さよなら、ジェミニ。:頼朝の場合

 目が覚めたら流星の尾の上にいた。先端の星ははるかかなた先の方にいってしまって、尾だけがどこまでも眼下で伸びて、青白く発光した一本道が続いている。

 一体ここがどこなのか、頼朝には見当がつかない。周辺を探ろうと視線を巡らせたけれど、周りは闇のほかになにもなく。ただ道のみが前後に伸びていた。

 遠くまで伸びるそれは、時折ゆるやかにうねっている場所もあるが、基本的に一つに変わりはなかった。発光する道の正体は柔らかい砂だ。はだしの指先で確かめるように何度も握りしめる。さらさらとした感触の砂は上等なシルクのように肌ざわりが良く、頼朝の足をどこまでもやさしく包み込んでくれるような安心感を与えてくれる。

 立ち呆けていると、傍らにひとつの黒が降り立った。

「ノーチェ」

 見慣れた顔に安心したが、それも一瞬のことだった。空間となじむその色は、道の上に止まってようやくその存在が認識できる程度の存在感だ。この闇の中ではどうにもかすんでいるようで不安になる。でもそのかすみを気にしているのは頼朝だけのようだった。

 彼ははじめて会った時と変わらず、礼儀正しく一礼をする。

 真っ白な蝶ネクタイには、繊細な模様が同色の糸で刺繍ししゅうされていて。幾何学きかがく模様のそれは、光を受けてかすかに凹凸をきらめかせた。

『行きましょうか』

 見知らぬ場所にいることを動揺することではないと伝えるように、ノーチェが頼朝を招き、先に低空で空を滑るように飛び始める。頼朝はとっさに腕を伸ばし、その長い尻尾を壊れないようにつまんで、てのひらで包み込むように彼を捕まえた。すぐに翼をたたんで手の中でノーチェが振り返る。鋭く細められた紺色の目は静かに光っていた。

 非難するような表情に頼朝は頭を下げる。

「乱暴にしてごめん。その、迷子になっちゃいそうで」

 苦しい言い訳だ。この先は一本道なのだから迷いようもない。

 本当は一人になってしまいそうで怖かった。そんな幼い子供のようなことが言えずに頼朝はまごつく。

『構いませんが、手の中では落ち着かないので肩にとまっても?』

 ノーチェは頼朝の言い訳を追求はしなかった。ただ代替条件を出す。肩に落ち着きたいだなんて、彼にしては珍しい言葉だった。驚きながらも頷けば、最近は朝の頭に止まっていましたから、と彼が肩に爪を立てながら言う。

 そうだ、朝は、どこにいるのか。

 容姿としては幼い頼朝をモデルにしているが、彼の中身は頼朝よりも格段にノーチェに近いものだ。彼こそノーチェの隣に並ぶにふさわしいと、彼を仕上げた直後におののくように感じたのに、すっかり存在すら頭から抜けていた。ノーチェが口に出さなければ忘れていたに違いない。

 頼朝の脳に疑問が次々と浮かんだけれども、すぐにノーチェが前へ進むよう言ったから、口に出すきっかけを失った疑問は心の奥へとしまわれてしまった。

 透き通るような声に導かれて頼朝はゆっくりと光の道へ歩き出す。

 意を決して踏み出せば、景色が変わるのは一瞬だった。

 真っ暗な闇の中からまばゆい光景が目に射し込む。満天の星が視界いっぱいにビロードのように広がって、ひんやりとした水の感触が指の間に入り込んだ。冷たさはなく、むしろやわらかい、心地よささえ感じる水は空に対して平行に並んで鏡の役割を果たしているようだった。上下を星に挟まれる。夜空の中を歩いているような場所だ。あまりのうつくしさに先ほどまでの不安を忘れて、頼朝の心は浮き足立った。

「ノーチェ、これは?」

『佐々木依子の世界ですね』

 言われた個人名になにも思い当たらず頼朝が首をかしげると、ノーチェは少し考えるそぶりを見せた後に言い直した。

『頼朝、あなたが作った世界です』

「これが? そうか、そういえば見たことはなかったな……」

 頼朝は顧客の求めるままに、被験者のより深い場所に潜れる空間を整えることが今の仕事だった。それだけの仕事で、完成形など見る必要もないと思っていた。

 人間の人格を暗示と電気信号によって塗り替える――そんな彼自身がノーチェとともに開発した、人生をやり直したい人間にとっては夢のようなシステムを買い取った義経は、単純なプログラムだけでは飽き足らず、常に細かい仕様の更新を求め続けている。夢を見たまま理想の世界で気持ちよく次の新たな自分になれるように、被験者が眠りに落ちた瞬間ひとりひとりの好みに合う世界を瞬時に組み上げる、そんな繊細な仕事は頼朝にしかできないんだそうだ。

 一度はノーチェに任せればいいと突っぱねた仕事を、それでも頼朝に頼みたいと何度も嫌な顔をしながら部屋に足を運んだのは義経だった。その最中で、人工知能に人間の気持ちが本当に理解できていると思うのか、と義経は何度だってくり返し言った。ささいな変化、機微きびは、同じ人間にしか理解できないだろう、と。

 でも頼朝以上に良い技術を持った奴はたくさん世の中にいる。ここにわざわざ来なくても彼女が言いつければ食いつく子飼いの手下は山ほどいるだろうに。他に適任がいるだろうと頼朝が言えば、ノーチェと対等に渡り合える人間はお前しかいないと念押しをされ、通い詰められ、最後には彼が観念して引き受けた。

 抵抗を諦めて、作り出したものがこんなにうつくしい世界なら、この仕事を引き受けてよかったと頼朝は思う。

「きれいだ」

『そうですね』

「ノーチェもそう感じるのか」

『ええ』

 うつくしい仕事だと思います、と言われた言葉はするりと心に落ちて頼朝の顔がゆるむ。褒め言葉はどんな時にだってうれしい。それが長年寄り添ってきた自分よりもすごいものからなら尚更だ。だから、しまりのない彼の顔をノーチェが観察するように見つめていることなど、何も気がつかなかった。

 勢いよく次に足を踏み入れたのは一面の花畑だ。視界いっぱいに黄色の花が咲き乱れている。地面が一向に見当たらない。諦めて花を踏み、折りながら歩くと、途中から地面が突然やわらかな砂に変わり、青空が満天の星空に変わった。

 また、誰かの世界だとノーチェがうたうように口にしたけれど、その名前は頼朝には届かなかった。

 彼は夢見心地のまま歩き続ける。

 発光した砂の道を踏みしめ、さまざまな世界に足を踏み入れて、一度たりとも後ろを振り返ることはしなかった。

 ただ前を見つめて、信じられる道は一本だと、自分がやってきたことは決して間違えていなかったのだと、うつくしいものを見ながら全身で表すように歩き続けた。

 疲れは感じていなかった。立ち止まる時間が惜しくて、彼は無我夢中で歩く。

 だってこんなにもうつくしいのだ。

 なにもかもがうつくしかった。

 痺れるような高揚は、ひどく頼朝を感動させた。思考回路が浮ついたままで、前進する。道が続く限り、どこまでも。

 頼朝がこなした仕事は少なくはなかった。

 ほの暗い水の奥底のレストランや、花のがくに包まれた寝室、雲の中の喫茶店、星に立つ灯台、崖に斜めに立った家、一日中夕暮れのホテル、組み合わせは突飛でめちゃくちゃだった。それでも頼朝は数え切れないほどの顧客の要求を消化し、その度にうつくしいものを作り込み、データを義経に渡してきた。

 夢のような光景だ。

 いい、仕事の産物だ。

 歩きながら、うつくしいものが現れる、この夢がどこまでも続けばいいと、頼朝は思った。

 次いで、人格の矯正を、体験した被験者の彼らも同じように感じてくれただろうか、と考える。

 こんなうつくしい光景が見られたのだから、変化も悪くない、と。彼らが新しい自分になった後に思い出す故郷が、この光景ならいいと、自分は一度だって傲慢に考えたことはなかっただろうか。

 頼朝は自問する。

 それともその仕事に対する傲慢さこそが、義経に見抜かれていた自分の本質だとでも言うのだろうか。

 愕然がくぜんとしながら、嫌な考えを振り払うように首を振って歩き続ける。

 世界を塗り替える、筆は、自分の足と、これからこの体だ。頼朝自身だ。

「この景色は、いつまで続くんだろうか」

『いつまでも』

 うたうようにノーチェが答えた。

 そうか、いつまでも。うつくしいものを見て余計なことを考えずに前に進めるのならば、それもいいと頼朝は思った。

 うつくしいものを見ることは気持ちがいい。心が癒される。うれしい。こんなにうれしいのならばもう少しあの仕事を続けたっていい。頼朝は気に入らないが、引き続き仕事を受けよう、鼻歌をうたいながら歩く。

 そして、新しい自分になった被験者には爆弾だって仕込んである。頼朝が経験したように、幻覚を少しずつ脳に擦り込むように残しておいた。日常生活に戻った彼らは、自分の故郷が現実に食い込んでいく姿を見ながら生きていくのだ。きっと、それは頼朝とは違って楽しいに違いない。

 でもそれでいい。見るものが違くて当たり前だ。幻で現実を侵食したかった。ひとりひとり違ったもので。

 そしていつか、頼朝だけが恐怖で苦しむ世界でなくなればいいと、連なるように考えていたのに。

 あなたが望む限りはいつまでも、と少しおいてノーチェに言われて、心の高揚が一瞬で静まった。

 ノーチェはその言葉の通りいつまでもこの景色を見せてくれるだろう。幸せな記憶は快楽だ。褒め言葉は麻薬だ。深みにはまろうと思えば急速に沈んでいける。這い上がれないほどに。

 けれど、それは逃亡だ。見たくないものからの逃げの手段だ。歩んできた道はうつくしいものばかりではないということを頼朝はもう、何度だって経験しているし、知っている。

 そうだ、これは夢だ。

 すべて、夢だった、ことに、気がついてしまった。

 この世界で目が覚めてもそれは変わらない。

 夢はくり返すものだ。

 その中で眠り続けていたって結果、快楽だけが残る。

 、やり直すことはもういい、と頼朝は思う。今になってはじめて、彼は思う。

「夢は、もういいよ」

 感じたことを言葉にすれば、すんなりと事実が脳になじんだ。

 弾かれたようにノーチェが頼朝の目を見る。見開かれた紺色が、つやつやと水気を帯びていて、まるで人間みたいじゃないかと頼朝は笑う。

 そうだ、彼は。人工知能だけれど。

 過ごした分だけ、それだけでは思えなくなっていたのだった。そのことを思い出して迷いが吹っ切れる。

 人に近いものならば、ここで、嘘を吐かないでほしい。

 深い群青の色を見返して、頼朝はためらいなく言う。

「本当を、見せて」

『あなたは』

 言いかけて、言葉を飲み込んだノーチェが鋭く鳴いた。高音のそれに空間が震えて、うつくしい景色が一気に様変わりした。

 目の前に広がったのは、頼朝がいつも見ていたものだ。

 物が動物になり、空を生き物が飛ぶ。地面を這う四つん這いの人間に世界がぐらつく。

 伸びてくる手を叩き落とした。

 大量の苦しみが頼朝を追い掛ける。世界は非情だ。でも、それこそが世界だった。今まで築いてきたものだ。

 逃げるように頼朝は懸命に道を駆けた。走ることなんて慣れてないのに今までに無いほど必死で走り抜けた。心臓の音がうるさい。まるで運動会だ。遠くに見える終点は明るい光の点で、そこにこそ救いがきっとあるだろうと希望を抱いて走り抜けた。

 飛び込んだ先は見慣れた景色だ。もたつく足で入った、いつも過ごしていた部屋は、世界から切り離された安寧の場所だった。何事にも侵されることのない、そう信じてきた。

 その中で、夜子がいた。

 頼朝にしか見えないはずの幻と語らい、共生する彼女がいた。その姿に驚きながらも、頼朝は見とれてしまう。

 凛としてそこに咲く、彼女の後ろ姿は、ひどくうつくしかった。

「ノーチェ、彼女に見せたの?」

『はい』

 余すことなく、と言われて。

 どうして、と激しく鼓動を打つ心臓をようやく落ち着かせて、穏やかな気分で頼朝は問いを投げた。

『彼女が、望んだからです』

 ノーチェはどこまでも純粋に言葉を返した。

『そしてあなたも、望んでいたでしょう? 頼朝』

 誤ったことはしていないと自信を持った口調だった。かなわないなあと、頼朝は思い、目を伏せる。

 そうだね、と静かに答える。

 ずっと、夢の中で、彼女のような人間を待っていた。

 夜子は理想的な人間だった。この世界の中で唯一、頼朝のすべてを受け入れることのできた人間だった。強くて、しなやかで、やさしい人だ。家族を亡くして親戚をたらい回しにされたことにより、他人と関わることを恐れながら、それでも頼朝に手を伸ばすことを諦めなかった。

 でもその人生ももう終わりだ、と頼朝は思う。脳裏を彼女と過ごした平穏な日々が巡っていく。その生活を手放すのは正直惜しい。

 そろそろ彼女を、逃がさなければならない。

 彼女に、しあわせになってもらいたい。それだけだった。それだけが頼朝を突き動かしている。

 思考はひどく透き通っていた。幻への苦しみもない。それが本来の状態なのだと今なら分かる。

 だって願ったのだ。頼朝は、ノーチェに出会ったときに。

 苦しみを忘れたい、って。

 幻を現実にするための手伝いもその過程だった。すべてうまくいって――うまくいきすぎるほどに、うつくしい仕事をして。もう十分だと頼朝は思う。

 夢はもう終わりにすべきだ。

彼女の年齢はいくつ?」

『二十二歳です』

「じゃあここでの生活も現実に追いついたわけか」

『……ええ』

 夢の終わりを決めなければならない。

 そして彼女の人生を変える決定権を持つのは、頼朝だ。

「はじめて、救われたよ。嬉しかった。こんな人も居るんだね」

『それは、なによりです』

「うん。長い……長い夢だった」

 ノーチェは頼朝がこの選択をすることが分かっていたのだろう。彼の肩から離れて夜子の方へと飛んで行った。

 ノーチェの羽ばたきに気がついて彼女が振り返る。小さな体を頭に止まらせた、整った顔が、一気にぐしゃぐしゃと歪んだ。

 頼朝の腕の中に夜子が飛び込んでくる。

「頼朝さん!」

「夜子さん」

 抱きしめた彼女の体はあたたかかった。

 現実に彼女を抱きしめたらこんなぬくもりがするのだろうか、もうそんなことは確かめようがないけれど。

 まだ見えない、未来というものに再会を求めてしまう。

 またふたり出会って、平穏な日々を過ごすことを。

 そして頼朝が夢から本当に目覚めたとき、彼女が変わらず頼朝に手を差し伸べてくれることを。

「六年間、本当に有難うございました」

 彼女にはこれからの人生がある。ここで引き止めてはいけないと頼朝は思う。彼女を引き止めてこのまま生活を続けるのは頼朝のわがままだ。一存で捕まえておくには、夜子はもったいない人間だった。

 だから、彼女を解放することに、決めた。

 もし気が向いたら、またここに戻ってきてほしいなんてことは言えない。ここは頼朝の世界だ。頼朝の贖罪だ。こんなことに彼女のような人は二度と巻き込んではいけない。

 何度目かもわからないくり返しの中で、はじめて自分を救ってくれた彼女をいつまでもここに居させてはいけないと頼朝は思った。そう考えて、少し笑う。そんなことを考えたのはじめてだ。

 彼女が頼朝を変えてくれた。

 頼朝に救いをくれた。

 その恩に報いたいと、思う。

 頼朝からの突然の礼に首をかしげた彼女へ、頼朝は言葉を選んで慎重に言う。

「僕がノーチェにした願いごとを、あなたに話したことはありませんでしたね」

 切り出した話題に彼女が体をこわばらせたのが分かった。

 それも当たり前だ。頼朝からノーチェや朝のことを口に出したのははじめてなのだから。

 彼らには夜子に、頼朝から見たときに彼らが隠すべき秘密だと思わせてほしいと伝えていた。弱みをさらけ出して正面からぶつかるのは怖いから、あえて見た目が心を解しやすいふたりに迫らせた。頼朝はかわいそうでどうしようもない人間だから優しくしてほしいと。ずるくて汚いやり方だ。

 夜子はそんな真実を知ったらきっと怒るだろう。頼朝の手の上で踊らされていた、と。

 けれど彼女は聡い子だ。今の言葉で、おおよそ察したに違いない。

 非難されて殴られるのを覚悟して、頼朝は言葉を続ける。

「僕はね、苦しみを忘れたかったんだ。そのはずだった」

 助けられなかった少女から、義経から、家族から――なにより自分自身を、忘れて逃げてしまいたかった。

 何も見えない人間になりたかった。

 かと言って、うつくしいものを捨てきれない自分がいることにも気がついていた。だから、幻を現実にして世界を巻き込んで見返してやる、なんて、幼いことを考えてしまったけれど。

 本当は、ひとりだけでもいい。

 嫌なものを捨てきれない弱くてわがままな自分を全部わかった上で、やさしくしてほしかった。

「理解してくれるだれかが、そう、たとえばだれでもよかった。こんなことを言ったらあなたは怒るかもしれない……でもできたらあなたが、隣に立ってくれたら。うれしいと、思っていた」

 そのためにずっとくり返してきた、と言うと夜子が頼朝を見た。

 強いまなざしだった。

 はじめて会ったときと同じだ。

「あたしは来たわ」

 ここまで来たのよ、と震える声で彼女が言う。

 そうだ、彼女はここまで来てくれた。同じものを見て、頼朝を理解しようと努めてくれた。

 ああ、それだけで。もう夢にしては十分だと、頼朝は思う。

 腕の中で震える夜子は前に進むべきだし、その世界に頼朝がいなくても、どうすることだってできるだろう。彼女ならば。うつくしくて、強い、彼女ならば。

「夢を見ていたんだ。くり返し、あなたの前にも、僕はいろんな人と、過ごしてきた。でもみんな、だめだった。だから、どうしようとも思わなかったけれど。夜子さんは、僕を助けてくれたから、だから」

「ねえ、あんたがなにを言ってんのか、分かんないよ。説明してよ。ゆっくりでいいから。あたしは聞く用意はできてるから」

「ううん……実は分からなくていいんだ」

 そんなことよりも彼女はこんなところにいつまでも居るべきじゃない。それだけは明瞭めいりょうに分かっている。別れが惜しくて引きずっていればお互いに傷つくのは分かっていて、離しづらくてどうしようもない。

 こんなにも彼女を大切に思うことができるだなんて、出会った当初は想像もつかなかった。

 そういうものが、恋だと、いつか義経が笑ったことがある。そんなに夜子を大切に思うだなんて、ずいぶんと可愛がっているなと。その時はばかにするなと苛立って思わず怒鳴りつけた。まあ私には分からんがねと言った彼女はここにはいない。

 誰よりも頼りになる片割れだった。

 ふたつでひとつだと、思っていた。

 先に進んだ義経にも、今、大切な人がいる。実際には会ったことはないけれど、きっといい子には違いない。夜子に優しくしてくれたと聞いている。

 ふたつはひとつきりになった。

 頼朝の隣には、誰もいない。

 今もそうだし、これからもきっとそうだ。

 自分がいなくてももう世界は問題なくまわる。それでいい。

 夜子もこれから自分の片割れを探すだろう。それが頼朝である必要はない。

 すべて、終わりにしよう。この夢は、先に進むべきだ。

 連なるようにさまざまなことを思考して、やっと、実行する気になった。

「ノーチェ」

『はい……いいのですか?』

「うん、やって」

 会話を聞いて、夜子の、頼朝の体を抱き締める力が強くなる。彼女の力で簡単にきしみをあげる体は、なるほど、もう少し食べるべきかもしれないと苦笑して――夜子にはいつもあんたは食べなさすぎだ、と怒られていた――彼女を最後に彼から一度だけ、強く抱きしめた。頼朝らしくもない。女性に対する感情のたかぶりが抑えられないだなんて。

 好きだった。

 たぶん、これからもそうだ。

 ぼくの、ゆめのひと。

 頼朝の感傷が伝わったのだろう、うるんだ目で夜子が訴える。

 離さないで、一緒に帰るの、あの家に。そう主張している。

 そうだね、できるなら帰りたかった、と頼朝も彼女を慰めたくなる。

 その真っ黒な目を、いつだって、きれいだと思っていた。

「やだよ、頼朝さん」

「やだって言われてもなあ」

 困っちゃうな、と頼朝は笑った。突き放さなければならない、痛みに胸が締め付けられる。

 その言葉は今、ひどく嬉しいけれど。

「今までで一番、嬉しすぎたよ」

 もう、夢は終わりだ。

 視界の青が深くなって、頼朝の目の前で彼女が足先から消えていく。風に吹かれて散る花びらのように、順番に崩れていった彼女はそれでも最後まで、頼朝から目をそらすことはなかった。

 頭の先まで髪の毛一本残さずに消滅した彼女から離れたノーチェが華麗に空中で一回転し、頼朝の肩に戻る。

『次はどうしましょうか』

 ノーチェがそう機械的にささやいた。

「どうにもこうにも、僕たちがやることは今まで通り。はじめからだよ」

 そう軽い調子で答えて頼朝は目を閉じる。そして、縮む――縮む、どこまでも。ここに朝がいないのは当たり前だと今頃彼は思う。

 頼朝は朝そのものだからだ。

 頼朝自身が元に戻る今、彼がいる道理はない。

 次に目を開けたら頼朝は朝と瓜二つの容姿になっていて、ようやく間違う前に戻ることができたと息を吐いた。年齢は幻が見えはじめる前だ。

 夜子のことは今までの同居人ように忘れたってよかったのに、なぜか忘れることができなかった。あざやかに、彼女がまなうらで微笑みかけてくる。

 とてもうつくしかった。

 今までと違うことには、少し驚いたけれど。傷を負ったってやることは一緒だ。頼朝は人生をやり直すために世界に飛び込んでいく。

 終わりのないくり返しに彼が絶望することはない。傍にはノーチェがいる。願いを叶えてくれる幸運の鳥だ。

 小さな彼が一礼し、世界にとけ込んで、星になった。

 はじめはいつもそうだ。ふたつが出会うその時まで、彼は星として空から見守ってくれる。

 ゆっくり息を吸って、吐く。心を決めて部屋を出る。

 そこには両親がいて義経がいる。家族に笑いかける。すべて元通り、昔のままだ。彼らが笑い返してくれる、このしあわせを、保たなければならない。

 何度だってもう一度。もう失敗しない。完璧な、普通の人生にしてみせる。

 そのためならば子供の真似だって、悪役だって、辞さない覚悟だった。良心が痛んで限界を迎えたらやり直せばいい。そのための仕組みは、もうできている。やっと幻を乗り越えたのだ。今度は見えなくなればいい。

 もう一度はじめから!

 周りには誰もいない。また一からだ。思い出のすべてに手を振って、そして。部屋にひとりきり。頼朝は星になった。

 

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