Ⅳ ぶつかりあう想い、そして――

 廊下の開け放っている窓から、脳みそがとろけてしまいそうな熱風が吹き込んできて、思わず顔をしかめた。 


 あの暗黒の夏の日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。


 制服のネクタイを少し緩めてみたところで、この猛暑日を前にしてはなんの気休めにもならなかった。汗でじっとりと濡れたワイシャツが肌にまとわりついてきてわずらわしい。


 他の生徒たちは暑さなんて屁でもないと言わんばかりに、各々の部室へ風のように駆けて行く。軽やかな足どりで、なめくじのようにのったりと家に帰ろうとしていた僕の脇をすり抜けていった。


 部活へ向かう彼らの瞳は、これから過ごす時間への期待に充ちていて、きらきらと輝いていた。その光が、何もかもを諦めてしまった僕には、痛いぐらいに眩しかった。彼らが、中学時代までの僕と同じ瞳をしていたからかもしれない。


「影山くん」

「ん?」


 声を掛けられて振り向けば、クラスメイトの品川さんがにこにこと笑顔を浮かべながら僕を見つめていた。


 ショートヘアの良く似合う、気さくな感じの女子だ。


「影山くんって、帰宅部だったよね。今後、どこの部活に入る気もないの?」

「まぁ、今のところは」

「それなら、今度、写真部をのぞいていかない? いま、絶賛、部員募集中なんだよね」


 写真、か。


 全然興味がなかったけれど、少しのぞいて見るぐらいならいいかもしれない。


 そう返答しようとした瞬間、


「だめ……っ」


 背後から、僕ではない第三の人物が代わりに品川さんに向かって返答をした。

 

 驚き過ぎて、言葉も出てこなかった。

 だって、その凛とした声は、聞き覚えがあるどころではなかった。

 

 僕の横に並ぶようにして立った雪永は、品川さんを威嚇するように見つめながら、強い口調で言い放った。


「影山は、だめ。諦めて」


 雪永の気迫に気圧されてすっかり怯えてしまった品川さんは苦笑いを浮かべると、逃げるようにこの場を立ち去った。

 

 雪永が、ゆっくりと僕の方へと振り向く。


 彼女は、白い頬をわずかに紅潮させていた。視線を彷徨わせて、何度も口を開きかけては閉じる。妙な胸騒ぎがした。


 ややもして。


 目の前で起こっている出来事を未だに把握しきれず呆然としている僕に向かって、彼女は薄い唇を震わせながら言った。


「ね、え。…………もう、トランペットは、全く吹いていないの?」


 胸に、切り裂かれるような鋭い痛みが走った。

 

「……トランペットなんて、もう、見たくもない」


 悔しさのあまり、声が震えてしまった。


 目の前の雪永がハッと切れ長の瞳を見開いて、一年前のあの日と同じように唇を噤んだ瞬間、ずっと蓋をし続けてきた思いが決壊したように溢れだした。


 荒れ狂う感情の奔流を、激情に駆られるままに、叩きつける他どうしようもなかった。


「……僕は、聞くに堪えないぐらい、酷い失敗をしたっ! 約二年半、あんなに頑張ったのに、その全部が一瞬で水の泡になった! 僕には、トランペットしかなかったのにっ。あの日から、トランペットを見ると吐き気がするっ」


 空間ごと引き裂くような叫びが、廊下中に虚しく響き渡る。心臓が、肺が、喉が、全身のどこもかしこもが沸騰しているように熱い。


 息を荒くしながら、恐々と彼女に視線を戻したその時。


 目の前のひんやりとした瞳にじんわりと薄い水の膜が張っていて、息が止まるかと思った。


「否定、しないで……!」


 陶器のように滑らかな彼女の肌に、一筋の透明な涙が伝った。


 それを皮切りに、ボロボロと涙を流し始めた雪永を見つめていたら、わけがわからなくなってしまった。僕も、嗚咽を零して泣いた。彼女の涙が伝染してしまったみたいに。


「失敗知らずの君に、僕の気持ちが分かるはずがないっ!!」

「っ……私は、たしかに、楽譜通りになら吹ける。でもっ……私はどんなに頑張っても、あなたみたいに、音色に感情を載せることはできなかったっ!」


 肩が、びくりと強張った。


 だって今、僕の目の前では、あの雪永が感情を剥き出しにしていた。


「……私の母は、プロのフルート奏者よ。私は、物心ついた時にはフルートを握らされていた。母は、私にも自分と同じ道を歩ませたかったの。でも、プロの道は険しくて、練習は思うようにうまくいかなかった。母の求める期待に応えきれない自分に、何度も苛立った。次第に、フルートを吹くことはどんどん苦しいだけのものになっていった。小学校を卒業する頃、母は、私にはプロになる程の才能はなかったって諦めてしまった。見棄てられたあの時は……凄く、惨めだった。それでも、フルートを手放しきる勇気もなかったから、私は吹奏楽部に入ったの」

 

 そんなの、全然、知らなかった。


 いつもツンと澄ました顔をしている雪永が隠していた思いがけない痛みに触れて、愕然とした。


 痛くて苦しいのは、僕だけだと思っていたのに。


「影山は……あの中で、他の誰よりも楽器に対して真剣に向き合ってた。血の滲むような努力すらも心の底から楽しんでいるあなたは、輝いていた。私は……そんなあなたのことを……トランペットに対して真っ直ぐに心を燃やせるあなたのことを、ずっと、心の底から羨ましいと思っていたのよ」


 涙が、次から次へと溢れて、止まらない。


 熱い吐息を吐き出しながら、雪永は真剣な眼差しで、僕を射抜くように見つめた。


「練習の時、あなたはいつも、凄く良い演奏をしてた。だからこそ……影山は、あの最後のコンクールで死んじゃいたいぐらい悔しい思いをしたんだろうなって、思う。でも……っ、あの一瞬で、影山の演奏の全てが否定されるなんてこと、あるわけがないっ。私はずっと、またあなたの演奏を聴きたいなって思っていたのよっ。あなたの口から、もうトランペットを見たくもないだなんて、そんな哀しいこと聞きたくもなかったっ」


 目の前で、瞳を真っ赤に腫らして泣き叫ぶ雪永は、年相応の高校一年生の女の子のようで――僕は、ただただ、雷に撃たれたように呆然としていた。

 

 ずっと、夏が厭わしいと思っていた。


 あの日から、僕にはもう一生、輝かしい夏はやってこないのだと思っていた。

 

 でも、目の前でぼろぼろと涙を流している雪永のくれた言葉で、今、ようやく分かった気がする。


 夏を真っ黒に染め上げてしまっていたのは――他でもない、あの失敗に固執していた僕自身に過ぎなかったのだ。



 翌日の朝。


 教室のドアの前で、何度も深呼吸をした。


 よし。

 

 意を決して扉を開き、雪永の座る席の前に立ちはだかった。

 黒い楽器ケースを背負った僕を見上げた彼女は、きょとんと瞳を丸くしていた。


 気恥ずかしさで、頬が熱い。


 それでも、彼女にはきちんと伝えたいと思った。

 

「…………また、酷い失敗をするかもしれない。でも……雪永のお陰で、また、大好きだったトランペットに向き合おうと思えた。ありがとう」

「……そう」


 口調は相変わらず素っ気なかったけれど、心の底から嬉しそうな彼女の顔はとびきり可愛くて、さらに頬が熱くなる。


 僕の夏が、ふたたび金色に輝き始めた瞬間だった。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

囚われトランペット君の大嫌いなフルートさん 久里 @mikanmomo1123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ