなかに存在していたものであり、もしそれらで私を救えるとしたら、書く前から救われているはずだからだ。

 淫乱ピンクナースの言うように、もしかしたら私でない誰かなら救えるかもしれない。が、ここには私しかいない。そんな仮定は無意味だ。それに今は仮定する気分じゃない。とりあえずベストセラれば金にはなる。それでいいじゃないか。愛だの幸福だのとほざくから苦しくなるんだ。お金じゃ完璧じゃないってのはわかっている。

 けれど完璧になんてなれやしない。完璧な人生なんてありやしない。愛は完全だ。幸福は完全だ。だから手が届かない。

 お金は不完全だ。それだけでは意味がない。お手本どおりの代替物。だから手が届く。私はそのお金でそれなりに生きていけるはずだ。別にそれでいい。キャンキャン馬鹿騒ぎされている正解を導き出せなくてもそれでいいんだ。誤答を抱いて眠ろう。太陽の昇らない朝が来るまで。


 ――できた。


 私は、小説を書いた。


                                    End

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平凡な日々 ささやか @sasayaka

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