二〇二九年二月二四日(土)

 一昨日降った雪がまだ溶けずに残っている――。

 底冷えする朝の空気に、今にも再び凍った綿わたを積もらせんばかりの、一面濃灰色のうかいしょくの空。

 それを少し眺めてから、再び美佳の目に少し筆を入れた。


 今回は肩から上だけの古典的な肖像画。背景に小型艇内の景色と、窓から僅かに覗く星。

 敢えて少し抽象画風にデフォルメをかけたその絵の中で、目だけは緻密に描き込んでいく——。


 あの時——これから訪れる恐怖も寂しさも、全てを知った上で微笑む彼女の姿は、その後に見た星空と共に、頭に焼き付いて離れる事はなかった。

 まぶたを閉じれば、まるで星空を漂いながらたった今美佳との最後の通信を終え、近くも遠くもない彼女の気配を感じるような気がした。

 そのまま目を開けても、あの時の景色も表情も——鮮明に浮かんで来るのに、けれど目の前に描かれた瞳からは、その千分の一すらも伝わっては来なかった。

 それでも自分で選んだ結末に残った僅かな約束に、まるですがる様な想いで色を重ねていた。


 そうして美佳の顔を思い浮かべながら絵に向かっていると、美佳の家を訪ねた時の事を、ふと思い出した。


 マスコミの波もすっかり落ち着いた今月初め、美佳の両親の元を訪れた。

 葬儀の時はお互いまともに話せる状態ではなかったし、マスコミもいたので殆ど挨拶だけで終わってしまったため、改めて時間を作って貰ったのだ。


 その時は正直——拒絶されるかと思っていた。

 いくら電話口で了承していても、助かる筈だった娘の命を奪って生き続ける僕を前にしたら……。

 けれどマスコミに追い回されて疲弊しているであろう美佳のご両親の気が、少しでも晴れるなら、それでも構わないと思っていた。

 けれどご両親は拒絶する気配など微塵も見せず、穏やかに僕を出迎えてくれた。

 家に上がって少し美佳の話をした後、遺言だと言ってアルバムを見せてくれた。

 その中にはスマホで撮ったらしい写真も入っていて、聞けば最期の会話で美佳から許可を貰い、一部を印刷したのだそうだ。

 中には高校時代の僕を廊下から撮ったらしいものもあった。

 教室で机に頬杖を突いて窓の外を眺める僕を、慌てて撮ったのであろうその写真は、少し手ブレしていて、何だかそれが妙に彼女らしいと感じた。

 ご両親はその中で欲しい写真があれば焼き増しするからと言ってくれた。

 美佳と約束した時は二枚必要になるかと思っていた写真は、一枚は僕の頭に焼き付いていたので、お言葉に甘えて部屋に置く写真だけ貰う事にした。

 結局美佳の言っていた弟には最後まで会えなかったけれど、家にいる間中ご両親は僕に恨み言の一つも口にはしなかった。


 けれど時折言葉に詰まる度――噛み締めた歯の間からは、割り切れない想いが滲み出ている様な気がした。

 その顔を見る度……また新たな痛みが胸中に生まれ、自分の選択を後悔してしまいそうになった。自分が死んでいた方が——と。

 けどそんな事に意味がない事位、自分でも分かってる。

 僕が死ねば代わりの誰かが悲しむし、美佳との約束だって果たせない。

 なら結局亀井先生の言う通り、例え何度あの瞬間に戻れたとしても——僕は同じ選択を繰り返すのだろう。

 つまりこれは『もしこうだったら』と自分を責め苛んで慰める、あてどない単なる自己防衛——。

 結局そんな色々なものに流されて、船内で起こった事も伝えられず、力になる事も出来ずに、枳殻家での時間は終わった。

 終わってみれば、わざわざ時間を作って貰ってまで何をしに行ったのか——我ながら分からなかったけれど、それでも最後に『来てくれてありがとう』と言ってくれた事に、逆に自分が少しだけ救われた様な気がした。


 再び筆を持ち上げて——辞める。

 今回も全く納得の行く出来にはならなかったけれど、これ以上筆を入れる箇所が見つけられないのでは仕方なかった。

 そうして出来上がった三枚目の美佳の絵を脇に置く。

 その横では宙を舞う涙を突っ切って僕に飛び込んでくる彼女の姿と、空気がなくなり僕の胸を押して離れる瞬間が、それぞれ切り取られたように絵になって置かれている。

 筆やパレットを洗い、外の気温を確かめがてら、ポストの中身を確認しに行く。すると中にはエアメールが一通入っていた。

 直筆の上永からの手紙には、薬の経過が順調な事や、言葉が殆ど通じないし見舞いも来ないから退屈だとか、窓の外の景色はアメリカも日本もあまり変わらないものだとか、およそ他愛ない事が綴られていた。

 回復が順調な事は父親の宗司さんからもたまに連絡を貰っていて、早ければ七月後半頃には日本に帰れそうだという話だった。

 僕はと言えば、会社との話し合いも一段落し、宇宙には上がらず、地上でのサポートや事務を担当しながら、高校時代さながら——満足出来ない絵を描き続ける毎日。

 けれどあれ以来母は以前より時間を作って家に帰るようになり、二人で過ごす時間が増えた。

 事故の後、僕がもう宇宙に上がらないと言った時、母の見せた表情が印象的で、事故の前から口には出さずとも、ずっと心配をかけていたんだと改めて痛感した。


 そして再び半年が過ぎ——八月末。

 日が暮れても一向に気温の下がらない道を家まで辿ると、ポストには一通の手紙。

 久々の上永からの手紙は、普通郵便だった。

 中には短い文面の便箋が一枚だけ。



 拝啓

 処暑の候、残暑厳しく蝉の声も止まぬ今日この頃、如何お過ごしでしょうか

 早寧様におかれましては、その後もご壮健のことと存じます


 この度、病状の寛解かんかいに至りましたこと、ご報告致したくお手紙差し上げました

 つきましては誠に勝手ながら、リハビリも兼ねて母校の散策にお付き合い頂ければと存じます

 母校の許可は頂いておりますので、来月二十四日の秋分の日、午後二時に校門までお越し頂けますでしょうか

 一方的なお願いで恐縮ですが、お付き合い頂ければ幸いにて

                              敬具



 手紙を封に戻すと、自室に戻り美佳の絵に囲まれた机の上に置く。

 秋分に入れば流石にこの残暑も落ち着くだろう——。

 そう思いつつ夕飯の支度の為に台所へと向かった。


               ◇


 幸か不幸か雲一つない晴天の下、懐かしい通学路を歩く。

 予想を裏切り、秋分だというのに今日は三十度まで気温が上がるらしい。既に暑さを感じるこの陽気だと、病み上がりの上永の体調が気にかかった。

 校門についても上永の姿は無く、時計を確認すると予定までまだ十分程を残していた。


 二時を少し過ぎた頃、遠くに白い人影が見え、それが上永だと分かると小走りで近付いた。

 つばの広い帽子で日差しを避けつつ杖をつきながらゆっくりと歩く姿は、まだ本調子でない事を物語っていた。

「ごめんね。余裕を見たつもりだったのに、結局遅れちゃった」

 そう言う彼女の横顔は、高校時代の上永を少し——思い出させた。

 髪も肩口辺りまで短くなっていて、薬の副作用か切ったのかは分からなかったけれど、その髪型は美佳に似ている気がした。

「そんな事はいいよ。それより上永、久しぶり」

「ええ、秋史君久しぶり。来てくれてありがとう」

「このまま入って大丈夫?」

「ええ。三年生側の昇降口を入ったすぐ横に事務室があるから、そこで手続きすれば大丈夫」

 彼女の速度に合わせてゆっくりと校門を目指す。

 杖と僕の肩を支えにゆっくりと歩く姿は、それでも渡米前に比べれば随分と回復した様に見える。


 見学は本来職員の同伴が必要らしいのだが、本校卒業生であり亀井先生も口添えしてくれたらしく、同伴は免除された。

「さて、どこから回りたい?」

「そうね、一階から順に見て回りたいかな。時間もあるし」

 その言葉に頷き、歩き出す。


 思い出深い教室を訪れては、その度に所縁ゆかりのある話を色々とした。

 僕達が三年の頃使っていた教室では、上永がお弁当を作って僕に渡そうとして、結局出来なかった話も聞いた。


 そして美術室を開ける為に職員室へ向かう途中、その前の廊下でふと、立ち止まる。

 当然のように今はない、かつて自分の絵が飾ってあった場所を眺める。

 それは当時、スランプの元凶であり、美佳にとっては僕との出逢いでもあり、自分が本当に描きたいものを気付かせてくれたもの——。

 雑多な掲示物を端に追いやり、広大なスペースを確保され展示されていたあの絵も、今頃美術準備室の奥で眠っているのだろう。

 そうして眺めている横で、上永も何も言わず、僕の気が済むまで一緒になって職員室の壁を眺めていた。


 美術室でも色々な話をした。

 描いていた絵の事、部員の事、美術部のあり方についてまで。

 一区切りつく頃には、外はもうすっかり朱く染まっていた。

「そろそろ夕方だけど、どうしようか? 大体回ったと思うけど……」

「最後に、行きたい所があるの」

 迷いなく答える上永に頷くと、再び肩を貸す。

「じゃあ行こうか。どこに行くにしても、まずは美術室の鍵を返さなきゃ」

 そうして鍵を返した後に向かったのは、クラス棟の屋上だった。


「肩、ありがとう。もう大丈夫」

 そう言って上永が肩から手を離す。

 相変わらず無骨な柵が景色を遮ってはいたけれど、後輩達による抵抗の跡が随所に見られ、今や事故はともかく自殺防止としての役目はほぼ果たしていなかった。

 上永から離れると、手前の手すりまで近付き、肘をついてあの日のように多少眺めの良くなった海を眺めた。

 後ろにいた上永も手すりまでやって来て、同じように海を眺める。

「今日は、来てくれて本当にありがとう」

「お礼なんていいんだ。僕は上永のものなんだから」

 上永は一瞬きょとんとして、すぐにくすっと笑い出した。

「そうだったね。

――けどやっぱり……ありがとう」

 そう言うと寄り掛っていた手すりから手を離す。


 彼女の頼りなげな何もかもを、屋上に吹き抜ける風が押し流そうとする。

 けれど彼女は懸命にそれに抗い、一人で立ち続けていた。


「秋史君……私は、あなたが好き。

 一生懸けてあなたの傷と向き合い、痛みを分け合いたい。

 例え他の誰かがあなたの中に居たとしても、私はそれとも向き合える。

 だから——秋史君の残りの人生全部……私に下さい」


 彼女の言葉が胸を突き、その痛みが新しい記憶になる。

 こんな僕を本気で愛してくれて、結果が分かっていても尚、約束を果たす事に微塵の躊躇もない。

 僕が愛した人に似て、鋼の様に強い意志――。


「ありがとう……。すごく、嬉しい」


――その人に、僕は今から一生残る傷をつける。

 こんな安っぽいエゴの為に、僕はこうやって人を傷付け続けるんだ……。


「だけど、ごめん……。僕には、好きな人がいるんだ。

 例えどんなに離れていても、その人だけを想って、傷付いて、描き続ける——。

 それ以外に僕の生き方はないんだ。

 だから……ごめん。

 僕はもう、僕の人生も僕自身も、上永にあげる事は……出来ないんだ」


  彼女の目から涙が一筋、流れ落ちる。

 先程までのこいねがう様な張りつめた表情が和らぎ、一つ息をつくと再び口を開く。

 さっきまでとは違う、穏やかな声で——。


「これで、やっと少しだけ——すっきりした気がする。

 欲しかったものは手に入らなかったけど、得たものは大きかったと思う。

 だから秋史君、今まで……ありがとう」


「僕は――」

 今まで抑えていたものが込み上げて、それに押し出される様に気持ちが言葉になって溢れ出す。


「僕こそ『ありがとう』だ! そんなにも僕を想ってくれて!

 僕は幸せだ! どんなに多くを失ったとしても、二人からこんなに想われて! 自分の望むままに生きて! こんな幸せな奴、世界中探したっていやしない!!」


 言葉と共に溢れた涙が、母校のコンクリートへと落ちていく。

 この涙も、いつかはあの海へ辿り着くんだろうか——。


「枳殻さんの命を、背負って行くとしても?」

「ああ。それも僕自身で選んだ事だ。

 上永と恋人になったのも、美佳の告白を断ったのも、宇宙に出たのも、美佳と再会して逃げたのも、今こうして上永月々美の告白を断っているのも全て!

——自分で選んだんだ。

 そしてそれを選ぶ自由が、僕に骨身を削る程の痛みと共に『こうありたい』と思う自分になれる幸せをくれた」


 船での事を思い出し、再び胸が裂けそうになる。


「……事故の時。船内の空気が無くなった後、僕の酸素にはまだ余裕があった。だから美佳に少しだけ——分けたんだ。

 その最中、バルブを閉めなければ彼女が助かる――そう思ったら、まるで自分の命が紙屑にでもなったんじゃないかと思う程、激しい誘惑に駆られた。

 僕は最初、その誘惑に負けてバルブを開き続けた。

 けどそんなの、彼女の想いを踏みにじるだけなんだって……必死に言い聞かせて――最後はバルブを閉めたんだ。

 あの時程自分に自由がある事を呪った瞬間もない。けど……」

「それでも自分を幸せだって、言うんだね」


 静かに、僕は頷いた。


「私もね、きっと同じだったと思う。

 もう治らない病気で、けどそれがあるから秋史君が恋人になってくれて、そして私が死ねばずっとずっと私を想って傷ついてくれる。

 そう思うと、怖くたって嬉しくて、辛くたって幸せだった。

 だからきっと、私は望んで病気を再発したんだと思う。

 だってそうすれば秋史君が優しくしてくれるって——分かってたから。

 だからね、これはおあいこなの。

だから……もういいの」


 そう言うと上永は涙の跡を残した顔で、いつかとは違う寂しげな笑顔を見せた。


 再び手すりにもたれた彼女と、暫くお互い無言で海を眺めていた。

 けれどその時間に満足したかの様に、上永が海を眺めたまま口を開いた。


「今日はありがとう。

 私はもう少し夕陽を見て、体力が戻ったら帰るから。秋史君は先に帰っていて。体の方は——大丈夫だから」


 その言葉に反論しようとして、今の僕はもうその資格を失くしていた事を思い出す。

 彼女が何を想ってどう選択しても、僕は応える事も、止める事も、肯定も否定も出来ない。その資格を持たない僕に出来るのは、ただ頷くだけ。

 そうする道を——選んだのだから。


 亀井先生の言葉を思い出す。

――結果に責任を負う事は求められても、その選択自身を否定する事は誰にも出来はしない、と。


「――分かった。じゃあ先に帰るよ」


 踵を返すと扉の方へと歩き出す。

 扉の前まで来て一度振り返り、


「さよなら」

「ええ……。さようなら」


 別れの挨拶をしていなかった事を思い出して――告げた。


 扉を開け、暗い階段を降り始めた頃、後ろの扉が軋みながら閉まり——足元の階段はまた少し暗さを増した。

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枳殻花に潮騒を(からたちばなにしおさいを) @nowhere_and_nowhere

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