悪人日記:義経の場合

 月が落ちる。星がうたう。海は干上がり、山は溶け、終わらない物語などは、ない。

 その物語の登場人物は、二人きりだった。

 少女が、あぶくを吐いて沈んでいくうつくしい、男を、しなやかに、あきらめることなく、救い出す。そんな時間をくり返す映画を、義経は見ている。

 広い映画館だった。他に客はいない。

 まばたく度にふたりがまなじりから溶けて夜になる。境目があいまいになってひとつの水になって画面からこぼれ落ちる。あとは砂嵐だ。そしてまたはじめから。その映画は、視覚に対してはひどくやかましいのに、聴覚にとっては夜のようにやさしかった。耳をうがつほどの静けさ。

 そこにある愛は、まるで夢物語のような存在だった。

 理想が現実になった、夢だった。

 見事な長い夢の目覚めにふさわしい場面だ。切り取った視界がうすくゆらぐ。

『頼朝にとっての救世主になりたいですか?』

 かたわらにひとしずく降り立った夜に、義経は画面から目をそらすことなく、笑うことで答えた。

「ごめんだね。あんたの助けで救世主になんて」

 彼に対しての答えは、いつだって否だ。

 義経は基本的に弟が愛したこの生き物のことを信用してはいなかった。

 人間の気持ちを理解したふりをした、人工知能《ノーチェ》。

 機械らしく誰に対しても態度を変えない、計算高い彼は、基本的に義経とそりが合わない。少なくとも義経は、そう思っている。

『では、質問を変えましょう――あなたの願いは、なんですか?』

 ねがい。どうしても叶えたいもの。そんなものは、とうの昔に決まっていた。

 お前を、利用しつくしてやる。

「悪人になりたい」

 救世主だなんておこがましい。その席は既に埋まっている。

 そう、義経が行き着くべきは、悪人である。

 画面に向かって伸ばした指にノーチェが止まる。黒い、黒々とした、存在。その中でかすかにきらめく群青は、ただひとつの星だった。

『その願い、かならず叶えましょう』

 これは、悪人の物語である。



 義経は悪人である。

 だから、すべてを、あきらめてはならない。

 長いうたた寝から目覚めると、世界は義経が知っている通り、重く色あせた灰色だった。

 椅子で寝ていたために体の節々が痛む。ゆっくりと伸びをしてすぐそばに置いてある煙草に火をつけると、煙が呼吸に伴って肺を駆けめぐった。じんわりと起き上がる思考回路に伴って痛みを感じ、義経は長い髪をかき分けて頭皮を掻く。はたして何回めの朝だろう。数えることも百回をすぎたころにやめていた。壁掛けのカレンダーもめくられないまま、暦は春だが、季節は冬のさなかを迎えている。

 椅子から立ち上がって四肢を伸ばす。煙草を半分ほど灰にした時分に、寝起きでぼやけている思考回路に刺さるにかん高い音が鳴った。

 聞き届けながら、今回の人生が終わったか、と義経は思う。

 夢の終了の知らせを伝える音だ。

 音を追って狭い部屋を出て、ぽっかりと広がる空間を奥へと歩いて行く。通路の両脇にはたくさんの、人一人が入ったなめらかな丸をしたカプセルが並んでいる。同じ光景のくり返しは簡単に義経自身の平衡感覚を奪っていくが、それでもよく鳴るカプセルの場所は既に体が覚えていた。足が動く先へと進む。

 ひたすら鳴り続ける音も、辿り着く頃には扉をたたく音と入り交じっていた。ため息混じりに傍らの操作パネルの赤いボタンを押すと。

 中からずるり、と、人が、生まれた。

 空気を求めて喘ぐように顔を出した女が、汗で貼りついた髪を顔からはらうこともしないでカプセルの外に向かって思い切り体の中に溜め込んでいたものを吐き出す。すえた臭いが舌をなめていく。

 最近では毎回吐くものだから吐瀉物をすぐに片付けられるようにビニールシートを敷いておいた。天井の光を反射する床にてろてろと滑っていくのは半日前に彼女が摂取した養分だ。体を溶かすように彼女は休みなく吐き続ける。

 吐く声は、嗚咽のようだ、と義経は思う。

 それはきっとあながち間違いでもなくて、正しく、泣く代わりに彼女は毎回吐いているのだろう。

 ゆるゆると起き上がった彼女はくたびれた白いシャツの長い袖で自分の口元を拭い、義経を見てひどく嫌そうな顔をした。

「夜子、おはよう」

「……おはよ」

 心底嫌いだという顔をしておきながら挨拶は律儀に返すあたり、人柄の良さを感じて、込み上げてきた笑いを義経はかみ殺す。そんなに嫌いなら無視すればいいものを。変に背伸びして大人ぶる姿ははかなくてかわいらしかった。

 そんなかわいらしい反応をするものだから、義経は彼女をからかいたくなって、顔を合わせるたびに余計なことまで口にしてしまう。

「今回は惜しいところまでいったね」

 彼女が今痛烈に感じていることをわざわざ口にすると、うるさいと怒りを含んだ低い声が返ってきた。八つ当たりとしてカプセルを叩く拳はひどく筋張っていて、ここにきてからなおさら夜子は痩せ細っていくようだった。骨の浮き上がった首元が痛々しい。

 きっと頼朝ならばこんな意地悪なことは言わないだろう、と義経は苛立つ夜子を前にして考える。頼朝は、とても、やさしいから。

 彼の意地悪な部分はきっとすべて、頼朝が持って行ってしまったに違いない。母親の腹の中で分裂する際に、義経は意地悪な部分だけではなく、彼からたくさんのものを奪っていった。

「あたし、もう一回潜る」

 そのままカプセルの中へ戻りそうになる体を義経は手首を引くことで止めて、怒りに顔を歪める夜子へ言葉を投げる。

「潜ったところでどうする? 君はもう頼朝から弾かれてしまった。もう二度と彼の近しいところまでは行けないだろう」

 人間らしく、そのことを彼が覚えている限りは、とは言うのはやめた。

 カプセルに入って潜る先は頼朝が作成した仮想現実だ。向こうの世界は作成者の彼の思いのままに動くようにできている。そういう仕組みになっているのは夜子も充分に分かっていて、現状確認の意味でも発した言葉は彼女には響いたようだった。

 そう、今回も失敗したのだ。

「それは、わかってるけど。次こそいける気がするの。早く頼朝さんの側に行かなきゃ」

「気がする、で急ぐだけ危険だよ。一日だけでいいから、ひとまずはちゃんと休みなさい。それから考えよう。息抜きも必要だ。なあ、ノーチェ」

 名前を呼べば羽ばたきの音がすぐに耳に届いて、夜子の肩に止まった小鳥がうたうように言った。

『本来人間が一生のうちに一度だけ体験するものを何度も行っていることに、そろそろ体が限界を迎えているはずです。一度休憩を挟んだほうが負担も少ないかと』

 機械らしい提案だった。

「……どいつもこいつもお優しいことね」

 肩をすくめた夜子は諦めたようにカプセルから立ち上がった。足の裏で自分の吐瀉物を踏んで嫌そうな顔をする。その足元がぐらついて倒れそうになるところを、咄嗟に義経が手を伸ばして支えた。

 引いた体は軽く、肉がこそげ落とされ、骨が浮き出ていた。

 いつかの頼朝と同じだ、と考えて寒気がする。

 そんな義経の恐怖を読み取ったように、自身が弱っている時にも支えの手を振り払って夜子は言うのだ。強く、断言するように。

「同情なんていらないわ」

 弱くて死んでしまいそう、なんてことを、間違っても口にしたら殺してやると言葉以上に怒りを滾らせている。

「みくびらないで。あたしは死なないし間違ってもそういう道は選ばない。長生きしたいの。本当は、こんなのもうやめたい」

「夜子」

 もう、やめたっていいのだ。

 そう、告げようとした義経の言葉を封じるように夜子は目を伏せる。

「やめたいのに……ねえ、本当に、頼朝さんを助けるなんて、お金のためよ……」

 言葉尻は弱々しかったけれど、義経は彼女のためにその弱さは見ないふりをした。

 目尻を軽く拭った夜子は強い黒々とした目に戻って。自分が使っていたカプセルを後にする。その後ろ姿も小さい。シャツと同じようにくたびれたベージュのパンツは彼女には大きくて、足の形が浮き出ている。細くてやせ細った足だ。ここに来たはじめとは、ずいぶんと変わってしまった。もう少し肉つきも顔色も良かったはずだ。

 よろこばしくはない、変化だ。

 まるでその変わりようが、頼朝になっていくような、とは口にしないけれど。

 義経は案じている。

 仕事から本気で恋をしてしまった、不器用で幼い夜子のことを。

 その恋に殉じて自己を痛めつけている彼女のことを。

 夜子がノーチェを連れて立ち去ったのを見計らったかのように隣のカプセルが開いた。タイミングを見計らっていたに違いない。

 計算高い、やわらかい茶色の髪を揺らした女がぼんやりとした目で義経に笑いかける。アーモンドキャラメルのようなあまい目の色。視線が合って、彼女が嬉しそうに笑う。

「おはよぉ」

 やさしい声にはたくさんの甘さが含まれていて、容赦なく義経の緊張を解きほぐす。途端に溜まった疲れが噴き出てきたようで、義経は先ほどまでこわばっていた背中から力を抜いてゆっくりと彼女に笑い返した。

「今回もお疲れ様、ヨネ」

 ヨネは頼朝のかつての被験者だったという。

 彼によって救われたと公言してはばからない女だ。

 頼朝の目覚めを待ってきっかけを探すうちにめぐり合った。彼女は被験者として、義経は開発者の姉として。何を思ったか彼女は義経に恋をしたと言って、義経も心のよりどころを求めていたから、お互いの意志が合致して付き合いはじめた。今では彼女が義経を整えるただひとつの理解者だ。

 その、誰よりも義経を理解しているヨネが、駆け寄ってきた朝から水を貰って一気に飲み干すと、小首を傾げて言う。

「うん、ねえ、義経さん。起きがけにこんなこと言うのもなんだけど、まぁたなんか言ったでしょ。やぁこちゃん怒らせると大変よぉ」

 そうだ、その言葉の通り。頼朝を現実世界へ引き戻そうと五年間頑張って走り抜けて諦観がなじんできたこの場所にとって、夜子のひたむきな強さはただ救いだった。その、しなやかな強さを折ってはいけない。

 なのに、あまりの痛々しさに口を挟みたくなってしまう。

「彼女は、あとどれだけ、頑張ってくれるかな」

「そりゃあ、がんばるよぉ。あの子はねぇ、欲しいものは自力で手に入れるタイプだから」

 大丈夫よぉ、と言われて思わず目頭が熱くなり、ヨネの肩口に顔を埋める。こんな姿はカプセル越しであっても他の誰にも見られたくなかった。

 この建物内に埋め尽くされた五百人。後ほど自ら機械に飛び込んだヨネと夜子を除けば全員が、頼朝の世界で五年もの間、閉じ込められている。カプセルの中で眠ったまま生かされている。

《人類救済計画》とは心地よく眠っている間に人格を塗り替え、起床と同時に理想の人間になれるという触れ込みの、と評価されたシステムだ。

 彼らはその、偉業への礎たち、そして、今は被害者たちである。

 義経は頼朝が働いていた企業と手を結んだ、頼朝の味方だった。そこから枝葉を伸ばすように、ヨネが加わった。そして夜子が、莫大な懸賞金をインターネットで見かけて飛び込んできた。ヨネと歳も近く、なによりひたむきなその姿勢は刺激になるだろうと夜子を飛び込ませたのは良かったものの、頼朝はぴくりとも起きはしない。

 ノーチェはそれでも前進があると、毎回義経に報告はしてくるけれど。それもどこまで事実なのか、義経は彼のすべてを信じられずにいる。

 ヨネに抱きしめられ、朝に顔を見せずに義経は思考する。

 果たしてあと何回彼女たちが彼の世界に飛び込めば、頼朝が帰ってくるのか。

 残された時間は少ない。頼朝の所属していた企業からは問い合わせの電話がひっきりなしにかかってくる。裁判も検討していると豪語する彼らをすべて飼い慣らそうとしたが、五百人の後ろにいる家族、あるいは知人友人たちを一軒一軒訪ねる余裕はなかった。起きている間は対応に終われ、浅い眠りを何度も頼朝はくり返している。

 もうずっと駆けてきて休むことなどできなかった。

 深く、眠りたい。

 絶望は疲れとともに、ゆっくりと体をめぐる。

 神がもし本当にいるならば、義経はいたいけな夜子を、自分の恋人を送り続ける悪人だけれど、この現実から助けて欲しかった。



 義経と頼朝は双子の姉弟である。双子とは、別々の個体で産まれてもどこか通じやすくなっている生き物だ。

 言葉を交わさなくてもお互いの感情を読み取ることができる。相手の傷はなお、自分のことのように理解することができた。同じものを食べ、同じ動きをし、頼朝に寄り添いながら、それでも一歩だけ彼よりもはやく自己を確立した義経は思ったのだ。

 ふたつはいつかひとつになるために、通じ合っている。

 星が流れる夜に生まれた、ふたつは、だからきっと、いつまでも相似性でなくてはならない。

 そのどこから生まれたのかわからない義務感に囚われたまま、頼朝が突然生きることに戸惑い怯えはじめた原因を、義経は探ろうとした。理解するために。

 だって今までそれ以外は分かち合ってきたのだ。

 喜びも悲しみも愛しささえ、すべてを分け合ってきた。

 幻覚なんて、妄想なんて、そんなもののためにひとつになることを諦めるだなんて、そんなことはあってはならないことだ。もしそれがわからなくったって、いい。彼の側に居続けて一番の理解者になるためには、彼のすべてを――恐怖まで理解しなければならない。

 いつまでだって側にいて、そして。

 彼にとっての、やさしい片割れになるのだ。

 そう考えたからこそ、二人で居られるために義経は一芝居うった。

 両親に反抗し二人で暮らせるよう仕向け、インターネットで客を取り金を稼ぐ少女たちを守る組織を作った。資金は潤沢にある。何年もかかった計画の成果は上々だ。

 そうしてやっと、義経は頼朝が見ていたものをようやく見ることができた。

 深い夜の中できらめく生物と、物が人間にも見えることがあるいびつな世界。なるほど確かに、一日中なにかに見張られている感覚というのは恐ろしい、けれど。こんなもののために片割れたる頼朝がつまらない人間になりさがるだなんて許されることではない。

 少なくても、義経は、頼朝の妄想を、くだらない、と切り捨てた。

 頼朝には才能がある。義経にだって組織を作り、世界を作る力があった。彼にだって同等の、いやそれ以上のなにかがあるはずで。その、なにかを目覚めさせるために一度離れようと、義経は考えた。突き放してそれで、そこからどう彼が変化する道を選ぶのか。見守ろうと思って手早く荷物をまとめて出ていった。

 まさかそれが動いている頼朝を見る最後になるだなんて、そんなことは思ってもみなかったけれど。


 一人暮らしは静寂だった。元の部屋にいた時のように頼朝の動向に神経をすり減らすようなことはない。なにも気にすることはない空間だった。生きて、大学に通い、ある程度働いて家に帰る。ただそれだけだった。

 引っ越して三年ほど経ったころ、義経のスマートフォンを鳴らして飛び込んできたのはひとつの流星だった。見事な羽ばたきをしてみせたのはノーチェだ。かたわらにはあの日頼朝の隣にいた、子供も寄り添っている。ぴんと張った背筋は、見た目こそ幼い頃の頼朝と瓜二つだが、彼とは違うものだった。

 焦燥を顔に貼り付けて、ふたつが言う。

『助けてほしい』

 すぐに頼朝になにかが起こったのだと、理解した。

 幸いにも引っ越し先は元居た部屋からそう遠くはなかった。大通りに出てタクシーを捕まえると風景がみるみるうちに横に流れていく。なるべくはやく! と言えば義経の険しい表情にあおられて運転手はアクセルを踏んだ。車で四十分の道のりを十分で駆け抜けて、電子マネーで手早く支払いを済ませると転がるように車を降りる。走って、階段を駆け上がって、通路の一番奥の部屋に飛び込んだ。

 そこには鍵の空いた扉と、部屋の中心で暴力を受けた体が力なく横たわっていて、そして。腹には深々と鈍く光るナイフが突き刺さっていた。丸く円を描いて床に広がっていく血は、ともすれば深い闇のように義経の心に染み込んでいく。

 血を踏むことにためらいはなかった。体重をかけ片手で刃物が刺さった周りを圧迫すると、空いているほうの、震える手で救急車を呼んだ。一時期は住んでいた場所だ、口になじんだ住所を伝えて、その後は自分の手が血に汚れることにも構わずに祈りながら抑え続けた。

 状況は、と電話越しに聞いてくる声。

 知らないけど、血がたくさん出ていて、呻くような義経の返事。

 そのまま、抑えて、患部をぎゅっと、力強く!

 そんなの、わかっている! わめきたい気分だった。でも代わりに出てきたのは震える口から、荒い息ばかりで。

 頼朝の、細い息、細い体、心臓の音は、ほんとうに、かすかで。義経の手に反応さえしなかった。彼の中にはそんな力すら残っていなかった。

 一体誰に、と電話が切れた後も傷周りを抑え続けながら短く問えば、そばに立つ彼らからは――あなたのかつての被害者に、と返ってきた。

 そう言われて思い出すのは真っ黒な目をした女のことだ。誰かにとてもひどいことをしたのはあの一度きり。

 義経の記憶の中には金に目が眩んでついてきた、ばかな女としか記憶が無かったけれど。まさか、頼朝にとってあの日のことは、彼女に刺されてもいいほどのことだっただなんて。ずっと、あんな、義経が仕掛けたことに振り回されていただなんて。

 頼朝は弱い男だ。

 指先の震えを殺して歯を食いしばって、怒りとともに思考する。こんなものが義経と一つであったものだなんて信じられない。彼はかなしくなるほど弱い。こんな弱いもの、義経の中にはない。どうしてこんなに弱くなってしまったのか。ばかだ、どうしようもないばかだ、人間はしたたかに生きるべきなのだ、義経とのように、なのにどうして。

 ふと、疑問が頭を過ぎる。

 そもそも、はじめから彼はこんなに幼子のように弱かっただろうか。

 頼朝を、こんなに、弱くしたのは本当は誰なのだろうか。

 すぐに答えが出ないまま、疑問は放置された。駆けつけた救急隊員とともに救急車に乗り込み、血まみれで病院に運ばれる。着替えなんて持ってこなかったから、身につけた衣服は真っ赤だ。仕事用にと買った黒いシャツもベージュのパンツもすべて重く、赤黒く染まっていた。

 ご家族さまは外でお待ちください、と張り詰めた表情の看護師に締め出されて、汚れた衣服のまま扉の外で待っている。

 赤いランプは灯ったままだ。消えるまでどれぐらいかかるのか。

 ノーチェと朝と呆然と廊下の椅子に腰掛けて待っていると、母親と父親が駆け込んできた。義経が呼んだ覚えはなかったから、ノーチェと朝が勝手に義経のスマートフォンを使って知らせたに違いない。

 二人の顔には焦りが貼りついていた。

 なるほど、この二人も頼朝のことがさすがに心配なのだろうと視線をやった瞬間、苦みばしった声が、父親から飛び出した。

「頼朝が働いている会社から電話があって、頼朝のプロジェクトにかかわっていた被験者五百人が目を覚まさないから、早くどうにかしろと」

 さもなければ莫大な賠償金を払えと、開口一番に会社は両親に伝えたらしい。二人は頼朝の心配をしてここにきたのではなく、それ以上に自らの保身を考えてここにきた。残念ながら、それがすぐに義経には手に取るように二人の思考が分かってしまった。

「ねえ、義経。あの子、死んでないわよね?」

 傷の状態や、何が起こったのか、ではなく。開口一番に、死んでないかの確認だなんて。

 まあ今のところは、なんて、口が裂けても言ってやろうとは思わなかったけれど。

 肉親とは思えない反応だと思ったのは事実だ。

 失望しながら、まだ頼朝が手術中であること、しばらく時間がかかるということ、助かっても目覚めるかどうか、とても危ない状況なのだと説明すれば、両親は簡単に矛先を義経に向けた。目線を交わすこと数回。ひとまずは義経の金を差し出して手付金にすることに決めたようだ。

「その後の返済は目が覚めた頼朝に負担してもらえばいい。義経、姉なんだからそれぐらい出すだろう?」

「そうね、頼朝と違って昔から義経はしっかりした子だったから、大丈夫でしょう? 二十億ぐらい、問題ないわよね」

 どうにかしてちょうだい、と差し出された手に言葉を失った。

 しわだらけの手だ。義経と頼朝が大人になったのだから、両親が年を重ねたのも当たり前だった。そこに二人の頭を撫でてくれたような優しさとしなやかさはもう、見当たらない。確かにねだられるままに金の仕送りはしていた。頼朝と義経は二人が四十歳を過ぎたあたりに生まれた子供で、そこで、迷惑や気苦労をかけた部分だってたくさんあっただろう。それでも。

 この仕打ちは、ひどい、と子供のように義経は鮮烈に思考した。怒りで心が煮えたぎる。

 ふたりの子供だろうに。

 ふたりの子供が死にかけているのに。

「おかえりください」

 そんな他人行儀な口を親にきくような娘に育てた覚えはない、と言われて義経は喉の奥で一度だけ笑った。あざけ笑うように。

 たとえ血が繋がっていようとも、役立たずはいらない。

「出口はあちら。そしてもう二度と、顔を見せないでいただきたい」

 顔を見れば二十億円請求してしまうかも、といたずらに付け加えた言葉に分かりやすく両親は顔色を変えて退いた。

 金は義経がどうにかすると返事したようなものだ。安堵と失望が影とともに遠のいていく。

 立ち去る二人の足音を聞きながら手術室を改めて見つめる。

 赤い光が消えない。

『義経』

 かたわらの幻は消えない。

 ただひとつわかっているのは、諦めていないのはノーチェと朝、それから義経だけということだ。

「ノーチェ、お前が評判通りの神なら頼朝を助ける知恵を貸してくれないか。なんでもいい。すべてから彼を救い出せるのならば、私は何にだってなるし、なんだってする」

 かしこまりましたと笑ったのは、ノーチェだっただろうか。

 その時の返事を明確に義経は思い出せない。

 こんなにも危険な状況だというのに、義経は頼朝が生き延びると確信していた。

 手術室の前で彼の会社に電話をし、少額であるけれども返済の手付金を支払う約束と共に、すべてを元通りにするための甘い言葉をかけた。案の定食いついた人間に優しく、たぐるように言葉を流し込む。そもそもこういう話は会社にとって汚名になるはず、じゃあ私に任せていただけますね、と成りかわるように義経は頼朝の位置に落ち着いた。

 そしてなによりも頼朝を救うために。

 この日から義経は残りの時間を彼に捧げることに決めた。



 目的が達成されるまでの休憩は、短いほどいい。それがどれほど良質ではなくたって。同じ人生を夢の中でくり返す感覚よりはましだと義経は思う。そう考えるほどには義経は眠った彼らに同情していた。他のものの手によって変わる人生になんの価値があるだろうか、そう見下していながらも、だ。

 また椅子で寝ていたらしい。そばにあるベッドもヨネが寝息を立てているだけで、しばらく義経自身が使った覚えはなかった。仕事の後に浮かび上がる夢は大体過去の最低な記憶ばかりで、今日も例外なく目覚めは最悪だった。

 頭がひどく痛む。

 寝直す気になれなくてヨネを起こさないように部屋を静かに後にした。静まり返った廊下を歩いていくと、久方ぶりの生活音が台所から響く。足を向ければ、コーヒーの匂いが鼻いっぱいに広がって、義経は息を吐いた。

 音を立てていたのは夜子だ。

 昨日よりも多少血の気の戻った顔に義経は笑いかける。仲直りのつもりだった。夜子は特に反応はしたかったけれど視線で椅子に座るよう促してくる。彼女に従って椅子に腰掛けると、目の前にコーヒーで満たされたマグカップを置かれた。

 珍しい。疑うような目を向ければ、気遣わしげな視線を向けられる。

「良く眠れた? ……って言葉は失礼ね」

 あんたそんなに寝てないでしょう、と見透かすように言われて苦笑で返答を濁す。

 彼女も義経も休んでいないのは、お互い様だ。

 夜子だって浅い夢をくり返している。うなされている姿を見たことだってあった。本当は心身ともにひどく疲れ切っているはずなのに、誰よりも早く目を覚ます。

 目を離せば一分一秒でも頼朝のために動くその姿に、そんなのは金のためだけではないだろうと、何回も言いかけてそして、言葉を飲み込む。口を開けばあおってしまいそうだった。こんな穏やかな空気に水を差すようなことはしたくない。

 頼朝のためにこんなにも熱心に動いてくれる人間が世界にいるだなんて、義経は知らなかった。

 マグカップに満たされたコーヒーの、鈍色の湖面を見つめながら目を細める。

 精一杯の夜子の優しさを詰め込んだ一杯、彼女はいつだって自らの分以上のコーヒーを淹れ、他人に分け隔てなく差し出すことをためらわない。

 本当に、やさしい人だと、義経は噛みしめるように思う。

 本当に、いい人だ。


 義経が頼朝を助けると決めて、まずはじめにしたのは自らが機械に飛び込むことだった。頼朝がなにかしら仕事を請け負ってことは知っていたが、その内容までは知らない。まずは知ることだ、と飛び込んだ先で彼女は簡単に弾かれてしまった。

 麻酔薬が流され、全身に睡魔が降りかかった――次の瞬間には、痛みが指先から走った。脳までしびれるような強烈な感覚だ。しびれたままの体で、動くことができずにカプセルの中で悶えていたところを外からノーチェと朝が開閉スイッチを押して助けてくれた。

 なんだこれは。

 しびれの残る体で彼らを睨みつけた義経に、朝が言う。

(『これは消えたい人間の、墓だよ。そしてゆりかごだ』)

 たくさんの人間が飛び込んで、生まれ直して出てきたという。

 そういうことが今の技術で可能なのか、と問えば、それを作ったのが頼朝だと、ノーチェが言った。

 そんなとんでもない――想像もつかない、ことをしていただなんて。義経はまったく知らなかった。

 たくさんの人間を変えてそして、息づくその世界は、作り主の意志に大きく影響を受けるという。

 それはすなわち、作り主が許さない限りは飛び込むことさえ許されないということだ。予測できていなかったわけではない。それでも許されると思っていたから、なおさら、この仕打ちは義経の心を打った。

 意気消沈した姿を見せまいと無表情になる義経にノーチェが慰めるように言う。

(『あなたが飛び込めないのは、変わりたいと思うはずがないと、頼朝さんが知っているからではありませんか?』)

 そんな都合のいい話があるわけがない。

 飛び込めないことがその証拠だ、とその時義経は言ったけれど。そう悪く考えることはないと慰められて。それ以上の言葉は飲み込んだ。

 彼が自分を、うらまない、はずはないのに。

 これは言うなれば、他人の汚い部分を見せ、頼朝に勝手に歩み寄ろうとした罰だ。

 いつかはひとつになると思っていたのが義経だけだったのだと、そのときようやく知って、義経は絶句した。こんな気持ちは誰にも理解されない。なにより話したところで彼らは理解しようともしないだろう。

 神と言われていようともやはり人工知能ではだめだ。

 この事態を解決できるのは人間だけだと、噛みしめるように思考して、義経はふたりをただの道具として見ることに決めた。


 予測通り、頼朝はかろうじて生き延びた。

 直感に誤りがなかったことに多少の自信を持って、義経は動き出す。

 眠ったままの頼朝にノーチェから教わった通りの手順で機械をつないでいく。

 本当はそっとしておきたい。せめて目が自然と覚めるまでは休んでいてほしい。けれども医者が、いつ目覚めるか分からない、とそう言ったから。一ヶ月までは待った。それでも眼が覚めることはなかったから、ひとつずつ、彼の体に根を張るように、機械をつないでいく。

 すべてを把握するために。

 一歩ずつ前へ、すすむ、ために。

 そうして開けた頼朝の世界は傷ついた義経には広く、そしてうつくしく。

 こんなうつくしい世界を持っていたことをつまらないと、かつて言った自分を、義経はうらんだ。


 夜子はノーチェが広げたインターネットという網に引っかかった、すべての条件の合うただ一人だ。

 身寄りがなく、過去に他者に虐げられたことがあり、金のためならなんだってする――頼朝の孤独にまっすぐに寄り添える強さを持った人間だ。義経にはできないことができる人間を適格にノーチェは選んできた。

 その証拠にノーチェと朝はすぐに夜子になじんだ。そして夜子もすぐに頼朝の世界になじんで、あたかもはじめから居たように、着実に彼に近づいている。

 分からないふりをしていただけで、本当は義経だって気付いている。ノーチェの言う通り少しずつ解決に向けて進んでいることを。

 ふたつが重なるまでは確かにあと少し、なのだろう。

 夜子が度重なる人生に身体的に潰れるのが先か、義経が現実に押し潰されるのが先か。すべては彼女にかかっている。

 それでも子供のような意地で、義経は夜子に気の利いた言葉一つさえ投げかけられない。その稚拙さがただ、悔しかった。

 義経のこの悔しさも嫉妬も他人から見ればさぞや滑稽なものに違いない。コーヒーを飲みながら彼女はぼんやりと思考する。苦みの強い液体は喉から四肢へ、さらには頭の奥底まで沁み渡っていくようだ。

 頼朝は、コーヒーに何も入れずにブラックのまま飲む人間だった。不思議なもので双子の好みは似ており、義経もそうだ。けれども夜子にはそうだと伝えたはずはないのに、はじめから夜子は心得たように義経にブラックコーヒーを渡す――彼女はそういった察しのいい子供であり、無自覚にこなしてしまう才があった。すなわち、人に愛されようとすること。気に入られて、不興を買わないようにすること。

 彼女の器用さは義経から見ればただただかなしかった。

 義経が彼女について知っていることは多くはない。面接で尋ねた数点だけ。

 友人は、少ないらしい。

 家族は、交通事故で亡くし、十歳から孤独の身だ。

 どれだけの孤独を背負って、金だけを持って周りから疎まれてここまで生きてきたのか義経には想像もつかない。けれど、そのひたむきな姿勢としなやかさはその中で培われてきたものだろう。夜子の弱いところを極限まで擦り合わせて出会わせた、頼朝の世界で再現されたものでしか夜子の過去は知らないけれど。現実の彼女は傷を抱えて生きてきた人間にしては優しすぎて、正直すぎた。

 それが頼朝が惹かれる原因なのかもしれないし、夜子が頼朝を放って置けない理由なのかもしれない。

 彼女にそうかと問いかけたことはないけれど、義経は、二人の恋がうまくいけばいいと、近頃、ひそやかに願っている。

 

 胸元のものが一瞬震えてすぐにかん高い音が鳴り響く。聞き慣れた音に頭が痛む。規則的なぜんまい同士が擦り切れるような悲鳴。うねり、高く広がる歌のようなそれは、頼朝が会社から支給されていた折りたたみ式の携帯電話の着信音だった。今は引き継いだ義経がそのまま使っている。外界との唯一の交流の手段だ。

 夜子が険しい顔をして耳をつんざく音を聞いている。

 出ないほうがいいんじゃない、と視線で投げかけられた、自分を案じた声なき言葉に義経は笑った。どうしようもなく、仕方がないことなんだ、と。夜子をこの場所に引き込んでたったの半年しか経っていない、けれども。

 彼らにとっては五年だ。被験者たちにとっても五年の歳月が過ぎた。

 五年は、長すぎるほどだ。だからこそ、連絡は絶ってはいけない。今か今かと手ぐすねを引いている人間たちに餌をやらなければ、いつ誰かがまた頼朝のように刺されるような立場になってもおかしくはない。

 それが義経だけならいいけれども、他の人間に向けられたらと考えると寒気がする。

 もうくり返すことには飽き飽きだった。駆け寄る焦りと流れ出る血を見た絶望感と、それに付随するすべての負の感情も二度と味わいたくはない。

 うらみつらみを受けるのが、自分だけだと明確に分かっているだけ、まだいい。電話の一本ぐらいーーそれがたとえ精神をすり減らすことは分かっていても軽いものだった。なにも苦しみが続くわけではない。心は重く、時折痛むけど。

 夜子に礼代わりに片手を上げて義経は台所から出る。

 言い訳の言葉と、甘い、相手をだます嘘なんて聞かせたくはなかった。まっすぐな夜子には荷の重い話だ。

 余計な心配はかけさせたくない。

 台所からしばらく歩いて、音が届かないところまで来たことを確認すると、義経は重い指先を奮い立たせて、胸のポケットから携帯電話を取り出す。

 まっくろな携帯電話だ。小傷がついていて、全身に悲愴感をまとっている。

 まるで頼朝のようであり、夜子のようであり、義経のようなくたびれた姿だった。

 折りたたんでいる機体を開いて、電話をとらなければならない。

 そういう立ち位置を自ら選んだのに、真っ当しきれなくて、こんな自分の弱さが嫌になる。

 義経は眉間にしわを寄せる。

 もう子供ではないのだ。産み育ててきた親に頼りきりになるような、幼子ではない。

 ひとりで立つために。悪人になるために親は退けた。周りは敵ばかりだ。自分の選択の結果だというのにどうしてこんなに今、弱気になるのか。

 電話に出ない方がいいんじゃないと、気まぐれに優しくされたせいだ。ひとつのことで調子が狂うとすべてがおかしくなる。

 きっとこの電話は、義経を傷つけるだろう。

 それでもとらなければならない。

 それが役割なのだからとるべきだ、逃げるな、とやっと決心がついて電話を受ける。

 耳に当てた、その、機体を、後ろから伸びてきたきれいな手がさらっていった。

「はぁい、もしもし」

 おっとりとしたやさしい声が耳をくすぐっていく。

「義経さんは席を外してまして、はぁい、うん、そうです。お任せくださぁい。もう終わりますからぁ。まもなく終わりますよ、これも。はい、はぁい、失礼しまぁす」

 電話が切れる。あっという間だった。

「ヨネ」

 ぽつんと声が漏れた。

 細くて弱い声だった。

 ヨネが携帯電話を折りたたみながら言う。天啓を授ける神様のように。

「大丈夫よぉ。わたし、思いついたの」

 弱くてくじけがちな王子様を起こす方法、とうたうように言ってヨネが義経の手を引いた。大きな薄い布をまとった姿は、まさに幸福を授かった童話の姫のようだ。

「ねえノーチェ!」

 連れ立って入った台所にはノーチェと朝と、まっすぐな目をした夜子がいる。その目が一瞬だけやさしさでかげって、声なく義経を案じてくる。大丈夫だったの? と。

 彼女を見返すことができなくて目を伏せた。傷つかなくてすんだ、ということに対しての安心感とそう感じてしまった自分への不甲斐なさに言葉すら出ない。

 ヨネは二人の間に漂った空気には気がついているだろう。気がつきながらも、見ないふりをするのが彼女の美徳だ。少しの沈黙の後に空気を和ませようと子供のように声を上げる。

「思いついたのよ。やぁこちゃんと義経さんを混ぜたら、今なら潜り込めるんじゃない?」

 無垢すぎる言葉に、目を見張った。

 先ほどまでの後悔の念を忘れて、夜子を見る。夜子も驚いた顔をしてこちらを見ていた。

 目があって、灰色と黒が溶け合う。

 頼朝の目をかい潜り、彼の支配する世界の深層部へ。

 それはとても、魅力的な提案だった。

 ヨネの言葉に紺色の目をまたたいた小鳥は、一度だけ目を閉じて、静かに人工知能らしく計算結果を告げる。

『その方法も可能かと。頼朝の世界も前回夜子さんが近づいたことにより劇的に変わりました。義経さんが潜るなら今かもしれません』

 今かもしれません、なんて。

 ずいぶんと人間らしい不確定な物言いをするではないかとノーチェを見れば、肩をすくめるように羽を広げて彼は応じる。その横で本当の幼子のように朝が笑顔を浮かべた。頼朝の幼い姿を模した、誰よりも頼朝のことを知り尽くした、彼によって生み出された人工知能だ。

『道案内ならおれに任せてよ』

 一番のところに連れて行ってあげる、と告げる声には自身が満ちあふれていた。人間ではないのに人間のように話す、ふたりのその態度に、反吐がでて唇の端を噛んだ。お前らは何様のつもりだ、と責め立ててやりたいが時間がない。義経はふたりのことは好きではないし信用できないが、今は好き嫌いの問題ではない。

 初心に戻れ、と苛立つ思考に喝を入れる。利用しつくせ、すり減るまで。そう決めたのだから、このぐらいで苛立って、突っぱねてどうするのだ。

 好きか嫌いか、信用できるか、できないかなんて今はささいな問題だ。

 ただひとつの願いのために。

 過去をくり返すばかりの世界から今回を最後に叩き起こしてみせると鮮やかに思考して、今回ばかりは反対の言葉を押し殺し、義経は静かに了承の言葉を紡いでみせた。

 その姿をふたりに観察されていることには、とうの昔に気がついていた。


 ひとつに混ぜ合わせるためには体もより近くにあった方がいい。そんなノーチェの言葉に従うまま、施設で一番大きなカプセルの中に義経と夜子は二人で横たわっていた。大きさが特別製とはいえ、もともとが一人用の入れ物だ――無理やり押し込んだそこは広いとは決していえなくて、背中のごわつきに耐えながら顔をしかめる義経に夜子が言った。

「あんたとこうして一緒に入ることになるなんて思ってもなかった」

「私もだよ」

 ゆっくりと扉が閉じていく。

 ガラス越しに見えるヨネの目はひどく凪いでいた。揺れ動く彼女の感情に、問題なく大丈夫だと、視線を向けることでこたえる。扉が閉まりきって稼働する、少しの沈黙の間に義経は言う。

「君に頼んでいいかな」

 現在の状況に対する動揺や緊張をときほぐす為の義経の会話にすぐに夜子は応じた。

「なにを?」

 返答する声は固かった。

 義経は目を閉じて、すぐ隣にある彼女の顔色をうかがうことなく口にする。

 ずっと、ずっと彼女にお願いをしたいことがあったのだ。

 義経の頭の中でさまざまな記憶が入り混じる。彼女とはじめて会った時のこと、まっすぐに黒々とした目で「金を稼げるならなんだってする」と言い放って施設の行く先を明るくしたこと。動機は十分だった。

 なりふり構わない、いつか手ひどいことをした少女にどこか似ている女、強い子が良くて、あとは任せると言った義経に条件を満たす人間をノーチェは連れてきた。

 きっと過去もひどい扱いを受けてきたことでしょう――この子は強いですよ、そう言ったノーチェと朝を義経は責めたりしなかった。むしろ感謝したのだ。彼女は発破材になると。この終わりなき旅を終わらせる存在になると。

 たとえばこれが最後ではないとしても、終わりがいつやってくるかも分からない。そうしたら――そうしたら。今が伝える時だと、義経の培ってきた直感が告げている。

「頼朝が目が覚めたら、彼を頼むよ。あいつはひどい泣き虫だし、君が潜った先で感じた通り、どうも弱いところがある。君を、ここまで巻き込んで申し訳ないと思っている。……それでもさ、どんなことをしたって、私の弟なんだ。私は彼に楽しく人生を送ってもらいたい。幸せに、なってほしい」

「それはあんたが頼朝さんに直接言うべきことでしょ」

 あたしは伝書鳩じゃないのよ、とそっけなく言う夜子の声はかすかにふるえていた。

 ああ、人間の感情の機微に対して勘のいい子だな、と義経は思う。

 頭のいい、勘のいい子は嫌いじゃない、とも。

「頼むよ。ひとりきりの、弟なんだ。今まで私が受けてきた以上に」

 カプセルが稼働する低いモーター音の中に、麻酔の混じった空気が流れ込む。

 少しずつ空気を取り入れて、まどろむ意識の中で言葉を絞り出すように、義経は告げた。

「……きみが、しあわせに、して」

「あんたたちって、ほんと……」

 それ以上の反論は耳に入らなかった。代わりに意識が深く落ちていく。今度は、はじめての時のように全身をめぐる痛みはなかった。

 意識を失うように眠りに落ちて、どこまでも別世界へ潜っていく。

 いくそうもの網をくぐり抜けて義経は小さく、細かく、ろ過されていく。両親への悲しみ、失望、他人への期待、記憶がすべて世界に飲み込まれてそしゃくされて、ゆっくりと沈んでいく。

 はたして、すべてをそぎ落として、残る義経とは、なんなのだろうか。

 ふとそんな疑問が頭の端によぎったけれども、思考したものもすべて、泡のようなもろさを持つ、夢に変わる。

 はじけて消えて、むすんでひらく、強制的になされるそれに、痛みもたいした感情の動きもなかった。ただこのまま、永遠にくり返すかと思った先に。唐突に終わりが訪れた。

 耳鳴りが頭を穿つ。

 その瞬間、夜子が目覚めて、一面の青い世界が視界を満たした。

 ほう、と義経は夜子の中で息を吐く。二人を混ぜるといっても姿形は夜子のまま、意識だけが夜子に組み込まれたようだった。すべての主導権は夜子。それでいいと、義経は思う。そうじゃないとこんなにあっさりと義経をこの世界は受け入れないだろう。

 光景は、モニター越しに見ているよりも青く、そしてみずみずしく、記憶の中そのものであって、寒気がするほどだった。

 あのときのままだ。

 義経はとうの昔に置いてきた記憶を掘り起こす。

 あのときの、そのままだ。

「……ずっと君が見てたものをようやく私も見れた。しかし、思ったよりもつまらないな。しかもできることがそれだけか。こんなのにずっと怯えてたなんて」

 夜子の耳を借りて飛び込んできた言葉が胸をえぐる。このとき、義経は自分勝手に頼朝を振り回しただけで、なにも先を考えていなかった。このときあったことがいかに頼朝の心を傷つけたかなんて、考えてもいなかった。

 子供だったのだ。

 独立したふりをしていながら、義経は子供だった。

 どうしようもなく情けなくてため息がこぼれる。

 しょうもない、呟けば、呼応するように鼻で笑った夜子が扉を開け放った。

 ほんとね、どうしようもない女だわあんた、と強い声が頭の中ではじける。

 扉の先には義経の記憶が正しければいく人もの人がいたはずだ。被害者となった佐々木依子、義経が手足のように動かしていた男が三人、そして義経自身と――頼朝がひとり。ノーチェと朝は黒子のように佇み宙を生き物たちが舞う。

 しかし、かつて自らが起こしたこの出来事が、朝のいう、一番のところ、とは一体どういうことだと思った瞬間、思考が止まった。

 そこにはそんなに大人数がいるわけではなくて、室内に佇むのは、頼朝ひとりだけだった。

 他はすべて等身大の、人物ひとりひとりに合わせて体格など似せられた精巧なマネキンで。なるほど、一番のところという、意味をようやく義経は理解ができた。

 ここは、よくできた舞台だった。声だけが無情に、つめたく響きわたる。頼朝の記憶のまま。

 かわいいね。

 その声は間違いなく義経の声だというのに、本人がいないということを頼朝が一番よく知っているとでもいうように。他の人間を適当にあてがうことなく、生きている人間は頼朝ひとりきりだった。

 唖然とする義経を置いて、夜子の動きは早かった。

 振り返り、目を見張った頼朝の細くやせ細った腕を、彼女は掴むことをためらわない。

「やっとつかまえた!」

 決して逃がしてやるものかと声に気迫が満ちていた。生唾を飲み、世界に宣言するように、夜子は叫ぶ。

「もう逃がさないから!」

「い、いやだ! やだ! はなして!」

 その反応ももっともだ、と義経は思う。ここまで逃げたのだ――逃げきってみせたのだ。彼が願いを続ける限り、諦めない限りはこの世界は終わらない。終わらせたくない、その一心でもがく姿は、子供のようだった。半狂乱になってわめく頼朝は、義経の予測通り彼の名前を呼ぶ。

「たすけてノーチェ!」

《ノーチェ》、夜の神様の名だ。

 もう一回、頼むから、と。夜子の後ろに飛ぶ彼へ手を伸ばす。

「だって僕は、まだ僕は、ふつうに、なれてない!」

 叫び声は悲痛で、はかなかった。

 見えたくない、こんな常識では考えられないようなもの、誰も彼もがおかしいと言って離れていった、こんな自分を切り離したい、でも切り離せなくて、どうしたらいいか頭がおかしくなりそうだ、それよりもなによりも愛されたい。僕は受け入れられたい!

 夜子の手をつたって、頼朝の感情が満ち潮のときの波のように、深く高く押し寄せてくる。

 いたいほどの激情と強さだ。聞き続けていると、頭の芯がしびれてくる。

 視界が揺れて、大きくて黒い影の姿を幻視する。それがすぐ後ろから手を伸ばして頼朝を囲っているようにも見えた。異分子は許さないと告げるように、そのままそれの手で、つながった部分が、切り離されそうになる。

 けれど得体の知れないものにそんなことをされたって夜子はたじろがなかった。恐れもしなかった。彼女の手の甲に急速に食い込んだそれが、目の力強さに負ける。弾かれる。

 ゆっくりと、たわんだのは、星をまとった闇だった。

 この世界にずっとあって、深層にも満ちていた。

 頼朝を、守るために深層から彼を引き戻しにきたのか、義経が抱いた思考に応じるように夜子が指先に力を込めた。

 ――おまえの正体は分かっている!

 ――おまえは欲望を映し続ける夜だ!

 ――はかない虚構でうそっぱちだ!

 そんなものには彼を渡さないと義経は思ったし、そう、夜子も考えたようだった。より力が入った指先が、不健康にやせ細った頼朝の腕をきしむほどに握る。

「いたいよ! はなしてよ! あなたはどうして僕のじゃまするんだよ!」

「あんたをとめたいだけよ! ふつうになるってそんな大切なこと?!」

「そうだよ! 一番だ!」

「ふざけんな! じゃあふつうになるなんてくそくらえだ!」

 子供のような、怒鳴り合いの応酬だった。叫ばれた怒りに、対する夜子も攻め手をゆるめなかった。これが好機だと、どこかで考えているのかもしれないなと義経は思う。その背中を支えるのは義経だ。そっと、夜子を押し上げて、奮い立たせて頼朝を導けと彼女を追い立てる。

 頼朝は夜子の言葉に泣きそうなほどに顔をしかめたが、傷ついた顔は一瞬だけだった。すぐに凪いだ目になって、青い世界の中で存在がにじむ。

 輪郭をぼやかせながら、今度はこちらを責めるように言った。

「でも、そんなことが言えるのって、きみがふつうだからでしょ?」

 そうだ、たしかに義経と夜子は、頼朝のようにこんな世界がいつだって見えるわけではない。もちろん苦しめられたこともない。

 言われた言葉に義経は息を飲む。

 中途半端な同情は、彼の怒りをあおるだけだ。今回も失敗かもしれない――そう考えて夜子の中から義経は支えを諦めかける。

 別に今回がだめだったって、まだ次がある。

 体制を整え直して出直そう、と弱気になった義経の思考をはねのけるように、夜子がひとりで立った。

「じゃあ、あたしがふつうじゃなければいいのね?」

 その、とてつもなく低い声に頼朝が肩を揺らした。

 嫌な予感がした。

 義経も驚いて、なにをする気だと彼女に問いかける。けれど、夜子が義経の問いに答えることはなかった。

「ノーチェ」

 たわんだ星空、世界が徐々に色濃くなって、視界があわくすべてがあやふやになっていく。それでも確かに掴んだ頼朝の腕を離すことなく、夜子が言った。

「あたしを、頼朝さんと同じにして」

 深海のような世界でその声はなによりもはっきりと耳に届いた。

 止めなければ、と義経は思う。大人として彼女の無謀な行為をやめさせなければならない。

 なんのために一緒に潜ったのか、今までだって夜子が潜った先を、義経も見ていて、圧倒的に危険な行為はノーチェを通してさせないようにしていた。そうして彼女を守りながらここまで来たのに。

 ――そんなの、君がこれから苦しむ理由にはならない!

 義経は夜子の思考回路をかき乱すように叫ぶ。少し混ぜられているだけの体では、止めることなんてできやしない。それでも彼女が立ち止まるきっかけになればいいと、義経は叫び続ける。

 やめろ、やめなさい、と。

 頼朝が苦しんでいる姿をずっとそばで見てきた。だからこそ、同じにしてはならないと止めているのに。

 夜子は笑う。不敵な笑みで。

「あたしをナメないで」

 覚悟はとうにできてるのよ、と強くて張りのある声が、空間を裂く。

 雷に打たれたかのように頼朝がその言葉に反応した。焦点が合わさった灰色の目がようやく宙から移動して、夜子を捉えて丸くなる。

「やこさん?」

 つたない言葉が空虚に響く。

 その次の瞬間、足元が、一斉に割れた。

 正しく裂かれて砕けた先には、夜があった。

 眼下に広がるのは発光する道だ。いつか義経がモニター越しに見た深層の夜、夢のようなうつくしい世界。

 落ちながら頼朝の腕を握り続ける夜子の頭に、ノーチェが真っ黒な羽をふるって素早く降り立つ。ともすれば消え入りそうなその色に、かすかな重さに、物言いたげな羽ばたきの音に、夜子は一層嫌そうな顔を作ってみせた。

「まさか、あんたまで文句言わないでよね。ノーチェ」

『文句なんてあるものですか!』

 肩まで降りて頰にすり寄り、ノーチェは言う、いつものように。

『あなたの望みのまま、仰せのままに』

「それならいいわ!」

 夜子はよりしっかりと、落ちながら両手で頼朝を掴む。腕を両手で包み込まれた頼朝はかわいそうなぐらいにうろたえていた。

 その姿はもうすっかり、カプセルの中で眠る、彼そのものの年齢だ。

 ああ、彼に時間が戻ってきたのだと、義経は思う。

 彼が、夢見た時間が帰ってくる。彼自身に、そして、眠るすべての人間に。

 そしてくたびれた大人に戻った頼朝は、夜子の姿を改めて見て驚いていた。

 夜子もまた、時間を吸い込んで元の姿に戻っている。

 頼朝二十九歳、夜子二十四歳だ。

 二人とも子供ではない。

 その驚きを受け止めて、夜子が答える。

「頼朝さん、大人のあたしとははじめてね。あたしは夜子。金に惹かれてやってきた女。あなたとは縁もゆかりもない。でもごめんね、あたしはあなたとこの先ずっと一緒になるって決めた」

「どうして」

 頼朝の声が震えていた。膨らんだまなじりには涙がたくさんたまって、泣きそうだ、と義経は思う。

「どうしてって、そうあたし自身が決めたからよ」

 夜子の答えは求められた返答には足りないようにも思えたけれど、それでも頼朝の胸は深く打たれたようだった。彼女を見る光悦とした顔は、まるで恋をする女だ。

 ここに体を持ってこれなくて良かった、と義経は思う。

 間違いなくこの場所に居合わせたら義経はしかめっ面をしていただろう。弟のこんな醜態に。

 あんたもヨネの前では変わんないわよ、と間髪入れずに釘を刺されて義経は閉口した。夜子は容赦がない。

「あんたも義経さんも怖がりだわ」

 発光する道が近づくにつれ、二人が落ちる落下速度がゆるやかなものに変わっていく。

 周りは一面の星で囲まれていた。星々のきらめき、夜の最果てだ。

 背中にうるさいほどの星のうたを聞きながら、夜子はめいいっぱい彼に向かって笑ってみせる。

「義経も頼朝さんもみんなこれを怖がってばっかりで全然わかってない。ここは、みんなは、あんたを心配してる。気づけないなんて、かわいそうね」

 どうして捨てる方にばかり意識がいって気がつけないの、とやさしい口調にほだされて、頼朝がまごつく。

 夜子の言葉通り、どうして頼朝も義経も気がつけなかったのだろう。

 彼が使おうと思えばいつだって、味方をしてくれた。あの部屋での出来事がいい例だ。彼らは頼朝の武器になって、共に戦ってくれていた。

 物が人で、人が物で、そんな入れ替わりの認識など、どうってことはない、と夜子は笑う。

 頼朝も、そして義経も。彼らとは距離が近づきすぎて、苦しみしか見えなくなって、それだけしかないと思い込んでいた。決してそんなことはないというのに。

 こわいのは、ひとつずつ解決していけばいいのだ。くり返しの人生から学んだように。

 はじめこそ美しいと感じたことを、とうの昔に知っていたはずなのに。

「ノーチェ、やって。あたしは頼朝さんとどこまでだって、付き合うわ」

 そして夜子が幕を下ろす。

 この夜の終わりを告げる。

『はい』

 応じたノーチェが目を閉じて、蝶ネクタイの位置を直した。

 几帳面なやつ、と感心するように思考してはじめて。

 とうの昔に義経は自分が彼を人工知能以上に生き物として彼をとらえていたことに、気がつくのだった。


 昔、頼朝を救おうと決心して、彼と同様の立場に周りに扱われるために努力を続けた夜があった。

 電話に忙殺されて嘘を振りまきながら時間を稼ぎ、インターネットで自由自在に泳ぐ術をノーチェに教わった。ひとつひとつ、噛み砕いた説明は、それこそ常人の義経に合わせてくれていた、ことには気がついていた。

 ずっと義経を見守っていた朝が義経の記憶の中で笑う。

 昔の頼朝によく似た姿で。

(『どうしてそんなにがんばるのさ』)

 お前には分からんだろうよ、と突き放した答えは、たしかに、大人気がなかった。

 義経の言葉に傷つく様子すら見せない彼も、子どもらしくはなかった。

 その中でもノーチェはひどく落ち着いていた。義経の八つ当たりにも、朝のからかいにも反応することなく、静かに、うたうように言う。

(『そうすると、決めたからでしょう?』)

 ああそうだ。

 歯噛みしながら義経は思考する。

 そうすると決めたから、突き進むのだ、と。


「ノーチェ」

 変化の最中、施術中の本人の精神は無防備になる。そのことを義経はノーチェから聞いていて知っていた。ここに朝はいない。きっと深層では彼の姿はあってはいけない。それも当たり前のことだった。

 頼朝の副産物である彼も義経が持っていく。

 交代の時間だ。

「ノーチェ、そろそろ私の願いも叶えてもらおうか」

 突然口調の変わった夜子に、頼朝が探るような視線を向ける。

 その顔に笑いかければ、頼朝は呆然とした。

「義経?」

 その声があまりにも子どものときのようだったから、懐かしさが胸の中いっぱいに広がって、彼を抱きしめたくなったけれど。それは我慢した。

 これは、夜子の体だ。義経の体ではない。

「そうだよ、頼朝。そしてさようならだ。君の罪は私が持っていく」

 どうかしあわせになって。

 そこまで早口で告げて、頼朝はあらかじめノーチェと打ち合わせていた通り、ひとり世界から離脱した。

 こんなのは言い逃げだ。彼の返事を待つ必要はない。どうせうらみごとだろうから――違う。本当は義経は、分かっている。頼朝がうらみごとなんて、言わないであろうことは。うらみごとであってほしい、というのは、義経の単なるわがままだ。

 急速に浮かび上がる精神に、体が痙攣するように震えた。行きがゆるやかだったばかりにその衝撃はひどく体に応えたけれど、義経は自らの体をふるいたたせて、開いたカプセルの扉からひとり外に転がり出た。

 そこにはノーチェと朝と、ヨネが居て。少なからず義経は驚いた。当初の計画ではノーチェと朝だけを連れて行くにとどめていたのに。

「ワタシももちろん連れてってくれるでしょう?」

 その満面の笑みと鋭い眼光に義経はたまらなくなって頷いてしまった。義経と劇的な結ばれ方をしたヨネ、離れたくないと駄々をこねる彼女は恋するそのもので。夜子に似た、したたかな熱を感じて頷いた。その熱は、ゆくゆくは甘えになると分かっていながらも、だ。

 彼女から荷物と上着を受け取って、身支度を適度に整える。携帯電話は踏みつけてごみに変えた。

 義経はこれから終わりのない、旅に出る。

「お願いだ。私を悪人にしてほしい。とびきり恨まれる役がいい。どこまでだって頼朝のために逃げてやる。

 私にはそれができる」

 それが、ノーチェに願った唯一の、義経の願いだ。

 そのためにこの五年をかけてすべてを塗り替えた。世界の頼朝への認識を奪い去って、義経のものとした。

 今より、頼朝は五百人を眠らせていた悪人からただの犠牲者になる。

 そして義経は、肉親すらも犠牲した最低の悪人になる。

「義経さん。やぁこちゃんから、伝言よ」

 ずっと、潜った先を観察していたヨネが笑う。

「『あんたの犠牲の上でこれからが成り立つことを、あたしは絶対に忘れないから』だって」

「それは……怖いな」

 義経はほがらかに笑って、一呼吸して立ち上がった。ゆっくり休んでいる暇はない。

 体は軋みを挙げているけれど、心はとてつもなく幸せな気分で満ちている。大丈夫だ。疲労以上に達成感を抱いた体は、生きている。

 そして生き続ける限り、義経はすべての頼朝の罪を背負って悪人になる。

 義経は悪人としては幸せだ。かたわらには共謀者がいる。強力な味方がいる。

 ノーチェを駆使してどこまでも逃げるつもりだった。世界の夜の果て。どこにも見つからないところへ。

 もうじきすべてが目を覚ますだろう。続いた夜が終わり朝が来る。明けない物語などはない。目覚めた頼朝もまた、義経のしでかしたことを知って、驚くかもしれない。悲しんで、怒るかもしれない。身勝手なやつと責めてくれていい。

 彼が最後には笑ってくれるのならば、それでいい。

 奇跡も、痕跡も、つらい記憶もすべてを連れていく。頼朝にもう一度はじめからやり直せる機会を。それが、義経の望んだ完璧な悪人像だった。

 かたわらで不安げに目を揺らした、幼い頼朝に似た朝の頭の位置を撫でる。見上げる彼に向けてはじめて心からのほほえみの表情を作ることができた。驚いたように目を見張った彼はけれど、すぐに求められた反応を計算したのか、義経の手を握る。

 実態のない体は現実味がない。でもたしかに義経は今、幼かった頃に頼朝と二人で手をつないでいたことを、思い出していた。そこに一抹のさみしさを覚えないといったら、嘘になる。

 何度も振り返ってこれから目覚める頼朝の手を掴みに行きたくなるけれど。もう、彼の隣は、義経の居場所ではない。そういう手段をとったのだから、今更、諦めが悪い格好はつけたくは、ない。

 こんな思考を夜子なら、ばかね、と笑うことだろう。

 ばかが、ばかなりに、願った結果がこれなのだ。

 願いごとを突き通す、そのために、生きている。

 今はただ彼の幸せを作ること、それだけが、義経を突き動かしている。

 月が落ち、夜が明ける。

 旅人が二人、追われる前に、ふたつを伴って、そして、失われた物語とともに、消えた。

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さよなら、ジェミニ 井村もづ @immmmmmura

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