エピローグ
二〇二八年一〇月一二日(木)
救助されてからの事は、あまり良く覚えていない。
ただ再会した母が泣いていた事と、美佳の遺体を見られなかった事だけは覚えている。
マスコミはこの宇宙での過去最悪の死亡事件を、沈静化していた過激派組織の活発化と併せ、連日大きく取り上げた。何より初の日本人技術者の死亡というのはインパクトが大きかった。
また以前から取り沙汰されていた中国からの輸入の可能性が再び示唆され、政治的な面でも世間を大きく揺るがした。
当然の様にマスコミは連日マンションの前に陣取り、母親は勿論——近所で僕の事を知っていそうな人にも片っ端からインタビューしていた。
実際には日本人犠牲者は美佳以外にもいたのだが、彼女が女性で若く視聴率を取るのに都合が良かった事。それに新人だけで業務を行っていた事について会社側に非難が集まっていた事もあり、その両方の詳細を知る僕は、マスコミにとってまさに金のなる木だったのだろう。
まして事故の二日後には僕と美佳が高校時代から交友があった事も報道され、益々金を落とすであろう僕の証言を求め、マスコミは血眼になってマンションの前でカメラを構えたり、何とか家に入ろうとしつこくドアの前で粘ったりもした。
そんな訳で僕のいるマンションは毎日どのチャンネルでもニュースに映り、マスコミは何も語らない僕に代わってどこかの良く分からない専門家や、同業の整備士を連れて来て小型艇内の真実を勝手に予想して視聴率を稼いでいた。
また枳殻家も頻繁にテレビに映り、その度地球に帰って来た日に美佳の家族がマスコミに取り囲まれて青白い顔をしているシーンが映し出され、今も僕と同じ様な状況なのかと思うと、申し訳ない気持ちになった。
そんな状態で外に出る気等起きる筈もなく、僕は家の中で隠れる様にして過ごした。
実際彼らのしつこさには
枳殻家からも報道が落ち着くまで告別式を少し遅らせると聞いていたので、自分の部屋に
◇
雨が降っている——。
外にいるマスコミ等忘れてしまう程穏やかで——もし死後の世界というものがあるのなら、それはこういう世界なのかもしれない。
病室での上永の姿を描きながら、完成が間に合いそうな事に少し安堵する。
先日宗司さんが心配して電話をくれ、その時に上永が急に渡米する事を承諾した事を聞いた。
出発は十月末になるらしく、十一月の誕生日に合わせてこの絵を渡す事は出来ないが、このペースなら渡米前にプレゼントするには十分間に合いそうだった。
今にも消え入りそうな朱色の光が建物の輪郭を縁取り、その余波が病室の姿も
夕闇間近の薄紫と群青の雲に彩られた世界で、車椅子に座った髪の長い女性は一枚の絵を見つめている。
その眼からは一筋の涙が零れ、けれどその表情には諦めに似た穏やかさが浮かんでいた。
あの時は何故彼女が涙を流し、そんな表情をするのか理解できなかった。その表情に僕の心がざわめいた理由も——。
けれど全てが終わった今なら、なんとなくその意味も――分かる気がした。
それから一時間弱。最後の仕上げまでやっと終わった絵を前に、胸に湧き上がってくる感情は達成感ではなく——やはり穏やかな諦めだった。
きっと今の僕は、絵の中の彼女と同じ
◇
地球に戻ってから十日程。やっと人の群れが少し減ってきた頃を見計らって、出来上がった絵を持って病院へと足を運んだ。
いつもの様に電車で行くとマスコミが病院までついて来そうだったので、渡米前の忙しい時期ではあったけれど、宗司さんに頼んで車を出して貰った。
病室へは僕一人で行きたいとお願いしていたので病院の前で宗司さんと別れ、慣れ親しんだ病室までの入り組んだ廊下を進んでいく。
病室では少し肌寒い陽気だというのに扉も窓も開け放ち、上永が起こしたベッドから窓の外を眺めていた。最近は横になっている事が多かったので、今日は少し体調がいいのかもしれない。
開いている扉をノックすると、風になびく綺麗な長い髪を手で抑えながら彼女の首がゆっくりとこちらを向く。まるでスロー再生を見ているようで、それはどこか映画の一幕を見ているかの様な錯覚を覚えた。
「いらっしゃい」
上永は先日のように追い返す素振りも、以前の子供の様な無邪気な笑みも見せず、ただ微かな笑みを浮かべて、僕を穏やかに出迎えた。
「今日は……体調良いみたいだね」
「ええ」
「けど、体冷やすよ」
「いいの、寒くないから」
彼女の答えに軽く頷き、いつものイーゼルを立てて持ってきた絵を置く。
「来るの……遅くなってごめん」
しかし彼女はゆっくりとかぶりを振って、
「いいの。大変だって、分かってるから」
それだけ言うと彼女は口を閉じ、どこか遠くを見る様に僕とカバーのかかったキャンバスを眺めた。
「随分遅くなっちゃったけど、描きあがったから持ってきたんだ。
本当は誕生日に渡そうと思ってたんだけど、その時にはもう日本にいないって聞いたから」
そう言いながらカバーを取り、絵を見やすいようイーゼルの向きを変える。
「どうかな? まだあんまり上手く描けないけど、とりあえず形にはなったから」
イーゼルの向きを変えると、僕もベッドの端に座って暫く一緒に絵を鑑賞した。
「何だか不思議な感じ」
「なんで?」
「高校の頃は秋史君の描く絵になりたいってあんなに思ってたのに、絵になった私を見ても少しも羨ましいって思えないから」
「そんな事思ってたの?」
「うん。あの頃は秋史君に告白する勇気なんてなかったから、そんな事ばかり考えてた」
そう言って顔をこちらに向け、
「けど、絵は完成しちゃったらもう秋史君の一番じゃなくなっちゃうものね。
筆なら良かったんだろうけど、それでも秋史君と話せない事も、絵を見れない事も、お礼を言えない事も——やっぱり寂しい事だから」
そう言って寂しそうに笑うと、
「今まで貰ったどんなプレゼントより嬉しい。
——ありがとう」
——そう言った。
謝罪の言葉を叫びだしてしまいそうになる自分を俯きながら必死に抑え、いつかの時の様に血が滲む程唇を噛み締めた。
けれどその痛みも彼女に与えた痛みに比べればまるでないに等しいもので、そして生まれた筈のささやかな痛みも、胸の痛みの中に一瞬で溶けて消えてしまった。
「ごめんなさい。秋史君にそんな顔させるつもりじゃ——なかったんだけど」
俯いた僕の耳に彼女の声が届き、それに促される様に顔を上げると、上永は少し困った様に笑っていた。
「上永が謝る事なんて……一つもないよ」
「――そうかもしれない。
けどやっぱり、その顔を見ると少し……辛くなるから」
何を想って俯いているのか——それが分かっているからこそ、彼女は辛いと言うのだろう。
そして彼女はまた絵に顔を戻し、けれど焦点をどこか遠くに置いたまま言葉を続ける。
「秋史君を傷つけるって分かっていても、私が決めて始めた事だから、もしそれが叶わないと分かっても……せめて終わらせるなら私から——て、ずっと思ってた……」
秋の涼しい風が流れ込む中、僕は上永の独白には応えず、暫くただ上永を見つめた。
少し肌寒いけれど、穏やかさと若干の切なさを匂わせる心地よい風に吹かれ、けれどそれだけが時の流れを証明するように——他の全てはただ、静かだった。
けれどその静寂に再び上永の声が揺らぎを与える。
「秋史君はここで私が告白した時の事、憶えてる?」
「勿論、憶えてるよ」
——僕は君のもので。
——もし病気が治ったら、彼女はもう一度……。
「よかった」
それだけ言うと目線を僕に戻し、姿勢を正す。
「病気が治って、日本に戻れたら——約束を、果たします」
一語一語言葉の意味を確かめる様に区切りながら、そう口にした。
「うん……。待ってる」
それが今日の別れの挨拶だと悟り、僕は立ち上がった。
そして彼女の強い意志を背中に感じながら——僕は病室を後にした。
◇
案の定、葬儀はマスコミに囲まれながら慌ただしく過ぎていった。
火葬場の出口で彼らを追い払い、疲れで力の入らない体を引きずるように帰路につこうとすると、意外な人物に声を掛けられた。
「早寧さん、お久しぶりです」
「亀井……先生……」
そこには懐かしい顔があった。
「随分お疲れのようですね」
「ええ……まあ」
それを聞くと、以前と変わらぬ素振りで顎を撫でながら少し考えて、
「ふむ……。ところでこの後、ご予定はありますか?」
「夕方から会社に顔を出しますけど、それまでは……」
「それであれば少し遅いですが、一緒にお昼でも如何ですか?」
「お昼……ですか」
考えてみれば今日も食欲がなくて朝から何も食べていなかった。
相変わらず空腹は感じないが、流石に何か入れておかないと会社で体調を崩すかもしれない。
何より久しぶりに会った先生と、少し話がしたかった。
「はい、良ければ……」
誘われるまま先生の後について行き、車に乗り込んだ。
「この年になるとここを訪れるのも一度や二度ではありませんから、すっかりこの辺りの地理にも詳しくなってしまいました」
そう言って
「少し離れていますが、そこそこ美味しい膳を出すお店があります。そこにしましょうか」
それに頷くと、車はゆっくりと駐車場を後にした。
店は平日の上、時間が外れていた事もあって座敷の窓際へと通された。
「よいこらしょ……と。
そういえば最近、絵は描いているのですか?」
座敷に腰を下ろすと、先生はあの頃と全く変わらない穏やかな表情で、ゆっくりと話を切り出した。
「ええ……まあ」
「そうですか。主要なコンクール等で貴方の名前を見かけませんでしたから、少し心配していました」
「先生は変わらず美術の教師と顧問を?」
「私ですか? 私は一昨年で教職を引退しましてね。
今は隠居生活を楽しみながら少しずつ、また絵を描いていますよ。
貴方はどうでしたか?」
「描いてはいたんですが、見せる相手といったら上永くらいで」
「そう……貴方は卒業してからずっと、上永さんのお見舞いを続けていたんでしたね。
病気の治療法も見つかったと、先日本人から手紙を頂きましたが」
「ええ。来週渡米して、認可が下りたら治療を開始するそうです」
「そうですか。
それで、地上に戻ってから上永さんとは会いましたか?」
「マスコミが落ち着いた時に、一度だけ」
「そうですか」
先生はそれだけ言うと僕に膳で構わないか確認し、注文を済ませた。
店員が持って来たお茶を啜り少し落ち着くと、先程一瞬気になった事を聞いてみた。
「ところで先生は何故この葬儀に? 枳殻は美術部員でもないただの卒業生なのに」
学校の代表者や担任教師と言うなら分かるが、いくら退職して時間があるとはいえ、選択美術でしか会う機会のない筈の先生が参列しているのが、少し気になった。
先生はその問を聞くと、また僅かに寂しさを滲ませた笑顔を見せた。
「深い付き合いでなくとも、この老体より教え子が先に逝ってしまうのは——とても辛い事です。
これだけは……長く教鞭をとっても慣れるものではありません。
ですから例え付き合いは浅くとも、悼む気持ちに変わりはありませんよ」
その言葉に、またあの時の痛みが静かに胸に広がっていく——。
けれど先生はそこで一旦切った言葉を再びつないだ。
「ですが枳殻さんの場合はそれだけ、と言う事でもありません。
彼女には在学中、貴方の事で相談を受けた事もありましたし、卒業後に偶然会う機会もありましたから」
その言葉に、少し驚く。
「お知り合いだったんですか?」
「ええ。放課後に貴方の絵を熱心に見ている枳殻さんをたまたま目にしまして、帰宅を促したのがきっかけでした。
彼女はその時から絵だけでなく、描き手である貴方にも随分興味を持っているようでしたから、少し貴方についてお話をしまして。
それから何度か、授業後や昼休み等に相談めいた事を受けたりしていました」
「僕の事で——ですか?」
美佳から亀井先生の名前が出て来た記憶はなかったので、てっきり二人に面識はないものと思っていた。
「ええ、大半は。
まあ相談と言うより、貴方の事を私に聞いて来る方が多かったような気がしますが」
そう言って柔らかく微笑む先生に、質問を続けた。
「それで卒業後にも……会ったんですか」
正直それが一番驚いた。
「ええ。枳殻さんが卒業して一年後の六月頃でしたね。紫陽花が綺麗だった事を覚えています。
所用の帰りにばったり会いまして。少し立ち話をしたのですが、随分と沈んだ表情をしていたのが気になりまして、聞いてみると貴方に拒絶された——と。
その後、お茶をしながら話を聞きました。
貴方の事――。そして上永さんの事——」
「じゃあ全部……知っているんですか……?」
「いいえ。私が聞いたのは三年前の貴方達の近況と、その後枳殻さんが貴方と仲直り出来た、と言う事だけです」
先生はお茶を啜って一息つく。その穏やかな表情からは非難の色は微塵も感じられない。
「先生は、どうすべきだったと……思いますか?」
「どう、とは?」
「病室で上永に告白された時、僕の頭にあったのは——今頷こうとしている自分はただ……彼女に同情しているだけなんじゃないか、という想いでした。
けどそれを振り切って僕は、上永と恋人になった。なれると思っていたんです。
けど結局は……ただ同情していただけだった。
そしてそんな中途半端で覚悟のない気持ちが、上永や美佳を傷つけ、苦しめた……。
だから僕はずっと……どうするべきだったのかを、考えているんです」
世界で唯一、僕達の関係を知る当事者以外の人間に今——自分の選択について問い直してみたいという欲求に、どうしても抗う事は出来なかった。
自分が傷付いても——例え上永や美佳を傷付けても——自分の思う正しさを成す事が自分の生き方だった。例えそれがエゴの塊でも。
だから上永とも恋人になって愛そうとしたし、自分が美佳を好きだと気付いても、彼女を遠ざけた。
そうして周りを傷付けてでも、自分が選んだ道を這うような思いで進んで来たのに……その果てに得た結果がこれだ。
自分の思う正しさを成す事も、好きな女の子を守る事も、何一つ出来なかった……。
もし後悔出来る道があったなら、それを教えて欲しかった。
そうすればこの先の長い人生、自分を責め苛んで生きる事も出来るだろうから――。
そう思って投げ掛けた問いに、先生は暫く想いを巡らせる様に
「私は……貴方が求める答えなど、持ち合わせてはいませんよ。
けれど例え同情だったとしても、それが今まで上永さんを支えてきたのも事実だと思います。
彼女が何を杖にして己を支えたにしろ、それは貴方によってもたらされたものだったでしょうから。
貴方達三人の話を聞いたからと言って、貴方の苦しみや、枳殻さんや上永さんの想いが分かる訳ではありません。分かるのはただ——各々が選んだ結果、そういう結末に辿り着いたという事実だけです。
けれどどこかで必ず、どちらかの命と想いを犠牲にしなければならないのだとしたら、結果を知った今であっても、貴方は同じ答えに辿り着くのではありませんか?」
言葉を選びながら、諭すように投げ掛けられるそれは——僕の心へ降り注ぎ胸の痛みと一つになっていく。
「何が最善かなんて分かりません。人の命や想いの取捨選択ともなれば尚の事です。
けれどそれでも選択を迫られた時、大切なのは己の何に従うかを明確にしておく事だと思います。
そしてあなたは、己の何がしかに従って選択をした。
ならばその結果に責任を負う事は求められても、その選択自身を否定する事など——誰にも出来はしませんよ。
そう——例え貴方自身がその選択を悔いているとしてもです。
己の選択を否定出来るのもまた、己自身しかいないのですから」
そう言って、先生はお茶を置いた。
「先生は相変わらず……厳しいですね」
先生はその言葉にほんの少しだけ、笑顔の色を濃くした。
自分を責める為の理由を探していた僕を見透かした様に、安易に答えを提示しないその姿勢は、高校時代に油絵を教わっていた頃と何ら変わらないものだった。
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