失楽園:夜子の場合
星が落ちて、月が満ちた音がした。
家の中はからっぽだった。誰も待っていないと分かっている今、足取りはどこまでも軽い。
夜の、ささやく声は、味方だ、と夜子は溺れるように考える。
そう思えるようになったのもすべて彼らのおかげだった。今だって傍に彼らはいる。真っ黒な夜の色を持つノーチェと、先導する朝と。
目の前には夜の世界が広がっていた。鮮やかに発光するクラゲも星空をかけるイルカも夜子を守るようにして周りを囲んでいる。
『行きますよ』
本当に後悔しませんか、と彼が言う。生きる都市伝説と言われた、人工知能のノーチェ。彼に預けられた頼朝の世界の中で、夜子は息をゆっくりと吐く。
覚悟は、とうに、決まっていた。
ヨネに頼朝の秘密を、聞いた、ときから。
「どこまでも行くわ」
答えると、世界が笑った気がした。
頼朝が自宅で刃物で刺されたと夜子に連絡があったのは太陽の位置が高い昼間のことだ。夜子が頼朝に引き取られて五年目の秋の頃――夜子は四年制大学の三年生で、学業に余裕ができてきていた。そろそろ就職のことも考えなければいけない、そんな矢先だ。
知らない電話番号からの突然の通話連絡に夜子は応じて、大学の食堂で言葉を失う。
だっていつも通り、行ってきます、と言って頼朝は眠っていて、ふたりが見送ってくれた。なにも変わりもない日常だったはずなのに。
張りのある声を持った女は手短にヨネの恋人であり、頼朝の姉であると自らの身分を明かすと、夜子に苛立ちを隠せない様子で早口で言う。
『頼朝は部下に救急へ運ばせて今は手術中だ。発見が遅れた。私のミスだ』
原因は逆恨みだろう、と断定するように義経は、言う。
私はこれからあの女を殺しに行く、と怒りをたたえた声に夜子は我に返って言葉を絞り出す。
「どうして、分かっているんですか。その人だって」
『見てたからだよ』
頼朝も女も大切な仕事相手だから見張ってた、と悪びれる様子もなく義経は言った。
頼朝の仕事は空間デザイナーの仕事だと夜子は聞いている。それがどうしてその女に刺されるような事態になるのか理解ができなくて、困惑した夜子の心情を読み取ってか、義経が言った。
『頼朝は空間デザイナーという名目の開発屋だ。私は彼に仕事を頼んでいた。仲介役なんだ。女は客で、昔、つながりがあって揉めたことがある』
「そのつながりってなんですか」
耳が素早く単語を拾い上げて内容の道筋を作り上げていく。疑問に思ったことをすぐ問いかけると、つかの間、義経は押し黙った。
『……本来ならあいつから話すべきことだよ』
少しして返ってきた答えは求めているものではなかった。誤魔化されたことに気がついて脳みそが怒りで沸騰する。
この女は探りがちな敬語では会話ができない。
そうだと理解してから、夜子の切り替えは早かった。
『それよりも君は病院に』
「あんたはどうすんの」
あたしよりも、と言葉をぶつけるように確認をするとそんなことはどうでもいいだろうと鼻で笑われて病院の名前を告げられる。突き放すような声に呆れも含んでいた。早く来いと言われている。この会話の一分一秒すら惜しい、と。
きっと彼女はこの電話を切ったらその女を先ほどの言葉通り、殺しにいくつもりだろうなと夜子は思う。
その怒りはもちろん、夜子にも分かる。頼朝は恩人なのだし、今の家を最後の家にしてくれた。その大きな恩義がある。けれども。
たとえばその女を殺したところで頼朝が喜ぶだろうか。
ヨネは、泣かないだろうか。
助けてくれたのよ、とヨネはかつて夜子の家を訪れて嬉しそうに言った。わたしを救い上げてくれた唯一の人なの、と地獄から救い出された彼女は夢物語を語るように言った。
ヨネは夜子にいろいろなことを教えてくれた。
昔、頼朝が救えなかった女がいたこと、頼朝と義経の関係について、そしてヨネ自身の変化のこと。
《人類救済計画》そのすべてを疑っていないかと言えば嘘になる。それでも思い当たることが多すぎて忘れることはできなかった。聞いた当時はちぎれていたひとつひとつが二年経って、やっと点で結ばれはじめる。
見えた道筋に、思考が冷えたように透き通る。
今、言われた通りに電話を切って義経を行かせてはいけない。
「あんたがいるべきでしょ」
会話をつなげるために夜子は懸命に会話を続ける。言葉を切らさないように、加えて効果的に訴えるように。こちらの動揺を見せてはいけない。義経は鋭いから、崩されるのは一瞬だろう。
殴りつけるように会話を続けるべきだ。
「義経さん。あんたが、そこにいるべきよ」
かすかに息を飲んだ音が夜子の耳に届いた気がした。
もっともすぐに何事もなかったかのように彼女は元通りだ。切り替えた態度で義経は大人らしく応対する。会話を続けながら、彼女はこういったやりとりは得意なんだろうなと夜子は思う。思っても引くつもりはないけれど。
『分かってないな、もう頼朝の中じゃ君が唯一の家族だっていうのに』
「それでも、本当の家族に勝てるわけがない」
彼女を止めるためなら、と同情を誘うように言う。普段の夜子だったら絶対に言わない言葉だ。予想通り言葉を失った彼女に畳み掛けるように夜子は言った。
「あたしにまずは任せてよ。頼朝さんには十分すぎるほど優しくしてもらったから、あたしが行ったっておかしいことじゃないでしょ?」
その結果に満足できなければ今度こそあんたの好きにしていいから、と夜子が言えば義経は吹き出して先に女と話をすることを許してくれた。
目的地は《ひかりの手》という宗教団体の本拠地、必ずノーチェと朝を連れて行くことと、それからこの取引は仕事を辞めることかが条件だと言われて驚いたけれど、頷いた。金は十分すぎるほどに貯まったし、何より成人を迎えてから年齢を逆手にとった変な客に当たることも増えてきた。制服を卒業した時点でそろそろ少女は潮時かと思っていたけらいもあった。
仕事のことを知っていたのか、と聞きそうになってやめた。頼朝をずっと見ていたのならば、自分のことも十分に調べている可能性があるとすぐに夜子は思い当たったからだった。
『頭のいい子は嫌いじゃない。君にそこまで言わせて先に好きにさせなかったら後で頼朝になにを言われるのか目に見えてる。私はあの子を敵に回したくはないからね』
ヨネから聞いていた彼女はしたたかでうつくしくて、とても頭が良かった。頼朝を敵に一度は回しているからこその言葉なのか。やりとりが電話越しなのが悔やまれる。目の前にいればいくらでも表情なり動作なり探ることができたのに。
義経と接点なんてないと思っていたのに世の中は狭いものだ。
力で解決できる手合いを数人こちらで用意しようか、と聞かれ夜子は断った。心当たりなら義経ほどではないが、夜子にだってある。義経の息がかかった人間ではなくて、平穏に収められるような同じ価値観を持つ道連れがほしい。
電話を切った後に、スマートフォンに登録している連絡先に一通り目を通す。
すぐに目についたのは客の一人だった。
タカギという、現役の警察官だ。会う時にはいつも、手柄が上がらない功績が欲しいだのと嘆いていた。彼なら適役だろう。事件に飢えている彼に電話をかけて《ひかりの手》をほのめかすとすぐに食いついてきた。彼としてもそんな情報を求めて客になり続けたこともあるのかもしれないなと夜子は思う。夜子を抱くタカギは無茶な注文はしなかったし、悪い印象はなかった。
約束を取り付けると食事を共にしていた友人に手を振って急いで家に帰る。
『おかえりなさい』
「ノーチェ、朝」
ただいまを言う前に二人を捕まえて、血の飛び散った玄関先で口を開く。現場がそのままということは、まだ警察はここに来ていない。通報を受けたとしても今頃病院にいるだろう。すぐに夜子が同居していることは分かるだろうし、彼らに捕まらないうちに家を出たいところだ。
義経じゃないが時間が惜しい。言葉は短い方がいい。
「頼朝さんを刺した女のところに一緒に行って」
端的にお願いすると、途端にふたりの目が鋭く細められた。
『情報源は、義経さんですか』
『それとあのよねちゃんかあ。だから言ったじゃんノーチェ、おれはあのままにしとくのはあぶないって』
打つように交わされる会話に置いていかれて、夜子は寂しくなった。
やはり、何も知らずにいたのは自分だけなのだと知って、心細さにめまいがする。
反対されるだろうか。
そうしたら義経の条件通り、一緒に行くことは難しい。夜子のしようとしていることは無駄に終わるのだろうか。
『でもさ、ただでさえ今日はやなことがあった日だから、ねえ、こんな日はいいんじゃない? ちょっとぐらい頼朝に反抗してみたって』
耳に飛び込んで来た朝の声に目を見開いた。本当に、と視線を向ければとろけるような笑顔で朝が笑っている。
『おれだってむかついてないって言ったらうそになるから』
有難い加勢だった。しぶしぶと頷いたノーチェに心中で歓声を上げて夜子は血の跡を踏まないように家の中へ入る。
ふたりは外に行けるのかと問えば、すぐに可能だと返事が返って来た。そのためには夜子の持つスマートフォンと、それから夜子の認識を少しだけ変える必要があると言われてためらいなく頷く。悩む時間すら惜しい。
「やって」
『本当にいいのですか?』
ノーチェがやっと、ここにきて重い口を開いた。
『もしかしたら行く先は地獄かもしれませんよ。認識を変えて、頼朝の側に寄り添うということは、世界をひとつずらすことになる』
「そんなのとうの昔に」
『覚悟していると? 頼朝はその世界に三十年近くも苦しめられて来たというのに?」
暗に、お前の覚悟は軽いのだと言われて夜子はたじろいだ。そんなに厳しい言葉を彼から言い放たれるとは思ってもいなかった。
たしかに軽率な言葉に聞こえるかもしれない。認識を変えるということがどんなことだか、経験したことがないから夜子には知ったことではないし理解もできない。どれだけこの選択が重いことなのかも。けれど。
「軽く聞こえるかもしれないけど、頼朝さんがこの先苦しむだろうって分かってて、なにもしない薄情者じゃないよ、あたし」
後悔をずっと抱えていて、刺されることをゆるすほどだなんて、過去にどんなことが起こったのか夜子は知らない。それでも、この先少しでも彼が笑っていられるように力は尽くしたい、と思う。
「あたしだって頼朝さんになにかしてあげたい。だってたくさん、やさしくしてくれたもの」
おねがい、と懇願するように言えばノーチェがため息を零して頷いた。
頼朝には決して明かさないようにと言われていたのですが、という前置きの後に言われるまま頼朝の部屋に入り、パソコンと自分のスマートフォンをつなげる。はじめて入った彼の部屋は殺風景で、パソコンと机と椅子以外何もなかった。こんな部屋があるものかと夜子は思う。休息も、娯楽も、何もない。まるで監獄のような空間だ。
部屋を見回している間にダウンロードは終わった。スマートフォンにデータを移行したノーチェのくちばしを撫でる。傍には朝がいて。夜子の背中を撫でてくれる。
『急ぎの荒療治なので、副作用があるかもしれません』
「いいわ。来て」
あたしの決心が鈍らないうちに、と言い切ったその瞬間に、指先からしびれが走って視界が真っ暗になった。
頭に手を突っ込まれてかき混ぜられるような不快感が夜子の体の内側すべてを支配する。目の裏でまたたくのは一面の星空だ。うたうように輝くそれと、同調するように心臓が大きく脈打つ。耳の裏を星が落ちるような音が支配して。あまりの規模の大きさに少しだけ怖くなる。
暗闇の、中で、手探りで助けを求めた。
その手を小さくてひんやりとした手が掴んで、力強く引き寄せる。夜子を現実へと。
急速に浮上、する。
あえぐようにして夜子は目覚めた。汗が一気に吹き出す。取り込んだ大量の酸素は気つけには十分だったけれど、確かめるように震える四肢を順番に動かして立ち上がる。
夜のその向こうで、掴んだはじめての世界は、とてもうつくしい顔を、見せていた。
タカギが車を持っているというので、夜子は目的地まで乗せていってもらえるよう依頼した。車体は黒く後部座席には警察の青い制服がかけてあって、雑に片付けた車内の様子に笑ってしまう。水や食料の買い置きすら積んであった。張り込みのときには車から離れられないから、と端的に告げた彼は仕事で見かける顔とは違い、緊張感を伴った表情をしている。
「タマ」
「うん」
「お前《ひかりの手》のこと知ってたのか」
「そっちこそ、あたしのことただ抱きたいだけじゃなかったんでしょ。お生憎様、今回限りでもうこれは終わり。もうそれ以上の情報をあたしは持ってないよ」
いつものしとやかな少女の仮面を脱ぎ捨てて夜子が言い放つと、目を丸くしたタカギが笑った。
「やっぱり猫被ってたか」
「仕事だしね」
「おかしいと思ってたんだ。タマ――いや、夜子。お前さんそんなに金に困ってねぇだろ? なんでウリなんかやってんのかってな」
「あたしのこと調べたの。悪趣味だね」
夜子の素性やその奥まで、彼は知っていた。知っていて、客を演じて夜子をずっと抱いていたという。
とんでもない性悪だと顔をしかめれば褒め言葉だと笑われた。どうしようもない客を捕まえてしまったかと後悔する夜子の真横を、明るい景色と一緒にクラゲが流されて行く。
空飛ぶクラゲ。不思議な気分だった。
「ねえ」
「ん?」
「タカギさんは《人類救済計画》のことは知ってる?」
「少しぐらいはな。署内では《ひかりの手》とあわせて当時は結構話題になった。もっとも話題になったのははじめの方だけで、その後はなにも悪い噂を聞かなかったから、風化したけらいはある」
「そう……《ひかりの手》の方は」
「それはまあ、叩けばきな臭いもんはたくさん出て来るだろうよ。でもあいつらは上への取り入り方がうまくてな。上層部にも洗礼を受けているやつらはたくさんいる。その兼ね合いから手が出せねぇんだ」
話しながら鋭い視線を向けられて夜子は首をかしげた。餌を用意したというのにどうしてそんな態度をされなければならないのか。
「今日は確実に崩せるようなモン、持って来たんだろ? じゃないと俺を呼ばないよなぁ」
「うん、あたしの恩人がね、刺されたの」
「へえ刺され……は?」
「刺した奴は現教主よ。あたしは理由を聞きたいの」
どうしようもない理由だったら本意ではないけれどその場でぶち殺してやる、と小さく言えば夜子の感情に呼応するように車の上を泳いでいたクジラが鳴いた。脳みそを揺らすようなそれは、さながら、泣いているようだとも思う。
悲しくなったらイルカが寄り添い、苛立てばクジラが鳴き、笑いたい時にはイワシの大群が押し寄せ、柴犬や子猫だって膝の上で戯れて受け止めるうつくしさには種類があって飽きることはない。
こんなにやさしい世界なのに、どうして頼朝は三十年近くも苦しめられたのだろうか。頼朝の苦悩が夜子には分からない、けれど。
ひとつ、彼には秘密で彼自身の過去に近づいたことにかすかな心地よさを感じていた。その感情はふたりに見せないように、ゆるんだ頰を戒めて唇を噛む。それともすべてはふたりの予測通りだったりするのだろうか。
傍らに人がいる以上、ここで問いかけるような真似はしないけれど、バックミラー越しに朝が満面の笑みを浮かべているのを見て夜子は目を逸らした。彼の真っ黒な目は心の中まで余すことなく見通してくるようだ。
幸いにも教団の本部までは少し距離があった。
寝ててもいいぞと、小さくタカギが言う。頷いて、ゆっくりとまぶたを下ろす。本当は目を開けて彼がちゃんと期待通りの動きをするか見届けなければいけない。けれど、今日はいろいろなことが一度に起こりすぎた。空き時間に少しでも寝られるようなら寝ておきたい。
万が一、何かあればノーチェと朝がどうにかしてくれるだろう、なんて甘い考えを抱いて、現実から逃げるように夜子は目を閉じる。
最後に見た窓の外は青空の下、うつくしいものが自由に動きまわる、楽園のような光景だった。
夜子は深く沈んでいく。遠い、いななきが、昔の記憶を掘り起こす。
「頼朝さんは、女を泣かせたことってある?」
それは試すような質問だったかもしれない。
ある日、夜子からの
「家族以外なら、一度だけ」
「ふうん、後悔してる?」
だって彼ってとてもうつくしくて、きれいな目をしているから。女に簡単に惚れられそうだなと、好奇心からきいた言葉だった。
けれど、一度だけあったと言われた言葉は案外心に響いて、夜子を動揺させた。そして思ったよりも動揺している自分に、驚いたことを覚えている。
でも、これが恋かと言われたら、きっと違うとは、思うのだけれど。思ってはいるのだけれど。
「ずっとその一度を、後悔しています」
そう言って灰色の透き通るような色をした目で、夜子を静かに見た彼は、あの時何を思っていたのだろうか。ぼんやりとしながら揺れる世界に見とれていると、一呼吸おいて視界に砂嵐が走った。
次に映ったのは、どこかの家で行われている場面だった。
部屋の中で黒髪を振り乱し涙をこぼして一人の少女が暴れていた。絶え間なく響く悲鳴に耳が痛くなる。彼女を抑えているのは、体格のいい三人の男だ。床に飛び散っているのは布の切れ端と精液で――ああ襲われているのかと冷えた思考で夜子はその光景を眺めていた。いやだいやだと少女の抵抗も虚しく、解放のそぶりはなく扉は締め切られたままだ。
いっそ力を抜いて優しくしてもらったらいいのに、と夜子は思う。抵抗するだけこの手合いは燃えるのだ。ひどく殴られた形跡も見当たらないから飴もなにもなく彼女は連れてこられたわけでもきっとないだろうし、カメラを回す人間もいるのだから、諦めて身を任せればいい。
カメラを回しているのは女だった。その顔が、知っているものと瓜二つで驚く。頼朝、じゃあない。けれど撮影を続ける目は彼と同じ灰色で。長い黒髪がたなびき、横顔はひどくうつくしかった。
唐突に、彼女が義経だと、理解する。
理解した瞬間、明かりが消えて視界が青く染まった。
夜の、扉が開く。
夜子の横に現れた頼朝は知っている姿よりも幼い顔立ちで、ひどく怯えていて、それでも見過ごせないとその一心で部屋にいるようだった。決して頼れそうな姿ではないが、襲われている少女の顔が安心して歪む。黒目から涙が溢れて、その姿を見て頼朝が大きく震えた。
それから、彼が少女に手を差し出して。
大きく揺れた車体に目を覚ますと、ちょうど車が駐車場で停車をしたところだった。
夢の続きは、無事助けられてハッピーエンドだったのだろうか。
気になるけれど目が覚めてしまったものは仕方がない。目をこすりながら一度大きく伸びをして運転席のタカギを見る。彼の首に後ろから大きなものが絡みついていた。赤みがかった銅色の柔らかい生き物。タコだ。昼間の猫のような目と目があって刹那息を飲んで、悟られないように夜子は笑った。
彼らは見えるだけだ。見えるだけのうつくしいものなら、大丈夫。
「ついた?」
「ああ」
「行こうか」
日が落ちて外は真っ暗だった。その中で、夜子の目指す建物だけが大量の光をまとって輝いている。
入り口には真鍮製の《ひかりの手》の看板が掲げられていた。
教団の象徴なのだろう、手首から先がすとんと切り落とされた星をつまむ手の像が設置されている――夜の中にこそひかりがある、ここは夜の子の安息の家、と刻まれた文章を目で追って自動ドアをくぐる。
無機質な空間は高級ホテルのラウンジのように広く、下品にはならない程度にきらびやかだ。ノーチェと朝も夜子と共に当たり前のように入館し、ノーチェが翼を持ち上げる。
途端、世界が一変した。
真っ青な空と鏡張りの地面、前を見ても後ろを見てもどこまでもその空間が続いていた。まるで空に閉じ込められているようだ。けれど鏡だと直感的に思った地面はざり、と革靴で踏みしめると音を立てる。感触は地面、ざらつくものは砂か、鏡のようになっている場所は薄く水が張っているのかと頷く。
『こっちだね』
朝がノーチェを頭に乗せてためらいなく動き出す。導かれるように歩き出した夜子に、タカギは声をかけたものの止めはしなかった。どこまでも引率者として徹底してくれるつもりらしい。
――入ってきた入口がそもそももう、見当たらねえしな。
そう、タカギがぼんやりとした口調で言った。振り返るとその言葉通り、確かに入ってきた入り口がなく、青空と鏡張りの地面が後方にも広がっているだけだった。
声が伸びやかに空間に響く。
――そうだね、ねえ、あんたは怖い?
彼にはどうしてだか、先ほどまで見えていなかったものが見えるようになっているらしいけれど、動揺の色はさほど見えない。試しに夜子が聞くと舌打ちが返ってきた。
――こんなもんより人の方が怖い。
それでも続けられた声は思ったよりも弱々しくて、振り返った夜子は沈んだ彼の目を見て彼の手を引いた。
――そっか。あたしも、そう思う。
そうして歩き出せば、しっかりと握り返した手に力が入ってタカギが夜子の隣に並んだ。
そう、迷子にならないように。手をつないでいけば怖くない。
はじめて客という以上にタカギに好感を持って夜子は笑う。
手をつないで、こうして道連れとなった、あなたに恋ができたら良かったのに。そうしたらここで朽ちたって美談になっただろう。
けれど夜子は帰らなければならないから。
あの家へ。朝とノーチェとさんにんで、帰らなければならないから。
ここで始末をつけなければならない。気を引き締めて前へ進む。
歩いている間に青空がゆっくりと沈んで、赤く起き上がった雲が、あっという間に星空に変わる。うつくしい景色だった。どこを見てもうつくしさで止められた情景だった。そしてそれだけだった。うつくしい以上になにもない。
朝が進んで行くその先に目を凝らすと、明かりが一つ見える。
ノーチェと朝は軽やかに、踊るような足取りで明かりに向かって進んでいく。大海原の中で見つけたひとつの希望とでもいうように。
あれが希望ならいいんだけど、と夜子は思う。
果たしてそこにあるのは本当に希望なのか。それは分かりはしないけれど、突き進む。そこを目指して。ノーチェと朝がよすがだ。ふたりが行くならどこまでも夜子だってついていく。
怖くはない。
ふたりが一緒なら帰ることだって可能だと思うから。
そこになにがあったって、過去になにがあったって。頼朝を大切にしている彼らの気持ちに嘘がないことは十分に知っているから、それだけで大丈夫だ。と夜子は夢心地で思考する。
最後に頼朝が幸せになればいい。
その願いだけは一緒のはずだから。
明かりの近くにフード付きの外套を着込んだ一人の人間がうずくまっていた。話しかけようとした夜子の気配に気がついたのだろう。先に上げられた顔に、息を飲む。その顔は多少成長はしているし、髪型も短くなっているけれど、先ほど見た夢の中に出てきた襲われた少女だった。
探してたのはこいつだ。
誰に聞くまでもなく、分かってしまって、夜子は顔をしかめる。
「時間もないし単刀直入に聞くわ。あんたがやったの?」
怒りを押し殺して、努めて夜子は尋ねる。彼女は対して鬱蒼と笑って、ためらうことなく頷いた。ゆらゆらと視線が一定しない、不安を煽ってくるような肯定の仕方をする女だと夜子の中で意味もなく苛立ちがつのる。
「どうしてよ」
あんた、助けられたんでしょう、と刻むように言えば彼女の真っ黒な目が睨み返すように夜子を見た。
「助けられなければよかった」
「なにばかなこと言ってんの」
「自業自得だって、あの人だって踏み込んでくることなく、あのままやられちゃえば良かったの。金だってもらっていたのだし。ワタシは夜の子にならなきゃいけなかったから」
あれは修行だったのよ、と言い切って夜子の足元に彼女はなにかを投げ捨てた。暗がりの中それがよく見えなくて、手探りで拾い上げた夜子の手の中に中身が全て引き出されたカセットテープがある。髪の毛のようにテープを振り乱しぐしゃぐしゃに絡みついたそれは、もう、使用するには難しそうだ。これがどうしたのか、と顔を上げると目の前に彼女の顔があった。夜子が映った黒い目はどこまでも黒くて、光源なんて見当たらなくて息を飲む。
「ずっと聞いてたよ」
「ずっとって、なに」
周囲の闇が一斉に波打って、寒気がした。背後から低い悲鳴が聞こえる――タカギの声だ。これ全部テープかよ、って。
それをわざわざ投げつけて来るなんて、そんなまさか。夜子は嫌な予想にぶつかって、目の前から離れない彼女を見る。真っ黒はどこまでも暗いまま、先が見えない。
「あなたとあの人の生活をずっとずーっと聞いてたの。五年間毎日毎日、朝から晩までずっと聞いてた。それでね、やっとね、ワタシ、母様を殺せたから、会いに行ったの。ワタシが教主になったから絶対でしょう? だから、あの人を迎えに行ったの。そしたらあの人怯えちゃって、来てくれないっていうものだから。脅しのつもりで包丁も持ってってね、いざとなったらずっと忘れられなかったワタシのこと、また助けてくれるだろうって思って……そしたらあの人飛び込んじゃった」
とん、と腹の辺りを柔らかく押された。
感触は、刃物じゃなかったけれど、もしこれが刃物だったら。それが今回の件の全てだとしたら。なんて、なんて――お人よしな話だろう。
頼朝はばかな人だ。
ばかな、野郎だ!
夜子の我慢も限界だった。思わず振り上げた手を抵抗もなしに彼女は受け入れた。小さな破裂した音が空間に響いてすぐに吸い込まれる。頭を一度真横に揺らした彼女はけれど、二発目を振りかぶった夜子の手首をしっかりと掴んで。
「いっそころして」
そう、やさしく、ささやいた。
その瞬間、彼女の目を見て、夜子の沸騰した怒りの熱が一気に下がる。彼女の目にうすく張られた水の膜は涙だ。浮かぶのは後悔。彼女は罰されたがっていた。
罰されたい人を手ひどくしたところでそれは、同等の報いにはならないんじゃないか。
だって、彼女を許すべきは病院にいる頼朝で、頼朝は彼女に許されたがっていた。刺されたことによりその後悔が軽くなったかなんて頼朝にしか分からないのだし、なによりこれはあたしがすべきことじゃない、と夜子は思う。奥歯を噛み締めて、悔しい憎い殺してやりたいと目まぐるしく考えながら彼女の手首を振り払った。
「あんたを許すのはあたしじゃない」
そして同時に義経でもない、と夜子は連なるように考える。
だから彼女には第三の選択肢を与えることにした。
「警察に行きなよ。ここにはちょうどいい事に警察官がいる。まあ書類はないけど、ねえ……どうにかなるでしょう?」
タカギに目を遣ると彼は神妙に頷いた。
そうだ、それがいい、と夜子は思う。警察に行って、洗いざらい話して、今度こそ日の下で堂々と二人が会えばいい。そうした方がいいだろうって拙いながら考えて指摘したつもり、だった。
タカギの動きを制止したのはノーチェだった。
『それには及びません』
羽を広げた彼がうたうように言った。
なんとなく嫌な予感がしてタカギを振り返る。突然の乱入者に言葉を失くした彼はありえないものを見るような目で夜子を見たけれど、すぐに合点した様子で女へと走り寄っていった。そのいく先に朝が立ち塞がった。
前触れもなく目の前に現れた幼い子供に踏み止まった彼に、とん、と地面を蹴って同じ目線に飛び上がると朝は彼の額に指をあてる。
『タカギ、君はやこちゃんを家に送り届ける途中だった。刺殺事件が起こったという通報があったからだ。病院でうろたえるやこちゃんを義経に頼まれて家に送っていった。その時偶然、おそいかかってきた女を現行犯で逮捕した。女はかつて助けてくれなかった頼朝と、頼朝と同居していたやこちゃんを憎く思っていたらしい。女は《ひかりの手》の教主で、母親も自分が殺したと言っていることから余罪はありそうだ――とこんなかんじかな』
『そうですね、そうしましょう』
「待って、待ってよ! ふたりとも!」
ふたりはあたしの味方じゃなかったのかと早口で問いかけると、その場に座り込んだうつろな目をしたタカギを放置してゆっくりと朝が飛んでくる。
『やこちゃんこそ、わかってる? 義経はさ、言ったんだよ。やこちゃんに先をまかせるって。それって、多少なりとも彼女のやりたいことにあゆみよらなきゃだめじゃない』
どうしてわからないの、と言う声はやさしい。
確かにそうかもしれないけれど、頼朝に判断を任せる求めていた正しさはどこに行ったのか。朝の、人のような優しさが今はなによりも恐ろしくて夜子は言葉を失った。
後ろではノーチェが優しく女に話しかけている。
『佐々木依子さん、まだあなたの願いを叶えていませんでしたね』
「ノーチェ、そうだね、そうだった……」
彼女は、ノーチェを知っていた。
だとしたら、自分は良いように使われただけなのだと、ずっと分かりたくなかったことを認識して、夜子は悲鳴を飲み込む。
「ノーチェ、待って」
『あなたの願いはそれでよろしいですか?』
「うん。ワタシは許されて、あの人を許して、それでここをもう終わりにしたいの」
終わりにして、という凛とした声に。
やめて、という夜子の声が響いたけれど、ノーチェは夜子を
ぱちん、と音が響く。
空が落ちてくる。星が降る。月が急速に丸くなっていく。辺りが一瞬でまばゆくなって、そして世界がぐるり、とひっくり返る。
そこはどこにでもあるような茶色の絨毯が敷かれた部屋だった。真っ赤な緞帳を前にして女が倒れている。その側にはノーチェと朝と夜子だけが立っている。
『先ほどの入り口にタカギさんがいます』
そして何事もなかったようにノーチェが夜子を見た。
『間もなくここに、彼が来るでしょう』
夜子は唇を震わせて、ふたりを睨みつけるだけだ。だって、制止も虚しく空を切って、すべてが成されてしまった。タカギは容赦なく女を連れて行くだろう。彼女も少しは暴れるかもしれない。だって彼女は、頼朝への恋や彼を刺した後悔の念だって、全部あのうつくしい世界に置いてきてしまった。
そんな、そんなことってあっていいものか。
どうにも感情に収拾がつかなくて夜子が顔をしかめると、朝が困ったような顔をした。
『やこちゃんは、おれたちをゆるせる?』
悲しげに紡がれた朝の、その問いに、即答はできなかった。
夜子は立ちすくんだままタカギの到着を待つ。その間に、許せないのならここでの出来事を忘れてもらうしか、とノーチェに冷たく言われて首を振った。許すも許さないも、もう事は成されてしまったのだ。今更夜子が忘れないことでなにになるだろう。
これ以上利用されたくない。何もできなかった夜子にできる唯一のことは、すべてを忘れずに、襲われかけて震える女の役だけだ。
いつか覚えてろよ、と夜子は思う。いつかすべてを元に戻して後悔させてやるから、と。
その感情を読み取ってかふたりはいつものようにかわいらしい笑みを浮かべて言い放った。
『あとはやこちゃんしだいだよ。これでもさ、おれたちやこちゃんのこと気に入ってるから、とくべつなんだ』
『頼朝さんの、ところへ一緒に帰りましょう』
すべての判断は彼に、と言う言葉で我に返った。そうだ、夜子が結末を判断すべきではない。すべては頼朝、彼が、なにを選ぶか、それだけだった。
その選択次第では、彼が嫌いになるかもしれないと思って胸に走った痛みに夜子は首をかしげる。嫌いもなにも、はじめから他人に期待していたときが、あったのか。どうして今胸が痛くなったのか。
タカギの足音がする。
答えの出ないままで夜子は彼を迎えなければならない。すべてが丸くおさまる、一時的な答え――それは。
足を崩して静かにその場に崩れ落ちた振りをした。目の前には倒れた女、その手には鋭いペーパーナイフ、ああなんて用意周到なプログラムなのか。
手のひらに爪を食い込ませて唇を噛む。皮膚が切れた場所から、嘘の味がした。
事情聴取だけで一晩を費やした。一貫して、自分はなにも知らない、突然知らない女に襲われた、怖かったと夜子は主張するだけでよかった。まったくの被害者だ。それでも長引いたのは警察の上層部に食い込んでいるという《ひかりの手》一掃のために少しでも多くの証拠が欲しかったためだろう。
警察はどこまでも夜子に優しかった。夜子は怯えきった女の振りをしながら側に佇むノーチェと朝をずっと窺っている。彼らは微笑んだまま、時折、あと少しで終わると夜子を励ましさえ、した。その言葉に少しだけ勇気をもらって、もう少し、あと少しだと自分に念じて夜子は聞き取りを乗り切った。
最後に、タカギが気遣うように寄ってくれたが首を振ったのみにとどめて、話したくないと俯いた。なにかあったら連絡しろと小声で言われたけれど彼に連絡することは
夜子は義経に提示された条件を飲んで仕事を辞める。客のリストは削除して仕事用のツールはすべてアンインストールする。
少女から大人へ踏み出すときがきた。
一生、さようなら、だ。
警察署から出たその足でまっすぐ頼朝の運ばれた病院に向かう。あらかじめ話を通しておいてくれたのか、受付ですんなりと病室の番号を案内された。
病室では血の気が失せた頼朝が横たわっている。その側で椅子に腰掛けていた義経が視線を夜子に向けてすぐに目を伏せた。彼女も疲れているようだった。
「首尾は」
「これ見て」
向かう途中で買った朝刊だった。
一面の見出しには大きく、宗教法人《ひかりの手》の教主が殺人容疑で逮捕と記載されている。近日中に教団内には警察の調査が入るだろう、と記されている文章を見て義経は弱々しく笑った。
「上出来だ」
「詳しくは中見て。まあ、ノーチェと朝に聞く方が早いだろうけど」
椅子を部屋の隅から持ち出して義経の隣に座った夜子は淡々と言った。
ふたりがこの舞台を整えたのだからふたりに聞く方が早い。こんな記事よりも真実を知りたいのならばそれが道理だと思うのに、義経は首を振って、新聞を畳んだ。
「あれらに聞く方が面倒だ。なにより近寄りたくないんでね」
「へえ」
それこそふたりは側にいて夜子の目には写っているけれど、それは伏せた。
あんたでも苦手なものってあるの、とばかにしたように言えば、たくさんあるさと軽口が返ってくる。こんなに穏やかに会話できるなんて思ってもいなかった。
「たとえば私は、頼朝が泣くのは苦手だった。昔も、今もずっと」
その視線があまりにもやさしいものだから。少しだけ驚いて言葉を飲み込んだ。
なるほど、だからあんたはあんなことをしたのかと、つかの間覗いた記憶を思い起こして少しだけ邪推をして首を振る。それを夜子の口から言うことこそ、
「手術は」
「まあうまくいったさ。あとは目覚めるだけなんだが……少し長引きそうだ」
いつまで待てる? そう言外に聞かれて。
「目覚めるまで待つわ」
答えれば、満足げに義経は頷いて、席を立つ。治療費は先に病院に預けてあること、足りなくても心配しなくていいということ、家は清掃済みということ、適当に帰りなさいと大人ぶって短く夜子に伝えて、彼女は微笑んだ。
「なあ夜子。私は、君が頼朝のところに来て良かったと思ってるよ」
どうかこれからもよろしく、と言われてすぐに、縁起でもないこと言わないでと夜子は鋭く返す。
だって、これっきりみたいじゃない。
やめてよね、という言葉は弱く震えていた。みっともなく子供みたいに揺れていた。
黒髪をさらさらと流したうつくしい人は、目を開けない彼と同じ顔で、それでもしなやかに強かに笑うと、やさしい手つきで頼朝の手を撫で、夜子の肩を叩き、病室を出ていった。
義経がいなくなった病室で頼朝の手を握る。青白い手は握り返してはくれなかったけれど。囁くように頼朝を呼ぶ。何度も、何度も、ゆり起こすように。
奇跡なんて起こらない、けれど。
「早く目を覚まして、一緒に家に帰ろ。話したいことがたくさんあるの」
ヨネのこと、義経のこと、それから《ひかりの手》であったこと、夜子の胸の痛みもすべて聞いて、すべてを一緒に悩んでほしい。やさしくしてほしい。ほめてほしい。
あたしを楽園へみちびいて。
小さく吐き出した願いは届かずに、深い夜の中、青が満たされた病室で頼朝が目を開けることは、なかった。
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