Ⅲ あの日、僕の夏は黒く染まった


 地元の中学校に進学した僕は、迷わず吹奏楽部に入部し、念願のトランペットを手に取った。


 それからは、毎日が吹奏楽部漬けだった。


 僕の中学校は、地元ではそこそこ有名な吹奏楽コンクール強豪校だった。

 だからこそ、年に一度の夏の大会にかける情熱は、生半可なものではなかった。


 平日はもちろんのこと、休日にも部活の為だけに学校へ通い続けた。練習日を数えるぐらいなら、練習が休みの日を数える方がよっぽど早かっただろう。


 部活のほとんど全ての時間は、夏のコンクールで良い演奏をするためだけに費やされていたといっても過言ではない。


 正直、僕の中学時代は、吹奏楽部をなくしてはなにも語ることができない。


 大袈裟でもなんでもなく、本当にほとんど全ての時間を部活につぎ込んでいた。まだ高校生になったばかりだというのに、中学時代の部活以外の記憶は既にうっすらと霞がかっているぐらいだ。


 それでも、決して練習が苦になることはなかった。


 僕は、トランペットを吹くことが大好きだった。この楽器を滑らかに吹きこなせるようになることは、僕にとっては何にも勝る喜びだったのだ。


 そうはいっても、一年生の時は流石にコンクールに出ることはできなかった。

 というのも、コンクールに出演できる人数は限られているから、当然のことだったのだけれども。一年生でコンクールに出演する人は、特例中の特例といえる。同学年で一年生の時から舞台に立つことができていたのは、それこそ、小学時代からフルートを経験していた雪永ぐらいだったはずだ。


 そう。


 思えば雪永は、入部当時から異様な存在感を放っていた。


 切れ長の瞳に、サラサラの漆黒の髪。

 氷を削って作った人形のような中学生らしからぬ美貌。

 あいつは昔から、愛嬌という言葉の対極に位置しているような奴だった。


 そして、彼女ほどフルートの似合う人物もそうそういないと僕は思う。


 雪永は、あの白く細長い指で、高潔な透き通った音を響かせる。澄ました顔で、氷のように冴え冴えとした美しい音色を自由に紡ぎ出すのだ。

 

 練習の時は勿論のこと、本番の時も一切、その音色がぶれることがなかった。一年生一人きりで、先輩たちに囲まれながらコンクールに出演していた時ですらそうだった。あいつには、緊張するという概念が欠落しているのではないかと本気で疑ったくらいだ。

 

 先輩と雪永の演奏を観ているだけで終わった一年の時のコンクールは、金賞を獲得し、さらには全国大会予選にまで進むという好成績を収めた。その先の全国大会の舞台に立つことまでは叶わなかったけれども、皆、全国大会予選にまで勝ち残ることができた達成感で晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。


 入部して初めての夏の大会は、来年は僕もあの舞台に立つのだという期待を胸に灯して終わった。


 それからあっという間に月日は流れ、中学生になってから二度目の夏がやってきた。


 中学二年時、初めて出演したコンクールでは無事に金賞を取ることができた。


 皆で涙を流して喜んだけれども、去年と同じように全国大会予選に出場することまでは叶わなかった。この大会が中学最後の夏だった一個上の先輩たちは、悔しそうに泣いていた。


 泣いている先輩方の姿を眺めながら、来年こそは絶対に全国大会予選の舞台に立つのだという闘志を密かに燃やし、僕はコンクール会場を後にした。


 そして、忘れもしない、中学三年生の夏。


 三年生になった僕らにとっての、最後の夏がやってきた。


 時間にしてみれば、たったの数分間。

 僕ら全員の途方もない努力の結晶が秤にかけられる、審判の時。


 一つ上の先輩方が引退した後、トランペットのパートリーダーに選ばれていた僕は、この舞台で悲願の独奏ソロが割り当てられていた。


 最後の夏のコンクールは皆で挑む決戦の時であると共に、僕の個人的な夢を背負った晴れ舞台でもあったのだ。


 けれども、合奏が始まった瞬間、急激に嫌な悪寒に襲われた。


 あんなに練習したはずだったのに、僕の独奏が近づいてくるにつれて、指先が震えて、目眩がしてきた。どれだけ耳を凝らしても、反比例するように皆の音が遠のいていった。それでも辛うじて吹き続けることができていたのは、脳内が擦り切れそうなほどに繰り返し練習をして、身体に刷り込んでいたからだった。


 でも、こんなギリギリの状態で、独奏がうまくいくわけがなかった。


 震える足でどうにか立ち上がった瞬間、大勢の観客の目が一様に僕に向けられて、その瞬間、もう駄目だった。極限まで高まりきった緊張に埋め尽くされて、急激に頭が真っ白になってしまった。


 僕が何も吹けずに固まってしまったことによって産み落とされた恐ろしいほどの無音を、僕は、生涯忘れられないと思う。


 空白の数秒間の後、憔悴しきって呼吸困難になりかけながら、もがくように必死で独奏を再開した。鳴ったのは、あまりにも貧相で、聴くに堪えない惨めな音だった。信じられないほど滑稽なものを晒すだけ晒して、僕は放心しながら席に着いた。


 こうして僕は、部員全員の期待を一身に背負った独奏を、完膚なきまでに破壊した。同じトランペットパートで、僕の担当した独奏を希望していた子たちもいた。彼女たちに譲ってもらうまでして引き受けたにも関わらず、僕は、ほとんど吹けなかったのだ。


 その後のことは、もうほとんど覚えていない。


 ただ一つ、僕と入れ替わるようにして立ち上がった雪永が、フルートの冷たく硬質な音を冴え冴えと響かせて完璧に立ち振る舞っていたということだけは、はっきりと覚えている。彼女の美しい音色は、鋭く胸に斬りつけてくるようだった。


 演奏が終わった後、僕は死滅しかけている心を抱えてどうにか舞台を後にした。


 僕ら全員を取り巻く空気は、泥のように重たかった。皆が、沈痛な面持ちを浮かべていた。


 僕は皆から怒られもせず、責められもしなかった。 


 皆が、腫物に触るかのように、僕を扱った。話しかけられることはおろか、視線を合わせようとすらしてくれなかった。その中途半端な優しさが、僕の瀕死寸前だった胸をさらに深く抉った。

  

 この演奏の結果は、銀賞に終わった。


 金賞を取れず、皆が悔し泣きをしている中、雪永だけは泣いていなかった。


 皆が僕に話しかけることを躊躇っていた中、彼女は自ら、僕に近よってきた。そして、あのひんやりとした瞳で、億すことなく僕をじっと見つめたのだ。


 まるで、時が止まってしまったかのように感じられた一瞬の後。


 身を強張らせた僕に対し、雪永は何も告げなかった。


 ただ、淋しそうに瞳を伏せて、閉口したのだ。


 あの時、僕は、このまま空気になって、消えてしまえたらどれほどいいだろうと思った。海に溶けて、泡になってしまえたらとあれほど願ったことは未だかつてない。


 この世界では、残酷なほどに結果だけが全てなのだと思い知らされた。


 それまでどんなに必死で頑張っていても、練習でどれほど良い成果を出せても、肝心の結果を出せなかったら、それまでの過程はなかったも同然。あっさりと、否定されてしまう。


 僕の吹奏楽部に費やした二年半は、一体なんだったんだろう。


 コンクールの為だけに頑張ってきて、その結果が、こんなにも醜いものだなんて。これ以上にないぐらい滑稽で、惨めで、無様だった。最初からこの未来を見透かすことができていたら、絶対に吹奏楽部に入ろうだなんて思わなかったのに。


 帰宅してすぐに、入部して親に買ってもらったトランペットを楽器ケースの中に閉じ込め、押入れの奥深くに封印した。この金色の輝きを見ているだけでも胸が焼け付くように苦しくなって、狂ってしまいそうだった。


 その翌日、僕は、吹奏楽部を辞めた。


 当時の僕には、辞めるという選択以外、ありえなかった。夏のコンクールから一か月後の九月に開かれる引退コンサートを待つ余裕すらなかった。


『やめるなんて言わないで』

『一緒に引退しようよ』


 僕を引き留めようとしてくれた部員たちのあたたかい言葉も全て容赦なく跳ね除けた。当時の僕はそれぐらいに追い詰められていて、吹奏楽を彷彿とさせる全てのものをシャットアウトしなければ、到底、精神を保てそうになかった。


 退部した後の一番の苦行は、吹奏楽部員と廊下ですれ違ってしまうことだった。


 部活を辞めたからといって、僕のとんでもない失態が消えてしまったわけではない。彼らとすれ違うたびに憐れまれているような気がして、いっそのこと、転校してしまいたいぐらいにしんどかった。それでも、あと半年ほどの辛抱だからと、歯を食いしばって耐え忍んだ。僕ほど中学の卒業式を心待ちにしていた奴はきっといないだろう。


 陰鬱な中学時代を乗り越えて、ようやく始まった僕の高校生活は、雪永と同じクラスだったことさえ除けば、可でもなく不可でもなかった。


 高校入学当時は、折角あの中学校を卒業できたのに、これから毎日あの女と顔を合わせなければならないのかと思うと吐きそうだった。けれども、幸い人間には、適応力というものが具わっている。入学して一か月が経った頃には、彼女もすぐに日常の風景の一部と化した。


 雪永は、今でもたまに、あのひんやりとした瞳で僕の様子を伺うように視線を投げかけてくることがある。けれども、それ以上僕に接触を図ろうとしてくることはなかった。だから、こっちが深く気に留めないようにさえすれば、特に支障も害もなかった。


 高校に入ってからの僕は、何の部活にも所属せず、何か新しいことに情熱を傾けるでもなく、ただぼんやりと退屈な日々を送っている。

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