晩夏に逝く

若生竜夜

晩夏に逝く

 僕と〈季史ときふみ〉が双子としてあったことを憶えている者はもう誰もおらず、僕の中の彼もすっかり消えてしまったが。今でも夏の終わりに、ひとり、月明かり降る庭に立つ折には、ささめく芙蓉の間に季史のすこし丸い声が思い出されて、僕はなんともいえない寂しさを覚えるのだ。


 はじめてその庭へ足を踏み入れたとき、僕らは十にも満たない子供だった。

 若いころの祖父が気紛れで作らせた広い庭は、両手に余る種類のぼくが茂る場所で、夏は盛りを過ぎていたが、濃い緑と鮮やかな色の花咲き乱れるさまは、まだ充分にうつくしかった。白く尖った花弁はレインリリー、翅を立てた蝶の群れに見まがうのはアサヒカズラ、火花散る紅い小花はキョウカノコで、あのほんのりと上気した大きな花弁は酔芙蓉だと、それぞれに指さしながら、僕らは教わったばかりの名を競い挙げていった。

 青の落ちる夏の宵、ふたり、シャツにもぐるぬるい風に心地よく目を細め、今を盛りとわらう芙蓉の足元でよくたわむれたものだ。そこここの花陰に隠れてある青葉の小隧道トンネルは、僕らにとって恰好の遊び場で、時には、剥き出しの手足をちくちくと掻く葉や枝をくぐりながら、湿った土の臭いに交じって流れてくるツルバラの甘い香りを抜けて、治史はるふみ、〈季史〉、とお互いを呼び探し合ったりもした。

『ねえ治史、ついいましがた、あちらへ蝶が飛んで行ったよ』

 だめだよ〈季史〉、遅くなる前に家に入らなくちゃいけないもの。

『嫌だよ、追いかけようよ、じゅうぶんに明るいじゃない』

 あんまり長く外にいると花に獲られてしまうって、乳母やにまたおっかない顔で怒られてしまうもの。

 ……子供同士かん高い声で言いあった言葉はまだ耳にこびりついている。

 一緒に生まれた僕らは、ものごころつく前からずっと、四半刻と離れず過ごしていた。ひとつ鞘の豆の粒。あるいは、常に鏡をのぞいているのじゃないかと、大人たちを悩ませたくらいには。同じ鋳型から抜かれた僕らは、どこもかしこもがそっくりで、好きなことも好きなものも、言うまでもなく同じだった。

 たとえば、湯あがりに差し出されるグラスの中の泡踊るソーダ水を、喉を鳴らして飲み干すこと。たとえば、降りはじめの月光の粒にさざめく庭へ忍び下りて、やわらかいはだしの足裏に影を踏んで歩くこと。

 いずれもが当時は楽しく、僕らは好んでいたのだが、〈季史〉が中でもいっとう好きだったのは、甘く蕩ける大粒の飴の玉だった。

 べっこうのように艶めく透き通った飴玉を、いつもポケットへ忍ばせていた僕に、

『ねえ、飴をちょうだいよ。そうしたらちゃんと言うことをきくよ』と〈季史〉はせがんでくる。そのたびに、わがままだなぁと僕は笑って、ひとつ、取りだした飴玉を、薄く開いた唇に押し込んでやった。すると彼は、頬のうちがわでゆっくりと舐め転がしながら、僕に手を引かれておとなしく家へ入るのだ。

 毎夕繰り返すこのささやかな儀式に不思議とあきることのなかった僕らだったが、夏を五度も過ごしたあるとき、僕ら、父に呼び出された日の翌朝に、不意に僕が飴を持つのをやめたことで、たわむれは途切れてしまった。

 〈季史〉はそれを少しばかり寂しく思った様子で、どうしてかと尋ねてきたから、僕はただ、「だって子供っぽいだろう」と肩をすくめて答えたのだ。

 気がつけばこのあたりから、そっくり同じだった僕らも徐々に差異を意識し始めて、僕は書物や画に親しみ、学芸を究めることを、〈季史〉は人の輪に入り華やかな会話に交じることを、それぞれに好むという風になっていった。

 これについては僕の方が少しばかり寂しく感じたりもしたが、やがて〈季史〉が同じ年頃の見目良い少女たちのひとりと付き合いはじめるにいたって、互いの性質の差は決定的となり、同じひとつの鋳型から抜かれたはずの僕らは、ふたり合わせたとてもうぴたり合うこともないと納得し、ついに各々の領分に分かれて生きるようになった。


 そんな僕らの生活が思わぬ方向から曲げられたのは、十八の時。気ままな振る舞いのできる学生という身分での夏も、これが最後というころだった。

 社交的な〈季史〉は、華やかなことが好きという気質から賭け事もまた好んだために、しばしば借財をこしらえることがあって、その悪癖については、いく度となく説教を受けていた。

 中でも特にきつく咎められたのは、返済のために父の手文庫からさつを抜き取ったときと、このたびの騒ぎの、金張りの懐中時計を勝手に質草しちぐさにして金を借りたことについてだった。

 手文庫の件は一刻に及ぶ説教と半月ほどの謹慎で赦されたのだったが、懐中時計の方は先の帝から賜ったもので、祖父の代からの家宝であったがために、勘当するのしないのの騒ぎとまでなり、〈季史〉は、ようようしちより品を取りもどして父親の怒りを解くことはできたのだが、さすがにこれへはまいった様子で、以後は随分とおとなしくなってしまった。

 傍目には一件落着というところだったが、しかし、また同じ騒ぎを起こされてはかなわないと家の者たちは考えたらしい。いささか早くありはするが、くびきを兼ねて三つ年下のさとという娘を、嫁としてあてがわれることが決まってしまった。

 これに憤慨したのが、僕だったのだ。

 各々の領分に分かれたとはいうものの、僕らの部屋も通う学舎も同じであったから、視界の端の窓硝子にちらりちらりと映る影や、ちょっとした折に集まる人の口より、片割れがどうしているのかは知ることができ、〈季史〉のおこないなど僕はとりたてて意識するまでもなくしっかりと全て心得ていた。

 僕らのような家の者が、いまだ許嫁すら持っていないのは、確かにおかしなことではあったのだ。同級の者たちを見回してみても、八割……いや、九割方将来の伴侶は決まっていて、卒業と同時に奥方を得る者もちらほらといるのだから。

 だが、そうはいってもあれほどに地味な娘をあてがわなくともいいだろう、というのが当時の僕の考えで、

「だいたいにだよ、見目はそこそこ整っているみたいだけれど、あれでは〈季史〉の好みでないよ。彼の好みならもっと……」

 華のある娘がいはずであると、庭でひとり、さざめくぼくを相手に不服を漏らしていた。

 ぬるい風の吹く晩夏の庭は、はじめてこの場所を踏みしめた幼いころとそっくりに芙蓉の花が咲き乱れ、天の頂近くには円く型染めたようなしろい月が陣取って、思うさま茂る緑の上へ金砂や銀砂をこぼしていた。庭のどこかで鳴くクサキリの耳鳴りに似た細い鳴き声が、途切れずずっと聞こえていた。

 シャツに潜る風が汗ばんだ肌をなぞって、しきりと張り付いてくる布をほんのわずか浮かせていった。

『そうさ。〈季史〉の好みじゃない。地味だが頭のいいあれは、どちらかといえば治史向けヽヽヽヽさ』

 皮肉げな声へ僕が振り向けば、わずかな葉擦れの音とともに、花の陰から〈季史〉がちょうど歩み出て来たところだった。ぬるい風に乱された前髪をかきあげる左手の薬指には、月光を弾いて光る銀の指輪があった。

「盗み聞きなんて趣味が悪いよ」

 僕が眉をひそめて言い、続けて、いつからそこにいたのかと問い質せば、

『意地が悪いな、治史は。僕のいるところへ君の方が後からやって来たのじゃないか』と心外そうに〈季史〉は、上等な皮のベストに包まれた細い肩をすくめた。

「知ってたなら来なかったよ。僕はそんな悪趣味じゃないもの」

『そうかな? それじゃ、そういうことにしておこうかな』

 〈季史〉は随分と嫌な言い方をして軽く鼻を鳴らし、『それでさ』と話を引きもどした。

『美里が僕の好みじゃないと随分ご不満なようだけど』

「そうでしょう。どう見てもあれは、君の好みでないもの。違うと言うの?」

『違わないよ』

 左手をポケットにしまった〈季史〉が、つまらなそうに土を蹴る。

『あれは、もともとかな後継ぎのヽヽヽヽ嫁にするんだと、育てられた者だって聞いてる。つまり、僕は治史ヽヽの嫁になるはずだった女を押し付けられるってわけさ』

 そう言って〈季史〉が向ける苛立ちを載せた視線へ、僕はそっくりそのまま先ほどの彼を真似て唇を歪めて返した。

「じゃあ僕は、銀谷の後継ぎヽヽヽヽヽヽの座を放逐されたのだね。随分な仕打ちだね」

 〈季史〉が不審げに僕を見た。

『どういうことさ?』

「そのままの意味だよ」

 僕は〈季史〉のように、左手で髪をかきあげる。

は確かに放蕩をしてみせたけど、致命的な事態は避けたでしょう。父様たちはその手腕を買ったのだね」

『手腕? ……あれは本気でまずいと思ったから、なんとか金を工面しただけじゃないか』

「どんなつもりでの行いかは関係ないよ。父様たちの目にどう見えたかが大切なのだもの。おめでとう、治史ヽヽ

『やめろよ!』

 が悲鳴を上げた。

『僕は〈季史ヽヽ〉だ。〈治史〉なんて名前じゃない』

「やめないよ。だって、君が〈治史後継ぎ〉だと決まったのだもの。ねえ、〈治史ヽヽ〉、認めてもらえて嬉しいでしょう」

『……やめろよ』

 呻いて頭を抱えたへ、やめてなんてあげないよ、と畳みかける。僕は両親にも僕自身にも随分に腹を立てており、に対しても意地悪な気分になっていたから、いくら彼が弱ろうともかまわなかったし、むしろそれを少しばかり愉快だと感じさえしていた。

『僕は〈季史ヽヽ〉だ。治史の影ヽヽヽヽなんかじゃない』

「そうだよ、僕らは違う生き物になったはずだった。だから、ねえ」

 僕は一度言葉を切って、ゆっくりと噛んで含めるように口にする。

「君、そんなに嫌なら、僕と換わってしまうかい?」

 ねえ、その指輪をちょうだいよ。そうしたらと換わってあげるよ。

 幼いころに〈季史〉が飴をせがんだのと同じ調子で、僕はへせがんでやった。

『やめてくれよ……』

 弱弱しく繰り返すばかりの姿へ手を伸ばして、薬指から指輪を抜き取ってやる。僕はじっとへ目を合わせながら、薬指に指輪を嵌めていった。

「さあ、これでもうずっと、僕が〈治史本物〉で、君が〈季史まぼろし〉だ」

 まばたきを忘れた〈季史ヽヽ〉の、花を透かして消えゆく姿へ、僕は静かにほほ笑みかける。どちらか一人を選び決めるのなら、ひとつ鞘の豆の粒、あるいは、鏡に映る影同士であり続けることはできなくなると。飴を持つのをやめた朝、僕らが違う生き物になると決めた瞬間ときより、いずれこうなるとわかっていたのだ。


 十年の時が経って、僕と〈季史〉が双子としてあったことを憶えている者はもう誰もおらず、僕の中のもすっかり消えてしまったが。今でも夏の終わり、月明かり降る芙蓉の庭に立てば、ささめく芙蓉の間に〈季史〉のすこし丸い声が思い出され、僕はなんともいえない寂しさを覚えて、ひとり、ぬるい風に吹かれるのだ。

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