二〇二八年一〇月八日(日)—下

 まるで溶けて行くかの様に体中から力が抜けていく——。

 自分のものでなくなったかの様な手足は、無重力の中だというのに鉛の様に重く、けれどこれが今から背負おうとする重さの欠片にすら及ばないと気付いた時、心が悲鳴を上げるのを聞いた。


「――中に、入れてくれないかな」

 それでも彼女に会いたいという気持ちもまた、抑えようもなく溢れて来る。

——例えそれがより深く心を抉り、背負う重みを増すとしても。


 痛みと喜びと……幸せと辛さと……後悔と夢と……エゴと自棄と。

 そんな処理しきれない無数の想いを全部頭に突っ込んで、オーバーフローしたまま答えを導き出そうとする——。

 そんなもので答えが出る筈もないのに、計算機の前で起こる筈もない奇跡をただ待ち続ける——そんな気分だった。


 暫くすると、返事の代わりにエアロックが開き、いざなわれるように中へと入っていく。

 エアロック内が空気で満たされるとヘルメットを外し、残り少ない空気を吸いながら船内へと入っていく。

 中ではコンソールに向かい、背を向けた枳殻が座っていた。

 ついさっきここを出たばかりなのに、随分久し振りに会った気がする。

 このたった二十分足らずの間に、後輩であり友人であった人は恋人になり、そして永遠の別れを迎える……。

 胸の苦しさを押し殺しながら、彼女の背中を目指して壁を蹴る。

「先輩……」

 一面の静寂の中、か細い声が耳に届き鼓膜を微かに震わせる。

「名前で——呼んでくれないかな。恋人になったんだから」

 いつかの公園でのやり取りを思い出し、優しく声をかける。

「あき……ふみ……」

 確かめ、噛み締めるように大切な人が僕の名前を口にする。

「秋史!」

 もう一度名前を呼び、彼女が振り返る。

 その目からは涙が零れて宙を舞い、それを突っ切る様に彼女は僕の胸へと飛び込んで来た。


「秋史! 秋史!!」

「うん」

「生きて! 生きて! 私の事、忘れないで!」

「うん」

「どんなに辛くても、決して生きる事から逃げないで!」

「うん」

「この先もずっと、私だけを好きでいて!」

「うん」

「墓参りなんてしなくていいから、私の写真を傍に置いて!」

「うん」

「地球に帰ったら、いつか私の絵を描いて」

「人物画は得意じゃないけど、頑張るよ」

「それから! それから……」

 胸の中で必死に言葉を探す彼女の頭を――最初で最後、恋人として――撫でる。

「美佳の事、ずっと好きでい続けるよ。

 例えそれがどんなに辛くても、決してその痛みから逃げたりしない。

 写真、置くよ。それで時々話し掛ける。

 絵も描くよ。戻ったらその為の写真も、探さないとね」

「私の顔、ちゃんと可愛く描いてくださいね」

 やっと顔を上げた美佳は涙で濡れた顔で精一杯の笑顔を見せた。

 その唇に僕の唇が触れ、僕も一緒になって――少し泣いた。


               ◇


 抱き合ったままどれだけの時間が流れたのか。

 不意にコンソールから発せられたエラー音を合図に、美佳が僕の胸を押す。

「さ、秋史……行って」

 見ると再起動したコンソールは一面、真っ赤だった。

「私は残った時間で両親や友達に謝らなくっちゃ」

 そう言って顔を上げた美佳はもう——いつもの彼女だった。

 そのまま後ろの、三時間分の空気を貯めた船外服を着込む。

 僕も船外服を着ると、コンソールの救助予定時間を確認する。

――六時間八分。

 自分の酸素残量を確認すると、枳殻に有線通信を繋ぐ。

「こっちの酸素量にはまだ少し余裕があるし、話せる時間は少しでも長い方がいい。

 酸素を少し渡すから、これつけて」

 消防が使うホースのようなそれを、自分のタンクから伸ばし、美佳に渡す。

 彼女の後ろに回り、ちゃんとつけたか確認すると、バルブを開いた。

 すると音もなく命が流れ、美佳のメーターがゆっくりと増えていく。

 自分の残量を手鏡で確認しながら、更にバルブを開けていく。

 すると美佳の命が更に延びていく。

 あとは救助に間に合うところで、供給を止めるだけだ。


 でも……もしこのままバルブを止めなければ、目の前の恋人は助かる。


――ただ、僕が死ぬだけで。


 バルブを更に反時計に捻る。

 まるで昔読んだ絵本に出て来た、時間貯蓄銀行みたいだ。タンクに貯まった僕の時間が、別の誰かの時間になっていく。

 でもそれを使うのが灰色の男達ではなく、目の前にいるたった一人の恋人なら――。


 バルブを時計回りに捻って空気を止める。

 自分の酸素残量は救助が来る時間よりも短くなっていた。

「ちょと渡し過ぎじゃない? ちゃんともつの?」

「ただ待ってるだけなら表示の時間よりもつよ。問題ない」

「うーん。でもダメ」

「どうして?」

「だって秋史、きっと泣いちゃうから」

「……そうだね」

 ちょっと困ったように笑う彼女の言葉に、気持ちを押し殺して頷く。

 そしてバルブを付け直すと、空気を少し戻した。

「うん、これだけあれば大丈夫。

 私もお別れを言うには十分だし、秋史もこれならちょっとくらい無駄遣いしても大丈夫だよね」

 そう言ってヘルメット同士をつける。

「それじゃあ秋史、今度こそさよならだね。最後にお別れのキスとか——すればよかった。そしたらもっと、ロマンチックだったのに」

 そう言うと、少し寂しそうに笑う。

「誰もいない宇宙の、流される船の中での告白なんて、この格好を差し引いても十分ロマンチックだよ」

「それもそっか。最初で最後の恋人とこんな素敵な時間が過ごせたんだもん、文句言ったら、罰が当たるよね」

 そう言って、黙って僕の顔を見つめる。

「じゃあ秋史……。ここで……」

「うん、それじゃあ……またね」

 まるで祈るように別れの言葉を呟くと、静かに彼女に背を向けた。


               ◇


 美しい星に彩られた穏やかな世界を眺めながら、けれど頭の中はどうしようもない事への果てしない自己嫌悪と、あまりに醜く歪な欲望で溢れかえっていた。


 本当は二人とも助かる方法があるんじゃないか——とか


 あの時説得出来ていれば、今ここにいたのは僕じゃなかったかもしれない——とか


 今からでも船に戻って、この空気を全て渡してしまいたい——とか


 それが無理ならせめて、彼女と一緒にここで終わってしまいたい——とか


 頭を占めるそれらが何一つとして実らないものだと分かってはいても、自分でもどうする事も出来なかった。

 結局自分に何が出来たのかも分からないのに、何かを悔いる様に——心の悲鳴に呼応する様に——この静寂に満ちた世界で、僕は泣き叫んた。


 けれどその無意味な行為にも疲れ、泣き疲れた子供の様にぐったりとしたまま夜の雲の上を揺蕩たゆたうように流されて、近くの地球では無く遥か遠い星を想う。

 その空は、こんな状況だというのに、今まで見たどんなものより鮮烈に僕の脳裏に焼き付いた。

 目を閉じても網膜に焼き付いた映像がすぐに消えない様に、脳にまで焼き付いたその景色は、目を閉じても寸分違わずまぶたの裏に同じ映像を映し続けた。

 そうして全てを押し殺して眠るように目を閉じていると、不意に通信機が鳴った。


「…………」

 まだ生きていた事を喜ぶでも、またあの別れを味わう事を憂うでもない。

 決して筆舌に尽くし切れない想いが心を締め上げる中、受信ボタンに手が触れる。

「また話せるとは、思ってなかった」

 素直な気持ちを口に出す。

「私も」

 美佳の声は最初に通信した時と同じく、少し震えていた。

「けど恋人になったらやっぱり、一度は電話で話してみたいなって。恋人同士で電話とか、やっぱり憧れるじゃない?」

 そこまで口にして、黙ってしまう。

 そして再び耳に声が届いた時、それはもう違う彼女だった。

「嘘……。本当は怖いの。苦しいのは嫌だから、今すぐヘルメットを外してしまいたいのに、指が震えて外せない……。

 けど一人で空気の無くなっていく服に詰められているのも怖い。

 足の先から感覚が無くなって、蝕むように恐怖が這い上がって来る……。

 あれで最期のつもりだったのに……結局こんな声聞かせちゃうなんて。

 ずるいな、私……」

 力無く笑う彼女の声を聞きながら、僕には替わる事も、慰める事も出来ない。

 そんな自分に無意味な殺意を覚えつつ、それでもかける言葉を探した。

「一緒に、いようか……?」

 苦しんで死んで行く美佳を見るなんて、耐えられないかもしれない。

 けれど自分に出来る事はもう……これ位しかないように思えた。

「――ううん、いい。そこまで背負わせたら、秋史が潰れちゃうから。

 そんな事より、楽しい話ししようよ。秋史は私のどんなところが好き?

 さっき聞きそびれちゃった」

 死の恐怖に怯えながら、それでも一人で死ぬ事を選び、あまつさえそれを押し殺して明るく振舞うその声は、僕に途方もない意志の強さをまざまざと見せつける。

 そんな彼女の想いに応える事なんて、僕には出来ないかもしれない。

 それでも言葉を選んで掬い取るように、心から口へ気持ちを運んだ。


「無邪気に笑ってまっすぐで、けど呆れる位芯が強くて、そんな君に憧れてた。

 なのに君への想いはずっと罪悪感ばかりで、自分の意志で選んだのに、その選択にいつも悩んでばかりだった。それがより多く君を傷付けたと思う。

 そんな風に逃げて悩んでばかりの僕を、君は脇目も振らずに追い掛けて、出来る全てで傍に居てくれた。

 だから僕は罪悪感じゃなく、美佳に憧れていられたんだ。想いに少しでも応えたいって……。

 きっとこの想い全てが恋なんだと思う。だから僕は、美佳が向けてくれる想い全部が、好きなんだ」

 自分の持てる語彙を全て尽しても、気持ちの半分も伝えられない。

 こんなに言葉がもどかしいものだなんて、今まで知らなかった……。


 すすり泣く声が通信機の向こう側から流れて来る。

 そして――、

「嬉しい……」

 囁くような声がした。

 そしてひとしきり泣いた後、意を決するように深呼吸する息遣いが聞こえ、

「ありがとう秋史。今度こそ、大丈夫だから」

 そう言った彼女は、いつもの美佳に戻っていた。

 何か掛ける言葉がないか必死に探したけれど、頭の中はさっきの様に言葉を掬い取ってはくれなかった。

「そっか……」

 それだけ答える。

「うん……。じゃあ秋史……」

「そうだね、それじゃあ……」

そこまでで口にして、止める。

 美佳と交わす最期の言葉が『さよなら』じゃ寂し過ぎる。


「それじゃあ……おやすみ」

「うん。おやすみなさい」


 そう言って通信を切ろうとする。

 けれど指は、まるで僕に残った最後の意志だと言わんばかりに、それを押す事をかたくなに拒んだ。

 それでも最後は、スピーカーから聞こえる美佳の僅かな息遣いを、自分の意志で消した。


               ◇

 

 全てが終わると、再び星空を漂いながら、今度は小さくなった地球を眺めた。

 あの小さな星に戻って残りの一生、背負ったものの重さを噛み締めながら生きるのだろう。

 星空を漂いながらそんな想いに苛まれつつ、偽りの穏やかさの中——地球に吸い寄せられて行く。


 船外服の酸素残量が三十分を切った頃、モノクロみたいなこの世界に小型艇の赤と青のラインが遠くに見え、それが徐々に大きくなる様を、何の感慨もなく——ただ眺めていた。

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