中
エリーさんが転入してきて一週間が経った。私と未樹代さんと由乃さんは、初めて彼女と一緒に昼食を摂る機会を得た。
白い壁が眩しい学食室内、木製のどっしりした机を囲むような形で、私たちは座った。
私はエリーさんの隣に座ることが出来て、少し緊張しながら、白いパンを千切って食べていた。
「エリーさん、日本食は好き?」
「ええ。肉じゃがが好きよ。小さい頃、母がよく作ってくれたから」
「ここでは、大体洋食だけどね」
食事をしながら、躊躇なくエリーさんに話し掛けられる未樹代さんと由乃さんが羨ましかった。私は、エリーさんが嫌だという訳ではないけれど、初めての転校生に、まだちょっとだけ恥ずかしさを抱いていた。
でも、せっかく一緒に同じテーブルを囲んでいるのだから、こちらから話しかけてみようと、私は意を決して口を開いた。
「ねえ、エリーさん、」
「何かしら」
しかし、タイミングが悪く、エリーさんは水を取りに行こうと、コップを手にして立ち上がった所だった。
「あ、後ででもいいわ」
「そう」
エリーさんはにっこりと笑うと、茶色い髪をふわりと揺らして、踵を返した。そのまま、冷水のピッチャーへと向かっていく。
私はその背中に見惚れてしまう。エリーさんの存在は、クラスでも学園内でも、美しく咲き誇る花のようだった。
「まだ慣れないの?」
声をかけられて前を向くと、由乃さんがにやにやしながら私を見ていた。
「慣れていないわけじゃないけれど、まだちょっと緊張するのよ」
「むしろそういう態度は、エリーさんに失礼よ」
私の言い訳を、未樹代さんはぴしゃりと跳ねのける。
確かに彼女たちの言う通りだ。エリーさんはすでに私たちのクラスメイトだから、いつまでも転校生扱いしてはいけない。
二人の言葉に実感を込めて頷いていると、私の斜め前の空席に、トレイを持ったあの子が座るのが見えた。
「あ、あの子だ」
「今日も一人ね」
私の視線に気づいた由乃さんと未樹代さんも、振り返ってあの子を眺める。
その直後、あの子の周りを、どこからか現れた魚前さんたち三人が囲んだ。
壁のように立ったままでいる魚前さんたちを、あの子は困惑した顔で見上げている。
「一人じゃないようね」
「そうかしら」
ぽつぽつと浮かんでくる未樹代さんと由乃さんの言葉を聞きながら、私は別のことを考えていた。
「あの子のショートカット、見慣れてきたね」
私の呟きに、二人も確かにと頷く。
ヘアスタイルはそれぞれだけど、腰くらいまでの長さがありそうな魚前さんたちに囲まれて、あの子はこれ以上ないくらいに目立っていた。四月の頭くらいまでは、あの子も綺麗な三つ編みだったのに。
三分も経たずに、魚前さんたちは挨拶もせずに去って行った。一人残されたあの子は、俯き気味のまま、食事を始める。
「誰を見ているの?」
背後からそう声をかけられて、私たちは驚いて振り返った。
ざらつく側面の透明なプラスチックコップを持って、エリーさんはあの子姿を見据えていた。
「あの子も一緒に誘ったら?」
エリーさんの、さりげない提案に、私はぐっと声を詰まらせた。
「大丈夫。あの子、一人でいるのが好きだから」
「ええ。気にしないで」
「そうなの?」
未樹代さんと由乃さんの言葉に、エリーさんは小首を傾げながらも、自分の椅子を引いてくれた。
私は、あの子は一人の方が好きだということが嘘だと気付いている。去年まで、あの子は同じクラスの川島さんたちと一緒に昼食を摂っていたのだから。
エリーさんがまず、コップをテーブルに置いた。コップの側面に生まれたての波がぶつかって消えていくのを、無意識に眺めている私に、席に着いたエリーさんが「そう言えば」と向き直った。
「さっき、何か言いかけていたけれど、どうしたの?」
「あ、さっきね」
改めて聞かれると、先程膨らませていた勇気が、またしぼんでいくようだった。私は目の前の友達二人のにやにや顔に促されるように、もう一度エリーさんに話し掛ける。
「あの、エリーさんは、ケルン大聖堂って行ったことあるかしら?」
「まだ行ったことは無いわ。私が住んでいたベルリンから、とても遠いからね。でも、よく知っているわね。この質問をされたのは初めてよ」
エリーさんが驚いているので、私は頬が熱くなって、下を向いてしまった。
由乃さんが、私のことをからかうように、エリーさんへ説明する。
「クラスで、いえ、学園内で一番信心深いからね。日曜日のミサを一番楽しみにしているのは、彼女くらいよ」
エリーさんは感心したように頷いていたが、私は正直由乃さんの言葉が不思議だった。キリスト教の学園に通っているのだから、神様を信じるのは当たり前のことなのに。
「素敵なことじゃないの。全然可笑しくないわ」
そんな私を、エリーさんは柔らかな笑みで肯定してくれたので、私も口元を緩めながら、頷き返した。
エリーさんはこれからもずっと、仲良くなれそうだと、その瞬間に初めて思った。
□
その日の夜、私は寄宿舎のトイレに、一人で入っていた。まだ消灯時間には遠いけれど、混む前に先に済ませておきたかったからだった。
洗面台で手を洗っていたところへ、一人の生徒がトイレに入ってきた。鏡越しにその姿を確認して、私は驚きの声を上げた。
「エリーさん……」
鏡の中の私に顔を向けたエリーさんは、今まで見たことのない表情をしていた。口はへの字に曲げて、眉もひそめている。
何かあったのだろうかと私が体ごと彼女の方へ向けると、エリーさんの方から話しかけてきた。
「一つ、聞いてもいいかしら」
エリーさんは、私の他に誰もいないかどうかを気にしているようだった。
私は一度、トイレの個室のドアがすべて空きっぱなしになっているのを確認して、エリーさんを見る。
「何かしら?」
「あなたたちが、『あの子』って呼んでいる子のことよ」
「ああ」
私はすぐに、あのショートカットの背中を思い出した。いつものクラスの席に座っている。
「十三番の子のこと?」
エリーさんは無言で頷いた。しばらく、何か悩むかのように、トイレのピンク色のタイルの羅列を眺めていたが、消え入りそうなほど声を絞り上げた。
「あの子、いじめられているでしょ?」
直球でそう言われて、私は返答に困った。
「いじめられている訳じゃなくて……」
「じゃあ、今日のアレは何だったの?」
勢い良く、エリーさんは顔を上げた。茶色の髪がふわりと上がる。
確かに五時間目、あの子の右頬には、真四角の絆創膏が貼られていた。
もう誤魔化すことは出来ないと観念した私は、正直に話し始める。
「あのね、二年D組には、十三番の席順の子には、神様から試練が与えられることという伝統があるの」
「神様の試練って、いじめのこと?」
「まあ、そういうものなのかもしれないけれど……」
私が口ごもる一方で、エリーさんは眉間に三本の皺をはっきりと表していた。
「あなたたちは、それを見ているだけ? 彼女を助けようとはしないの?」
「ええ。あの子一人の力で、一年間のその試練を乗り越えないといけないから」
「ひとりぼっちにさせるのも、試練の一環なのね」
「そうなの。本当に、大変よね」
私が大きく頷くと、エリーさんは口をきゅっと結んで、何か考え込んでいる様子だった。
「あなたは、試練について、どう思っているの? 正直に教えて」
「私は、あの子ならこの試練を必ず乗り越えられると信じているわ。だって、神様は、乗り越えられる試練しか与えないのだから。……ただ」
「ただ?」
「D組になった時、自分が十三番じゃなくて、本当に良かったと、心の底から思ったわ」
私は、クラス発表の瞬間の気持ちを思い出して、口元に苦笑を浮かべた。
それを聞いたエリーさんは、大きく目を見開いた。曇天のような色合いの瞳が、静かに私を射抜く。
二人の間の無音は、何時間も流れたかのように感じられた。
「……引き留めてごめんなさい。また明日ね」
「ええ。おやすみなさい」
寂しそうな笑顔を見せたエリーさんは、片手を振って、私の真横を通り過ぎて、トイレの個室へ向かった。
私は、そんなの気にしていないからというような気持ちを声に乗せて返答し、夜の挨拶を付け加えた。
「おやすみ」
エリーさんは、個室のドアを開いたまま、私を見て、そう言ってくれた。
その優しい声色を耳に残して、私はトイレを出た。
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