コップの中の漣

夢月七海


「今日は、転校生が来ている」

 朝のホームルーム、教壇の上に立つ杉原先生がそう言った瞬間、いつもと変わらない教室が、僅かに熱気を帯びた気がした。

 今年度から新しく来て、三十五歳だけど学園内で一番若い男の独身の先生へ、こんなに視線が集まったのは、今朝が初めてのことだった。女子高で珍しい男の先生ということで、いつもは少しないがしろにされている所があるけれど。

 私たちは、転校生が来るという話をすでに知っていた。春日さんが寄宿舎で見慣れない子がいたと話していたから。

 二年の寄宿舎で見かけた子が、空きの机が一つある、このクラスに編入してくることは、誰だって想像がつくだろう。それでも、中高一貫のこの学園では、転校生はほとんど来ないから、とんでもないことだと思う。実際、五年通っている私が転校生を迎えるのは、今日が初めてだった。

 ガラガラと、黒板側の引き戸が開く。皆の視線が、一斉にそちらへ向けられる。

 背筋を伸ばして、一人の女生徒が、教壇へと歩いていた。誰かが息を呑む音がする。この注目度は、さながら観劇のようだった。

 先生の隣に立った女生徒は、背が高くて、目鼻がくっきりとした顔で、長くて明るい茶色の髪を緩やかな一つまとめにしていた。灰色の目を瞬きさせて、彼女はゆっくりと口を開く。

「初めまして。ハンナ・エリー・ガーレンです。どうぞよろしくお願いします」

 日本語で澱みなく挨拶をした彼女は、深々と頭を下げた。新しいクラスの仲間に向かって、私たちは惜しみない拍手を送る。

 顔を上げたエリーさんは、はにかんだ顔で教室内を見回していた。

「では、ガーレンさんの机は、一番後ろで」

「はい」

 先生が手で示したその机へ、ガーレンさんは向かっていく。その姿を、私たちは静かに見惚れていた。

 転校生というだけでなく、彼女の佇まいや雰囲気全てが、私たちとはかけ離れているようで、とても眩しく見えたから、注目が集まるのも仕方がない。

 ただ、ベリーショートのあの子だけは、ガーレンさんが真横を通っても、一度も顔を上げなかった。






   □






 次の休み時間、早速ガーレンさんの周りには人だかりが出来ていた。

 私にはまだ、その輪に加わる勇気が無かったので、二人の友達と一緒に、ガーレンさんから三つ分離れた自分の机から眺めていた。

「ねえ、ガーレンさんって、どこから来たの?」

「ドイツよ」

「ハーフなの?」

「ええ。母は日本人なの」

「エリーさんって、呼んでもいい?」

「構わないわ」

 代わる代わる飛んでくる質問を、ガーレンさんは嫌な顔せずに優しく答えてくれた。

 本人がそうしてもいいと言ったので、私も心中ではガーレンさんのことを、「エリーさん」と呼ぶことにした。

「エリーさん、とても優しそうな人ね」

 私の机の前に立っていた未樹代みきよさんが、自分の長いストレートの髪を手で梳かしながら言った。

「転校生って聞いて、心配していたけど、大丈夫そうね」

 長いポニーテールを揺らしながら、由乃ゆうのさんが頷く。

 私も二人と同じ気持ちだった。みんな中学の頃から一緒で、同じ宿舎で暮らしていることもあり、まるで学年全員と家族のような気持ちが強かった。

 よって、ここに新しく入ってきた人が、変に悪目立ちしする子、あるいは愛想が悪い子だったらどうしようかと、密かに不安だった。でも、エリーさんの物腰の柔らかさを見ると、それらは杞憂だったことが分かる。

 今度、お話しできたらいいなと考えながら視線を前にすると、丁度ベリーショートのあの子が、十三番目の席を立った所だった。トイレに行くつもりなのか、猫背のまま一人でとぼとぼと、教室を出ていった。

 それと立ち替わるかのように、赤丘さんがあの子の机の中を探って、袋に入ったアルトリコーダーを取り出した。それを、自分の机に座っている魚前うおまえさんの所まで運んでいく。

 魚前さんはそのリコーダーを指差して、赤丘さんに何か言っている。赤丘さんは無言で頷いて、今度はリコーダーを掃除用具入れへと運び、中の箒などと同じように立てかけておいた。

 魚前さんはすぐ近くに立っていた志度川しどかわさんと、顔を見合わせながら声を潜めて笑っていた。赤丘さんが肩をすくめて何か言っているのを眺めながら、私は、次の次の授業が音楽だったことを思い出していた。

「……じゃあ、次の土曜日に行こうね」

「パンケーキ食べるのは久しぶりね。ねえ、一緒に行くでしょ?」

「え、あ、うん」

 由乃さんからそう言われて、私ははっとした。

 赤丘さんの動きを眺めている間、未樹代さんと由乃さんは、学園の近くに出来たカフェに行く約束をしていたらしい。楽しみと嬉しそう話し合う二人に合わせて、私も笑顔で頷いた。

 横目でエリーさんの様子を見てみる。赤丘さんの動きには気付いていなかったようで、周りのみんなからの質問に答えるのに忙しそうだった。






   □






 音楽室の静謐の中で、安藤先生が私たち一人一人の名前を呼ぶ。

 しかし、十三番の名前を呼ばれた時は、誰も返事をしなかった。席も開いたままだ。

「……また、お休みですか」

 出席簿に視線を落とした安藤先生は溜め息をつきながら、顔の前に垂れ下がっていた髪の毛を、ペンを持った右手で耳にかけた。

 誰も無言を貫く中、エリーさんが不安そうに教室内を見回しているのが、視界の隅に入った。

 二十番目の由乃さんの名前を呼ばれた直後、防音処理のされた重い扉が、ゆっくりと開いた。皆が一斉にそちらを見る中、あの子が教室に入ってきた。

「……すみません、遅れました」

 あの子は息を切らして、短い前髪を汗で額に張り付かせながら、そう言った。何度もしゃがんだのか、紺色のスカートは皺だらけになっている。

 あの子の右手には、しっかりと音楽の教科書とアルトリコーダーが握られていた。ちゃんと見つけることが出来たのだと分かり、私はほっとする。

 安藤先生は、フチなしの眼鏡をかけ直しながら、厳しい口調で注意する。

「またですか。あと一回の遅刻で、欠席扱いですよ」

「申し訳ありません」

 あの子が九十度のお辞儀をすると、安藤先生は「早く座りなさい」と促した。

 まだ息の切れているあの子が教室内を歩いているのを、隣同士の魚前さんと志度川さんが、笑いをこらえながら眺めていた。

 さすがに、その様子は酷いと思った。あの子は一生懸命、試練を超えようとしているのに。

 あの子が席に着き、先生がまた名前を呼び始める。そっと見てみると、エリーさんは信じられないと言った様子で、口をぽかんと開けていた。

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