金曜日、週に一度の体育の時間。他の高校よりも運動部が少ないためか、体育館に集まったクラスメイト達は、浮かない顔の人の方が多い。

 蒸されているような暑さの中、舞台の方に向けて膝を抱えて座る私たちの名前を、体育の土田先生が読み上げていく。

 そして、あの子の名前を読んで、出席簿から彼女の足元を視線を移動させた時、先生はあからさまに嫌そうな顔をした。

「……また、シューズを忘れたのですね」

 白い靴下を履いたままのあの子は、無言で体育館の床を見るだけだった。

「今回も見学ですね」

 敬語ながらも冷たい声で先生は言い切った。先生は、学園内の女性教師で一番厳しいという話も聞くくらいで、いつもジャージ姿で、生徒の風紀も取り締まっている。

「ちょっと待ってください」

 しかし、今日のあの子は、それを受け入れるのではなく、顔を上げると今まで聞いたことのないような大声で言った。

 思わず土田先生が、ペンを持った手を止めて、あの子の顔を凝視するほどだった。

「この授業を休んだら、単位は取れないと、先生は前に言っていましたよね? 私、今日は裸足で授業受けますので、出席扱いにしてください。お願いします」

 あの子は必死に訴える。額の汗が流れて、あの子の右頬の絆創膏に吸い込まれていった。

 それでも、土田先生はあまり良い顔をしなかった。

「でもね、裸足だと危ないですよ? 補修を受けるという形で……」

 先生の言葉が途中で止まり、目線はあの子から、上の方へ動いていた。

 私たちは、一斉に振り返った。そして、一人だけ静かに右手を挙げる、エリーさんの姿を見た。

「先生、今日の授業は、バスケットボールのテストだと言っていましたよね? 私の順番が来ない間、彼女にシューズを貸してもよろしいでしょうか?」

「ガーレンさんが、良いと言うのなら、許しましょう」

 エリーさんの淡々とした言葉を聞いて、先程と同じ嫌そうな顔をしていたが、溜飲を下げた。

 みんな何も言わないが、驚きがどこからともなく広がっていった。隣同士や前後同士で顔を見合わせたり、先生とエリーさんを交互に眺めたりしている。

 この気持ち悪いそわそわが、まるで漣のようだと気付いた時、私は昔読んだ本のとある一節を思い出していた。

 コップに入った水に漣を立てるには、そのコップを手で持てばいい……至極当たり前のことを書かれたその文は、このクラスの状況ととても似ていた。

 二年D組が水の入ったコップならば、エリーさんの行為はまさに、外側から漣を立てるようなことになる。エリーさんは一体、あの子と試練をどうするつもりなのだろうかという不安で、体中がいっぱいになる。

 先生が再度出席を取り始めた後も、漣は収まりそうになかった。

 そっとあの子の後ろ姿を盗み見る。あの子は、相変わらず膝を抱えて、俯いているだけだった。






   □






 日曜日の教会から出てくる生徒たちの足取りは、行きよりもずっと軽やかだった。

「わざわざ日曜日に制服着るのは、少し面倒臭いよね」

「規則だから仕方ないわよ」

 文句を言う由乃さんを私が宥めるのも、いつもと変わらない光景だった。

 カンカン照りの青空の下から寄宿舎に戻ってきて、そのクーラーの涼やかさにみんな口々に嬉しそうな声を上げていた。由乃さんが制服の胸元をつまんで、冷気を服の中に入れようとするので、思わず未樹代さんが注意した。

 二回の私たち二年生の部屋に戻る途中、一緒に廊下を歩いていた未樹代さんが外を見て、「あれ」と立ち止まった。

「ねえ、あそこにいるの、エリーさんとあの子じゃないかしら?」

 未樹代さんがそう言ってガラスを指差すので、私たちもその先を注視した。

 彼女の言う通り、外の体育館とプールの間、エリーさんとあの子が向かい合って立っていた。エリーさんの方が一方的に話していて、あの子が絆創膏の方を見せてまた俯いたままそれを聞いているようだった。

「何を話しているのかしら」

 私が疑問を口にした直後、由乃さんがこちらへ向かってくる人並みと逆行するように、小走りで出口を向かい始めた。

「由乃さん、どこ行くの」

「ちょっと見に行きましょうよ!」

 未樹代さんが大声でそう呼びかけると、由乃さんは顔だけ振り返って朗らかにそう答えた。

 未樹代さんはしょうがないと言った様子で溜息を吐くと、そのまま由乃さんの後追い始めた。その横顔は、少し楽しそうだった。

 私は一瞬悩んだが、このまま置いてけぼりも嫌だったので、二人の後を追いかけた。

 あっという間に寄宿舎から外へ出て、乾いた土を履き替えた靴で走っていき、体育館の真横も駆けていく。

 運動部ではない私は、久しぶりの全力疾走にへとへとになりながら、先頭の由乃さんとの距離を何とか一メートルで保っていた。未樹代さんはもう殆ど、由乃さんに並んでいる。

 私の耳には、切れ切れの自分の息の音しか響いていなかったが、エリーさんが荒げた声が微かに聞こえた。さすがに、その内容まで把握する余裕は全くなかったけれど。

「知絵はそれでいいの!?」

 由乃さんと未樹代さんが、体育館とプールの間を覗いた瞬間、エリーさんの怒号が、私の耳に響いた。

 驚いているの二人の間から覗くと、虚を突かれた様子のエリーさんと、瞳にいっぱいの涙を溜めたあの子と目があった。

「……あっちで話しましょう」

 エリーさんはぼそりとそう言うと、あの子の右手を無理矢理掴んで、私たちを迂回して、寄宿舎とは反対方向へ歩いて行った。あの子は何か言おうと、魚のように口をぱくぱくさせているが、抵抗出来ずに半ば引き摺られるようだった。

「エリーさん、あんな声も出すのね」

「怒鳴るなんて、怖いわね」

 由乃さんと未樹代さんはこそこそ話すだけで、これ以上首を突っ込もうとはしなかった。

 私は遠くなる二人の汗ばんだ背中を、頭上の日光と体内の熱気のせいでぼんやりとしたまま眺めながら、あの子の名前を久しぶりに訊いたような気持ちになっていた。






   □






 水曜日、ミサの後の出来事から三日が経ったが、あれ以来私はあの子の姿を見ていなかった。ホームルーム前のクラスの中は殆ど変わりがないけれど、今日もあの子の机は空席だった。

 私は自分の机で、未樹代さんと由乃さんに囲まれながら、いつもと同じようになんでもないお喋りを楽しんでいる。でも、そっと横を垣間見ると、一人で机の上で本を開いている、エリーさんの姿が目に映った。

 日曜日以来、私はエリーさんがクラスの誰かと話しているのをあまり見かけない。いつも本を読んでいて、会話を拒んでいるようで、授業に関すること以外の話はすぐに切り上げている。

 私たち三人は、好奇心からエリーさんとあの子の話を覗こうとしたので、こちらからも話し掛け辛くなっていた。しかし、他の人によると、学食にも顔を出さなくなっているらしい。

 一体どうしたのだろうと、エリーさんが呼んでいる本のドイツ語のタイトル「trotzdem Ja zum Leben sagen:Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager」を眺めている時に、チャイムが鳴って、未樹代さんと由乃さんは挨拶だけを残して自分の席に戻っていった。

 みんなががたがたと椅子を鳴らして自分の席に着いた直後、杉原先生が教室に入ってきた。クーラーが唸る音に、微かに外からセミの声が混じって、教室内は不気味なほど静かだった。

 教壇の前に立った先生は、一瞬だけあの子の席を見た、ような気がした。

 日直の中岡さんの声に合わせて、起立と礼と着席を終えた私たちを見回して、先生はおはようもなしにこう切り出した。

「秋島さんが、今日転校した」

 先生の口から放たれたあの子の名前に、私たちは酷く動揺した。既視感のある、透明な漣が教室中に広がっていき、その後の先生の話なんて、私たちの耳には入って来なかった。

 私はまた、そっとエリーさんを見た。エリーさんは、綺麗に背筋を伸ばして、顔だけを先生の方に向けて、ぎゅっと口を結んでいる。何か言いたいのを我慢しているようにも思えた。

 ……あの子の席に目を移す。もう誰も座らない、十三番の席だ。

 神様は、乗り越えられる試練だけを与えるという。しかし、あの子は試練を乗り越えられなかった。もしもそうならば、今までの試練は、私たちのしてきたことは、本当は――

 チャイムが鳴って、私ははっとした。

 中岡さんの号令が終わり、先生は出席簿を手に持って、教室の出入り口に向かう。

 でも、漣が立っただけで良かったと、私は密かに思っていた。もしも、水の入ったコップを持っている人がいたら、その人がコップを引っ繰り返して、中身を空っぽにしてしまう可能性があったから。

「ああ、魚前さん、志度川さん、赤丘さんは、昼休みに職員室に来るように」

 ドアを開けて廊下に体半分を出していた先生が、不意に振り返ってそう言った。名前を呼ばれて、不思議そうに顔を見合わせている魚前さんたちを残して、先生はぴしゃりと戸を閉める。

 由乃さんが、私の方へと来るので、左側へ顔を向けた時、エリーさんの姿も目に入った。

 エリーさんは、机の中から取り出した本を開く。その横顔は転校初日のように凛々しくも、無表情のままだった。

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コップの中の漣 夢月七海 @yumetuki-773

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