言葉の神様

@doradoradys

第1話 言葉の神様


         1


 宝くじで一等を当てる確率は『明日、突然の交通事故で死ぬ確率』よりも、はたまた『雷に打たれて死ぬ確率』よりも低いのだという。となると、現代文の授業で俺が教科書の内容を無事に朗読できる確率は『明日、突然地球に隕石が衝突する確率』よりも低いというわけだ。

「どうした、綾瀬? 早く読まんか」

 こちらの気も知らないで、現代文の担当教師である田中が教科書を読むよう催促してくる。眼鏡の奥に見えるその侮蔑のまなざしは、端から俺が教科書の内容を理解していないと踏んでのことだろう。

ああ、そうさ! 確かに俺はお世辞にも頭がいいとは言えない。――だがな、問題はそこじゃないんだよ!

 そう叫びたくなる気持ちを必死に抑え、取り敢えず俺は教科書の中身を確認した。漢字とひらがなが入り乱れるその奇怪な文章は、見ているだけで頭が痛くなりそうだ。ちなみに、作品名は『舞姫』。作者は『森鴎外』というどこか聞き覚えのある人物だった。

 ためしに、物語の最初の部分を黙読してみる。文頭はこうだ、

(石炭をば早や積み果てつ。中東室の卓、たく、たく――)

 ――素で読めん。てか、なんだこれは? 暗号文か何かか? いつから俺たちは暗号解読班の一員となった? これじゃあ制約関係なしに初めから詰んでいる。

「石炭をば早や積み果てつ。中東室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。――うむ、なかなかに良き文章ではないか」

 思考回路がショートする寸前、どこからともなく奴の声が聞こえた。見れば、前の席に座っている生徒の頭上に巫女装束を身に纏ったそいつの姿があった。

「どうした? せっかくわらわが手本を読み聞かせてやったというのに、言葉に出さなければ何も始まらぬぞ?」

 皮肉めいた発言に、俺は目の前のそいつを思い切り睨んだ。ちびで丸っこく、さながら日本人形のぬいぐるみ版とも言えるそいつは、俺以外の人間に認知されることはない。僅かにしゃがれたその声も、装束のどこか古めかしい匂いもまた然り。ゆえに厄介なこと極まりなく、下手に教室からつまみ出そうとすれば幻覚と戯れる変人扱いだ。

「――もしも読むことができたなら、その制約、解いてやらぬこともないぞ?」

 神職者の皮を被った悪魔が、俺のこころを揺さぶってくる。

 制約を解いてやる? 誰がそんな見え透いた罠に引っ掛かるものか! それにだ、たとえこいつの言ってることに嘘がなくとも、俺が言わなければならない言葉は「石炭がどうたらこうたら」。とてもじゃないが無理に決まってる。

「うむ。さすがにそう易々とは口にせぬか。良いだろう。――消えろ、意外の言葉を口にした場合もお主の勝ちにしてやろう。ただし、言葉を口にするときは大きな声ではっきりとな」

 新たに提示された条件に、頑なだった俺のこころが揺らぐ。正直、こいつが何を考えているのかは分からない。だが、「消えろ」以外の言葉でも良いというのなら、確率はぐんと増すはずだ。

 いいだろう。この勝負乗ってやる! 言葉の神様だかなんだか知らないが、お前との付き合いもここまでだ! 言え! 言うんだ、俺! 石炭! 石炭! 石炭石炭石炭――石炭!

「消えろ、くそ野郎!」

 瞬間、室内に怒声が響いた。

 誰もが唖然とする中、巫女装束のそいつだけは、げらげらと笑い声を響かせるのであった。


         *


 俺がそいつと出会ったのは、三日前の月曜だった。

 その日、学校の帰り道で偶然クラスメイトの剛田が不良どもにカツアゲされているのを目撃した俺は、面倒くさいと思いつつ奴らを撃退することにした。見れば、剛田を取り囲んでいるそいつらもまた同じクラスの男子生徒たちであり、名前は確か三人とも「岩瀬」だった気がする。珍しいことに、俺のクラスには「岩瀬」と名のつく生徒が七人もいる。おそらく日本で一番「岩瀬」に恵まれたクラスだろうが、どうせならもっと他のことで恵まれたかった。

「消えろ、くそ野郎」

 出会いがしらの一言に、岩瀬たちがたじろぐ。これで終わりかと思いきや、意外にも奴らはその場に留まった。

「か、関係ねえ奴は引っ込んでろ! こ、殺すぞ!」

 なんて口が悪い奴だ。と、俺はこころの中で相手を罵る。

「関係ない? 関係あるんだな、これが! てめえらがそんなことしてると、同じ学校に通う俺まで同類だと思われんだろ? てか、さっさと剛田から巻き上げたもん全部出して俺の目の前から消えろ! じゃないとてめえらの○×#握りつぶして二度と%$?×できないよう○#&してやるぞ! ゴラアァ!」

 なかば機関銃のごとく暴言をまくし立てると、岩瀬たちは剛田から巻き上げたと思われる財布を俺へと差し出し、情けない声を漏らしながらその場を去った。

「あ、ありがとう、綾瀬くん」

 財布を受け取ると、剛田は恐る恐るお礼を口にした。そんな剛田に向かって、俺は冷たくも小さく「消えろ」と言い放つ。べつにお礼を言われるためにやったわけじゃない。それに、これ以上関わりを持つのは互いにとってマイナスでしかなかった。

 俺の言葉に、剛田はどこか寂し気に通学路の奥へと消えていった。

「見たかよ、あれ。さすが〝宮校の毒舌王〟」

「馬鹿! 聞こえたらどうすんだ! ほら、絡まれる前に行くぞ……」

 通りすがりの生徒たちが、逃げるようにその場をあとにする。

(毒舌王、か……)

 一介の高校生である俺にそのような肩書がついて早数か月――。生まれつきの三白眼のせいもあってか、やたらと不良どもに絡まれる毎日。そのたびにどうにか言葉だけで相手を退けてきたが、いい加減うんざりだった。

 通学路での騒動を終えると、大通りを経由して住宅地へと続く小径に入る。閑静な住宅地に人影はなく、カラスの鳴き声だけが夕焼けの空に響いている。季節は夏から秋へと移行し、時折吹きつく風にも心地のよい涼しさを感じられるようになった。民家の軒下に吊るされている風鈴が、終わりゆく夏を悲しむかのように泣いていた。

「おい! そこのお前!」

 神社の前を横切ろうとした瞬間、突然後ろから声をかけられた。反射的に後ろを振り向くもそこには誰の姿も見当たらない。

気のせいか? などと思いつつ、改めて家へと向かう。

「おい! どこへ行く! 止まらぬか!」

 一歩踏み出した途端、またもや何者かに声をかけられた。今度こそはと急いで振り返るも、やはり誰の姿も見当たらない。道の奥から、子連れの主婦らしき人物がこちらに歩いてくるのが見えたが、さすがにこの距離だ。声の主は彼女らではない。

「なんなんだ、一体……」

 正体不明の声に、多少の苛立ちを覚えながらも再び歩き出す。瞬間、

「ええい! いい加減にせぬか!」と、怒声にも似た声が後ろから飛んできた。

「いい加減にするのはそっちの方だろ! 誰からいるならさっさと出てこい! でないとぶっ飛ばすぞ!」


「――うむ、やはりどうしようもない言葉遣いよ」


 その声は、思ったよりも下の方から聞こえてきた。恐る恐る視線を足もとに向けると、俺を見上げるそいつと目が合った。

「綾瀬亮二だな? わらわは〝言葉の神様〟である。名をコトハと申す」

 ――巫女装束のぬいぐるみが喋っていた。

 なんなんだ、こいつは? なんで俺の名前を知っている? てか、こいつ今喋ったぞ!

 目の前の事象を現実として受け入れられない。

 困惑しながらも、ゆっくりとぬいぐるみに手を伸ばす。両手をぬいぐるみの脇に入れ、ためしに持ち上げてみると、予想よりもはるかにずっしりとした感覚が腕へと伝わった。

 はは……、最近のぬいぐるみはよく出来てんのな。なんて思うのも束の間、ぬいぐるみが唐突に俺の頭を殴った。

「痛って! 何すんだてめえ!」

 まるで本物の拳で殴られたかのようなその痛みに、思わず俺は吠えていた。

「お主こそ、神であるわらわに向かってなんたる口の利き方! 身の程を知れ!」 

「神様? 笑わせんな! 今どき誰がそんな話信じるかっての! てか、ぬいぐるみじゃないとするとなんなんだよ、これ? ラジコンか何かか?」

「だから言うておろう。わらわは――」

「ねえ、ママ! あのお兄ちゃん一人でお話してる!」

 ぬいぐるみが何かを言おうとした矢先、先ほどまで遠くにいたはずの子どもが俺に向かって指差すのが見えた。

 ちょっと待て……。今なんて言った? ――俺一人で話してるって言わなかったか?

「……こら、指差さないの!」

 母親と思しき女性が、何やら社交的な会釈をしてくる。

 待ってくれ! なんなんだ、その不審者でも見るかのような目つきは!

「おいこら! 離さぬか!」

 子どもの言葉を聞いた時点で嫌な予感はしていた。俺は、その予感が正しいかどうかを知るために、ぬいぐるみを片手に彼らへと近づいていった。

「あ、あの、何か用でも……」

 訝し気な表情を浮かべる女性に対し、俺は手に持っていたそいつをおもむろに前へと突き出す。そして一言、

「あの、こいつ見えますか?」と、俺は訊ねた。

「えっと……、その、すみません!」

 そう言い残し、女性は息子の手を取り駆け出した。去り際、子どもが母親に向かって「ねえママ! こいつって何? ねえ!」と、執拗に聞いているのが見えた。ついにはぬいぐるみまでもが「言い忘れておったが、わらわの姿はお主以外には見えておらぬぞ?」なんて言い出すから、俺は「ああ、これはそういう類の奴か」なんて一人納得する。

「お、おい! 今度はなんだ!」

 手もとでわめくそいつを尻目に大きく投げの構えを取る。肩なんぞいくらでも壊す覚悟で俺ははるか上空に向かってそいつを投げ飛ばした。

 絶叫が、夕暮れのしじまを引き裂く。

俺は、叫び声とは反対の方角に向かって全速力で駆け出した。

とにかく一刻も早く家へと帰って休まなければ! あれはきっと、学業の疲れが生み出した幻か何かに違いない! 

「はあ……、はあ……」

 自宅にたどり着く前に体力が底を尽きた。日ごろからろくに運動していないため、ここぞというときの体力がない。だが、自宅まではあと一歩だ。

 荒げる息を必死に抑えていると、背後から何やら叫び声のようなものが聞こえ、俺はその声につられるかのように後ろを――、

「たわけ者めええぇぇええぇぇぇ!」

 振り返った途端、顔面に草鞋が飛び込んできた。

「痛って! 何しやがる、てめえ!」

 地面に尻もちをつきながら、怒りに声を荒げる。見れば、先ほど投げ飛ばしたはずのぬいぐるみが、憤然とした様子で目の前に立っていた。

「それはこちらの台詞じゃ! お主、わらわをなんだと思うておる! 言葉の神様だぞ!」

「へっ! 何が言葉の神様だ! てか、なんで俺に付きまとう! いい加減、どっかに消えろ!」

「そうはいかぬ! わらわは言葉の神様としてお主のその汚い言葉遣いを正しにやって来たのじゃ! よく聞け、綾瀬亮二! わらわは今からお主にある制約をかける。それによりお主の言葉は確率によって支配されるであろう!」

「……確率に支配だ?」

 相手の言葉を反芻した途端、ぬいぐるみの雰囲気ががらりと変わった。先ほどまでどこか気の抜けたゆるい雰囲気をまとっていたそいつが、一瞬で厳格なそれへと変わっている。気のせいか? 何やら後光のようなものまで見える気がした。

「よいか! その身にかけられた制約を解きたくば、自身のこれまでの言葉遣いを悔い改め、言葉の大切さについて思慮せよ!」

「だから一体、なんのことを――消えろ!」

 瞬間、俺は自身の耳を疑った。俺は今、なんて言った? 消えろと言ったのか? いや、違う! 俺はそんなこと言っていない! 

 自分の口から飛び出した言葉に、俺はひどく困惑した。

 落ち着け! 今のはきっと何かの間違いだ! もう一度奴に訊ねろ! 一体、なんのことを言っているのかと――。

「ありがとうございました!」

 続けて飛び出した言葉に、俺の頭は完全に真っ白になった。――言葉が違う。俺が言いたい言葉と、実際に口から飛び出したそれとが。

「うむ、どうやらうまくかかったようじゃの。ふふ、それにしても、ここで礼を言うとはなんとも皮肉なことよのう。思わず笑ってしもうたではないか」

 もはや戸惑うことしかできない俺に向かって、巫女装束のそいつが不敵な笑みを浮かべる。

「――では、始めるとするかの」

これが、自称言葉の神様なるコトハと《宮高の毒舌王》である俺の摩訶不思議な出逢いであった。


         2


 職員室を出たころには、すでに昼休みの半分近くが経過していた。俺はとりあえず飯だけでも食おうと教室へと向かうのだが、現代文での失態を思うと足取りは重い。あれじゃあまるで宮校の毒舌王なる肩書きを皆に知らしめているかのようだ。

「どうした? 叱られて気でも滅入ったか?」

 すべての元凶であるくそ野郎が、ムカつく笑顔で話しかけてくる。自称言葉の神様なるコトハは、俺の左肩に掴まり動こうとはしない。まるで地縛霊にでも憑りつかれた気分だ。

「……誰のせいでこうなったと思ってんだ。てか、さっさとこの忌々しい制約とやらを解きやがれ!」

「それはできぬ。お主が自身の言葉遣いを悔い改めるまでわな。それにだ、こうなったのはお主の判断によるもの。わらわの責任ではない」

 痛いところを衝かれ、口ごもる。今更ながら、どうしてあのような馬鹿な勝負に乗ってしまったのだろうか。

「ふふ、それにしても何度思い返しても笑えるのう」

 一時間前の俺の姿がよほど面白かったのか? コトハがくつくつと笑い始めた。その五秒後には「くつくつ」が「がはがは」に変わるから余計にムカつく。

 こいつが俺の目の前に現れて今日で三日目。自らを言葉の神様と名乗るコトハは、出会って早々俺にある制約をかけた。それが「確率による言葉の支配」――だ。この制約により、俺の言葉は確率によって支配され、パーセントに置き換えられた過去の言葉たちが俺の意志とは関係なく発せられてしまう。たとえ俺が「ありがとう」と口にしたところで、その言葉は制約によって瞬時にべつの言葉へと変化してしまう。これが、現代文での失態の真相だ。過去の発言率で俺がもっとも多く口にした言葉は「消えろ」の一言。そのため、今俺が何かを言おうとすれば、高確率でこの言葉が出てきてしまう。

「どうじゃ? 少しは言葉のありがたみというものを理解できたかえ?」

「うるせえ」

 ちなみに、どうゆうわけかコトハとだけは正常に会話することができた。まあ、こいつと話したところで腹が立つだけなのだが。

「……おい、毒舌王の帰還だぞ」

 教室に戻った途端、生徒たちのひそひそ声が耳に届いた。普段なら気にも留めない会話であったが、なにぶん今は腹の虫どころが悪い。気づけば俺は、自然と彼らへと歩み寄っていた。

「な、なんだよ……」

 竦む生徒の肩を両手で掴む。そして、なるべく凄みを出して一言、

「買って買って! 買って! ねえ、買ってってば!」

 目を丸くする男子生徒を見て、思わず俺は両手で口を塞いだ。苛立たしさのせいで、すっかりと制約のことを忘れていた。とにかく、この場を離れたほうがいい。と、その前に弁当箱。

「……なんだったんだ、今の」

「……分かんなけど、お前なんか買ったほうがいんじゃないか? じゃないとひどい目に遭うぞ」

 生徒たちの会話を耳にしながら、俺は教室を飛び出す。おそらく今のは子どものころの言葉だろう。小さいころ、俺はよく母親に物をねだっていた。母子家庭で貧乏だった家は、必要な物以外買う余裕なんてなかった。だから、ねだったのだ。

 途方に暮れながらも、俺は屋上に続く階段を上って行った。言葉の制約で厄介なのは、一度口にした言葉は必ず最後まで言わなければならないという点だ。コトハ曰く、口に出された言葉がどこで途切れるかはまったくのランダムということらしい。制約によって出された言葉はその瞬間のシチュエーションを再現するらしく、途中で止めるには両手で口を塞ぐなどの力ずくが必要だった。

 ともあれ、ようやく昼飯にありつける。俺の通う高校は生徒による屋上への行き来が自由で扉は常に開いていた。ただし、誰も近寄ろうとはしない。周囲を二メートル強のフェンスで囲まれたその場所は「毒舌王の住処」として恐れられているからだ。

 わざわざ猛獣に会いに来る奴なんていやしない――、なんて思いつつ、俺は屋上の扉を開けた。瞬間、驚きに足を止める。――先客がいた。

 屋上の真ん中でぽつんと座る女子生徒は、俺の姿を見るなり慌てた様子で立ち上がった。床に広げた弁当を見る限り、どうやら昼食の最中だったらしい。

「あ、あの、その、わたし、その……」

 森の中で熊にでも遭遇したかのような反応だった。

 彼女のことは知っていた。確か同じクラスの大和田のり子という生徒だ。普段からあまりぱっとせず、教室では常に一人でいる印象だ。もちろん、俺との接点などあるはずもなく、ゆえに彼女がここにいる理由も分からない。

「あ、あの、ごめんなさい! ここが綾瀬くんの住処だってことは知ってたんだけど、た、たまには外でご飯を食べるのもいいかなって……」

 黙りこくる俺に向かって、大和田がたどたどしくも言い訳を口にする。どうやら彼女は、ここがどうゆう場所であるかを知ってるらしい。それにしても、もっともマシな言い方はないのか。

「あの、邪魔だよね……」

 栗鼠のような丸い瞳が、不安そうに下から覗き込んでくる。べつに邪魔というわけではなかったが、気まずくないと言えば嘘になる。

 迷った挙句、俺はかぶりを振った。もとより、俺はここが自分の住処だなんて思っちゃいない。確かに一人でいられることは都合のいいことだが、だからといって独占する気もさらさらなかった。

「あの、わたし大和田のり子って言います。その、綾瀬亮二くんだ、ですよね?」

 唐突に大和田が自己紹介を始める。二年も同じクラスだというのに何を今さらとも思ったがよくよく考えてみれば話すのはこれが初めてだった。だが、こうした「はい」か「いいえ」で答えられる質問はありがたい。今の俺には、彼女に返事をすることができない。それどころか文字を書く・打つなどの行為による意思疎通も不可能だった。こちらも言葉同様に、書いたり打ったりした時点でべつの言葉へと変換されてしまう。また、書籍などを使って文字を指し示すことも無理だった。これに至ってはもはや怪奇現象と言っても過言ではなく、そうした行為をするたび、文字の消失や文字化けといった現象が相次いだ。残された手段としては絵を描くかジェスチャーぐらいだろうが、生憎、俺には絵心がなかった。

 大和田の質問に首を縦に振ると、俺は屋上の片隅へと移動した。すると、どうゆうわけか彼女までもが床に広げた弁当箱を手に持ち俺の後へとついてくる。

 おい! なんで俺の隣に座る! 食べるなら、一人で食べればいいだろ! と、こころの中で不満を垂らすも、当然彼女には伝わるはずがない。結局、俺たちは昼休みが終わるまでの間を終始無言で過ごしていった。

 予鈴が鳴り響く。すでに昼食を食べ終えていた大和田が一足先に屋上の出口へと向かうも、なぜだかその歩みが途中で止まる。そして、やおらこちらを振り向くと、

「あの! わたしと友だちになってください!」と、爆弾発言をした。

 空を突き抜けるかのようなその声に、と胸を衝かれる。

 友達になってくれ? 冗談じゃない! 俺に友だちなんて必要ない! 絶対にだ! ここは是が非でも「消えろ」と返事をしなければ! 彼女は傷つくかもしれないが、俺なんかといたらそれこそひどい目に遭ってしまう。

「あざ~す」

 気だるそうな言葉が、俺の口から洩れる。その言葉に、大和田は太陽のような笑顔を浮かべるのであった。


         3


「綾瀬くん! 一緒に帰ろ!」

 帰りのホームルームが終わるや否や、大和田が俺へと話しかけてきた。言われた本人もびっくりしたが、何よりも周りの生徒たちが驚いている。このクラスで俺に話しかけてくる奴は珍しい。それこそ、何かやむを得ない事情がない限り誰も話しかけようとはしてこない。

 予想外の出来事に、俺は本日二回目の逃走を余儀なくされた。

「綾瀬くん、待って!」

 校門を抜けたところで大和田に呼び止められた。初めは無視しようとも思ったが、やめにした。このまま何もしなければ、いつまでもついてきそうだったからだ。とにかく、俺たちが一緒にいるところを見られるのはまずい。まずはどこかに移動しなければ。

 大和田と話をするため、俺は住宅地にある神社へと足を運んだ。都合のいいことに、境内には誰の姿も見当たらない。

「綾瀬くん……」

「消えろ!」

「え……?」

 唐突な一言に、大和田が動揺の色を浮かべる。

「えっと、その……」

 言葉の意味を理解できないのか? それともどう返事をすればいいのか分からないのか? 大和田が返事に詰まる。見れば、彼女の瞳が潤んでいるのに気づいた。

 罪悪感がこみ上げる。できることなら、俺だってこんなことは言いたくない。だが、仕方がないのだ。本当に彼女のことを想うのなら、突き放す以外に選択肢はない。

「あれ? 王様じゃねえか?」

 嫌な沈黙が続く中、鳥居の向こうから何者かに声をかけられた。制服を着崩し、皆が同じように髪を明るく染めているそいつらは、うちの学校では少しばかり名の知れた不良どもであった。

「何、王様? もしかして逢引きしてんの? ねえ彼女、こんな奴と一緒にいないで俺たちとカラオケにでも行かない?」

「その、やめてください……」

 男子生徒の一人が嫌がる大和田の腕を引っ張る。無意識のうちに、俺はそいつの肩を掴んでいた。

「なんだよ、王様? いいじゃん少しぐらい。べつに彼女ってわけでもないんだろ?」

「消えろ、くそ野郎!」

 高確率とあってか、同じ言葉連続して出た。普段ならこの一言で終わるはずの争いが、どうゆうわけか今回に限っては効果を示さない。

「なんだよ、王様? いつもに比べててんで迫力がないじゃんかよ!」

 言葉を言い終わると同時、男子生徒の拳が俺の顔面に打ち込まれた。

「綾瀬くん!」

 地面に膝をつく俺に向かって、大和田が悲痛の叫びを上げる。何かがおかしい。どうして奴らは俺の言葉に動揺しないんだ?

 そうこうしている間に、男子生徒たちが大和田を連れて行こうとする。あれこれ考えている暇はなかった。とにかく、大和田だけでもどうにかして逃がさないと。

「てめえに用はねえんだよ!」

 相手に掴みかかるも、逆に殴られてしまう。衝撃と痛みによろめき、相手に向き合う暇もなく立て続けに拳を喰らう。ついには足を取られて地面に倒れると、男子生徒は馬乗りとなって俺の顔を殴り続けた。

「おいおい? なんだよ、こいつ! めちゃくちゃ弱えぞ! これが本当にあの宮校の毒舌王かよ?」

「……消えろ」

 意識がもうろうとする中、かろうじて言葉を呟く。こんなとき、相手を殴れればと思う。だが、俺は人を殴らない。それは絶対だ。

「もうやめて!」

 殴るのに飽きたのか? 大和田の叫びを聞いた男子生徒が俺から離れる。このままおとなしく消えてくれればいいのだが、奴らは彼女を解放する気はないようだった。

「……消えろ、くそ野郎」

「ああ?」

 よろめきながらも、俺はゆっくりと立ち上がった。連れてなど行かせない。もう二度と、俺のせいで誰かが傷つくのはごめんだ!

「しつけんだよ、雑魚が!」

 男子生徒が俺の胸倉を掴む。正直、もう立っているのも辛かった。だが、倒れるわけにはいかない。言え、言うんだ。こいつらを屈服させるだけの言葉の暴力を――。

「――お父さん! お母さんを殴らないで!」

 刹那、自分の口から飛び出た言葉に俺は動揺を隠せずにいた。

「おいおい! なんだよ、こいつ! 殴られすぎてどうにかなっちまったんじゃねえのか? 悪いがな、俺はてめえみたいなくず野郎の父親じゃねえんだわ!」

 今までで一番の衝撃が顔に走った。意識を刈り取るその拳に、俺は膝から崩れるようにして地面に倒れこむ。間髪いれずに、男子生徒が俺の身体を踏みつける。もう、何も分からなかった。ただ、大和田が泣き叫ぶ声だけが聞こえる。そのとき――、

 突然、辺りに靄か何かが立ち込めたかと思うと、そこから見覚えのある人物が姿を現した。巫女装束を身に纏い、絹のような黒い髪を腰まで垂らすそいつは、コトハに間違いなかった。だが、その身丈は大人の女性ほどの大きさをしている。

 コトハが、男子生徒たちを睨む。

「誰だ、てめえ? ここの巫女か何か?」

「そのようなことはどうでもよい。わらわが用のあるのはそこで倒れているそやつじゃ」

「は? 何言ってんのお前? 関係のない奴は引っ込んでろ!」

「黙れ」

 コトハの一言に、男子生徒はぴたりと口を閉じた。

「本来ならば、このような汚い言葉など使いたくはないのだがな。生憎、そこに倒れているそやつは今わらわの監視下にある。邪魔させてもらうぞ」

 コトハの雰囲気に気圧されながらも、男子生徒が彼女に掴みかかろうとする。


「――失せろ」


 その一言で、すべてが決した。

 コトハの言葉に、男子生徒は顔色蒼然たる様子で一目散にその場から逃げ出した。一体、何が起こっているのか?

「綾瀬くん! 綾瀬くん!」

 大和田が泣きべそをかいている。俺はふらつきながらもどうにか立ち上がると、何も言わずにその場をあとにした。

「追うな!」と、コトハの声が後ろから聞こえた。おそらく、大和田を止めたのだろう。癪だが、今回だけは奴に感謝しなければならない。同時に、改めて痛感した。俺は誰とも仲良くなってはならない。――俺に、友だちは必要ない。


         4


「今日も来るかの? あの娘」

 昼休み――、屋上でコトハにそう聞かれ、俺は「さあな」と曖昧な返事をする。昨日の件以来、俺は大和田とは一言も口を利いていない。休憩時間、彼女は何度も俺に話しかけようとする素振りを見せたが、昨日のことを気にしているのか? 結局、一度も話しかけてくることはなかった。

「……コトハ」

「なんじゃ?」

「昨日は、ありがとな」と、昨日とはうって変わって小さな姿をしたコトハにお礼を述べる。

「うむ、どうゆう風の吹き回しだ?」と、いつも通りの皮肉めいた発言が返ってきた。そんなコトハの態度が、今の俺には妙に心地よかった。

「なあ、一つ聞いていいか?」

「なんじゃ?」

「どうして、俺なんだ?」

「何がじゃ?」

 質問の意味が理解できないのか? コトハは小さく首をかしげた。

「だから、どうして俺に限って制約をかけた? 確かに俺は口が悪い。だけど、この世には俺なんかよりも口の悪いやつなんてごまんといるだろ?」

 これは、前々から気になっていたことだった。俺が口の悪いことは認める。それこそ、宮高の毒舌王なる二つ名を付けられるほどに。だが、俺は「消えろ」とは口にするが、死ねなどの言葉は決して口にしない。だが、世の中にはそうした言葉を平然と口にする輩だっている。なら、俺なんかよりも先にそいつらをまず粛清するべきではないだろうか。

「お主は、――言霊、というものを知っておるか?」

「言霊?」

 どこか聞き覚えのある言葉を俺は反芻した。言霊、言葉の響きを聞く限り、何やら神霊的なものを感じる。

「言霊とは主に、その者の持つ言葉の力を意味する。言霊の力が強ければ強いほど現実の事象に対する影響力も増していく。お主は、その力が人並み外れて強いのじゃ。不思議に思ったことはないか? お主はこれまで一度も拳による喧嘩をして来なかったと言った。小生意気な輩に絡まれてはそのたびに言葉の力だけで相手を退けてきた。まるで、昨日のわらわと同じようにな」

言われて気づいたが、確かにそうだ。今までは、不良どもは俺の容姿と啖呵に怖気づいただけだと思っていたが、虚勢だけの奴ならまだしも腕っ節に自信のある奴までがそうであるというのは確かにおかしい。

「先も言ったが、お主の他者に対する言葉の影響力は多大じゃ。それこそ、消えろの一言だけで相手を退けてしまうほどにの。唯一の救いだったのは、お主が底抜けの莫迦ではなかったということ。万が一、お主が死ねなどの言葉を口にしておったら本当にその者の命を奪っておったかもしれん」

「俺に、そんな力が……」

「現在、お主の言霊の力は制約により抑えられておる。ゆえにこれまでと同じと思うな。今のお主の言葉に、不良どもを退ける力はない」

 それで昨日の事態に繋がるというわけか。俺は今まで無自覚のうちに言霊の力を行使していたのだ。そのおかげで、俺は相手に手を出すことなく今日にまで至れたというわけか。

「今度はこちらから一つ聞いても良いか?」

「なんだよ?」

「どうしてあのとき、手を出さなかった?」

 あのときとは、昨日の不良ども相手にという意味か? そのことについてはあまり話したくはないのだが、助けてもらっておいて話さないわけにもいかない。

「うちは母子家庭なんだよ。つっても、小学校を卒業するころまでは俺にも父親がいたんだ。この父親がどうしようもないクズで、毎日酒を飲みゃお袋を殴ってた。俺はガキで何もできなくてただ悔しくて毎日泣いていた。今じゃ離婚して親父とは縁を切ったんだけどな。とにかくだから俺は人を殴らない。確かに俺はあいつの子どもだ。だけど、俺はあいつとは違う」

人を殴ろうとすると、親父の姿を思い出す。そのたびに嫌悪感が走った。俺の身体にもあいつと同じ血が流れていると思うと、それだけで吐き気がした。俺はあいつの子どもだ。それは変えようのない事実だ。だが、俺はあいつのようには決してならない。なってたまるものか。

「それなのに、学校に来るたびに絡まれてばっかだ。恨んだよ、あいつと同じ悪人面に生まれてきた自分の姿を。気づけば、俺には「毒舌王」なんていう肩書きがついていた」

 人を殴ることができない俺が武器として選んだのは言葉だった。言霊の力により、俺は無意識のうちに言葉だけで相手を退かせてきた。なのに、今じゃその力さえも制約により失われている。

「よいか、亮二。言葉は他者を傷つけるためにあるのではない。他者や自分を救うためにあるのじゃ。言葉一つで世界は変わっていく。だからお主も――」と、突然コトハが話すのを止めた。見れば、屋上の入口に大和田の姿があった。

「あの、綾瀬くん……」

 大和田が口を開くと同時、俺は地面から立ち上がりその場を去ろうとする。

「行かなくていいから! わたしが邪魔なら、わたしが消えるから! だから、綾瀬くんはここにいて……」

 落ち込んだ様子で、大和田が来た道を引き返していく。そんな彼女の小さな背中に、俺は一度だけ大きく手を鳴らす。

「……綾瀬くん?」

 できれば関わりたくはないが、このまま突き放すのも酷な気がする。それに、前から大和田には聞きたいことがあった。それを聞くのに丁度いいと思えば、自然とこころが楽になる。いや、それは単なる言い訳かもしれない。

 俺は、自分の顔を指差した。

「えっ? 何?」

突然の行動に、大和田は困惑とした表情を浮かべる。言葉を言うのも書くのも駄目だというのならば、俺に残された手段はジェスチャーしかない。大和田の言葉に小さく頷くと、俺は再び自身に向かって指差した。

「綾瀬くん?」

 俺が何かを伝えたいことを悟ったのか? 大和田が俺のジェスチャーを読み取ろうとする。そんな彼女に向かって俺は、両方の手のひらを上に向けた。ちょうど、外国人が疑問を示すかのように。

「分からない?」

言葉の意味とは裏腹に、俺の伝えたいことはちゃんと伝わっているようだ。この調子を崩さないよう、今度は彼女に向かって指差す。

「わたし?」

 最後に俺は、自分の手を口の前で閉じたり開いたりした。

「喋る?」――惜しい。言葉のニュアンスは近いが喋るではない。

「もしかして、どうしてわたしが綾瀬くんに話しかけたかを聞きたいの?」

 伝えたいことがようやく伝わり、俺は首を縦に振った。

「それは、その、綾瀬くんとお友だちになりたかった、から……」

 友だちになろう――、俺に向かってそんなことを言ってきたのは、大和田で二人目だった。過去には俺にも友だちと呼べる奴がいた。そいつは俺の容姿を少しも怖がることなく接してくれた。嬉しかった。それなのに、俺はそいつを傷つけた。

 中学生のころ、俺とそいつは学校でもプライベートでもいつも一緒だった。好きな歌手が一緒、好きなプロ野球チームが一緒と、とにかくそいつとは気が合った。ある日、同じ中学の上級生たちが俺に喧嘩を売ってきた。そのころにはすでに、俺の目つきと口の悪さは生徒たちの間で周知の事実となっており、今ほどではないが絡まれることが多かった。俺は、絡んできた生徒たちを言葉により一蹴した。――のだが。

 面目を潰された上級生たちの怒りの矛先は、俺ではなく友人であるそいつへと向けられた。友人は俺の知らないところで上級生数人に袋叩きに遭い、屈辱的な写真も撮られ、それらは間もなく学校中に流出した。誰もがその友人をあざ笑い、同時に哀れみの視線を送った。そいつは、学校を辞めた。俺のせいで学校を辞めた。謝った。謝り続けた。泣いて、叫んで、報復してやるとまで吐き捨てた。そんな俺に友人であるそいつは、ただ一言「やめろ」と言った。そして、彼は学校を去って行った。それきり、彼とは会っていない。しばらくは向こうの方からメールによる連絡を寄越してきたが、俺が返事をすることはなかった。それからだ、俺が他人との距離を取り始めたのは。誰かに話しかけられても暴言により突き放す。もう二度と他人との関わりを作らないよう努力した。間違えれば、第二の友人を生み出してしまう。


「わたしね、昔から引っ込み思案で友だちとか全然作れなくて。でね、どうにかして友だちを作ろうと思ったんだけど、周りのみんなはもう仲の良い子同士でグループを作ってて。でね、前から綾瀬くんに声をかけてみようかなーなんて思ってたの。綾瀬くん、口では酷いこと言ってるけど、本当は優しい人だって知ってたから。この前だって、他の生徒にいじめられてた子を助けてたし。それに……、相手に酷いことを言うときの綾瀬くん、いつも悲しそうにしてたから……」

 悲しそう――か。もしかしたら、そうだったのかもしれない。本当は、こころのどこかで他人との繋がりを求めていたのかもしれない。寂しかったのかもしれない。

「でも、綾瀬くんが嫌ならしょうがないよね……。だから、わたし行くね」

 正直、彼女にどう応えてあげればいいのか分からなかった。素直に友だちになろうと言えばいいのか? それとも今までどおり冷たくあしらえばいいのか。だが、やはり過去の出来事が脳裏をちらつく。また昨日みたく大和田に危険が迫るのだけは嫌だ。

 立ち去ろうとする大和田の肩をそっと掴む。さんざん迷った挙げ句、俺は一つの答えを導き出した。それは、とても勇気のいる選択だった。

先ほどと同じように、俺はジェスチャーにより意思疎通を試みる。

「え?」

 屋上の床を指差す俺に、大和田が首を傾げる。俺は、自分と大和田とを交互に指差し、再び屋上の床を指し示す。オーケーサイン出したり、外の景色を指差しバツ印を作ったりと、どうにかして自分の考えを彼女に伝えようとした。

「屋上にいる間だけ、友だち……ってこと?」

 奇跡的に思いが伝わり、大きく頷く。

「屋上にいる間は、わたし綾瀬くんと友だちでいてもいいの? 本当に!」

「消えろ、くそ野郎」と、思わず返事をしてしまった。ああ、というつもりが、またしても余計なことを口にしてしまった。俺の言葉に、彼女が落ち込んでいないかと心配するも、どうやら杞憂に終わったらしい。彼女はすでに夢心地だ。

 大和田の喜ぶ顔に、なんだかこっちまで照れくさくなってきた。俺は、高まる気持ちを抑えるために深呼吸をした。肺へと流れ込む空気が清々しい。見飽きたはずの屋上の景色が、いつもと違って見えるのは気のせいか?

 屋上限定の友だち。まずはそこから始めてみようと、俺は思うのであった。


         5


「じゃあ、昼休みにね」

休憩時間が終わりに近づき、体操着姿の大和田が明るい声で俺にそう告げる。春の陽射しを浴びた花のように陽気な彼女に、俺は屋上の地べたに寝転んだまま軽く手を振った。それにしても、いくら屋上限定の友だちだからといって体育の授業の前にまでやって来なくてもいいのに。というか、今からグランドに向かって間に合うのか?

 俺の心配をよそに、大和田はあくまでもマイペースを貫いていた。ゆったりとした動作で屋上の出口へと向かうと、最後にもう一度だけ俺に向かって手を振った。笑顔はいいから早くグラウンドに向かえ。――なんて言えない俺は、催促するように小さく手を振る。ちなみに、俺はこのまま授業をサボるつもりだ。主に集団プレーを要する体育の授業は、俺がもっとも苦手とするものの一つだった。俺がチームにいるだけで場の空気が悪くなる。それなら、こうして清々しい青空の下、気持ちよく昼寝でもしていたほうが何倍にも有意義だ。

「どうにかうまくやっとるようじゃの」 

 大和田のいなくなった屋上に、コトハの声が響く。見れば、俺のすぐとなりでコトハがちょこんと足を前に出して座っていた。毎回思うが、こいつは一体どこに消えてどこからやって来るのか?

「まあ、それなりにな」

 コトハの言葉に、俺はにべもなくそう答えた。

「どうじゃ? そろそろあの娘とも、ちゃんとした言葉でのやり取りがしとうなってきたのではないか?」

「そう思うんなら、さっさと制約を解け、くそ神様」

「まったく、お主はまだそのような減らず口を――。まあ、よい。お主にもそのうち分かるはずじゃ。本当に伝えたい言葉というものがな」

 それだけ言うと、コトハの姿は景色に溶け込むようにして消えてなくなった。一体、何しに来たんだ?

本当に伝えたい言葉、か……。どういう意味だろうか? 確かに制約を受けてからというもの他人との会話によるコミュニケーションは無理となった。しかし、人間の順応力というものは大したもので、言葉が使えないなら使えないで身振り手振りを使ってどうにかその場を乗り切ってしまう。それに、もともと俺は他人との関わりが極端に少ない。今でこそ大和田と屋上限定の友だちとしてささやかな交流をしているが、それだけなら言葉なしでもどうにかなることのほうが多い。

〝言葉の大切さについて思慮せよ〟――コトハと最初に出会った日、あいつは俺にそのようなことを言った。言葉の大切さ、本当に伝えたい言葉。その言葉の意味を、俺はまだ理解できない。いや、本当はなんとなくだが理解はしている。ただ、それがどういうことか説明しろと言われたら、返答に困る。


「綾瀬くん!」

 昼休みになると、大和田がその手に弁当箱を持ってやってきた。気になるのは、弁当箱の数が二つあるという点だ。

「あのね、今日、その、綾瀬くんのお弁当も作ってきたの。でね、よかったらその、食べてくれると嬉しいかな、なんて……。あっ、でも嫌なら全然断ってくれてもいいから。綾瀬くん、自分のお弁当もあるだろうし、わたしなんかが作ったお弁当なんてきっと口に――」

 自虐的な発言をする大和田をよそに、俺は彼女の持っていたお弁当のひとつに手を伸ばす。すると、大和田の表情がぱっと明るくなった。

「あのね! 美味しくなかったら無理しなくても大丈夫だから!」

 よほど味に自身がないのか? 大和田が念を押すように何度も同じことを言ってくる。仕方なく、俺は味のハードルをほんの少し下げることにした。というか、作って来てくれただけで充分満足なのだが。なんて思いつつも、俺は弁当箱の蓋をそっと開けた。途端、俺の驚きが下げ過ぎたハードルを軽く飛び越えていった。目を見張るのは、その色彩豊かな見た目。花形に切られたにんじんや艶やかな厚手の卵焼きなど、赤や黄色といった四色以上もの色が箱の中身に華やかさを生んでいる。普段俺が好んで食べる茶色系統一色の弁当とは似ても似つかない。

「いただきます! ほらっ、綾瀬くんも」と、大和田がにこにこしながら両手を合わせる。そのようなことを言われても困る。「いただきます」という言葉は比較的発言確率の高い言葉ではあるが、絶対ではない。もしもあやまって「消えろ」などと口にしてしまえば、大和田にまたもや変な誤解を与えてしまう。だが、言わなければ言わないで大和田が納得するようにも思えない。仕方なく、俺は大和田を真似て両手を合わせる。そして、

「――ごちそうさまでした!」と、俺の口から言葉が飛び出す。って、まずい!

「えっ? まだ一口も食べて……」と、大和田が悲しそうな表情を浮かべると同時に、俺は彼女の手作り弁当を口の中へとがむしゃらに掻き込んだ。途端、飯が喉に詰まって咳き込んでしまう。

「あはは! そんなに急いで食べなくてもいいのに。大丈夫? 味付けとか間違えてないかな?」

 彼女の問いに、俺は渾身のグーサインを送る。てか、お世辞なしに本当にうまい。

「よかった~。朝早く起きて作った甲斐があったよ! って、わたしも食べよ」

 照れ笑いを浮かべながら、大和田が自分の分の弁当に箸をつけていく。

昼食を食べ終えると、俺たちはいつものようにたわいのない会話でときを過ごした。と言っても、話すことのできない俺は聞き役に徹するしかないのだが。

 相槌ばかりのコミュニケーションにも、大和田は笑顔でいてくれた。

「ほらっ! 綾瀬くんも行かないと!」

 予鈴が鳴り、大和田が俺に授業に参加するよう促してくる。仕方がない、少々面倒くさいがあまりサボってばかりいても教師に目をつけられるだけだ。ここは大人しく彼女の言うとおりにするとしよう。

 凝り固まった筋肉を解すかのように、一度だけ大きく伸びをする。って、こんな悠長にしている場合じゃない。急がないと、授業に遅れてしまう。

のんびりとする大和田を急かすようにして、俺たち二人はそろって屋上をあとにする。屋上を出ると、自分たちの教室を目指して渡り廊下を進んでいった。教室の近くまでやって来ると俺は大和田を先へと行かせた。少しタイミングをずらして入ったほうが何かと都合がいい。俺たちは、あくまでも屋上限定の友だちなのだから。

大和田に少し遅れて教室に入る。――のだが。

 教室に足を踏み入れた瞬間、室内がざわめいた。その場にいた生徒たちの視線が一斉に俺へと向けられる。居心地の悪い視線の中を行き自分の席にまでたどり着くと、この前、剛田をカツアゲしていた岩瀬の一人が俺のところにやって来た。こころなしか、岩瀬の表情が怒って見える。

「おい! 出せよ、俺の財布!」

 突然そのようなことを言われ、理解が伴わない。財布? こいつは一体、何を言っているのか?

「てめえが俺の財布を取ったんだろ!」

「綾瀬くん……」そのとき、岩瀬の後ろから不安そうな表情をした大和田がやって来た。彼女の話によると、岩瀬の財布が何者かに盗まれたという。

ことの発端は昼休み――。体育の授業が終わり、岩瀬が購買に昼飯を買いに行こうとしたとき、いつもなら鞄の中に入っているはずの財布がなくなっていたという。

「お前、四時間目の体育いなかったよな? そんときだろ? 俺の財布を盗んだのは!」

 岩瀬の発言に、周りがざわめく。言いたいことは分からなくもないが、それだけで俺を犯人扱いするのはどうかと思う。

「綾瀬くんはそんなことしないよ!」と、大和田が言う。

「どうだかな!」と、岩瀬が俺の机の中に手を入れた。そして、俺は目を見開く。机の中から見覚えのない財布が出てきたのだ。

「ほら見ろ! やっぱりこいつが盗ったんだ!」

 勝ち誇ったように、岩瀬が手に持つ財布を高々と掲げた。

「おい! 授業のチャイムはとっくに鳴っとるぞ! 早く席に……って、どうした? 何かあったのか?」

 最悪なタイミングで現代文の田中が教室へとやって来た。

「先生~、綾瀬くんが俺の財布盗んだんすよ!」

「何?」と、田中が訝しげな様子で俺たちのところまでやって来る。

「本当なのか? 綾瀬?」

 田中が俺を睨みつける。違う! 俺は犯人なんかじゃない! 財布なんか盗っていない! これは、何かの間違いだ!

そのとき、俺は岩瀬が小さく微笑むのを見た。こいつ……、まさか自分で。

「先生! 綾瀬くんはそんなことしていません!」

 再び、大和田が声を上げた。

「なんだよ、大和田? やけにこいつの肩を持つじゃねえかよ? そう言えば、お前体育の授業に遅れて来たよな? もしかしてお前もグルなんじゃねえの?」

 その言葉に、思わず俺は岩瀬の胸倉に掴みかかっていた。こいつ、どこまでも調子に乗ってやがる!

「なっ、なんだよ……。盗みの次は暴力か? てか、先生。もうこいつ退学でいいんじゃないですか? みんなだってそれを望んでますよ! こいつがいると、教室……、いや、学校全体の空気が悪くなんですよ!」

 岩瀬の提案に調子を合わせるようにして、他の岩瀬二人がそれに同意した。周りの生徒たちはひそひそと話し合い、中には大和田のことを悪く言う奴さえいた。なんだよ、これ……。なんなんだよ、一体!

 気持ちが高ぶり、思わず俺は岩瀬を突き飛ばした。

「やめんか! ばか者!」

 田中の怒声が響くと同時、俺はいても立ってもいられずに教室を飛び出した。来た道を引き返し、屋上へと向かう。屋上の扉を乱雑に開けると、給水タンク下のコンクリートの壁に向かって拳を叩きつけた。

「消えろ! 消えろ! 消えろ、クソやろう!」

 やるせない怒りを、野獣のようにただ吼え散らかす。誰が泥棒だ! 何が退学だ! 岩瀬の野郎、ふざけやがって! 何よりもムカつくのは、大和田を共犯者扱いにしたことだ! あいつがそんなことするわけないだろ! それなのに……、周りの奴らまで寄って集って大和田のことを! クソ! クソ! クソクソクソクソクソ!

「綾瀬くん!」

 少し遅れて大和田が屋上にやって来た。だが、俺は彼女に構うことなくコンクリートの壁を殴り続けた。拳の皮が裂け、血がにじみ出る。痛いはずなのに、どうしても止めることができなかった。やはり間違いだったんだ! 俺みたい不良が、昔みたく誰かと友だちになろうなんて思ったことが! そのせいで、大和田までもがひどい目に……。

「もう止めて! 綾瀬くん!」

 荒ぶる感情に悔し涙さえ流してしまいそうなそのとき、大和田が俺を後ろから抱きしめた。

「綾瀬くん! 駄目だよ! 手、怪我しちゃうよ……。わたし知ってるから、綾瀬くんは泥棒なんてしない! わたしからみんなに説明するから! ね? だからもう止めて!」

 大和田の訴えに、気づけば俺は殴るのを止めていた。力なく垂れた俺の拳を、大和田が労わるようにそっと握りしめる。彼女はスカートのポケットからハンカチを取り出すと、血だらけの拳にそれを巻いた。大和田が悲しみに咽ぶ。

俺は、何をやってるんだ……? 屋上でわめき散らして、馬鹿みたいに壁を殴って、挙げ句の果てには大和田に悲しい思いをさせている。こんなことをしている暇があるなら、もっと他にやれることがあるだろ! だけど、何を……? 今の俺には田中たちに弁解するための言葉がない。アリバイもなければ、無実を立証するための証拠もない。いや考えろ、考えるんだ! 言葉という武器を失った俺が、大和田のためにしてやれる最大限の努力を!

 ない頭を絞って、ようやく俺はひとつの答えを導き出した。

「……綾瀬くん?」

 何も告げずに屋上を去ろうとする俺に、大和田が当惑する。俺が大和田にしてやれること。ひとつだけあるじゃないか! もしかしたら停学……、いや、最悪退学だってありえるかもしれない。だが、そんなことはどうだっていい! このまま大和田が共犯者扱いされるのだけは御免だ! 

「んっ? 綾瀬、お前……」

 教室に戻って来ると、田中が表情を曇らせた。俺は、生徒たちの奇異な視線を浴びながら岩瀬の座る席へと向かった。

「なんだよ? 自分が犯人だって認める気になったのかよ?」 

 卑しい笑みを浮かべる岩瀬に、俺は拳を握りしめる。落ち着け! 俺がここにやって来たのはこいつと喧嘩するためじゃない。

手のひらに感じるハンカチのぬくもりにどうにかこころを落ち着かせ、俺は岩瀬に向かって頭を下げた。瞬間、室内に沈黙が流れる。

「はっ……ははっ、見たかよ! こいつ自分が犯人だって認めたぞ!」

 勝利を目の前にし、岩瀬が欣喜の声を上げる。

「綾瀬、本当にお前がやったのか?」

 田中の質問に、俺は動きを止めた。もちろん、犯人は俺じゃない。大方、今回のことは岩瀬自身による自演だろう。だが、俺にそれを立証する力はない。だけど、大和田の濡れ衣を晴らすことならできる。――認めればいい。俺が犯人だと。そのあとで、手振り身振り使って大和田は今回の件とは無関係だと訴える。それだけは、死んでも伝えてみせる。

「綾瀬くん!」

 俺の行動に、大和田が喫驚する。

「先生! 綾瀬くんは泥棒なんてしてません! 信じてください!」

 大和田が必死に田中へと訴える。――ありがとう、大和田。お前のためなら、俺はいくらでも濡れ衣を着せられてやる。

「綾瀬くんは、盗みなんてしていません!」

 そのとき、教室の隅で誰かが声を上げた。驚きながらもそちらへと視線を向けると、そこには剛田の姿があった。

「剛田てめえ! 何言ってんだ! たった今、こいつが自分で認めたじゃねえかよ!」

 まさかの発言に、岩瀬が怒鳴り声を上げる。

「何か知ってるのか? 剛田」と、田中が訊ねる。

「だって……」そう口ずさみながら、剛田が俺たちのもとまでやって来る。一体、何をするつもりなのか?

「綾瀬くんの机の中に入っていたあの財布、あれ、僕のですから」

 剛田の発言に、その場にいた者のほとんどが目を丸くした。 

「はっ? 何言ってんだ、お前! これは俺の財布だ!」

「証拠だってある!」

 剛田の強気な発言に岩瀬が少しだけ怯む。証拠って、あの財布はお前のじゃないだろ! 

 通学路の一件で、俺は剛田の財布を目にしている。だから、机の中に入っていた財布が彼のではないことは明確だった。

「実は僕、しょっちゅう他の生徒たちからカツアゲされるんです。でもお昼のお弁当を買わなきゃならないから財布を持ってこないわけにはいかないし……。そこで僕、お金を盗られた際にその生徒を訴えられるよう事前にある準備をしておいたんです。それがこれです」

 剛田はおもむろにズボンのポケットから携帯を取り出すと、みなに画面を見るよう促した。そこには、携帯のカメラで撮ったと思われる一枚の画像が表示されていた。

「これは、札番号か?」

 画像を見た田中が独り言ちる。アルファベットと数字が記載されたその画像は、まさしく札番号のそれに間違いなかった。

「財布の中身を確認してもらえれば一目瞭然です。実は今日もまた、ある生徒に財布を盗られたんです。それを、綾瀬くんが僕のために取り返してくれたんです。だから、綾瀬くんは犯人なんかじゃない! あれは、僕の財布なんだから!」

「おい、剛田! ふざけたこと抜かしてんじゃんねえぞ!」

「いっ、岩瀬くんこそ、いいの? もしもここであの財布が自分のものだって主張すれば、どうして君の財布の中に、僕のお金が入っているのか問題になるよ?」

 剛田の返答に、岩瀬は二の句が継げないでいた。

「盗られた僕の財布を綾瀬くんが取り返してくれた。先生、それだけのことなんです」

瞬間、俺は安堵のため息を吐かずにはいられなかった。――助かった。剛田のおかげで俺と大和田の濡れ衣がすべて晴れた。

俺は、感謝の意を表すため剛田に深々と頭を下げた。

「顔を上げてよ、綾瀬くん。僕からしても、この前のお礼ができてちょうど良かったんだ」と笑顔でそう言ってくれる剛田に、俺は無言のままただただ頭を下げ続けるのであった。


         6


 夕暮れ――、間延びしたカラスたちの鳴き声が人々の住む町を夜へと誘っていく。太陽はすでに山の稜線に沈み、茜色の空にはいくつもの雲影が目に見えた。通りに軒を連ねる民家の一つから夕飯と思われる芳しい匂いが香ってくる。こうした景色に、ときおり俺は漠然とした懐かしさを感じる。

「でも良かったね! みんなにもちゃんと分かってもらえて!」

 俺と肩を並べて歩く大和田が、嬉しそうに微笑む。もしもあのとき剛田がいなかったらと思うと、今さらながらゾッとする。事件は無事に解決できた。……だけど。

「あー! また綾瀬くん。独りで悩んでる」

 こころを見透かされたのか? 大和田の言葉に思わずどきりとする。

「もしかして、今日のことでわたしに罪悪感なんか抱いてる?」

 普段はのほほんとしているくせに、こういうときだけはやたらと勘が鋭い。だが、彼女の言うとおりだ。正直、今でも迷っている。このまま大和田と友だちでいていいのかと。

「綾瀬くんが罪の意識を感じる必要なんて全然ないよ! 騒動は無事に治まったんだし、それにわたしたち友だちだもん! 困ったときは助け合わなくちゃ!」

 友だち――、大和田は、まだ俺のことをそう呼んでくれた。

「でもね、どうしても罪の意識が消えないって言うなら、一つお願いを聞いてもらってもいいかな? それで今回の件はチャラにしようよ!」

 大和田が俺にお願いだなんて、一体どういった要件だろうか?

「あのね、一度でいいからね、わたしのこと、名前で呼んでほしいの」

 名前――、今になってようやく気づいた。俺は、大和田のことをまだ一度も名前で呼んだことがない。できることなら、彼女の頼みに応えてやりたい。いや、名前だけじゃない、俺は彼女に伝えなければならない言葉がある。だけど、今の俺には――。

「あははっ、ごめんね。こんなこと言ったら綾瀬くんを困らせちゃうよね! 今のなし。気にしなくていいよ!」

 押し黙る俺に、大和田の表情がわずかに沈む。彼女は何事もなかったように数歩先に進むとそのまま石畳の上を歩いていく。後ろから見た彼女の背中はとても小さく、こころなしか寂しげに思えた。また、彼女を悲しませてしまった。

どうにかして言ってやりたい。彼女の名前を。クソ! いつになったら俺の言葉は戻ってくる。いつになったら、俺は大和田に自分の気持ちを伝えられる。

 ――本当に伝えたい言葉。今なら分かる気がする。あのとき、屋上でコトハが言った言葉の意味を。

俺は、その場で立ち止まる。すると、それに気づいた大和田も一緒に立ち止まり、こちらへと振り返る。

「……綾瀬くん?」

今言わないときっと後悔する。だから言うんだ。名前は無理でも、ありがとうの一言は言えるはずだ。それは確率的に見たらものすごく低いものなのかもしれない。だけど、そんなことは関係ない。言え、言うんだ! 確率の壁なんて越えて見せろ! 今この瞬間、俺のこころの中の本当の気持ちを彼女に伝えてみせろ!

 息を吸う。そして、


「――ありがとう」


「……え?」

 大和田が、きょとんとする。それに負けないくらいに、俺もきょとんとした。

 言えた……。言えたんだ! 大和田に〝ありがとう〟って言えたぞ! って、おい! なんで泣くんだよ!

「あははっ、ごめんね! ちょっと、驚いちゃって……」

 悲しくて泣いたわけじゃないと知り、ほっとする。それにしても、言いたいことが言えたということは、ついに制約が解かれたのか?

「消えろ!」と、雰囲気をぶち壊す言葉が俺の口から飛び出る。なんだよ! 解けてないのかよ!

「ええ~」と、大和田が驚く。すかさず俺は、首がもげそうなくらいにかぶりを振る。

「あははっ、お礼を言ったり悪口言ったり、おかしな綾瀬くん!」

 夕日のせいか、大和田の顔に朱が混じる。これまで何度も見てきたはずのその笑顔に、どういうわけかこころがときめく。大和田が、弾む足取りで前に進んでいく。それに釣られて、俺の足取りまでもが自然と軽くなる。

 夏が終わろうとしている。季節が移り変わっていくように、俺の中にある何かもまた形を変えていくような気がした。それはどこか不安なことであり、同時に嬉しさと希望に満ちたことのように思えた。


         7


「どうやら、少しは言葉の大切さというものを理解できたようじゃの」

 屋上でコトハが俺にそう述べる。

「おかげさまでな」

「だが調子に乗るなよ。お主の言葉遣いがまたもとに戻るようであれば、すぐにでも戻ってくるからのう」

「そんなに俺と一緒にいたいなら、言葉に出してちゃんと伝えないとな」

「だっ、誰がお主のような洟垂れ小僧のことなど! ようやく解放されて清々するわ!」と、珍しくコトハがたじろぐ。

「コトハ」

「な、なんじゃ?」

「色々と、ありがとな」

「うむ……、お主から礼を言われるとなんだか歯がゆいのう」どことなく照れた様子のコトハが頬を掻く。これも、言霊の力のせいなのだろうか?

「もう行くのか?」

「うむ、わらわは言葉の神様。神としての務め、いろいろと忙しいでのう。それにだ、お主にはもうわらわは必要ない。お主に必要なのは――」

「綾瀬くん!」

 コトハの言葉を遮るように、屋上の扉から大和田と剛田が顔を出した。

「綾瀬くん、その……、僕も一緒にお昼いいかな?」

 前と同じようにして、剛田が恐る恐る俺へと話しかけてくる。

「ああ、来いよ! 三人で飯にしよう!」

 俺の言葉に、二人は嬉しそうに笑んだ。

 昨日の一件以来、俺は制約から解放され言葉を取り戻した。言葉を取り戻した俺が最初にしたこと、それは彼女の名前を呼んであげることだった。俺が名前を呼ぶと、大和田は喜色満面の笑みを浮かべた。たかが名前を呼ぶだけでこんなにも喜んでくれる。その笑顔に、俺は改めて言葉のすごさを知った。

 言葉は人を傷つける。だけど、言葉一つで誰かを喜ばせたり、救えたりもする。言葉は可能性だ。言葉一つで世界は変わっていく。俺の世界がそうだったように――。

「さてと、わらわはもう行くとするかのう。達者でな、亮二!」

 コトハの声に、俺は後ろを振り返る。だが、そこにあいつの姿はもうどこにもなかった。

 寂しさがこみ上げる。

 俺は、もう一度あいつに会いたいがために汚い言葉を吐こうとする。――だけど、やめておいた。

代わりに、こう言ってやる。

「ありがとう、言葉の神様」――と。


~終わり~








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