第3話 敦久の願い
敦久の祖母、桔梗は昔から優れた和歌を詠んだ。才知溢れ、誰もが憧れを抱く存在だった。
夫の死後、尼になって地方に住んでいたが、十年前から同じ言葉を繰り返すようになった。
昔は迷いなく、長生きをしてくださいねと言えた。それは今の祖母を思い描くことができなかったからだ。
自分をじっと見つめているはずの瞳には、もはや意志がないように思われた。つまらなそうに、とある一点を凝視しているのだ。
あれほどまでに強い語気で、あなたのことを忘れることはないと言っていた。だが、口から発せられる言葉は、自分に向けられたものではない。少し前にその場にいた自分に向けて、先ほど以上に温かな笑みとともに与えている。
決して話をしたくない訳ではない。いつも話が弾み、お互いに時間を忘れる熱中ぶりだ。問題は、話が終わりに近付いて、間がいくらかできたときだ。そのときに祖母は同じ話を語り出す。
孫を喜ばせようと、客の相手をするように桔梗は気を遣っている。
その行為を、人の善さを、ないがしろにすることができずに耳を傾けている。そして相槌を打つ度に、得体のしれない塊が胸を苦しくさせていた。
花鬘は興味ありげに訊いた。
「それで、記憶を劣化させないような薬を所望というのか?」
敦久は臆さずに答えた。
「左様でございます」
花鬘は何度も頷くと、少しだけ首をひねった。
「とりあえず、思い出のある和歌を諳んじてはくれまいか? 桔梗殿の人格をはっきりと掴んでおきたいのじゃ」
「どうしてですか?」
「薬を飲んでもらうのじゃ。元気な人に出して飲む人はいまい。唐の菓子か、酒の形にするか。桔梗殿とそなたの交流を聞けば、おいそれと分かる」
納得した敦久は、記憶を辿る。すぐに口をついて出たのは春の歌だった。
「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をもしる人ぞしる」
かつて祖母に見せるために、手折った梅の枝を土産として渡したことを思い出した。
次は「五月待つ」の歌。いつぞや庭に植えている橘の香りで、祖母の衣服の香りをしのんだことがある。
菊、萩の花、薄、女郎花、虫の音、紅葉……。和歌一つ一つに思い入れがある。それ故に、口ずさんだ状況が流れるように脳裏を駆け巡った。
敦久の胸に疑問が浮かぶ。
自分が追い求めるべきものは、果して何であろうか。老いが彼女の一部であるのなら、自分はどのように接することができるのだろうか。
我に返ったのは、璃寛の言葉だった。
「あの、花鬘殿。我らの牛車がいずこにあるのか、分かりますか?」
「もちろんよく知っておる。後でわらわが、元の時間と場所に戻して差し上げよう」
「それは、花鬘殿の使いが来る前にいたところですよね?」
「その通りじゃ。慎重に訊く従者よ」
花鬘は璃寛に微笑むと、敦久を見つめた。
「さて、そろそろ意志が固まったころであろう。そちは一体、何を願うのじゃ?」
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