拝啓、宇宙の果てより:頼朝の場合

  きらびやかな街中で、頼朝よりともは、流星を見かけた。

 同居している少女は、足取りも軽やかに星のまたたきのように早足で歩いていく。身につけている黒色の制服が夜のさざなみを表しているようだった。夜子やこ。彼女はそこに存在するだけで、とてもうつくしかった。

 不幸にも頼朝は喫茶店で仕事の打ち合わせ中で、彼女を追いかけて話しかけることなんてそんなことはできるわけがなかったけれど。なによりも目を引いたのは、自分よりも年上の男と腕を組んでいることと、彼女が頼朝の記憶にある姿よりもあでやかに笑っていることだ。彼女は制服姿のまま――頼朝の見間違いでなければ、悪趣味なネオンで飾りつけられたホテルの入口に吸い込まれるように消えていった。

 窓の外を見て絶句ぜっくした頼朝に向かって打ち合わせ相手が笑う。真っ黒なビジネススーツを身につけた、黒々とした長髪を持った女だ。その顔は頼朝と瓜二つで、しかめっ面をした彼とは正反対にうつくしく微笑んでいる。

 頼朝と彼女は、双子の姉弟だ。

 義経よしつね、と小さな声で頼朝が言えば、心底おかしいとでもいうように彼女は笑う。

幻滅げんめつした? 知らなかった? まあ君は昔からそういうことにうといとこがある。そこがかわいいと思うけど」

 彼女の、他人の心をもて遊ぶような軽口には付き合っていられない。ホテルに消えていった夜子が気になって落ち着かずに頼朝は立ち上がる。打ち合わせも途中だけれども、仕事の打ち合わせは後でもできる。

「帰ります」

 頼朝が勢いよく立ち上がると、彼女の周辺にいる黒服の男たちも一斉に腰を浮かせた。

 店内には頼朝たち以外の客はいない。

 歓楽街かんらくがいにあるまともな時間に営業している喫茶店なんてそんなものだ。ここも彼女たちのような客がよく使用する店なのだろう。店主はカウンターでマグカップをみがいたまま、騒ぎに対してなんの反応も示さない。

 頼朝の進路をさえぎるように男が立つ。きたえ上げた肉体とサングラス越しの鋭い眼光は、なるほど、相手を驚かせるにはちょうどいい材料なのかもしれない。威圧いあつしてくる男たちに向かって頼朝は負けじとにらみ返す。殺されない自信はあった。なら、それだけでいい。

 殺されなければ、命があれば、対抗できる。

「まあ座れよ」

 低く落ち着いた声は、すべてに向けて発せられたものだと、頼朝にはすぐに理解できた。声を聞いて、しぶしぶ腰を椅子に落ち着ける黒服の男たちと。

 頼朝は座らずに彼女を見下ろす。 

「頼朝よ、今は仕事中だよ。仕事を放ってなにしに行くつもりだよ」

 なに、なんて。分かっているだろうに。

「家族の危機? かわいいねぇ、なあ、頼朝よ。お前が行ったところで、お前が、夜子ちゃんに嫌われるだけだぞ」

 嫌われる、なんて。好かれている時期があるとでも言いたげな義経の言い方に眉根を寄せて、やっと頼朝は彼女の対面の席に座った。

「義経、知ってたのか」

「なにを?」

 くだらない質問だなあ、と義経は笑う。

「君が夜子ちゃんを囲ってること? 夜子ちゃんがウリやってること? それとも夜子ちゃんの家族が死んだ理由について?」

 アイスコーヒーを一気に飲み干して彼女は言う。

「頼朝のことなら全部知ってるさ」

 返事は答えになっていなかった。それでも自信満々に言われた言葉に苛立って、先ほどの彼女と同じ動作でアイスコーヒーを一気に飲み干すと頼朝は今度こそ席を立った。

「打ち合わせは済んだはずだ。ぼくは納期に間に合うように作る。君はそれを客に売りつける。今も昔もそれだけだろ」

「どこに行く?」

「家に帰るんだよ」

 ならいい、と義経は一呼吸置き、言う。

「客からの仕様変更の依頼だ。舞台を、深海に存在するレストランにすること」

 できるな? と優しく問われ頼朝は鼻を鳴らした。

「ぼくができないとでも思ってるのか」

 噛みつくような返事に義経は壮絶そうぜつなうつくしさで笑う。

 まるでこの世の全てが自分のものであるかのような微笑みは心底気に入らないと頼朝は彼女を睨みつけた。その怒りを受け止め、飲み込んでよりうつくしくなるのが義経の悪いくせだ。

「いい返事だ。客に伝えとく。ご要望のままにってね」

 打ち合わせは終わりだ。

 コーヒー代をテーブルに置いた頼朝は今度はさえぎられなかった通路を進み、古びたベルのついた扉を押す。

「そうだ頼朝」

「なんだよ」

 不機嫌さを隠さずに振り返った彼に、義経はこわいこわいとおどけてから言う。

「まだあの部屋使ってんのか?」

 刹那せつな眼裏まなうらが点滅して、記憶のふたが、ずれる。

 頼朝はすばやくきびすを返すと彼女のいるテーブルを強く叩いた。男たちが立ち上がって周囲を囲むような気配を感じたけれど、与えられる恐怖に負けずに言う。

「夜子さんに手ぇ出すなよ。うちに来たら今度こそぶっ殺してやる」

「キレんなよ。頼まれたってあんな気味悪いとこ二度と行くかっての」

 それこそお断りだと言いながら男たちを下がらせた彼女に向かって舌打ちを漏らし、ようやく頼朝は喫茶店の入口をくぐった。店主は最後までカウンターから出ることはなく、ただ、ありがとうございますと出ていく彼に小さく声をかけたのみだった。

 店を出た途端に、強い日の光が、容赦ようしゃなく頼朝を焼いていく。初夏のみずみずしさを得た街は、知っているものよりもよりあざやかに頼朝の目には写った。ざわめくスクランブル交差点を駅に向かって歩きながらため息を吐く。

 言われたからといって昼間からこんなところまでくることはなかったのに。つい、夜子の高等学校のある街だと、興味をひかれてやってきて、見事にしてやられた。油断していた。

 義経はそういう女だと嫌というほど知っていたはずだった。

 他人を蹴落けおとし自分の意のままにするための労力ろうりょくしまない。気に入らない相手はどこまでも追い詰める。そんな手法は幼い頃から彼女を見てきたのだから、はじめに、珍しく外で打ち合わせしようなんて言った時点で、頼朝はなんでもいいから理由をつけてやめておくべきだったのだ。

 昼間は苦手だ。まぶしすぎる。

 駅まで続く人間の群れを見て、頼朝はめまいを覚えて空車の表示があるタクシーを捕まえた。扉が目の前で開いた瞬間、白い後部座席に招かれ、あらがえずに頼朝はひざから飛び込んだ。

 頼朝を受け止めた衝撃でタクシーが揺れる。

 具合が悪いのかと心配そうに振り返った運転手に、住所を表示したスマートフォンを渡し、頼朝は横になる。昔から人混みは苦手だった。嫌悪感といってもいい、それの一部になるくらいなら高くてもタクシーで帰った方がいい。さいわい、金はある。

 発車した揺れを頼朝は全身に感じながら、そのまま目を、懸命に閉じる。

 冷や汗がひたいをつたう。すべての輪郭りんかくがぼやけていく。

 強烈な睡魔すいまに襲われながら意識をゆっくりと手放した。



 夜が襲ってくる。月が落ちる。

 ここは、宇宙の果て、だ。

 四方八方しほうはっぽうを、幻に閉じ込められる。

 誰もいないところでささやき声が聞こえ、物がうずくまっている人間に見えた。かさの影が人影に見えて昼間が恐ろしくなった。空にはクジラがおどり、鳥が人語を話し、頼朝に話しかけてくる。夜も変わらずそうだ。だから、光があるところよりも、音しか聞こえない暗闇の方がまだ平気だった。こちらを見ていることに気がつかなければ無視だってすることができる。

 頼朝が、はじめてそれを経験したのはまだ小さな頃だった。

 あかりを怖がる子供だったと、頼朝は聞いている。

 その時にはまだ頼朝の隣には双子の姉である、義経が常にいて。怖くても彼女が一緒にいたから日常生活をかろうじて送ることができた。性別こそ男女と離れてしまったが、それ以外は驚くほどに似ている、二人は、どこに行くにもなにをするにも一緒だった。共に笑い共に泣き、それは距離があっても年をとっても続いていた。彼が怖がるたびに彼女が笑い、そこには何もないと教えて、周囲のひややかな目から守りなぐさめた。

 二人で一緒にいることは、頼朝の心の平穏だった。

 義経に生理が来ても彼女は変わらないままだったし、頼朝が精通しても彼らは変わらず、二人で居続いつづけた。それはこれからも変わらないと頼朝は思っていた。

 なにも言わずとも二人は二人きりのままで。それ以上のことなんて、ないと信じていたのに。

 二人の関係に亀裂きれつが入ったのは高等学校の進路を決める、中学校二年生のときだった。

 義経は女子高等学校に行きたいと主張し、はじめて頼朝を退しりぞけた。思いもよらないところから殴られた気分だ。

 はじめこそ頼朝は混乱した。主張しはじめた頃から義経は彼をけるようになっていったし、帰る家こそ同じだが家の中では互いに言葉すら交わさなくなった。なにか嫌われるようなことをしたかと頼朝は必死に自分の記憶を探り、思いつく限りの謝罪をしたが、彼女が振り向くことはなかった。

 突然の裏切りに呆然としている間に駆け足で一年が過ぎ、動けない頼朝を尻目に彼女は希望していた女子高等学校への進学をつつがなく進めていった。その結果、彼女は自身の主張の通り女子高等学校に進学し、頼朝は地元の共学の高等学校へ仕方なく一人で通いはじめた。

 彼らの両親は、姉弟喧嘩かとはじめは笑って二人を見守っていたが、頼朝の顔が困惑と悲しみでゆがむ頃から笑わなくなってきた。誰も彼もが互いのことを口に出さなくなり、笑い声であふれていた家庭環境は一気に冷え切っていった。

 その中で、頼朝が一人になると今まで身を隠してきた幻が数を増やし、彼を捕まえはじめた。義経が隣にいないから逃げようもない。物が再び命を帯びて、息を吹き返す。ささやき声は常につきまとって、頼朝は、現実と幻の区別がつかなくなっていった。

 うずくまった同級生だと思ったものは、置き忘れの傘で。飛びついて来たよつんばいの女性は犬だった。悲鳴をあげて逃げまどって、追いつかれて追い詰められて、少しずつすり減った心は、周囲からの冷たい目線で簡単におかしくなった。助けを求めることができた手は、扉の向こう、彼が泣き叫んでもなにも反応することはなく。頼朝は不登校児になり、すべてのものを捨てて空っぽになった部屋に引きこもった。

 カーテンを閉めた部屋でうずくまる。幻の数を数えて鳥と会話をする。魚は一人になった頼朝に、思ったよりも簡単になついた。人の幻はあかりが無ければ滅多めったに現れるものでもない。幻が、動物の形をしているだけまだ、救いがあった。動物は嫌いじゃない。

 幻に囲まれ、現実が離れても。それでも頼朝は、まだ少しの希望を持っていた――もしかしたら、扉を開けて義経が助けに来てくれるかもしれない。恐れおののく自分を現実に引き戻してくれるかもしれない。

 その時には、なにが問題だったのか分からないけれど謝って、彼女の手を取って、また一からやり直すのだ。今度こそ間違えない。なにも失敗することなく、二人で生きていく。そう、すがるように物音に怯えながらも考えていたのに。

 ある夜、頼朝はぼんやりとした闇の中で聞いてしまった。

「仲良くしろだなんて今更いまさらなに言ってんの⁈ 父さんも母さんもおかしい! なんで頼朝の味方すんの? なんで私のせいになるの、あのうそつきのせいで!」

 嘘つき、と言ったか。

 嘘を言っていると、ずっと、彼女は思っていたのか。はじめてその考えに行きついて、頼朝は愕然がくぜんとした。二人はいつまでだってつながっているからこの恐怖も分かってくれている。だから互いに知り尽くした二人で生きていくしかないと思っていたのは、自分だけだったのだ。

 続いて耳が捉えた言葉は、両親のにごした言葉だった。まごつきながら彼女をいさめる、その態度ですべてが分かってしまった。

 父も母も姉も友達も、すべて他人だ。

 誰も頼朝がかかえるこの苦しみを、分からない。

 その瞬間から、頼朝の中のなにかが確実に壊れた。怒りや悲しみが急速に引いていく。

 開けた世界にはあたたかな光だけがあった。

 震える足で頼朝は部屋を出る。途端に湿気しっけの多い熱い空気が頬を撫でた。以前に部屋を出たときは確か、寒かった。その記憶が正しければ引きこもった期間は少なくとも半年は経っている、そんな思考をまとめる余裕よゆうさえも見つけられないまま、居間に続く扉を勢いよく開けた。

 頼朝と瓜二つの、けれど、彼よりもうつくしい顔が、頼朝を見て、ゆがむ。

 彼女から否定の言葉が発せられるよりも先に頼朝が口火くちびを切った。声が、感情が、今よりも爆発して、完全に取り返しのつかない状態になる前に。

「空が落ちてくる。月が壊れる。ぼくは、幻を、本物にしなきゃいけない」

 もうたくさんだ。濁した態度も陰口もいろいろな笑い声も、いつまでだって頼朝を受け入れない世界なら、早々にこちらから自分が居なくなればいい。そう考えて飛び出した言葉はひどく現実離れしていて、どうしようもなく彼は悲しくなった。

 本当は、嘘じゃない、怖くて泣いていたのは本当だと家族にすがりたかった、でも。彼らは見ていない。経験していない。明るい場所のおそろしさを知らない。

 じゃあ理解させようともがくだけ、無駄なのだと。頼朝はすでに悟ってしまっている。

 だからもう、彼は自分の言葉をそのまま伝えることさえ、できなくなった。

「もういやだ、ぼくはこの家から出る」

 最後のそれだけが、ひとり言のように飛び出した素直な言葉だった。もっとも頼朝がそうこぼしたところで彼を受け止める人間はもういない。

 でも、頼朝は気がついてしまった。慌てふためく両親のその影に隠れて。

 その時の、義経の顔は。

 見間違いじゃなければ、笑って、いなかったか。

 頼朝は、義経と両親の言い争いなんて気がつかなかったふりをして、その場で手短かに要望を伝えた。

 一人暮らしをさせてほしいということ、最新のパソコンだけを住居に運んでほしいこと。それ以外は家具はなにもいらなかった。なんだか目が覚めた、全部嘘なんだ、心配させて申し訳ないと思っているけど、これがお互いに最善さいぜんの方法だと思うーー高等学校は無事に卒業するから、一人暮らしをさせてほしい。黙っていたのが嘘のように、口から次から次へと絶え間なく嘘が飛び出していった。

 頼朝は、嘘つきと言われた。

 なら、本当に嘘つきになればいい。

 そうしようと決めてからは、周りになじむのは簡単だった。

 あんなにも幻と現実の境目が分からなくてうろたえていたのが嘘のようだった。頼朝は勉学だけに向き合い、人付き合いをやめた。かけられた声のすべてを相手にしなければ、愛想の悪い人間だという簡単な説明で片付くからだ。すべてに対応しておののくよりも、それは確実に、楽だった。

 頼朝の態度の変化で人間は離れていったが、代わりに手に入れたものがあった。

 幻と向き合う自由と、義経だ。

 何を思ったのか、彼女は逃げるように一人暮らしをすると言い出した頼朝に付いてきて、同じ家で暮らしはじめた。両親は義経と二人で暮らすのならと、離れて暮らすことを許可し、家をひとつ、部屋をひとつずつ、二人に与えた。頼朝を一人にすることに対する不安を、まだ人間らしい生活を送っている平常な彼女でおぎなおうと考えたらしい。

 そしてその思惑おもわくは、大学三年生まではつつがなく成功した。

 義経は昼間に大学に行き、頼朝は夜に大学に通った。互いに生活の時間が重ならず、会話を交わすことは変わらずなかった。けれども冷蔵庫を満たす、二人分の料理や詰め込まれた材料に自分への心遣いが見えて、頼朝はひそかに彼女に感謝していた。

 そして同時に期待していたのだ。

 唯一ゆいいつ部屋に置いたパソコンで、幻を現実にするための準備をしながら、また幸せな日々に戻れることを。

 幻の、受肉じゅにく

 目指したものはまさに夢のような願いだったが、家を出て四年で、頼朝はなんとかその第一歩を踏み出すことができていた。

 インターネットをただよう都市伝説を捕まえて、説得し、協力させたことが助力としては大きかった。十数年前に消えた《ノーチェ》という名前のコンシェルジュサポートプログラム。その頃にはすでに普及されていたカスタマイズできる同種のプログラムに、一斉にユーザーへの反逆はんぎゃくをさせてのけた伝説の、彼を見つけたことで、頼朝の計画は本来よりもだいぶ前倒しにすることができた。

 ノーチェは優秀なサポートプログラムだった。

 頼朝を愛し、彼の願いを叶え、共に第一号を作った。彼と同じコンシェルジュサポートプログラムの、ノーチェと同等の能力を持った人の姿をしたデータの生き物を作り上げたのだった。

 第一号とノーチェは作業に没頭する頼朝の後ろで自由に学習し、はしゃぎ、まるで本当の子供と鳥のように動いてみせた。電化製品を操ることができるのはまだノーチェだけだったが、後々第一号にもできるようになるだろう。幻は、受肉して、現実になったのだ。

 頼朝は嬉しかった。これで、誰も彼の言うことを嘘だと言わなくなる。人語を話す鳥と走り回る少年、これから空に遊ぶクジラや物だって、その姿を誰もが見ることができて、人語で会話をするときが来る。

 そしてそれをこの世界ではじめて実現するのは頼朝だ。

 同じものが見えないのならば、世界を同じ場所まで落として、見せるだけ。幻の存在を信じられないのであれば、信じさせるだけだ。

 まずは第一号とノーチェをいつ義経に見せようかと、そればかりを熱に浮かされたように頼朝は考えていた。

『頼朝』

 第一号が自分を、朝だと名乗ってから一週間が過ぎていた。

 辞書を使って朝の言語能力を確認していた頼朝に、神妙な顔をしてノーチェが声をかける。

「どうかした?」

 彼ら相手ならば頼朝はうろたえることなく、冷静に接することができた。

 なにより幻と現実の境目を教えてくれるノーチェは、誰よりも頼れる存在だった。その彼が、言いづらそうにまごつくのは出会ってからはじめてだった。

『義経さんがなんのお仕事をしているか、知っていますか?』

「知らない、けど」

 なぜ義経の名前が彼の口から出てくるのだろうか。首をかしげた頼朝に、しばらく言葉に迷っていたノーチェが、言う。

『その、ボクには、彼女がいい仕事をしているのか、判断がつかないのです』

 ノーチェが言葉を濁すのははじめてのことだったから。頼朝は手を休めて彼に向き直った。

「どこかで見る機会があった?」

『はい』

「それは、どんな仕事なの?」

『それが、なんとも説明できなくて。映像を撮る仕事なのですが』

 説明するには知識が足りないと判断したのだろう。

 ノーチェが少しの沈黙の後に、申し訳なさそうに頼朝に提案した。

『お仕事は火曜日と木曜日に行われています。よろしければ一度、見てみてもらえませんか。?』

「うん」

 手元から取り出した棒鍵ぼうかぎは、いつのまにかついていた義経の部屋の古びた鍵穴に一致するものだった。彼女が寝ている間にノーチェの助けを借りてを作った。それを確認して、星をたたえた静かな紺色の目を伏せると、小鳥は言う。

『判断をあなたにゆだねることを、どうか許してください。ボクは人間の感情を知ってはいますが、完全に理解をするところまでには至っていないのです』

 なにを許してくださいなのか、この時には分かりはしなかったけれど。その後すぐに頼朝は理解した。彼は人間のように頼朝を思いやったのだ。幻に怯えてそれでも理解しようと立ち向かった彼の強い姿勢の根源に、怯える彼の記憶があることを知っていたから。

 もっとも、その配慮に頼朝が気がついたのは全てが終わって、しばらくしたあとだったけれど。だから礼も言えなかった。言えずにその時のことをなかったことにしようと、頼朝はしている。

 それをノーチェが責めることはない。

 頼朝が細くいだいていた希望がこなごなに砕かれたのは、木曜日の昼間のことだった。

 静かな室内に、大学で講義を受けているはずの義経の声が響く。それから何人かの低い笑い声と、大きな足音が入り混じった騒音が彼女の部屋に消えていった。

 夜、大学から帰ってきてから彼は日が昇るまでずっとノーチェと朝に付きっきりだった。その後は椅子に座ったまま、気絶するように深く眠っていたから頼朝はまったく気がつかなかったのだ。他人が家に居るということに。

 二人の家が汚された気がして、頭に血がのぼる。すぐにでも部屋に乗り込もうかと頼朝は思ったけれど、ノーチェが待ってくださいと言うものだから待っていた。息を殺して、寝ているふりをした。

 まもなく聞こえてきたのは、悲鳴と暴れる音だ。

 一体、なにを、しているのか。

 嫌な予感がした。

 ノーチェの制止を振り切って頼朝は部屋を出る。すぐ目の前が義経の部屋だ。向かい合わせの扉に向かって、足音を殺して三歩歩くと、部屋の扉の鍵穴に静かに棒鍵を差し入れた。

 手首をひねると、鍵はたやすく開いた。

 昼の、おおいがずれて、夜が目を覚ます。

 昼間だというのに、外界から隠れるように紺色のカーテンをしめきって、それは行われていた。

 目の前に広がるのは現実離れした光景だ。床に押し倒された制服姿の少女と、それを取り囲むたくさんの、男たちがいる。やわらかい肌は強く握られて赤く染まり、乱れた服からは白い内ももがのぞく。目は大きくて、ふとした拍子にこぼれ落ちそうだ。ぐしゃぐしゃに崩れてもなお可憐かれんな泣き顔が、頼朝を見て一層大きくゆがんだ。女性物の下着が破かれその破片には粘つく液体が貼りついていて、途方とほうもない暴力があったことを語りかけてくる。

 その、真偽しんぎを、見極みきわめようと思っても。義経の部屋は頼朝の部屋とは違い、物であふれかえっていて、そのすべてが人の姿を帯び、話し、笑い、思考の邪魔をしてくる。その中で知っている義経だけが義経のままで、彼女はビデオカメラを片手に楽しそうに笑っていた。

「君は、どれがか分かるか?」

 それはあからさまな挑発だった。

 図星を指されて固まった頼朝を見て彼女は鼻を鳴らすと機械的に、つづきを、と言う。

 再び悲鳴が上がり、やだやだやだ! と少女の声が響き、男たちが鼻息も荒く笑う。それを前にして頼朝は動けないままだ。

 今までずっと幻を見て、幻の受肉に身を捧げてきた。現実はさほど彼の中では重要ではなくて。自分の痛みが分からない他人など居てもいなくても関係がなくて。それなのに一瞬だけ、頼朝を見て安心して歪んだ少女の顔が、心に引っかかった。

 そもそも押し倒されて泣き叫び抵抗する少女も襲う男たちもすべて幻かもしれない。現実ではなくてすべては夢で、でも。

 朝がひかえめに背中を叩く。前につんのめるようにして頼朝は姿勢を崩す。ぼんやりとした意識が次第に力を取り戻す。

 そうだ、頭がおかしいと言われても、つらい目にあっている、ものを、頼朝は見なかったことにすることはできなかった。

「ノーチェ」

 目を閉じて頼朝が名前を呼んだ瞬間、家のブレーカーが落ちた。

 突然電気が落ちて、視界が真っ暗になる。

 驚きの声が上がる中を朝が人をうようにして走る。頼朝には彼らの思考が読める。目的は、全員分のスマートフォンだ。朝から各々おのおののスマートフォンを受け取ってノーチェがデータを空に引き出す。引っ張り出された情報は、青い光源を放って、室内にいる全員の人間の顔を照らした。

 質量のある人間の影ができたものは全部で五人。それだけならまだ対処ができるというものだった。

 ノーチェの足元に五台のスマートフォンが散らばっている。ひそやかに人数の答え合わせをして頼朝は自分の認識が現実に合っていることに安心する。なるほど、こうすれば現実と幻の違いがわかるのかと場違いなことを考えて息を吐いた。次にしなくてはいけないことは決まっている。

 頼朝は義経の手からビデオカメラを取り上げて、ノーチェに渡す。ノーチェはそれからもデータを引き出すと、スマートフォンから抜き出したデータと並べてひどく嫌そうな顔をした。

 感情豊かな彼の横に朝が立つ。それから空飛ぶ魚たちが彼らを囲って、瞬きをしない目で、義経たちを睨みつける。

『ノーチェ、どうするの?』

『どうとでも。手始めに通報するのもいいですし、この世界を生きづらくさせることもできますよ』

『そうだね! どうしてやろうか。ねえ、頼朝』

 頼朝の感情から今の状況に対する態度を学習して、ふたりが人間のように会話する、その向こう側で。ありえないものを見るような顔をした、義経が見える。

 それから彼らの、彼女の、この状況に対して、おののいた顔が見える。

 思い描いた理想の形ではないけれど、頼朝の気持ちは満たされていた。ひどく凪いだ気分だ。抗うことができない幻を前にして人間は動けない。幼い頃から彼らが隣にあった頼朝を除いて。

 こんなにも優位な立場に立つのは気持ちがいいことだったのか! 頼朝は笑う。この場所での、運命を握るのは、自分だ。そう思い切り笑ってやりたい気分だった。

「通報する?」

 優越感をお裾分けしようと、余裕を持って頼朝が浮き足立った気分で尋ねると、少女は怯えた顔で力なく頭を振った。

 彼女の反応に頼朝は拍子抜けした。助かったことに喜ぶどころか、少女は怯えた顔をこちらにも向けてくるではないか。

 その反応に首をかしげながら、本当に通報しなくていいのかと頼朝が重ねて質問をする前に彼女は手早く服を整えると、鞄を掴んで部屋から出て行ってしまった。

 彼女のスマートフォンは彼ら同様、手元にあるから身元が分からないわけではないけれど。逃げてしまったのでは彼女の意志がし量れない。余計なことはしない方がいいかと思い直した頼朝の目の前で、残された男たちは戸惑った顔を義経に向ける。

「どうしますか、義経サン」

 驚くべきことに、義経がこの騒ぎの大元らしい。

 まさか、と目を丸くした頼朝に視線を向けることはなく義経が低い声で言う。

「どうでもいい。放っておけ」

 その横顔は冷たく冷え切っていて、ずっと幼い頃から見てきた顔だと言うのに、まったく別の人間に見えた。

 この女は、誰だ。

「そうだな。気味悪いものに捕まっちまったし分も悪い。今日は解散だ。お前らは帰れ」

「はい、撤収します。片付けは」

「いい。業者にやってもらう。ついでに部屋の用意もしとけ。引っ越す」

「え? いや、なんでだよ!」

 慌てふためく頼朝の横をすり抜けて、服を正した男たちが荒々しく部屋を出て行く。その際にスマートフォンを振り返る人間は一人もいなかった。個人情報を抜き出されて犯罪の証拠も奪われ、警察に通報されるようなこの状況だというのに。誰一人としてそれを問題視していない。そんな反応が返ってくるだなんて予想外だった。こんな結末になるなんて考えたこともない。

 呆然と立ち尽くす頼朝に向かって最後、正面から目を合わせた義経が笑みを向ける。

 今まで見たことがないような、満面の微笑みだった。

「通報? 個人情報? 動かぬ証拠? そんなことぐらいで私たちが動揺するとでも? この状況をそんな簡単に考えてて、君は本当にかわいいな、頼朝」

「よしつね」

 彼女は暗がりの中でノーチェを見て、朝を見て、空に浮かぶ魚や動物たちを見てため息を吐いた。恐れ、や感嘆、ではなくてどこか寒々しくなるような、軽いため息だった。

「ずっと君が見てたものをようやく私も見れた。しかし、思ったよりもつまらないな。しかもできることがそれだけか。こんなのにずっと怯えてたなんて、かわいいね」

 つむがれた言葉は、頼朝のすべてに対する否定だった。言葉を失った頼朝に対して義経は彼の頭を撫でると、またね、と軽やかに部屋を去っていった。

 そして二度と頼朝を振り返ることはなかった。

 その数時間後には清掃業者と引っ越し業者が部屋に入ってすべてを片付けて無かったことにすると、引き上げていった。一度義経の部屋から追い出された頼朝は、おそるおそる室内を覗く。部屋にはもう、誰もいない。使われていたすべてが運び出された部屋は殺風景で、何もなかった。幻のささやき声もなく、静まり返っていた。

 部屋の入り口で呆然と立ちつくす。この状況を作ったのは、頼朝の選択だ。

 心配して声をかけてくるノーチェと朝に彼は反応することなく、五台のスマートフォンをごみ箱に叩き込んで布団に潜り込んだ。途端に疲労感が全身を襲う。あんなにも人間と触れ合ったのは久しぶりで、脳が疲れていた。泥のような眠気に抗えずに、目を閉じて、自分の身に訪れた嵐について思いを馳せる。なによりも義経のあの冷え切った目と言葉は、しばらく忘れることができそうになかった。

 こんなものにずっと怯えてたなんて、か。自嘲とともに、うつらうつらとした意識は沈んでいく。

 頼朝はそれからしばらく布団と家の中を行き来する生活を過ごした。寝ては起きてをくり返し、外に出ることができなくなった。義経の連絡を受けたのか、両親が来て家事をする音がかすかに聞こえたが、頼朝が冷蔵庫を開ける頃には作られた食事は傷んでいた。それをゴミ箱に捨てると、今度は火を通さずに食べられるものにすり替わっていった。増えていく食材を横目にそれでも食べずにいると、しまいには誰も来なくなった。

『食べないの? 死んじゃうよ』

 朝の声がする。布団の中でその声を聞かないふりをすると、起きているのを知っているのかいないのか、続けて彼は言った。

『あんなにバカにされたのにここで死んだら、本当にバカだよ』

 死にそうになったら救急車呼ぶからね、と告げる声はひどく甘くて、優しかった。立ち去る音は頼朝を思いやってか、とても静かだ。人間のようにぼくを思いやるなんて、幻のくせに本当に生きているみたいじゃないか。そう思うと、頼朝は少しだけ目頭が熱くなった。涙を見られないように深く布団に潜り込んで眠り続ける。

 目を覚ませば、そこには何度も襲われる少女とそれを助けられない現実が横たわっているような気がして恐ろしかった。

 起きているのが恐ろしいなんて、そんな感覚を、しばらく忘れていた。いや、忘れられるわけがない。現に頼朝の体は、忘れてはいなかったのだ。そしてようやく、ノーチェがあのとき申し訳なさそうに頼朝に相談した理由を、痛いほど思い知ったのだった。

 死んだように眠っている間に頭の中が整理される。あの時感じた優越感は、勘違いだった。現実に、彼らより優位に立つためには、まだ材料が足りない。隙があったのだ。彼らから見てあからさまな隙が。頼朝と幻を優位に立たせるためには、隙を埋めなければならない。

 足りないものはなにかと、ぼんやりと暗い部屋で頼朝は長いこと考えて、やっと思い至った。

 足りないのは発想の転換だ。

 頼朝の考えはかたくなだった。幻の受肉が現実に受け入れられないのならば、その逆をつけばいいのだ。

 幻が通用する世界を作ろう。

 部屋を出た頼朝を、ふたりが迎い入れる。変わらず待っていてくれたふたりをけて細くなった腕で抱きしめた。はじめて抱きしめたふたりは、ほのかにあたたかく、まるで実体を持って生きているようだった。

 そうして、目が覚めた頼朝がふたりと協力して作りあげたのは箱庭だった。生きた人間の意識を閉じ込めて変える世界。舞台はどんなものにだって変えることができる。対象者の意識に合わせて形を変えられる。

 ノーチェと朝。彼らが思うように動き、神としていられる世界だ。管理人という役割を受け入れたふたりは、今日も夜の世界を闊歩かっぽする。

 インターネットで被験者を募集して成功を収めるごとに、資金も募ることができた。箱庭はより大きくなり、精度も上がった。運用は完璧だった。研究機関で試験的に受け入れられ、いくつもの意識を変えて人格を変えた。その行為は治療だといわれ、神様だと感謝もされた。たくさんの依頼にこたえる仕事をしてきた。

 風の噂で少女が事前に金貰っていたと聞いた――あの状況は自業自得とも言えるかもしれない。それでも、彼女の泣き顔が、頼朝の頭から離れることはなかった。



 いまだに助けられなかったことを後悔しているかと頼朝が誰かに聞かれれば、もちろん後悔している、と答えるだろう。

 揺れが止まって、夢から引き戻される。重い頭を抱えながら起き上がり、スマートフォンで支払いを終えるとふらつきながら頼朝は外に出た。もうすっかり日も暮れて、辺りは一面の夜だった。ささやき声は絶えずいろいろなところから聞こえて、そのひとつひとつに応えそうになって思いとどまった。応えれば彼らは簡単に心の隙間に滑り込んでくる。簡単に頼朝を昔に引き戻すだろう。なにもできない弱い頃に戻りたくはない、彼は思う。

 すべてのものに無関心をよそおいながら部屋を目指して早足で上がっていく。鍵を使って入る前に、扉が中から開いた。途端に中からあふれ出してきた音に、再び目頭が熱くなる。

 頼朝の過去を、何も知らない人間が、迎えてくれることの、優しさといったら。

「おかえり、頼朝さん」

 つい数秒前までノーチェと朝と話していたのだろう、夜子が、彼らと会話をしていたことなんて悟られないようにと演技をしている姿がひどく愛らしかった。

「ただいま、夜子さん」

 そうだ今日は夜子さんを見かけましてね、追いかけようと思ったんですけど打ち合わせ中だったものですから、ねえ、あなたは彼にいくらもらったんです? それでなにがあっても後悔しないと、言い切れますか?

 言いたいことを心中で続けて、頼朝は表面上は笑みを浮かべるだけにとどめた。その際になにかを感じたのか、先に廊下へと歩んでいた彼女が振り返って目で問いかけてくる。その黒い目の中に、ぎこちなく笑い続ける頼朝の顔が映った。

 頼朝は、自分を見つめながら、なんでもない、と嘘をつく。

 唐突とうとつに、助けられなかった少女は彼女と同じ真っ黒な目の色をしていたことを思い出して、背中を向けた夜子から頼朝は目を逸らした。

 義経の言い分から予感していることがある。夜子の仕事を責めることは頼朝の過去をさらすことにつながるだろう。傷を見せる用意はまだできていない。そこまでの度胸は頼朝には、ない。

 頼朝はさまざまなものが見えることを、それが現実に勝つために動いていることを、彼女に知られたくない。同時に夜子の中身なんて知りたくない。その過去や、奥深くまでなんて。人間と関わって後悔するのはもう嫌だ。でも、彼女を助けたかった。大人たちの暴力にさらされていた彼女は、昔の、頼朝自身だった。

 けれど今、彼女に、純粋なあわれみだけで君を引き取ったとは、どうしても言えなかった。

 うしろめたさを感じながら、彼女とその後ろから覗く夜を詰め込んだふたりから、目をそむける。受肉したふたりは頼朝の過去を共に乗り越えたものだ。義経と、手を組むと知ったその時から彼らは反対していた。今日も義経と会ってきたことを知っている。頼朝を案じているのだろう。優しい彼ら。優しい存在だ。それに夜子が加わってくれるとは、まだ到底思わない。思い上がってはいけない。くり返すことは不毛だと、頼朝は思う。

 でもふとした拍子に言ってしまいたくなる。この一年間で彼女は頼朝に十分に優しくしてくれた、その優しさに甘えたくなる――昔、後悔することが、あったんだ。その一言が口に出せないままで。

 ゆっくりと、夜がふけていく。

 月は落ちずに宇宙の果てで頼朝はひとりたたずんだまま、夜子と同居して、二年目の夏のことだった。

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