しあわせの青い鳥:ヨネの場合

 ヨネにとっての幸運の青い鳥は、黒い、夜の色をしている。深みのある黒は、光のひとつも見えなくて、いつかあの黒に取り込まれてみたい、とさえ思ってしまうようなうつくしさをたたえている。

 はじめて噛んだ唇は、なにも味がしなかった。

 もっと飴玉みたいな味だったら良かったのにと、ヨネは思う。砂糖みたいな甘い味だったら、大好きになれたのにと思いながら舌を出すと、相手は喜んでむしゃぶりついてヨネに襲いかかってきた。

 今日の相手は会社で部下に軽んじられていると嘆いていたバーコードはげの男だった。口の中はねばついていて好きになれたものじゃない。内心吐きそうになりながら首に腕を回す。

 ミケは、お客様が好きだからだ。

「ミケちゃん、キス、好き?」

「好きぃ、スッゴイ気持ちいい」

 なんて答えながら、この男はダメだなとヨネは心の中でバツ印をつけた。気持ちよくなくったって、女は濡れるものは濡れるのだ。女の嘘すら見抜けずに必死に言葉を信じてキスを続ける彼はただのばかだった。

 今日の契約は二時間。残りの時間はキスで削って、後は性器を口で舐めるだけにしよう、そう決める。そうしようと心を決めて甘えれば相手はヨネに行為の強制はしなかった。そういう契約になっているからだ。

 短時間のお手軽な恋人ごっこ。女の子の本気で嫌がること以外はなんでもしていい代わりに料金は一時間二万円、ただしこの料金は、条件次第で跳ね上がる。

 ヨネは、そういう仕事を、している。

 金銭の調達が案外簡単だと知ったのは生理が始まって間もない頃だった。同年代の誰よりも自分をかわいく作ることができたヨネは、とにかくいろいろな男に言い寄られた。その中でも、よりお金を使ってくれる男と付き合っていったから、図らずしもそういう女に見られがちだった。その認識を逆手にとってはじめた仕事は、ヨネが思っているよりもたくさんの金を稼げる商売だった。

 自分の稼いだ金で買ったご飯は美味しかったし、胸を張って服も鞄も自分も好きに飾りたてることができた。

 もし過去に戻ってやり直せるならこんな仕事してないでしょ、なんて客の一人が立派な大人ぶって説教してきたことがあるけれども、ヨネは断言することができる。

 ヨネは何度だってこの仕事を選んだだろう、と。

 終了時間三十分前に離れ、シャワーを軽く浴びて汗を流すと、相手から二時間分の料金を受け取ってヨネはホテルを後にした。名残惜しげに延長を頼まれたが、軽い返事で断って付け加える。

「ボスに会うのぉ」

 そう言えば、相手は諦めざるを得ない。

 ボスは、客たちを管理している、おそろしい存在らしい。商品である彼女たちに乱暴をひとつでもすれば、二度と太陽の下を歩けなくなるようなことになる、とも聞いている。

 でも、ヨネは、が嫌いではなかった。むしろ好きだ。

 うつくしい黒髪も薄い灰色がかった目も白い肌も、なにもかもがヨネの憧れそのものだ。つっけんどんな口調もヨネの前ではまるく優しくなるのも好きだ。好き、好き、好き。

 愛してる、はまだ分からないけれど、ヨネは彼女に恋をしている。

 ボスは歓楽街のすぐ横、一目では人が利用しているのか分からない、古びたビルに事務所を構えている。

 跳ねるように浮かれた足取りで建物の前にたどり着くと、昼間でも暗がりな階段を上がる。彼女がいる事務所は二階だった。二階の一番奥、窓を背にして彼女はくつろいでいるはずだ。

 ノックして錆びついた扉をおそるおそる開けると、金属同士を擦り合わせたような不快な音が耳いっぱいに広がった。扉だけではなく階段も廊下も床も、どこかしらがきしみを帯びていて、ここはとにかく古い場所だ。

 全部直せばいいのに、とヨネは前に彼女に言ったことがある。きれいにしないの、と。

 すると彼女は笑って、こう答えた。これだけ古ければ誰が来たって分かるだろう? と。

 自分が偉い立場にいることを匂わせてくるような言い方だった。用心深い大人は、嫌いじゃない、とヨネは思う。

「おう、ミケ」

「うん、お疲れ様ぁ。ねえさんはいる?」

「奥にいるぞ。入れ」

 戸口にいた、筋肉質で大柄の黒服の男に伺うようにして言えば、あっさりと中に通される。これがヨネじゃなければ入り口で追い返されるところだ。それぐらいヨネは彼女に優遇されている。

 あらかじめ通していい人間といけない人間はしつけてある、らしい。彼女は笑いながらそんなことをいつかヨネに話してくれた。

 もう一枚奥の方に木でできた扉があって、その先に。

 彼女は窓を背にして、安っぽいデスクチェアに腰掛けていた。

義経よしつねさん」

 後光がさす彼女が、とてもうつくしくて息がつまる。おそるおそる呼びかけると、灰色をした目がヨネを射抜いた。

「来たか。今日も可愛いね、ヨネ」

「うん!」

 彼女を見た瞬間に、頭から思考がとろけてしまって、だめだ。

 手招きされるまま、ヨネは彼女の側に寄っていく。顔が自然と近づいて、再会を喜ぶ軽いキスは一回。呆気なく離れていく顔はとてもうつくしくて、客として相手をしている男よりも断然唇はやわらかかった。

 なごり惜しくて近くで長いまつ毛を見ていると、甘やかされるように頰に軽く口付けられた。

「ほっぺちゅーだ!」

「お仕事お疲れさんっていたわりの証だよ」

 さらりとヨネの頭がおかしい悲鳴を流す姿もかっこいい。

 お仕事お疲れ様って、他の商品にもこんなことをしているのかと目を細めると、ヨネだけだよと返事が返ってくる。そうだ、ヨネも、彼女がこんなことをしてくれるのはヨネだけだと知っている。それでも恋人を確かめたくなる精神はどうしようもない。

 ヨネは彼女に恋する乙女なのだから。

 義経が他の商品を差し置いて、ここまでヨネを甘やかす理由は簡単だ。

「うーんとねえ、やぁこちゃん、喧嘩中みたい。マジ最悪あの男、ほんとないわぁってずっと言ってたよぉ」

 ヨネは恋人であり、立派な情報源であり、彼女にとって利用価値が高いからだ。

 夜子の名前をひとたび出すと、義経は楽しそうに笑った。どうやら夜子にではなく、彼女と同居する男に興味があるらしい。

 それは恋、とかではなくて、その男の人は彼女の弟、なのだとこっそり黒服の男たちが嫉妬の炎を燃やすヨネに教えてくれた。彼女の心をさらうのも、家族なら仕方ないよねってヨネは思う。姉弟同士は結婚できないから、進展のしようもないしまあいいかとも思うようにしている。

 聞くところによるとその弟は、生活能力ゼロ、対人能力ゼロのだめだめな大人らしいので、ヨネの中ではバツ中のバツの存在なのだった。

「へえ、同居して三年、やっとケンカ、ねえ」

 でも彼女がその彼のことを語るときは、優しく目が細められることをヨネは知っている。すぐ側にヨネがいるのにそうやってここにいない人のことを思い起こして目を細めるさまは、正直隣で見ていてあまり気分のいいものじゃない。

 でもヨネはかわいくて従順な義経の彼女なので、黙っていた。

 もっともヨネが黙っていても、義経は簡単に彼女の激情を読み取っている。その嫉妬すらも楽しんでいる節があると彼女は思う。

 ずるい女の人で、ずるい彼女だ、とヨネはむくれる。

「夜子は?」

「むーっとした顔してたけど今日もオシゴト行ったよぉ」

「そうか。彼女が無理しそうになったら止めてあげるんだよ。なんかあの子はそういうのヘタクソそうだ」

「はぁい」

 かわいいふりをして、素直に返事をする唇を、軽く、吸われて身震いする。

 視界の端で手を振った義経の、手が見えた。これからされることを想像して指先がじんとしびれる。

 間近で見ても毛穴一つない顔はとてもきれいだ。頬紅をしていないのがなおさら、彼女が人形らしく見える原因だと思う。

「ここで、すんの?」

 だってこの事務所古いし、声だって筒抜けだろう。ヨネの反応をいつだってかわいいかわいいと彼女は褒めてくれるけれど。それを黒服の人たちに聞かせたい、わけではない。

 少しだけ渋ってみせると、義経はわざとらしく首をかしげてみせた。

「うん? うーん」

 その間に素早く制服のシャツを脱がされてスカートに手を入れられる。内ももを撫で上げられて、このままでは流されそうだ。最後の抵抗としてぺちりと義経の頭を軽く叩くと、彼女はいやらしく、でも優しく笑った。

「ちょっと触るだけ」

 惚れた弱みだ。それ以上抵抗できないヨネの、やわらかい部分をかき分けられて奥へ、指を入れられる。熱が集中して頭の芯がぼんやりとしびれてきた。空気を求めるように声を上げたヨネに、水を与えるように義経が深く口付ける。

 すき、といえば、わたしも、と声があって、幸せな気分のまま、意識が落ちていく。


 

 神様の声がする。

 真っ黒な、神様のささやく声だ。

 くり返し枕元で鳴り響く振動でヨネは目を覚ますと、スマートフォンを手にとって画面に触れた。タップは一回、彼を呼ぶときは二回。彼とヨネとの間での決まりごとだ。二回、決まりごとに従って指先で液晶画面を叩くと、中からふわりと小鳥がおどり出る。

 それは手のひらに収まるぐらいの小ささを持った、丸くて真っ黒な鳥だった。手の中で白い蝶ネクタイを直す姿を見ながら、ヨネはまるい声で、甘えるように彼を呼ぶ。

「ノーチェ」

 紺色の目をした彼は、ヨネの青い鳥だった。電子の世界にしか存在しない手のかからないペットであり、彼女の、期間限定の神様だった。この神様は、ヨネが知っていたものよりももっと身近で、保護者や教師よりもそれらしく、彼女を細かく面倒見てくれる。

 優しい生き物だった。駆け引きのいらない生き物は、好きだ、とヨネは思う。なにより小鳥をモチーフとしている姿はかわいい。かわいいものは。もっと好きだ、と彼を見て思う。

『お目覚めですか?』

 目を優しく細めて彼が言う。

 ヨネが寝起きのぼんやりとした思考回路で頷くと、彼女の後ろを鋭く見て、彼は言葉を重ねた。

『順調ですか? 恋人同士の生活は』

「うん、うまくいってる。うまくいきすぎて……こわいくらい」

 ノーチェはかつて受けた治療の、報酬だと、被験者であったヨネは聞いている。そして、それはある意味真実なのかもしれないと、ヨネは思っている。だってそんなことがなければ、こんなうれしい奇跡、あるわけがない。

 彼の、ヨネが子供だからと差別することなく、ちゃんと説明してくれる姿勢は好きだ。

 昔も今も、彼はヨネをひとりの人間として見てくれた。それに彼女がどれだけ救われたことか、彼は知らない。

『運命の相手を、彼女に、しますか?』

 問われて、眉根を寄せる。

 ここでヨネが一度頷けば、不思議な力で、一生変わらず義経はヨネのものだ。けれど踏み切れずにヨネはうなって、ノーチェを撫でる。

 迷って、噛んだ唇の端から、生き物の味がした。


 七年ほど前、国のとある研究機関が《人類救済計画》を一部の貧困層に発表した。被験者になれば億はくだらない金が支給されるという。そんなものに踊らされたヨネの両親は、簡単におかしなものに幼い娘を差し出した。

 全身にたくさんの吸盤とたくさんの器具を取り付けられて、ヨネは言われるがまま、大人たちに身を任せた。大きなカプセルに横たえられて透明の扉を閉められる。鍵のかかる音は怖かったけれど、眠りに落ちるのは一瞬だった。

 そして、深い夢の、黄色い花畑で出会ったのがノーチェだ。

 彼はなりたいものになる手伝いをしてくれる、とはじめに言った。言ったのに、その直後、申し訳なさそうに幼いヨネに頭を下げたのだ。――あなたに選択の自由がないことを、どうか許してください、と。

 なにを言っているのか分からなくてヨネが首をかしげると、彼はひとつひとつ丁寧に説明してくれた。

 ヨネの変化の行き先は既に両親によって決められていること。

 ある程度まじめで、華やかで、愛嬌のあって、誰にでも愛される、明るい娘にしてください、とお願いされていること。

 それが、両親の願いだったなんて、ヨネは少しも知らなかった。知りたくもなかった。

 悲しくなった途端に、花畑の花が散って荒れ果てた土地になる。砂ぼこりが巻き起こる中でしゃくりあげて涙をこぼした。

 地味で学習が苦手で、誰よりも言葉がつたなくて、おとなしい性格だったのはいけなかったことなのだと、泣いたことを、ヨネはおぼろげに覚えている。

 次々に涙を落とすヨネに、ごめんなさいと言いながらノーチェは治療を施した。

 以降、つぼみが大輪のあざやかな花を咲かせるように、ヨネは彼の手によって強制的に変化した。うつむきがちだった顔を上げて笑う姿は両親の理想の通り、誰からも愛されるものになった。

 両親は泣いて喜んで、スーツケースにたくさん入った金で、生まれ直した彼女にワンピースを買った。それは、夢の中の、はじめに見た花畑のようにあざやかな黄色をしている。

 ヨネ自身はもはや、変化だとか周りの反応だとか、そんなことはもうどうでもよかった。涙は夢の中に置いて来た。ワンピースをかわいいと喜ぶふりをしながら、世界が開けたことに気持ちを囚われていた。

 空に浮かぶ大きなクジラ、おくれ毛をくすぐる目にもあざやかな魚。ヨネの目にはいつだってあざやかに幻が写り、その中にはノーチェはいなかったものの――いつだって楽しく生きてこられた。

 変化はすぐになじんで違和感はなくなった。これがわたしを捨てた代償なら、それはそれでいいことだ、とさえ単純に考えていた。ヨネは間違いなく不幸ではなかっただろう。明るい性格になったことにより友人は増え、容姿を磨けば男が寄ってくる。

 両親はあっという間に治療の報酬を使ってしまったようだったが、ヨネにはなにも関係のないことだった。その金で、酒に浸るようになってしまった父親が母親を殴るようになったけれど、ヨネは傷つきもしなかった。

 ただ優越感に浸りながら、痛いのは嫌だなあ、と思っていた。

 きっといつかはくるであろう、痛みから、逃げたいなと考えていた、のは事実だ。

 それでも逃げ場はない。諦めかけてきたそんなころにノーチェがやってきた。

 決まり文句はこうだ。

『願いごとをひとつ、叶えましょう』

 なんて素敵な申し出だろう! ヨネはその機会に飛びついた。追い詰められた童話の姫のように、あるいは恋にひたむきな女のように。

「わたしを、愛してくれる、王子様がほしい」

 その願いを律儀に受け止めて王子探しに力を注いでいるノーチェと、彼が探してくる相手を、吟味ぎんみするヨネ。その関係は今までに三年程度続いている。


 かつて彼から施された治療が幸いにも、たまたまいい方向に転がっているから、こんなのんびりと彼と接することができるけれど、これが失敗していたら決して落ち着いてはいられないだろう。そう冷静に思っても、そんなものを抜きにしたってヨネの中で彼が手元に来てくれたことはとてつもないうれしい出来事だった。

 あの花畑で出会ったときから、ノーチェはヨネにとっての青い鳥だ。

 幸せを運んでくれる幸運の象徴だ。

 ヨネは彼の連れてくる相手を何人も、吟味してきた。

 舌で転がして体でしゃぶって、心を掴んで、味わってきた。

 誰がヨネの王子様にふさわしいのか。愛してくれるなら飼われたって良かった。ご主人様って呼んでもよかった。誰よりもヨネを愛して、一緒に住んでくれる人なら。

 殴られて壊れるよりも、壊れ物を包むみたいに愛されて、愛に狂ってみたかった。

 金では変えられない、唯一の恋がしたかった。

 それが、今までは、叶わなかった、から。

 義経で三十人目だった。付き合った期間は半年、もうここまで来れば十分だろうと、彼女からの愛を余すことなく全身で受け入れながら、それでも迷いを捨てきれなくてヨネは彼女に決めることができなかった。

 この人だと決めてから、後悔したらどうしよう。そんな不安が常にある。泣きたくない。絶望したくない。元の家には帰りたくない。あの家族のようになりたくない。殴られて耐えることもしたくなかった。

 両親に比べたら対応は明らかだ。義経はヨネを無下に扱わないだろう。でも、今はそうでも、これからは? 未来は、どう変化するのかわからない。

 人間は、なにかがあって変わるかもしれないということをヨネは知っている。父親がそうだ。昔は、殴るような人ではなかったし、母親から優しかったという話はくり返し聞いている。

 不幸には、なりたくない。ヨネがそう思うとき、足元で幻の花畑は何度だって荒れ果てた大地になる。

 荒野の幻をかいま見て、自分の計算高さが嫌になって目をふせる。嫌な人は、バツだとすぐに割り切ってしまうヨネからすると、半年も付き合える人は稀なのだけれど、決定打は打てない。まだ、打ちたくない。

 ヨネは、悪い、女だろうか。

「ヨネは、すぐに決められなくて、悪い子だと思う?」

『いいえ。……もう少し、様子を見てからにしましょうか』

「うん、おねがい」

 たっぷり思考する時間を与えてくれたノーチェは穏やかに言った。彼女を責めるわけでもなく、問い詰めるわけでもない。その配慮が、ありがたかった。

 甘やかす言葉に飛びついて、ヨネはつかの間、安心する。その感情がひとときのものと知りながら、すぐに目の前のもので判断して、ばかみたいだった。ヨネもきっと、あの口の中がねばつく男たちと変わらない。

 本当はすぐにでも決めてしまいたかった。

 でも幸せになりたくて、ノーチェが消えたスマートフォンを一度撫でて布団に戻る。すぐに義経の腕が伸びてきて、求められるまま、甘えるように彼女にすがりついて目を閉じた。

 幸せになりたい。彼女を愛してる。

 でも、これが、一生のものかというと、熱が足りない気がしていた。

 ヨネは決断できずに魚の幻と遊びながら夢に沈んでいく。義経と貪る眠りはいつだって、やさしくて、気持ちが良くて、遠くに失った花畑が見えるようだった。

 


 義経の部屋で同棲をはじめて三ヶ月になる。両親から離れて住むと決めてから今まで、特になにも問題は起きていなかった。近況は毎日母親にメールで伝えているし、特に変わったことは聞いていない。ヨネがいなくてもあの家は回るのだと気がついてしまったけれど、それは別に気にするようなことではなかった。ささいなことだ。

 毎朝、幸せな気分で恋人の腕の中で目が覚めて、決められた時間に登校する。くり返す、平穏な日々はこわいぐらいに幸せだった。

 神社の境内を歩いて校舎を目指す。秋の影を落としはじめた緑はうすく紅色に色づいて、ゆっくりとそよ風に揺れていた。

「やぁこちゃん、おはよ」

 そして今日のクラスメイトは、頬に湿布を貼り、むくれた顔をしていた。余計なお節介だとは分かっていながらも、ヨネはどきりとして、頬の状態を観察するように見てしまう。暴力は、自分がされたものでなくても、気配を察知するだけで、近頃は寒気がして嫌だった。

「別に殴られたとかじゃないよ。あたしが自分で自滅したの」

 頼朝と口論の際に頭にきて、フライパンを掴んで振り上げたらそのまま手が滑ったと、呆れた言い訳を夜子はした。分かりやすい嘘まで吐いてそんなにもわたしには言いたくないのかと、少し傷ついて、目を潤ませたヨネに彼女が諦めたように笑う。

「ごめん、嘘。親戚のイカれたじいさんが来て、頼朝さんに縁談を進めたの。彼が断ったから腹が立ったみたいでたまたま居合わせたあたしを殴ったの」

「……なにそれ」

 そんなしょうもない理由で、と言えば、そうなのそんなしょうもない理由で大人って怒るものなのよ、と言って夜子は笑った。少しだけ幸せそうだった。

 これは殴られただけで終わらなかったんじゃない? 好奇心がむくむくと湧いた。

 言葉の先を促すと、夜子は落ち着かない様子で自分の手を揉みながら、ほそぼそと、小さな声で言う。

「でもね、喧嘩してたんだけど仲直りできたの。ちゃんと頼朝さんは怒ってくれたんだよ。怒るの苦手なのに、あたしなんかのために」

「ふうん」

 やるじゃん、ってヨネは思った。その頼朝って男は、義経によると、どうしようもなくて、人見知りで、意気地なしって聞いていたから、ヨネの中ではバツ中のバツだったけれど。

 話を聞いて少し、気になって。違う、とすぐに首を振った。ヨネは友達の気になっている子に手を出すような最低な女ではない。それを見ていた夜子が、うかがうように彼女を見る。

 どうしたの、って聞かれて。

 なんでもない、とすぐに答えた。

 そう、と興味を無くしたように夜子は口を引き結ぶ。軽く噛まれた唇を見て、彼女のもどかしさを少しだけ感じたけれど、ヨネは分かっていて反応しなかった。

 彼女には、義経と付き合っていることを話してある。三ヶ月前から同棲していることも、どれだけ彼女が素晴らしいかもすべて話している。他人を味見するヨネの側面は彼女にまだ知られていないはずだった。彼女の近くに魔の手を伸ばそうとは思っていないから、こんな浮気性ともいうべき病気は知られない方がいい。

 これでもヨネは夜子のことを気に入っているのだ。彼女がどう思っているかは知らないけれど。

 一年の途中から転入した夜子は大人しくてなんだか暗くて、ずっと一人でいた。クラスになじもうとしない彼女は、格好のいじめの的だった。クラスメイトに加害者側に入るよう、それとなく誘われたけれども断って、ヨネは彼女に近づいたのだ。

 不審な目を向けてきた姿に、昔の自分を重ねて、そんなに自分が信用ならないなら秘密の交換をしよう、とヨネが持ちかけた。彼女が仕事のことを話す代わりに差し出す秘密は、義経のことしかなくて。

 でもなんだか、一生の人にするには、熱が足りないような気がして、と。近頃抱えている悩みを、夜子に相談しようかと少し思ったけれど、なんとなく嫌な気分になってヨネはやめた。幸せな気分になっているところに、わざわざ自分の湿っぽい話を突っ込むようなことはしたくない。

 目の前で頬杖をついてまっすぐにヨネの目を見る、夜子は、とてもうつくしい女の子だった。

 本当は知っている。ひとりでいることにみんな腹が立っていたんじゃなくて、親しくしてもらえないことに腹が立っていたということを。いじめもしょうもない子供のやつあたりだって知っている。

 そう思ったけれど、双方には黙っていた。ヨネはかわいいヨネでいなければならないのだ。女子には優しく、男子にはそれとなく想像の余地を残して、ヨネはかわいい女子高生を演じつづけている。

 実は少しだけ夜子がうらやましかった。昔のままでいられたら、わたしもこうなっていたかも、と思ってヨネは寂しくなるのだ。いまさら仕方がないことだと分かっていても考えてしまう。

 夜子みたいにはもう、なれないのに。

「ヨネ?」

「ううん、なんでもなぁい。あのね、やぁこちゃん。いくらカレがいるからって、怒らないのはやぁよ? 痛いのは、見ててつらいの」

 わたしのためにケガしないで、と甘ったるくヨネがしなを作って言うと夜子は困ったように笑った。

「わかった。次はやり返すね」

「そうだよ! 男の人にはキンテキが効くって聞いたよぉ。なんならオトシマエは義経さんに頼んでもいいし!」

「それはやめとく」

 だってプロでしょ、と刻む唇に力いっぱい頷く。そうだ、義経はその道のプロだ。ルールを守れない大人たちが彼女によって大変痛い目にあう話を、夜子にはいくつもしているのだった。それがほとんど少女たちから見れば神様のように安心できる話でも、世間は眉をしかめるだろう。

 夜子も、そうだった。義経の職業を聞いた途端に眉をひそめて、一度だけヨネに聞いたのだ。

 怖くないの、と。

 その時返答に困ってヨネは笑った。まったく怖くない、といえば嘘になる。義経が持っている鋭い牙がもし自分に向けられたら、なんて想像は彼女を一度味見した後に何度だって考えた。そうしたら、ヨネだってただではすまないだろう。かつての頼朝のように、心が壊れてしまうかもしれない。

 義経は持っている力を理由なく使ったりはしない。けれどもヨネの頼みを断らないだろう。彼女はヨネに甘いのだ。

 でも助けがいらない、と夜子が言うのなら、やめておこう、とヨネは思う。余計なお節介をして友達をなくしたくはない。

 ヨネの目の前で、夜子は何度も言いかけて言葉を飲み込んだ。義経の仕事の話が少しでも出るといつもそうだ。飲み込まれた彼女が言いたいこと、は簡単に想像がつく。つきあうのをやめたほうがいいだとか、もっといい人はいるだとかきっとその辺だ。だってそれ以外のことを言ってくるような人はいなかった。

 不器用な子だ、と思う。一度友人として認めたら奥底まで踏み込んでくる姿に憎らしさすら、感じる。

 夜子は嘘はつけない。だからこそ、二人の過去を彼女は知らない、と断言することができる。それでいい。きっと、彼女のためにもヨネのためにもそれがいい。

 だからヨネは、義経は頼朝の実の双子の姉で、彼女が夜子と同居している彼をずっと心配していることとか、ずっと前にあった事件から女性を怖がっていることを、話さなくてもいいのだけれど。それを口に出すことを、よこしまな気持ちで夢見てしまう。

 頼朝が、義経をはじめにまるくした。

 彼女に優しさを植えつけた頼朝が、少し好きで嫌いだった。

 わたしの最愛の人をあまくした、あなた。

 そしてこれから、友人をまるくするかもしれない、あなた。

 ヨネはあざやかに、思考する。

 あんたなんか、だいっきらい。


 義経の家に住むようになってから、二人で決めたことがある。

 殴られたりだとか、そういう決定打になるような嫌なことが起こらない限りは、週に一度は自分の家に帰ること。滞在時間は一時間でもいい、泊まってこいとは言わないから、親に顔だけでも出しなさい、とずるい大人のように義経は言った。もし一度でも殴られたら、殴られそうになったら、もう二度と行かなくていいから、と言われてヨネは安心して聞き分けのいい彼女を演じている。

 今日はその、週に一度の日だった。水曜日、ちょうど一週間の真ん中の日だ。

 歩く速さをわざと遅くして、やっとたどり着いた家は、もう夜になるというのに電気がついていなかった。時刻は十九時過ぎだ。こんことは今までに一回もなかった。

 少しだけ嫌な予感がして家の前で母親のスマートフォンに電話をかける。着信音は小鳥のさえずりだ――まだヨネが治療に差し出される前、小さな頃に家族三人で出かけたことを思い出せるからこの着信音にしている、とヨネはうつくしい思い出話として彼女から聞いている。

 それは、確実に家の中から聞こえた。

 真っ暗な家の中から。

 母親が現時点で出かけているにしろ、ヨネと唯一連絡の取れるスマートフォンを持たずに外出することはありえない。父親に殴られながらもヨネのことを案じていたのだ。彼女との会話は、父親との生活を望んでいない内容が多いから、彼に見られないように警戒しているように思えた。

 ヨネが変化して、先にこの家を出たことを一番喜んでくれたのは母親だった。だから、ヨネが出ていくことが彼女には関係ないと分かっていながらも、殴られる痛みにたえてきた母親にヨネは約束したのだ。自分で稼いだお金で部屋を買い、絶対に迎えにくると。

 それが叶うまであと一歩だった。あと十回働けば貯金は部屋を買えるほどになる。そうしたら母親には部屋を買って鍵を渡す予定だった。

 酒に浸って夢で溺れる父親なんて置いて、先のことを考えよう、と今日にでもそろそろ伝えようと思っていたのだ。それなのに。

 ひどく嫌な予感がする。そして、だいたいヨネの嫌な予感というのは、当たるのだった。

 震える指でスマートフォンを鞄から取り出して、義経の連絡先をタップする。コールが三回もしないうちに彼女とつながった。

『もしもし、ヨネ?』

 電話に応じる声を聞くだけで安心して、泣きそうになる。

「義経さん、わたし、約束守ってぇ、今日きたの。水曜日だから。そしたら、なんか家おかしくて」

『どんな風に』

「なんか、家、真っ暗なのに、中にお母さんいるみたいでぇ」

 先週帰ってきた時に母親の頰には殴られた後があった。前までは外聞が悪いからと体に傷をつけていたのに、父親はいよいよなりふり構わなくなったらしい、というところまでは把握はあくできている。涙を飲み込んで恐怖で震える奥歯を噛み締めて、自分が知っていることをつたなく、早口でべそをかきながら説明をする。あいづちを打つ義経の声が次第に固くなる。

 説明することと義経の反応に気を取られていたから、後ろから近づいてくる影にヨネは気がつけなかった。

「ヨネ」

「え?」

 名前を呼ばれて振り向くと、頰に鋭い一撃を受けて、頭の芯が痺れた。顔が壊れるかと思うほどの痛みだ。じくじくと痛んだ頰と少しの鉄の味に、怪我をしたらしい、というところまで理解してヨネは地面にへたり込む。スマートフォンは今の衝撃でどこかにいってしまった。

 地面に転がっているはずのスマートフォンをひとしきり探したけれどすぐに見つけることは叶わなかった。やっとヨネが視線を上げると、目の前に傘を持った母親がいるのがわかる。

 傘の骨がゆがんでいる。ああ、これで今殴られたのかと、ようやく理解した。

「家の目の前で騒がないでよね。ご近所迷惑でしょう?」

 言っていることは穏やかなのに、行動がともなっていない。そのきしみに息を飲んで、刺激しないようにと悲鳴を押し殺したヨネに、当たり前のことのように母親はうながした。

「中に早く入ってちょうだい。伝えたいことがあるの」

 彼女の目が座っている。奥に静かにたたえられた感情の正体が分からない。ヨネの心中で、安堵と恐怖と二つの感情がぶつかり合って混乱した。彼女が無事なら、この家の状況は一体なにによるものなのか。

 とにかく今の母親を刺激しない方がいい、気がする。

 それぐらいの判断しかできなくて、ヨネは言われた言葉に頷くと、震えた足に力を入れてゆっくりと起き上がり、彼女について家に入った。スマートフォンは探さなかった。家に入る以上の動きはしない方がいいと、本能的に悟ったからだった。

 母親は土足で家の中に入っていく。

「ヨネがなかなか帰ってこないから待ちくたびれたわ。ご飯できてるのよ」

 引きずられたゆがんだ傘が、壁にぶつかって、かたかたと音を立てた。話しかけられるたびに心臓が跳ねる。

「ご、めんなさい、お母さん」

「いいのよ、だって来てくれたじゃない」

 暗い室内で居間のテレビがついていた。それを見つめながら父親がうなだれるようにして食卓の椅子に座っている。ずいぶんと静かだ。ヨネを見ようともしない。

 着席をうながされて彼の正面に座り、異常に気がついた。

 見開かれた目は、テレビを見ていない。目の奥から光は失われ、彼はまばたきひとつしない生き物になっていた。彼の首の周りにべったりとくらい色が付いているのが、確認できて口を抑えた。

 母親がこの父親の様子にまったく気がついていないということはないだろう。じゃあ、彼を殺したのは間違いなく、母親か。あるいは死んでいる原因を彼女は知っているか、理由はそのふたつだ。それぐらいはヨネにも分かる。

 悲鳴を殺せ、落ち着け、と自分に言い聞かせる。もし彼を殺したのが母親なら、極端な反応を見せるとヨネもなにかをされるかもしれない。

 これ以上の痛みが振りかかってくる予感からの恐怖で、心が震える。

「お父さんにね、言われたの。娘の一人すら家に戻せないなんてお前は母親失格だ、なんのためにお前も治療を受けたのかって」

「え」

「お父さんとね、結婚する時、すでにあなたがいて。でも愛してくれるって、彼は言ったのよ。本当の娘のように愛して不自由な思いはさせないって言ったのよ。交換条件が治療を受けることだったの」

 彼女が言う治療のさす意味はすぐに分かった。《人類救済計画》ヨネが受けた治療を母親も受けていたのだ。

 でもそんなこと一言だって言ってくれなかった。言ってもらえていたら、もしかしたら、同じ治療を受けているのだから支え合うことだって。今以上にできたかもしれないのに。

 反応に困って視線を上げたヨネの目の前で、うつろな目をした母親がいつも通り、何も変わらない顔で棚から取り出した食器を食卓に広げていく。

「お母さん」

「夕飯は食べていくでしょう? いつもそうだもんね、そうそうあのね、そろそろね、義経さんだっけ、恋人さんにも迷惑だし家に帰って来なさいよ。お父さんもそれがいいって言ったのよ。ねえ、お父さん」

 血の上に、食事が広げられる。

 お父さん、って投げられた質問に答えなんてあるはずもないのに、彼女は優しい声で言って笑う。並べられた料理も変わらずおいしそうなものばかりだった。にんじんが星型にくり抜かれているのは、ヨネが喜ぶからだ。小さい頃に喜んだからって、今もずっとそのひと手間をかけてくれている。でも。

 今すぐにヨネは、ここから、逃げ出したかった。

「お母さん」

「なぁに?」

 逃げたい。逃げられるタイミングを、懸命に探っている。

「夕飯ね、食べてきたの。学校の友達と。だから今日はちょっと部屋に行きたいなぁなんて」

 言葉を切るように、包丁がテーブルに刺さった。

 驚いて体が跳ねる。テーブルに突き立てられた鈍くかがやく包丁を見ながら、本当に刃物って鋭いんだ、と関係ないことを頭の端っこで考えてしまう。言葉を無くした彼女の目の前で母親がテーブルからそれを引き抜いて、目の前で刃先を父親に差し込んだ。一定のリズムで抜き差しされる刃先と共に、血が飛び散って、カレーに飛んで沈んでいく。

「どうして? いつも制服のまま食べてるじゃない」

「お母さん」

「なんで? 私が、ダメな、お母さん、だから?」

「そ、そうじゃない。そうじゃないよ。ねえお母さん、お父さん死んじゃうよ!」

 思わず口走った、この言葉が悪かった。

 抜き差しする動きが止まって、視線がヨネに固定される。

「え? 死んでもいいじゃない」

 だめなの、と幼い子供のように母親は口にした。対してヨネは声を詰まらせる。

 だめ、だめに決まってるじゃん。だってどうあったって人を痛めつけてはいけなくて、ころしては、いけなくて。学校やテレビでそうだって学んで。でも、そんなことを言う資格が今の自分にあるのだろうか。

 ためらいは一瞬だったけれど、それだけで母親には十分な時間だった。

 早足で、抜いた包丁を持って母親が近寄ってくる。そして真横に立った彼女はそのままそれをヨネの手に突き刺した。内側から破裂したかと思うぐらいの、熱だ。先ほどとは段違いの。

 思った以上の痛みに悲鳴を上げると、刺したまま手首を捻られた。傷口が大きくなる。テーブルの上でヨネの血と父親の血が混ざる。びちゃ、と水音。まるでセックスしている時みたいだ。でも与えられるのはやさしさとか、あまさ、じゃなくて、痛みだ。

 ずっと避けてきた痛みが、今、ここに、ある。

「おかあさ、いたい、よ」

「そう? でもね、私はもっとずっと、痛かったのよ」

 あなたがいない間ずっとね、と言われた瞬間、ヨネの目の前が真っ白になった。

 そうか、じゃあタイミングなんて図らずにすぐにでも言ってあげればよかったのだ。あなたはわたしが守るからそばにいてほしいって、

 人と人とのつながりって所詮はこんなもろいものだって、どうして今まで気がつかなかったのだろう。そう思うと無性にヨネは義経に会いたくなってきた。

 会いたい。

 会いたい、今すぐ、今すぐにでも。スマートフォンはあのまま道路に置いて来たはずだった。誰よりも賢いヨネの恋人はあの会話だけで、ヨネに差し迫った危機に気がつくことだろう。そうだといい、とヨネは希望を抱かずにはいられない。

 今、現れてくれたら。もう迷いなんて吹っ切って、迷ってたなんてバカだった、って謝って、すぐにでもノーチェにお願いするのだ。わたしの神様、わたしの、青い鳥。

 義経を永遠の、ヨネの王子様にしてほしいって、乞い願うのに。

 包丁でえぐられた傷口から肘までの感覚が無くなってきた。現実に追いつけなくて意識がぼんやりとしてくる。

 ヨネは、ここで、死ぬのかもしれない、と少しだけ冷静にヨネは思って。

 少しだけ笑えた。

 治療を受けた結末がこれなら、元のヨネだってなんてことはなかった。きっと、最悪の人生だったって、今になって思えるのだ。

 きっとヨネはおかしい。昔からずっとおかしかった。

『それが幸いの最果てですか? シラカバ』

 ふと、星がまたたいて、テーブルの角に放置されていた母親のスマートフォンが青白く光った。中から澄んだ声が響いて耳に届く。

 途端に抉っていた動きが止まった。

「ノーチェ」

 母親が、細く言う。とてつもなく弱い声は、場にはそぐわなかったけれど、目は静かに怒りを灯して力強く燃えていた。現れたノーチェに向けて彼女は視線をやる。

「あなたは、朝と一緒に笑うのでしょうね」

 憎々しげにつぶやかれた言葉は、ヨネの知らない母親の過去の話だった。

 言葉を受けたノーチェは首をかしげる。こんな時でさえも、彼はかわいらしくて、とてもきれいだった。

『笑いません。笑いませんが、ねえ、シラカバ。あそこから帰ってから、どこで間違えたのですか』

 あなたの望んだ変化はそうではなかったでしょう、とさとす優しい声につかの間、母親の横顔に冷えた光が戻る。

 今だ。

「ノーチェ」

『はい』

「決めたわ、わたしの、一生の人は、義経さんよ」

 ヨネは痛みに震える声で、おねがいを、した。

 もしかしたら、ここで死ぬかもしれない。そうしたら、すぐに夢は終わってしまうだろう。けれど、この機会を逃したら生きている間に一生無いだろう、そう思って。

 残った命を、絞り出すように言う。その言葉に紺色の目を光らせてノーチェが答えた。

『わかりました』

 必ず叶えましょう、とおごそかに彼が言う。

「ぜったいよ、ぜったい、叶えてね」

『ええ、間違いなく』

 ありがとう、神様、とまでは大きく言える余裕はなかったけれど、ヨネは返事を聞いて笑みを浮かべた。泣きながら死ぬなんて絶対に嫌だった。せっかく変わったのだから、不細工なままで死にたくない。

 余力があるうちは笑え――笑うのだ。

 母親がなにかを叫んだのが聞こえた。聞こえたけれど理解ができなくてヨネは笑う。手をテーブルに縫いとめられたまま殴られる。軽いヨネの脳みそは簡単に揺らいだ。本当にそう感じるほどの揺れに唇を噛む。何回も途方もないぐらいの暴力をふるわれた後、笑みが絶えない顔を見た母親が逆行したのをヨネは見た。手から、やっと抜かれた包丁が振り上げられた瞬間に、痛みにこわばる体の力が抜ける。

 音が消えた。

 静かな気持ちで今度こそ死を覚悟した。

 でも、すぐに刃先は降りてこなかった。なぜだろう。ヨネはここで終わると思ったのに。

 おそるおそる顔を上げると、ヨネの目の前で母親がゆっくりと横に倒れた。床に落ちた体は一度魚のように跳ねる。目は静かに閉じられていた。

 眠っているみたいな彼女を、長い足が蹴り上げる。黒い長髪にきれいな顔。うすい灰色を帯びた目。ずっと欲しかったものだ。

 来てくれたらいいって思ってた。

 義経さん、心の中で呼んだからもちろん返事はない。でも彼女は返事をするように一度ヨネを見た。品定めをするような目だった。

 転がっている女は、ヨネの母親だというのに義経は何度も念入りに彼女を蹴った。その気づかいのなさに、笑い声が漏れた。安心してしまったのだ。笑いが止まらない。

 この嵐は終わりだって思ったのに。

「二回はダメだな。なあノーチェ」

 その笑顔が一瞬で引っ込んだ。

『だから、止めたのです』

 ノーチェが静かに言葉に応じた。はばたきの音が、一回して、爪が、義経の肩にかかる。ノーチェを肩に従えて、うつくしい人が母親を足蹴にしながら現状を観察する。

『変化は一度のものです。人生に二つあっていいものではありません』

「でもどうなるかまでは知らなかった?」

『前例がなかったもので』

 軽やかに、機械的に答えるノーチェの姿もまた、ヨネが知らなかったものだ。

 ヨネの神様、ヨネの恋人、やさしくてあまくて、まるい、世界たち、が。

 中身がこんなに冷たいだなんて誰が教えてくれるだろう。知っているのと、見なかったことは、違う。

 足元がぐらつく。立ち上がろうとして腰が抜けた先は何もない荒れ果てた大地だった。空を魚が舞う。青白い光の中でふたりが立っている。

 こんなふたりは、知らなかった。実は知らない、ふりをしていたのかもしれない。ずっと、それでもふたりはヨネにやさしいと、思い込んでいた。

 義経がヨネを見た。その壮絶なうつくしさに背筋が粟立つ。

「来る? 一緒に」

 冷たく笑った彼女は、それでも尚うつくしい、ままだった。

 遠くからサイレンの音が響いていた。無事な方の手をのばしかけて、やめる。

「そうか」

 執着することなく背中を見せた義経を、引き止めなくちゃこのまま別れることになってしまう、とヨネはすぐにわかった。痛みの中で必死に言葉を押し出す。

「ちがうの、嫌いになったとかそういうわけじゃなくて、ただびっくり、しただけなの」

「そう?」

「そう、だから、これを片付けるまで、まってて」

 そんなことは言える立場じゃないと分かっていながらも、言葉をいくつも重ねる。ヨネはばかで明るくて、どうしようもない女の子で、でもなによりもあなたが好きなことに変わりはない。

「好きなのよ。好き、ずっと、好き」

 一度振り返った義経はヨネの言葉に満足そうに笑って、力の抜けた彼女の手を掴んで引き寄せた。体が浮く。

「待ってるだけとか楽しくない」

 私もね、たいがい、あなたのことがすき、と言われて涙がこぼれた。

 ああ、この人を、好きになって良かった。

 愛すことができて、愛されて、とても、良かった。

 そのまま引かれて外に出た。サイレンの音が近づいてくる、その方向へふたりで歩いていく。義経にすぐに目をやった警察官の視線を遮るようにヨネが横に並んで、あの家で起こった嵐のことなんて素知らぬふりをして歩いていく。

 さよならと、花畑の中でたたずむ大昔の自分にやっと手を振れた、気がした。


 その日のうちに義経の知り合いの医者に手を治療してもらうと、一生残ってしまう傷だとしかめっ面で告げられた。その言葉に義経もヨネも傷つくことはなく、ノーチェは目を伏せただけで誰もなにも言わなかった。

 今回のことが原因というわけではないが、ヨネは王子様探しをやめるだろう。もう王子様は隣にいるのだから、探す理由がない。

 ともすれば、心に引っかかるのは、同じ仕事をしている、夜子のことだった。

 少しの駆け引きからはじまったとはいえ、彼女はヨネの友達だった。そのことに変わりはない。ヨネがいない以上、彼女へのお目付け役はいなくなる。そうしたら、歯止めがきかずに深みに飛び込んでしまった場合引き戻すことができない。

 だから、ヨネはひとつの手を打つことに、した。

 義経に頼み込んで治療した帰りにその足で新しいスマートフォンを購入する。買ってもらったのは前と同じ機種だった。慣れた手つきでフリップ、タップをくり返し、フリーアドレスをインターネットでひとつ取得して、夜子にメールを打つ。

《ここは宇宙の果て、夜のど真ん中、月の落ちるところより、さよならジェミニ》

 指の踊るままにつむいだ言葉は、夢を見ているような、頭のおかしい文章だったけれど。多少おかしい方が夢見がちな自分にはちょうどいいし、差出人が、バレるよりはいい。こんなヨネのおせっかいが発覚して彼女に嫌われるよりか、ずっと良かった。

 夜子は秘密の共有者で、ヨネにとってはそれ以上なんて、こんなの伝わらなくていいのだ。

 次に、ノーチェのことを一言だけ書いた。

 そして見えるのは、ひとりじゃない、ことも最後に付け加えた。

 賢い夜子のことだからこれだけで、すべてに気がつくだろう。ノーチェだけでなく頼朝も、義経も、みんな知って、彼女はなにを選ぶのだろう、と企むことは、いけないことだろうか。

 ヨネは義経を選んだ。

 ちゃんと変化した彼女にも王子様がきっと、現れるといい。

 願うヨネの隣にはもう、神様はいない。



 ヨネは長かった髪の毛をばっさりと切り落とした。髪を巻くことも飾りをつけることもままならなくなったけれど、首筋を空気が撫でる感覚は好きだ、と思う。

 今日であの事件が起きて五ヶ月が経っていた。ニュースでヨネの特徴が流れることが少なくなったとはいえ、できうる限り細心の注意を払うよう義経からは言われている。意外と人は他人のことを見ているのだ。彼女の忠告はもっともだと思って伊達眼鏡をかけている。

 今日も黒服のがたいのいい男たちが一歩下がってヨネを護衛していた。本当は外に出ない方がいいと言われたのだけれど、久しぶりに彼女に会いたくなってしまったから仕方がない。

 朝六時からノックは三回、インターフォンは二回。うるさいと中から出てくる夜子にヨネは笑みを浮かべる。

「やぁこちゃん」

「ヨネ? あんた一体どうして」

「ねぇ、頼朝さんと、ノーチェの話、知りたくなぁい?」

 ここは宇宙の果て、月の落ちるところ。

 願うならば、幸せが、彼女にあってほしい。幸せなヨネは目を丸くする夜子の唇を塞いで、やさしく微笑んだ。

 ミケの最後は彼女にあげよう。

 だからタマの最後は、ヨネがさらっていく。

 ヨネが彼女のはじめての青い鳥になると、もう決めた。現実は砂漠だ。荒れ果てた土地、でも花はいつまでも咲けばいい。

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