謹直と放縦

周荘

第1話

「君はいつもそうだ。あまりにも礼儀が無さすぎるんだよ」

「お前の方こそ礼だ礼だとうるさ過ぎるんだ。一緒にいると堅っ苦しくてやってられん」

 黄以方が部屋の中に入ると何やら二人があらそっていた。そのうちの一人が黄以方に気づき、

「以方か」

「声が外から聞こえてきたぞ。何をそんなに言い合っているんだ」

「それが...」

 言いあらそっていた片方が言いよどむ。するともう片方が声を荒げながら、

「こいつが俺のことを無遠慮で失礼な人間だと言ったんだ」

 そう言われて、もう一人の方は眉をひそめながら、

「実際そうじゃないか。いくら同門だからといって、言って良いことと悪いことくらいはわきまえてほしいね」

「だからあの事に関しては悪かったと謝ってるじゃないか。それなのに君はいつまでも嫌味ったらしいことを言うもんだから...」

「嫌味なんかじゃないよ。君がいつまでたってもその傲慢な態度をなおさないから、僕もやかましく言わざるをえないんだ。それに、さっきの謝り方だって随分と適当だったじゃないか」


 黄以方はまたか、とため息をついた。二人の喧嘩は別に今日初めて起きたことではない。

 この二人は以前から折り合いが良くなく、たびたびこういった言い争いをしていた。

 これは、二人の性格の差異が原因でもあった。片方は、名を周礼旻といい、同門の中では学問や礼儀に関する知識は群を抜いていたが、細か過ぎるところがあり、礼儀にもうるさかった。

 もう片方は、孟行成という名であり、頭の回転ははやく、議論などでも他の者に後れをとることはなかったが、礼儀には無頓着で、他人に対しても、あまり遠慮なくものを言うところがあった。

 二人とも極端に他人を責め過ぎるような人間ではなかったが、性格が正反対であることもあり、何かあるごとにお互いに責め立てあうことが多かった。

 その度に他の者が止めにかかったりし、黄以方自身も何度か彼らを止めたことがあった。

(おおかた、行成のほうが無作法なことを言って、礼旻がそれにつっかかったのが発端だろう)

 そんなことを考えながら再びため息をつき、黄以方は二人に話しかけた。

「たしか前も同じようなことで喧嘩をしていたな」

「同じ理由だろうと、あっちがふっかけてくるんだから仕方ないじゃないか」

「ふっかけてるつもりなんかないね」

「ふっかけているつもりがあろうがなかろうが君の発言は人を不愉快にさせているんだ」

「あのくらいで不愉快になられたら先生の門下に入っている意味なんかあるのかい?」

「そういう言い方が気にさわるんだ。君の言うことが間違いにしろ正しいにしろ、相手を怒らせている時点でそっちにも非があると思うね」

 こうなると止めるのは難しい。黄以方は二人を止める方法を考え始めた。

 一応はどちらにも是非はあるから、間を取り持ってこの場をおさめることはできる。だが、二人の間の険悪さに対する根本的な解決にはならず、結局はまた別の日に喧嘩をしだしてしまう。事実、今までがそうであった。

(そうだ、もう少しで先生がここに来るはずだ。先生ならこの二人をどう執り成すだろう)

 この日は黄以方達の師である王陽明も講学に来る予定である。黄以方は王陽明なら自分たちでは上手く解決できなかったこの問題にどう対処するか興味がわいてきた。

「もうすぐ先生が来るし、せっかくだから君達のことを話して、先生に意見をうかがったらどうだい」

 二人は黄以方の言葉を聞くと、お互いを見合わせ、再び彼の方に顔を向けた。

「そうだな。この際だから今までのことも含めて、先生に決着をつけてもらおう」

 そう言って二人はひとまず言い争うのを中断した。黄以方は深く一息をついた。

 しばらくすると部屋の外から複数の声が聞こえてきた。その中には王陽明の声も混じっており、どうやら外にいる弟子に話しかけているようで、少しすると黄以方達のいる部屋に入ってきた。

 部屋にいる者たちとの挨拶をすませると、黄以方は先程の二人の言い争いについて、一通りのことを伝えた。黄以方が話し終えた後、王陽明はにこにこしながら二人を見回した。

「二人はいつもそんなことを言い合っているのかね」

 二人はさすがに師相手だからか、先程の言い争いからうって変わって、ちぢこまった様子で返事をしかねており、代わりに黄以方が、そうです、と一言だけ答えた。

 それを聞くと、王陽明は笑いながら、

「せっかく同じ屋根の下で学んでいるのだから、私としては君たちに仲良くしてもらいたいんだがね」

「しかし、相手に納得ができない部分があるのに、それを隠して仲良くするなんて自分にはできません」

 孟行成は反論した。周礼旻の方も声には出していなかったが、おおかた同意の表情を示していた。それを聞いた王陽明は真剣な表情になり、

「それに関しては私も君たちと同じ考えだ。相手のことを嫌っているのに、それを隠して無理に相手に近づこうとするのは、結局は自分のためにも相手のためにもならない。孔子も自分がそんな人間であることを恥としていたし、孟子もこの類の人間を郷愿と呼んでいたね」

「それでしたら...」

「しかし、それはそれとして、二人にはもう一歩踏み込んで考えてもらいたい。君達はお互いに納得できない、認められない部分がある。だから仲良くすることができない。だが、納得できないなら納得できないままにお互いに手を取り合う方法を考えてほしいんだ」

 二人は怪訝そうに眉をひそめた。黄以方も言葉の意味がうまく汲み取れなかった。彼らには王陽明の言った事が矛盾にしか聞こえなかった。納得できないままに手を取り合うなど、先ほど王陽明の言った郷愿の類の人間がすることではないか、と思えたのだ。

「先生、申し訳ないのですが、おっしゃっている意味がよく分からないのですが...」

「私の言い方が悪かったね。例えば今、私が君達二人に共同作業が必要な仕事を与えたとする。そうなると、君達はお互いに協力し合わなければならない立場になるのだから、今までのように喧嘩をしている場合ではなくなるね」

 二人は王陽明に向けていた視線をうつし、お互いに目を合わせた。

「私から任された仕事を終わらせるには、お互いに不満を持ちながらも、共に話し合って、役割を決めて、実行にうつさなければならない。その過程についてよく考えてもらいたいんだ。

 君達は今、同門の仲間ではあるが、仕事仲間のように責任を共有し合う関係ではない。だから、極端なことを言ってしまうと、お互いに好き勝手に言い合っても別に責任を負う必要はないんだ」

「好き勝手を言い合っているつもりはないのですが...」

「それに、お互いに納得できないまま無理に協力して物事を進めようとすれば、意識的にしろ、無意識的にしろ、妥協的になってしまうと思うんです」

「たしかに君の言う通りだ。お互いが妥協的になると物事の本当の姿が隠されてしまうことが多いからね。だが、お互いに延々と争い合って一歩も進むことができないよりは、各々で守るべき節操を守って、手を取り合って半歩だけ進むことも一つの真理ではないかね」

 王陽明の言葉を聞いて、二人は一瞬だけはっとしたが、その後は何かを考え込むように顔をしかめた。


「さて、小難しい理屈はここまでにして、具体的な話をしていこうじゃないか」

 王陽明は真面目な表情をくずして、再び笑顔になった。

「礼旻、君は礼に関して相当に詳しいと聞いているが...」

 そう言われて、周礼旻はいずまいをただして、はい、と一言だけ答えた。

「君は普段、礼儀について色々とこだわりがあるようだが何か理由があるのかね」

 王陽明の質問に対し、周礼旻はいずまいをただして、

「私も行成の言うように、たしかに人は中身が重要だと思うんです。でも、それとは別に形式の方も決して軽視されてはならないものだと考えています。これは私の経験なんですけども、私が先生の弟子になり始めた頃、先生の言う『良知を発揮する(人が本来持っている善悪の判断能力を最大限に発揮すること)』にはどうすれば良いか分かりませんでした。だから私はまず、形式から入ろうと考え、礼儀の方を勉強することにしました。そうして続けていくと、次第に先生の話すことや、他の人の言うことも分かってきたような気がしたんです」

 周礼旻は次第に声高になってきた。そして最後は多少の自負を込めて、王陽明に問いを発した。

「私、なにか間違っているのでしょうか」

 周礼旻の問いに王陽明は一度だけうなずき、

「いや、間違っているとは思わない。君自身が真剣に考え抜いて出した答えを私は否定するつもりもないし、また、その資格もない。それに、君は自分で考え出した答えをどうにかして現実に生かそうとしている。そこに関しては君は大きな自信を持っても良いと思う」

 彼は嬉しさのあまり顔をほころばせた。しかし、王陽明は彼の顔を見つめながら、

「しかし、君自身は自覚できていないようだが、実際のところは形式ばかりに気を取られすぎて、かんじんの心の方には、ほとんど気が向いていないようだね」

 彼は王陽明にそんなことを言われて驚いた。そして、驚くと同時に頭の中に疑問がわいた。

 先ほど彼は、心について考える手だてとして、まずは礼儀を学んでいると言った。だが、決して心の方を粗末にしていたわけではなく、あくまでも自身に合った方法を採用しているのだ。まず礼儀、それから中身を育てていく。結局は聖人の資質をおさめることができれば良いわけで、修行の順序に決まりがあるわけではないはずだ。

 そして、そのことを彼自身は自覚し、その旨を伝えたのに、王陽明は何故か『自覚しているつもり』と、何かしらの意味を含んだような言い方をした。

「先生、お言葉ですが先ほど言いました通り、私はまず礼儀の勉強をしてから心の修業をしたいと考えています。ただ、今は礼儀を勉強している段階でして...」

「それは私も理解しているよ」

「ですからまだ心の修業の方は...」

「だが、今の君の礼は見た目には既に完成されているように見えるのだが、まだ学ぼうとするのかね」

 周礼旻は王陽明の言葉を聞いて、胸に大きなものがつっかかる感覚を覚えた。

 以前、彼は知り合いから同様のことを指摘されたことがあった。その時に彼は『慎重に慎重を重ねるのが礼の一つだ』との内容の返答をした。

 王陽明に対しても同じ返答をすれば良いもではあるのだが、なぜか口に出すのがはばかられた。

 王陽明はそんな彼を見ながら言った。

「話が少し逸れるかもしれんが...昔私は講習に来ている者の中に、私の言う事の言葉面だけを聞いて、知識を得た自分が偉くなったと勘違いした者がいてね、それをどうにかしようと思って、彼らに静座をさせてみることにしたんだ。そうすると彼らは自然に落ち着きを取り戻したから、その時は静座というものが大きな効果を持つと思ったんだ。しかしそれ以降の彼らの行動を見てみると、静かな環境に安住してしまって社会への関わりを絶とうとする者が出てきた。それ以降、私は自分から他の者に静座を勧めることは無くなったんだ。もし、私の推測が外れていれば君に対して失礼な事を言うようになって申し訳ないのだが、君は礼儀を学んだことで満足して、内面を育てると口では言っても実際には出来ていないのが現状ではないかね」

 周礼旻は何も言い返せなかった。王陽明の言った事はたしかに自分のことを看破していたし、彼は孟行成との喧嘩を通して強情に礼儀にしがみつくようになったのも、今更ながら自覚したのである。

 王陽明はそんな彼の心情を知ってか知らずか、彼から目をはなし、孟行成の方へ視線をうつした。


「行成は礼旻と比べると、礼儀よりも心の方を鍛えることを重視しているみたいだね」

 そう言われた孟行成は、少し緊張した様子を見せながら、

「自分は人間として生きていく以上、心、中身が大事だと思うんです。礼儀も大切だとかよく言いますけど、それは一歩間違えれば形式にとらわれて、中身がなおざりになってしまう危険があるんです」

 孟行成の熱をおびた主張に、王陽明は目を閉じたままで静かに聞いていた。

「実際、学問を志している人たちの多くが、知識礼儀だけを学んだだけで聖人面をしたり、他人を批評して小馬鹿にしたりして、正直自分は見ていていたたまれなくなるんです。だから、自分は少なくとも周りにいる人達にはそうはなってほしくないし、それもあって、礼旻にもあんなに形式ばってほしくないんです」

 孟行成の声音は少しだけ落ちつきを見せた。それに合わせるかのように周礼旻は彼の顔を一瞬だけ見たが、すぐに首を垂れてしまった。

 王陽明は閉じていた目を開けた。

「たしかに、礼儀というものは本来、自分と相手との調和をはかるものだが、それは一歩間違えれば、自身の醜さを鍍金で覆うようなことにもなりえる。それに、礼儀や知識を身につけると、それだけで人間はどうも偉くなったと思い込んでしまうものだ。だから、そこに関しては私も行成とまったくの同意見だ」

 孟行成は目を輝かした。彼はたしかに自分の意見に自信を持ってはいたが、いざそれを王陽明に話してみたら、もしかしたら、という不安があったからである。

 しかし、その目の輝きも、王陽明の次の言葉で疑惑の色に変わった。

「ただ、一つだけ言わせてもらいたいのは、私は君に調和についてもっと真剣に考えてもらいたい」

「調和?」

「君は礼旻に、彼の短所を直してもらうために注意をしたが、結果的にはそれが原因で喧嘩が始まってしまった。これは私が普段皆に教えている調和に反する事だ。君自身はこの問題に関して今まで一度だけでも真剣に考えてみたかね?」

「勿論です」

「ふむ。しかし今までの私との会話では、君は喧嘩の原因をすべて礼旻に押し付けているようだが」

 王陽明の言葉に対して、孟行成は反感を持った。喧嘩の原因を礼旻の責任にするつもりなど毛頭ないのに、そのような事を言われるのはあまりにも理不尽だと思ったのである。

「そんなことはありませんよ。自分の方もたしかに言い方は悪かったと思います。ただ、どんな言い方にしろ、的を得た批判については、礼旻は受け入れるべきだと言ってるだけです」

「自身の言い方が悪いとは自覚しているようだね。それじゃあ、君は今までその問題をどんな方法で克服しようとしたか教えてくれるかね」

 孟行成は二の句を継ぐ事ができなかった。彼自身、普段から自身の言い方が悪いと言葉の上では語っていたが、それを実際に自分の大きな問題として真剣に考え、本気で直そうとは一度も思わなかったのである。

 だから王陽明からの単純な質問に対してすらも、彼は上手く答える事ができなかった。

 王陽明は言葉を続ける。

「たしかに君は自分の問題を自覚していたつもりかもしれない。しかし結局それは礼旻との喧嘩に勝つために利用していた理由付けに過ぎないものなんだ」

 行成は反論できなかった。彼が先程王陽明に言った「自分の方もたしかに言い方は悪かった~。ただ、どんな言い方にしろ~」という言葉が、まさに自身を守るために、言葉面で語っていたに過ぎないことを表していた。

 彼は何も言えずにうなだれるしかなかった。


「私が思うに二人は対照的な問題を抱えているかに見えるが、実のところ本質的には同じ間違いを犯しているみたいだね」

 二人は困惑した様子で王陽明を見た。しかし、二人とも決まりが悪そうにして、お互いに沈黙を守ったままでいた。

 王陽明は二人を見つめながら言う。

「君たちは心と外面を二つに分けて考えてしまっている。いったい、心の存在を無くしては外部への表現など出来ないし、外部への表現を無しに心を働かす事だって出来ない。本来、人間が生きていくにあたって心と外面は二つに分けられるものではないんだ。礼旻は外部への表現にとらわれ過ぎて自身の心の内を考えようとしていないし、反対に行成は自身にとらわれ過ぎて外の世界を見つめる力を失ってしまっている。これは二人が自分と自分以外の全てのものをまったく別物として考えてしまっているからなんだ」

 二人は王陽明の言ってることがなんとなく理解できたが、いまいち腑に落ちないところもあった。二人が現在抱えている問題と上手く結びつけることが出来なかったのだ。

 そんな心情が二人の顔に出ていたようで、王陽明は微笑しながら言葉を続けた。

「ところで...私は普段、君達に格物について教えているのだが、意味はよく呑みこめているかね」

 『格物』とは王陽明が講習などで教えていた用語で『物(こと)を格(ただ)す』と読み、自分と客体との関係を正す、という意味に使われていた言葉である。

 二人はその意味自体は理解はしていたが、王陽明が今言わんとしていることが単なる言葉の意味ではないことは感じていたので、どう答えて良いものか迷っていた。

「意味自体はなんとなく分かるのですが...」

「別にそんな難しいことではない。要は自分と自分以外のあらゆるものとの関係をより良いものにしていく事だ。その相手が何かの道具であれば、その道具を大きく生かす方法を考えていけば良いし、相手が人であれば、その人との理想的な関係を育むためにどういう関わり方をすれば良いかを考えほしいだけなんだ」

 二人は王陽明の伝えたいことが分かってきた。それと共に、今までの自分達は王陽明の言っている事を言葉面で理解していただけで、実際の生活の上ではまったく意味を成していなかった事を自覚したのもあり、顔を赤らめた。


 それ以降、一見すると二人の間に言い合いが減ることは無かった。しかし以前と違ったのは、その言い合いは議論と呼べる程に内容の深みが増していたことである。同時に、その議論はお互いに感情を高ぶらせずに落ち着いたものになっており、他の者が間に入って止める必要も無くなった。

 また、二人で一緒にいることも多くなり、一時期それが他の同門の者たちの間で少しばかりの話題になったようである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

謹直と放縦 周荘 @syuso

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る