我的白蛇伝

橘 泉弥

我的白蛇伝

 很久以前むかしむかし杭州こうしゅう西湖せいこ許仙きょせんという青年が住んでいた。生薬屋で働く彼は優しく真面目な好青年で、誰からも好かれていた。

 ある日、許仙はのんびり街を歩いていた。得意先へ薬を届けた帰りである。麗らかな陽気の中に鳥が啼き、風は新緑を揺らしていく。春だった。

 角を曲がった時、許仙の眼に不穏な景色が映った。二人の若者が、白衣の女性を塀に追い詰め取り囲んでいたのだ。女性は困っていた。

 それを見ると優しい許仙は放っておけない。若者の一人に歩み寄り、その肩を叩いた。

「何だ兄ちゃん」

 若者は不機嫌そうに振り返る。

 許仙は優しく微笑んだ。

「見た所その女性はお困りのようですが、どんなお話をなさっているのですか?」

「お前には関係無いだろ」

「ええ、でも気になってしまいまして」

 もう一人の男も許仙を睨んだ。

「何か文句でもあんのかよ」

「ええ、女性を追い詰め困らせるなど、子供が母親にする事です。貴公方は、まだ幼い子供のようですね」

「何だと!」

「馬鹿にしやがって!」

 二人が同時に許仙に殴りかかる。しかし一秒後に倒れていたのは、許仙ではなく若者達だった。

「暴力はいけません」

 青年はまた軽く笑う。

 若者二人は、悔し気な顔をしながら去っていった。

「御嬢さん、お怪我はありませんか?」

 許仙が尋ねると、女性は静かに頷いた。

「なら良かったです。では、僕はこれで」

 そろそろ店に戻らねばならない。許仙は先刻より速足で、その場を後にした。

 数日後、街の中央商店街にある生薬屋に妙齢の女性が来た。誰もが息を吞むほどの美人だが、商品を見るでもなく店の奥を気にしている。

「何かお探しですか?」

 店員が話し掛けると、女性は顔を赤らめて俯いた。

「こちらに、許仙という方はいらっしゃいますでしょうか?」

 鈴を転がすような澄んだ声だ。秀麗な顔によく似合っている。

「ああ、あの子に用なのね」

 女店員は了解して、暖簾の奥に声をかけた。

「許仙、あんたに御客様だよ!」

 返事をして青年が店に出てくる。訪ねてきた女性を見て目を丸くした。

「貴女は先日の……」

 女性客は優雅に頭を下げた。

素貞そていと申します」

「許仙です」

 青年も名乗って礼をする。

「今日はどうされました?」

「あの、お礼を申し上げに」

「左様ですか。わざわざありがとうございます」

 二人のやり取りを見ていた店員が、突然声をあげた。

「ああ! 許仙、あんたそろそろ休憩時間でしょ。少し外に行ってくれば?」

「え? そんな事……」

「ね、そうしなさいよ」

 店員は許仙を店の外へ押し出す。素貞もその後について行った。

「ほら、いい天気だし。散歩でもしてきなさい」

「でも姐姐ねえさん……」

 許仙が二の足を踏んでいると、姉はにっこりと笑った。

「何か文句あんの?」

 彼女のこの笑顔は口答えを許さない表情だと、許仙は知っていた。

「いえ、ありません……」

 こういう時は、素直に言う事を聞いておくのが一番だ。結局、許仙と素貞は昼下がりの街を散歩することにした。

「すみません、昔から姉には逆らえなくて。ご迷惑ではありませんか?」

「勿論。軽功の達人と一緒だと、頼もしいですわ」

「そんな、達人なんてものではありませんよ」

 昨日、若者二人を瞬時に伸した動きを見ていれば、許仙がかなりの軽功家である事は分かる。

 並んで歩きながら、許仙は横目で素貞を観察する。先日と同様の白い衣を纏っており、肌もそれと同じように白い。目鼻立ちは整っており髪は濡羽色で、かなりの美女と言える。

許仙は暫く見入っていた。

「それにしても、御姉様と仲が宜しいんですのね」

 素貞に声を掛けられてはっとする。

「いや、仲が良いと言うか何と言うか……」

 許仙としては頭が上がらないだけなのだが、傍から見るとそうなのだろうか。

「私には親も兄弟も居りませんので、羨ましい限りですわ」

 端麗な顔が少し曇った。青年の胸を陰りが過る。

「では、一人でお住まいなのですか」

「いえ、小青しょうせいと言う婢女が一人居ります」

「左様ですか」

 半刻の後、とある十字路で素貞が脚を止めた。

「本日はこの辺りで失礼させて頂きます」

深々と頭を下げる女性につられ、許仙も礼をする。

「是非また店に来て下さい」

そう言うと、素貞はぱっと顔を上げた。

「宜しいのですか?」

「ええ、どうぞ」

 女性の顔が明るくなる。

謝謝您的好意ありがとうございます

 もう一度深く礼をすると、素貞は去って行った。

 白い衣の彼女が再び生薬屋に来たのは、散歩から五日後の事だった。

 店内に客はいなかったので、店番をしていた許仙は素貞の来訪に直ぐ気付いた。

歓迎光臨いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

「いえ、買い物ではなくて……」

 素貞は微かに頬を染めて俯いた。

「貴方に会いに来ました」

「さ、左様ですか」

 許仙もそう言われて悪い気はしない。互いの中に心地良い恥じらいが流れ、少しの間二人で黙った。

「あの、お茶でも如何ですか? 昨日お隣さんから龍井茶を頂いたんです」

「謝謝您。ご迷惑でなければ」

 許仙は店の奥で二人分の茶を煎れて来て、片方を素貞に手渡した。

「熱いのでお気をつけて」

「はい」

 並んで茶を飲み言葉を探す。遠慮がちな二人は、相手の懐に入り込む言葉を持ち合わせていなかった。

 それでも、逢瀬を重ねる内に段々と打ち解けてくる。梅雨が明けた頃には、大抵の事は素直に伝えあう仲になっていた。

 素貞は三日に一度程の頻度で生薬屋に顔を見せ、許仙が非番の日には町を歩いたりもした。

「許仙、ちょっと待ちなよ」

 ある日許仙が素貞と出掛けようとすると、姉が彼を呼び止めた。笑って二枚の紙きれを差し出す。

「はい、燿榮座の観劇券。二人で行ってきな」

「良いのですか?」

 恋人と行くと言っていた気がするが、貰って大丈夫だろうか。

「いいよ。もう要らないから」

「え?」

 まさか別れたのかと、許仙の頬を冷たい汗が伝う。前の彼氏に振られた時の八つ当たりは、本当に恐ろしかった。

 しかし姉は、弟の心配とは裏腹に上機嫌そうだ。

「あたし、この前正式に彼氏と婚約したんだ」

「えっ、聞いてませんよ?」

「言ってないからね。まあ、だから貢ぐのは御終い。後は尻に敷くだけよ」

 乾いた笑い声が怖かったので、許仙はお礼と共に急いで券を受け取り、家の外へ逃げた。

 許仙が待ち合わせ場所へ行くと、素貞はいつもの白い着物で立っていた。

「すみません、待たせてしまいましたか」

「いえ、今来た所です」

 お決まりの言葉を交わし、今日の予定を話し合う。

「姉から観劇の券を貰ったのですが、御一緒して頂けますか?」

「ええ、喜んで」

 燿榮座はこの街で一番大きな劇場だ。今日の演目は『薫永与七仙女薫永と七仙女』だった。

 並んで木造の席に座り、劇が始まるのを待つ。

「どんな話か御存じですか?」

 人々の声が飛び交う中、素貞が許仙に訊いた。この辺りでは有名な民話であった筈なので、青年は少し驚く。

「薫永という青年と、天から遣わされた仙女の恋物語です。御存じありませんか?」

「ええ……民話にはあまり詳しくないものですから……」

 この民話は子供でも知っている程有名なので素貞の言葉はかなり不自然だったが、許仙は深く気にせず、彼女のはにかむ表情も美しいと思っただけだった。

 劇が始まる。舞台の上では煌びやかな衣装の役者が物語を繰り広げる。

 許仙は暫く見入っていたが、ふと横を見ると素貞の端麗な顔が目に入ったので、そちらに視線を移した。

 素貞は劇に夢中になっている。場面に合わせて表情が少しずつ変わるので、許仙は彼女の新たな表情を見つけては静かに歓喜した。

 しかし、劇が終わり会場が拍手の嵐に包まれた時、素貞は眼に涙を溜めていた。それが感動による物では無く悲愴による物である事は、顔で分かる。

「どうかしましたか?」

「いえ、少し……悲しい御話でしたので……」

『薫永与七仙女』の二人は最後、玉皇大帝によって引き離される。

許仙は遠い昔母から聞いた時には悲しいと思ったが、今はもうその感想を持っていなかった。故に素貞の反応は大袈裟ではと思ったが、余程感性豊かなのだろうと納得した。

その後も、二人の交際は続いた。夏には川辺へ涼みに行ったし、秋は紅葉狩りをした。冬になると会う回数は減ったが、新年には二人で祭に出掛けた。

新年快楽あけましておめでとう。今年も貴女に良い運がありますように」

「新年快楽。貴方のお仕事が順調でありますように」

 挨拶をして街に繰り出す。春節らしく街は紅色に染まり、道には人が溢れていた。

「廟会に行きましょう。催物が有りますよ」

「そうですね」

 二人は並んで歩いていたのだが、人混みの中でふと素貞の姿が消えた。許仙は慌てて周囲を見渡す。

 すると、後ろから突然手を握られた。振り返ると見慣れた白い着物が居る。

 素貞ははぐれないよう急いで手を掴んだのだろうが、直ぐに赤面して離そうとした。許仙はそれを感じ、白い手を強く握り返す。

「行きましょう」

 何故か相手の顔を真っ直ぐ見られなかった。右手に冷たい彼女の手を感じながら、人混みの中をすり抜けて行く。高鳴る鼓動が心地良かった。

 そんな事があってから、二人は時々手を繋ぐようになった。最初の頃はお互いに気恥ずかしかったが、その内慣れた。

 桃の花が咲く頃になると、そろそろ出会って一年だ。この頃はもう互いの性格をよく把握し、分かり合う仲になっていた。

「貴女は相変わらず、白い服ばかり着ていますね」

 出会ってから今まで、許仙は素貞が白以外の着物を纏っている姿を見ていなかった。

「他の色は御嫌いですか?」

「いえ、そういう訳では……」

 素貞は眼を泳がせる。

「でも、白以外は着た事が無いのです。この色でないと落ち着かなくて」

「左様ですか」

 ならば、無理に他の色を勧めるのも無粋だろう。しかし許仙は、彼女の雪膚には濃い色が似合うと思っていた。

「では、色の付いた簪釵かんざしは如何でしょう。これから買いに行きませんか?」

 ちょうど商店街も近かったので、素貞も賛成した。

 青空の下を並んで商店街まで歩き、簪釵屋に入る。素貞がおもむろに白い髪飾の方へ寄って行ったので、許仙はその腕を引いて鮮やかな棚へ連れて行った。

「花の飾が綺麗ですね。それとも、動物彫刻の方が御好きですか」

「髪に挿すなら、花の方が魅力的ですわ」

 素貞は少しの間商品を見渡していたが、やがて桔梗を模した紫の簪釵を手に取った。店主に許可を貰い、それをそっと髪に挿す。

「似合いますか?」

 少し不安気に笑って見せる彼女を見た途端、許仙の胸に感情の波が押し寄せた。幸福感、独占欲、信頼感、そして何より愛おしさ。溢れんばかりのその感情は、口に上がって言葉となった。

「……素貞さん」

「はい」

「結婚してください」

「……はい?」

 素貞は眼を丸くした後、真っ赤になった。そこで許仙も事の重大さに気付き、紅潮する。

「す、すみません突然。失言でした。忘れて下さい」

 許仙が慌てて前言撤回すると、素貞の表情は沈んだ。

「……私は長い時間を生きて参りましたが、誰かに愛された事は御座いませんでした。また誰かに懸想した覚えも無く、私にとって貴方は初めて愛し合えた御仁なのです」

 素貞は真っ直ぐ許仙の眼を見つめる。

「確かに私は直ぐに御返事を出来ませんでした。しかし言葉が出ないのは嬉しさの余りでしたのに、婚約の御申し出を失言だと仰るのですか?」

 許仙の胸にまた、彼女に対する愛しさが込み上げてきた。思わず素貞の手を握り、じっと見つめ合う。

「僕の言葉が貴女にとって失言でないなら、嬉しい限りです」

 感情を顔に表しながら、許仙は決心した。この人と生きていこうと。

「改めて言いましょう。僕と、結婚してください」

「はい……喜んで」



 こうして許仙と素貞は婚礼の儀を執り行った。結婚後、素貞は婢女の小青と生薬屋に越してきて、二人は一緒に暮らすようになった。

 許仙の親族は皆彼女を歓迎し、新たな家族として迎え入れた。

 素貞は生薬屋の仕事を直ぐに覚え、店先に立つようになった。彼女が来てからというもの不思議と店は繁盛し、商売は上手くいって二人は幸せだった。

 しかしある日、生薬屋を危機が襲った。薬を運んでいた船が転覆、何人もの乗組員が死亡し、商品は全て河底へ沈んだ。

「如何します叔叔おじさん、このままでは店が危なくなります」

「ふむ、如何したものか……」

 許仙と店主の李將仕りしょうしは、店の奥で頭を悩ませる。

姐姐ねえさん、一月赤字になっただけで怒りますからね」

「もし店が危ないなんて知ったら……」

 二人は身震いした。

 男共は隠れて話し合っていたのだが、素貞はその様子をこっそり見ていた。

 翌日、店仕舞の後許仙が部屋に戻ると、素貞が大きな木箱を置いて待っていた。

「これは?」

 許仙は首を傾げる。こんな箱、今朝までは部屋に無かった筈だ。

「お金です」

 素貞はそう言って蓋を開けた。中に詰まった銀貨を見て、許仙は仰天する。

「こんな大金、如何したのですか?」

「隣の点心屋から頂いて来ました」

 許仙が慌ててそれを李將仕に伝えた為、家中大騒ぎになった。

許仙と李將仕は急いで点心屋の戸を叩き、出てきた店主に頭を下げる。しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。

「何の御話でしょう?」

 あれだけの銀を渡しておいて、忘れる事もあるまい。二人は訝しがりながら、素貞が御宅から金を頂いてきたと説明する。

「まさか」

 店主は最初本気にしていなかったが、二人が真剣なのでやがて顔つきを変えた。一度奥に引っ込み、血相を変えて出てくる。そして二人に、家にあった貯金が箱ごと無くなっていると伝えた。

「如何いう事でしょう?」

 許仙は混乱した。まさか素貞が黙って持って来たというのだろうか。彼女に限ってそんな事は無いはずだと思いつつ、家に戻って妻に訊ねてみる。

「この箱を持ち出す時、隣の御主人に許可は取りましたか?」

 肯定してほしいと願っていたが、素貞は真顔で否定した。

「いいえ」

 許仙は脱力した。自分の妻が人の金を盗んだとは思いたくなかったが、本人がこうして認めている。

「何故銀を盗んだのです?」

「昨日、店が危ないと話しているのを聞きましたので」

「悪いとは思わなかったのですか?」

「?」

 素貞はきょとんとしている。まるで、金を盗んだ事を悪いと思っていないようだ。

「……とにかく、今からその金を返して謝罪に行きましょう」

「……はい」

 納得していない様な素貞を連れて、許仙は点心屋へ謝りに行った。

 元々穏やかな人柄で有名な店主は、さして怒る事も無く素貞を許した。

 しかし許仙は釈然としない。素貞が悪気も無く金を盗んだなんて、不思議だった。素直な彼女に裏があるとも思えないし、本気で善悪の区別がついていないとしか考えられない。育ちも悪くない様子なのにと納得がいかなかった。

 許仙はそれから何度もこの事件について妻に訊いたが、素貞は詳しい事を話さなかった。

「あんな重い箱、女性一人で運ぶのは大変ではありませんでしたか?」

「……申し訳ありません」

 謝るだけで話に進展は無い。やがて許仙も言及するのをやめた。

 ただ、二人の仲はぎくしゃくし始めた。夫は妻を信用しきれなくなり、妻はそれを感じて遠慮する。二人きりだと気まずくなり、顔を合わせる回数も減った。

 店の立て直しに忙しかった事もあり、三月経っても関係は戻らなかった。

 ある日、許仙が外出の準備をしていると、姉が話し掛けてきた。

「あんた、最近元気ないけど大丈夫?」

「そうですか?」

 確かにここの所体が怠いが、仕事があるので気にしていなかった。人から見ても分かる程だったのか。

「まだ素貞さんと上手くいってないの?」

「ええ、まあ……」

「そろそろ許してあげなよ。彼女だって店の為にやったんだろうしさ」

「……」

 分かっているつもりだが、心から信じていた分傷は大きい。

「あの子、あんたに隠れて泣いてるよ」

「素貞さんが?」

「気付いてないでしょ。あんた、そういう所鈍感だもんね」

 その通りだった。しかし如何すればいいのか分からない。

 姉は口答えを許さない笑顔を見せた。

「これ以上、あたしの義妹いもうとを泣かせるなよ?」

「……はい」

 得意先を回る間も、許仙は妻との関係を考えていた。このままでは良くないと思っていたが、夫婦仲の修復方法を知らなかった。

 悩みながら帰途を歩いていると、すれ違った僧侶に声を掛けられた。

「そこの人、何か悩み事でもあるのでは?」

「は、はい」

 許仙が脚を止めると、艾年の僧侶は傍に寄って来た。

「拙僧、金山寺の法海ほうかいと申す。見た所、貴殿には何かが憑りついているようだな」

「はあ……」

「それが貴殿の生気を吸い取っておるようだ。家に案内して頂ければ、拙僧が祓ってしんぜよう」

 許仙は暫く迷ったが、この怠さが取れるならと法海を家へ招く事にした。

 僧侶を客間へ通し、素貞に茶を持って来るよう言う。素貞は一瞬顔を強張らせたが、何も言わず頷いた。

「さて、詳しい話を聞かせて頂こう。最近変わった事はありませんでしたかな?」

「いえ、特には」

「商売が上手くいかないなどという事は?」

「ありません」

 話していると、素貞が茶を持って来た。客の前だからか緊張している様子で、どこか動きがぎこちない。

 彼女が入って来た途端、法海は立ち上がり素貞を指さした。

「こやつが妖魔ですな」

 驚いたのは許仙だ。妻を妖魔と言われるとは、露程も思っていなかった。

「何を仰います。彼女は僕の妻ですよ」

 説明すると、法海は素貞を睨んだ。

「女人に化けて男に取り入るとは、考えたものだな」

 素貞は何も言わない。机に二人分の茶を置き、急いで下がろうとする。

「待て! この法海が来たからには、お前の悪行もこれまでだ」

 素貞が部屋から逃げようとするので、法海はその白い腕を掴んだ。

「逃げられると思うな。さあ、正体を現せ!」

「お放し下さい」

 僧侶の手から逃れようと、素貞は腕を引く。しかし法海の力は強く、太刀打ちできない。

 許仙が素早く法海の後ろに回り、その首に腕を回した。

「妻が嫌がっております。その手をお放しください」

「しかし許仙殿……」

「お放し下さい」

 許仙に脅され、法海は細い腕を放した。

自由になった素貞は逃げるように部屋を出て行く。

「悪い事は申しません。今すぐあの妖魔を家から追い出すべきです」

 法海は許仙に言った。

「このままでは貴殿の身が危ない」

「御警告は有り難いのですが、僕は妻と別れる気はありません。お帰り下さい」

「死んでしまいますぞ!」

 法海は声を荒げる。

「あやつは許仙殿を憑り殺す気だ!」

「お帰り下さい」

 許仙はもう一度言った。

「僕は妻を愛しています。例えこの身が滅びようと、彼女を手放す気はありません」

 何を言っても無駄だと分かったのだろう。法海は渋々帰って行った。

 さて、素貞と話をしなければ。許仙は妻を探す。

 素貞は自室の寝台に顔を伏せ、さめざめと泣いていた。

「素貞さん」

 許仙が声を掛けると、素貞はゆっくり赤い眼を夫に向けた。

「私を追い出しますか?」

 そう訊ねる素貞の頬は涙で濡れ、その顔には絶望と悲哀が浮かんでいる。

「いいえ」

 許仙はなるべく優しく言って、妻の髪に触れた。

「今までずっと一緒に暮らしてきたじゃないですか。貴女が人間かどうかなんて、もう些細な事ですよ」

 素貞の顔に安堵が浮かぶ。許仙も微笑んだ。

「でも、正体を見せては頂けませんか? 夫として、妻の本当の姿を知らないのは、少し寂しいので」

 素貞は少しの間迷っていたが、やがて承諾した。その姿が陽炎の様に揺らめいたかと思うと、白い大蛇になる。

「黙っていてすみませんでした。私は青城山せいじょうさん清風堂せいふうどうで一千八百年修行した、白蛇の精です」 

 冷たい瞳に見つめられ、許仙は尻込みする。それを感じ取ったのだろう、素貞は苦笑した。

「やはり、怖いですか」

 そう訊ねる顔が悲しげだったので、許仙はぐっと拳を握った。

「少し驚いただけですよ。どんな姿をしていても、貴女は僕の愛する素貞さんでしょう?」

 口に出したら心からそう思えた。素貞が人間であろうと無かろうと、自分はこの人を愛している。その気持ちに変わりは無い。

許仙は手を伸ばして大蛇の頬を触る。

「この身体、硝子の様で綺麗ですね」

謝謝您ありがとうございます

 許仙は暫く白い鱗を撫で、素貞はその手の動きを感じていた。

「素貞さん」

「はい」

「婚約したあの日から、僕の気持ちは変わりません。貴女が妖魔であっても、別れる気にはならないのです。この先も、僕の妻でいてくれますか?」

「ええ、勿論ですわ」

 こうして二人の仲は元に戻った。否、前以上に仲睦まじくなった。信頼関係は回復し、二人は幸せだった。

 しかし、許仙の具合は目に見えて悪くなっていった。顔は蒼白くなり、痩せこけて体力も落ちた。医者に診せても原因は分からず、とうとう寝た切りになった。

「心配しないでください。すぐに良くなりますから」

 許仙はそう言って強がったが、その命が消えかけている事は、誰の眼にも明らかだった。



 ある夜、素貞が盥に水を入れて部屋へ戻ると、許仙は眠っていた。口元に手をかざして呼吸を確認し、胸を撫で下ろす。

 自分の所為だという事は分かっていた。人外であるこの身では、傍にいる人間に悪い影響しか与えない。存在するだけで愛する人を傷つけてしまう我身が恨めしかった。

 素貞は色を失った夫の顔を見て考える。やはり自分はここに居るべきではないと。

 今まで何度もそう悩んだ。愛しい人を苦しめるくらいなら、別離の悲しみを味わった方がましだと考えた。しかし、許仙の愛情を裏切る事が出来なかった。彼の気持ちはよく分かっていたし、その想いに応えていたかった。

 許仙が身じろぎをして息を吐く。

「……素貞さん……」

 それを聞いて、素貞は胸を締め付けられる思いがした。

 この人は、素貞の所為で死にかけていても彼女を愛してくれる。優しく名を呼び、愛を囁き、そっと触れてくれる。

 もうこれ以上、この人を苦しめる訳にはいかない。

 素貞の白い頬を、一筋の涙が流れる。

結局、異類婚は自然に反する行いなのだ。昔二人で観た劇の様に、最後は別れなければならない。

素貞は自分の荷物をまとめ、それを妖力で元の家に送った。部屋を見渡し忘れ物が無い事を確認すると、夫の枕元に戻る。

拭っても拭っても、涙は次々に溢れてくる。許仙への愛しさと別離の悲しみで、胸を引き裂かれる思いだった。

素貞は最後に、夫の額へそっと口付けた。

永別了さようなら、許仙さん」



 山鳩の声で目を覚ました許仙は、身体が昨日より軽い事に気付いた。長い事感じていた倦怠感も減り、頭はさっぱりしている。

 この良い兆候を妻に報告しようとするが、隣に彼女の姿は無かった。布団は丁寧に畳まれ、昨晩使われた形跡は無い。部屋の中はいつもより小綺麗で、何処か物足りなかった。

 ふと枕元に目を落とすと、白い鱗が置いてある。その大きさで、直ぐに妻の物だと分かった。

「素貞さん?」

 嫌な予感を覚え、布団から出る。壁で身体を支え、名前を呼びながら家中を回ったが、素貞は何処にも居なかった。

「素貞さん……」

 ふらつきながら街へ出て、見慣れた白い衣を探し回る。あの秀麗な顔を思い浮かべながら、大通りから裏通りまで隈なく探す。疲れ果て帰途についた時は、家に彼女が帰っている事を期待しながら歩いたが、その淡い期待は外れた。

 三日経ち、十日経ち、一月が経って体調が完全に回復した頃、まだ妻を探していた許仙は、事実を認めざるを得なくなった。

 素貞は居なくなってしまった。彼の前から消えてしまった。もう二度と会う事は無いのだろう。

 これが、この愛の結末だ。



 很久以前むかしむかし、杭州は西湖に許仙という青年が住んでいた。生薬屋で働く彼は優しく真面目な好青年で、誰からも好かれていた。

 彼は一度結婚したが、三年も経たない内に妻と別れた。大変仲の良い夫婦だったので近所の者は訝しがったが、本人は詳しい事を語らない。

 只、許仙が妻を忘れる事は無かった。再婚の話も全て断り、死ぬまで妻を愛し続けたそうだ。



                        為止おしまい

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