第1話 -日常-
今日の夜空は夏らしく澄んでいた。しかしそれとは裏腹に空気は重く、霧がかかったように湿り気があった。
その日の夜、僕らは抱き合い、鳴いた。涙と汗を流しながら、鳴いた。僕の下にいる彼女は少し苦しそうな顔をしていたが、時折僕の顔を見て微笑む。目には「もっと」と訴えかけてくる口の動きが見えるのに耳には文字にならないような掠れた声と吐息が聞こえてくる。彼女は慣れていない。僕もだが。
「ごめんな…痛いよな、ごめん…っ。」
聞こえるか聞こえないかの声で呟くと彼女は首を横に振った。彼女の口から堪えきれず溢れている声は僕の口で塞いだ。僕らの揺れに合わせて唇の距離も揺れ動いた。何も揺れがないときも、離れまいとお互い唇を近付ける。自分の右手を伸ばし、そのままゆっくりと彼女の髪を撫でる。仄かに色素の抜けた茶色の髪は細くて柔らかく、僕の手のひらにくっついては元の位置に戻り、またくっついては戻る。行き場に困った僕の左手は戸惑いながらも彼女の右手と絡まった。
部屋には一定間隔で揺れる寝具の音と少し籠った彼女の声が不安定に響く。
暫くして気付くと僕は腰を掴まれていた。その手の力は弱く、今にでもほどけてしまいそうだった。いつの間にか左手の温もりはなくなっていてガサガサしたシーツがそこにあった。彼女の籠った声はさっきよりも絞り出すような声になっていてそこではっとし、塞いでいた口を離した。と、同時に彼女の指が僕の手から離れていき無防備にシーツに投げ出された。はぁはぁ、と荒い息をしながら瞬きをしている彼女の目はうっすら潤んでいた気がした___。「ごめん。」出そうと思った声はただの湿った吐息になって空気に混ざってしまった。
僕らはそれからも鳴いた。 終わるまで 鳴いた。
7月19日。
「青木ゆらさーん」
産婦人科へ行くまではそう長くなかった。
僕の名前は
急に「ダルい。」と一言だけ言って一日中寝る日々が続いたゆら。市販の妊娠検査薬で陽性判定が出た、という連絡がきた。次の日、彼女の手を引き、そっと車に乗せ、産婦人科へ向かった。
「なんか今日、車ゆっくりじゃない?」
助手席に座るゆらが僕の方を見て言った。
「んー、何か怖いんだよ。」
「怖い?なんで?」
「何かあったらやだなー…って。さ。」
自分で言っていることが恥ずかしくなって顔を隠すように一瞬下を向いた。少し前までは抱いていなかった感情で不思議だった。
「急にどうしたのよっ…」
ゆらが前を向きながら微笑んだ気がした。その顔は僕からは見えない。
病院の待合室には数人の女性しかいなくて僕はとても浮いた。変に緊張してしまい、ボーッとしているうちにゆらが手続きを済ませてくれていた。余りすぎたロビーのイスに座り、ゆらを手招きする。隣に来たゆらが急に思い出したような顔をして言った。
「ねぇねぇ、もし私が体調悪くなっちゃったら色々手伝ってくれる?」
「もちろんだよ!しないわけないじゃないか。」
僕は少し食い気味に答えた。ゆらは何を心配してるんだよ。仕事だって有給使って休むし、買い物だってどこだっていく。無理は絶対にさせたくない。
「ご飯も?」
「え…っと」
少しの静寂が過ぎた。返事ができない。何せ僕は料理ができない。それ以前にまともに炊飯器の使い方も知らない。
「楓斗、作れる?」
つぶらな瞳を向けられる。
「あ、うん、それは頑張るって。あの、レトルトくらいは僕だってできるよ…。」
頼りない返事をした。でもゆらはそんな僕をおちょくったりせず 健康に気を付けて頑張ってね と明るい声で言ってくれた。彼女の右側から見た横顔は不安そうに見えた。
「青木ゆらさーん」
診察室へ入ると冷房の風が身体の汗を一気に冷やした。しかしすぐに汗が滲んでくる。暑さからの汗ではないと悟った。事前に準備をしっかりしていたゆらはスムーズに問診票を書き、着々と検査を済ませていく。僕はそのようすを傍観するだけで何もできない。
しばらく時が過ぎる____。
「はい。今日の診察は終わりです。次の診察はいつになさりますか?」
えっ、次? てっきり僕は一回で結果が出るものだと思っていて本心をそのまま口にしてしまった。はっとして口を閉じると、先生が あと2回ほど診察に来ていただく予定です。 と目を細めながら言った。ゆらは先生と次の診察予定日を決めている。でも僕は確信していた。赤ちゃんはいる。今日は、いない根拠が見当たらないからという適当な根拠で赤ちゃんがいるという説を提唱しよう。早とちりかもしれないが、明日からこの子の名前を考えようか。
帰り道。行きよりも丁寧に運転した。いつもは交差点を曲がるとき、2回左右をみるけど今日は4回見る。前進するときはゆっくりアクセルを踏む。カーブをするときは車体がガタガタしないよう気遣った。ゆらは僕の"やりすぎ"とも言える配慮に気づいてはいたが何も言わず、
「夜ご飯何がいい?」
といつもの声で聞いた。
「何でもいいかな…。」
いつものように答える。あ、でも今日は
「麻婆茄子が食べたいな!」
少し間をおいてゆらがクスクスと笑い出した。僕なんか変なこといったか?僕が困惑しているとゆらが小さな声で 子供みたいだなぁ と呟いた。忘れることにしよう。
____子供みたいだなぁ。 彼の左横顔を見て思う。思うだけ…だけど。でも彼の少し眉間に皺の寄った顔を見る限り、口走ってしまったかもしれないな。あ…茄子が家に無いや。
「冷蔵庫に茄子無いから買いにいかなきゃね。」
「じゃあ、いつものスーパー寄ろうか。」
今度は彼女の方を見ることができた。左の窓の外を見ていたけれど。
__ねと言いながら僕らは君を抱きしめる 二宮 可糸 @Quest__
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