玉手箱を開けたとき

羽間慧

第1話 申七つ時

 申七つ時。まだ日は高く、空は淡い藍色に染まっている。

 そんな中、山道を登る二つの影があった。

 目的地の小屋にたどり着く前に、一人の少年が口を開く。


「若様。やはり、やめた方がいいのでは?」


 小声で囁くのは、敦久あつひさの家来である璃寛りかん。顔立ちはあどけなさを含み、恐る恐る主人の表情を伺っている。

 敦久は首を振り、小屋を見据えた。


「今宵こそは捕らえてみせる」

「その意志は称賛したいが……おぬし、何者だ?」


 振り返ると、太刀や薙刀を持つ京童部が大勢いた。身にまとうのは墨染めの法衣。

 血の気盛んな男達に璃寛がひるむ中、敦久は静かに名乗る。


「肩書は検非違使佐けびいしのすけ。お前達の不正を知るものだ」

「不正? 人違いを」


 笑い飛ばす男達に、敦久は非難の目を向ける。


「いや、違う。末法の世に、仏にすがる民の心を利用して、不当な額の来迎図を売りさばくと聞いている。こちらには証拠の書類もあるぞ。……被害は中年から老人にまで及ぶと、調べはついている」


 男達は目配せをして、敦久に斬り掛かった。璃寛がぎゃっと叫び声を上げる。

 家来の心配に構うことなく、敦久はひらりと攻撃を避けて太刀を抜く。


 刹那、無数の刃が勢いよく跳ね上がった。

 敦久は一閃だけで敵を圧倒したのだ。

 男達が驚いて一歩下がったとき、どこからか鈴の音が響いた。耳障りではない優しい音。だが、それを耳にした男達の膝は地について倒れていく。


 敦久の無事に安心した璃寛は、静かに問い掛けた。


「これは若様の?」

「私ではないな。一体どなたの仕業であろうか?」


 敦久は名残惜しそうに太刀を鞘に収め、ある方向を向いた。


「じきに別当が来られるはずだが……あぁ。ご到着だ」


 遠くから狩衣の男が駆けてきた。

 男達を別当に引き渡すと、二人は牛車のところに戻る。

 このときは慣れない山道に息切れていたため、ろくに見ずに入った。

 車はゆっくりと動き出し、敦久はぐるりと中を見回した。


 細やかで美しい模様が施されているが、窮屈な印象はまったくない。秋を思わせるような落ち着いた色合いにも魅せられる。香を焚きしめているのか、甘ったるくない爽やかな香りに包まれていた。

 敦久はもう一度、注意深く飾りを眺めた。


「璃寛。私の車にこのような飾りを付けていただろうか?」


 璃寛ははっとして見回すと、次第に頭を下げた。


「いいえ。見覚えがありません」


 よく見ずに乗せてしまった責任を思い、璃寛の肩は沈んだ。


「……まぁ、身を任せよう」


 陋屋でも荒野でも、臨機応変に行動しようと決めたものの、着いた場所は予想だにしないところだった。

 車から降りた二人の目に飛び込んだのは、広々とした屋敷だ。

 とんでもなく高位の屋敷に連れられたことに、二人は驚きを隠せない。

 だが、それ以上に面食らったのは、さっきまでいた牛飼童と牛車が消え、渡廊下から音もなく女房が現れたことだ。


「お客様に申し訳ないのですが、少しだけお時間をいただきます」


 笑みを浮かべる様子は美しくも、不思議と気安く近寄れない雰囲気があった。

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